飯田市ではここに泊まった。
飯田城の跡地に建つ旅館。飯田城の一番奥まった場所にあり、旅館は崖の上にある。
客室から見る眺めは。
凄く良かった。飯田市の中心がココらしい。
旅館の近く(というか飯田城の跡地)には市役所・図書館・美術館がある。
旅館の成り立ち↓
不思議な変遷の旅館であった。
飯田市内は戦後すぐ昭和22(1947)年に飯田大火という大きな火災(市街地の7割が灰となり、被害総額は現在の価値で200億円)が起こり、その後の街の復興にはGHQが大きく関わっているそう。そのとき災害派遣された進駐軍のための施設だったのかも。街割や防火施設の設置などGHQ主導のため、珍しいラウンドアバウトがあったりする。
ここの旅館、温泉がすごーく良かった。ここの温泉はぬるっとしててすべすべになったよ! 日帰り温泉もやっており、チェックインの時点で「日帰り温泉やってます、9時くらいまで混雑してます」と謝られた。
飯田城の内部は↑こんな感じ。旅館は山伏丸という位置に立つ。飯田城を作ったのは坂西氏という一族らしい。
- 坂西氏は小笠原貞宗の3男・宗満が飯田郷の地頭職となり坂西孫六と称したのが始まりらしい
- 初代の小笠原宗満(坂西孫六)は正中年間(1324~1326)生まれ、永和二(1376)年死去、飯田郷に来た時期は貞和年間(1345~1350)頃とされる
- 小笠原氏中興の祖・小笠原貞宗(1292~1347)は現在の飯田市生まれ(小笠原家は伊那郡伊賀良荘の開発領主だったそうで、この荘園に代々住んでいたらしい)
- 飯田郷は伊賀良荘の隣
伊賀良荘は現在の飯田市から下伊那郡南部(南北10里 、東西5里)、郷戸荘は飯田市街地から北側と高森町の範囲のようだ。飯田市座光寺に伊那郡衙が置かれ、郡衙のある場所を郷戸と呼んだために郷戸荘と名前が付いたらしい。飯田郷というのは郷戸荘の一部を指している。伊賀良荘と郷戸荘飯田郷は松川を挟んだ隣同士ということらしい。
↓松川は飯田城から見えたよ
飯田城がある場所が飯田郷なんだろうな。
「信陽城主得替記」という本の飯田長姫城という項目に、各時代の城主の来歴が詳しくに書いてあった。
この書物は主に戦国末~江戸時代半ばの信濃国内の武家の盛衰と交代について書かれているという。お城や番所などを挙げて、その歴代の主の経歴をまとめたもの。本自体は昭和8(1933)年発行だが、編纂された時期は元文年間(1736~1741)頃と考えられており、その理由は「各経歴がその時代で終わっているから」。確かに飯田長姫城の項目でも詳しい来歴は元文辺りで止まっている(ただし、その後の飯田城主も書き加えられていて城主の名前のみ2代分あった)
編纂者は全く分からない。特徴としては南信濃の記事が詳しく北信濃に関する内容は薄っぺらいとのこと。編纂者は伊那か諏訪の人ではないか? とあった。信陽城主得替記は写本が多く残されているそうで、初期のものと思われる本を所持している人の名前と在住地も列記されており、その全員が南信の人だった。
簡単に書くと
- 松尾小笠原家の分家・坂西氏が飯田城を作る。分家の名前は昔この土地を治めた名家・坂西氏(すでに絶えた家系)から取る→武田に滅ぼされた
- 武田氏領、城代として秋山虎繁
- 武田氏が滅ぼされて織田氏領、城代は毛利秀頼
- 織田氏が滅ぼされて徳川氏領、城代は菅原定利
- 徳川氏が関東に移ると毛利秀頼が城主に
- 毛利秀頼死去のため、娘婿の京極高知が城主に
- 小笠原氏が城主に
- 幕府領
- 脇坂氏が城主に
- 堀氏が城主に→明治維新で廃藩
信陽城主得替記の飯田長姫城の内容は「本当なの!?」と言いたくなるような内容もあり、資料としてはどういう位置づけのものなのか分からないが、話としては面白かった。脇坂氏とか。堀氏は相当呪われてるんじゃないの?(上杉の呪いかなw)みたいな勢いだし。
飯田城の最初は山伏丸と呼ばれた、現在旅館が建つ箇所らしい。ここからどんどん拡張されて、現在の銀座3・4丁目信号機付近が追手門跡らしく。
ここら辺りまで城域だったようだ。
最終的に本丸は現在の長姫神社に作られたそうだ。
説明板が2つあった。古い方には、
- 長姫神社・柳田館・日夏館の用地
- 南北100m、土塀で囲まれていた
- 本丸御殿を中心に7棟の建物があり、400年余り存在した
- 大杉が生い茂り陰気で建物も大きすぎ、城下町より離れているという理由で公式行事以外は使うことがなくなった
- 普段の執務は桜丸という場所をメインで使った
- 長姫城とも呼ばれる
- 遺構は柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積土塁跡、観耕亭の碑
- 境内に長姫神社由来碑(三条実美書)がある
- 三宜亭旅館の用地になっている
- 東端には武具庫3棟と番所が置かれた山伏丸と呼ばれる内郭があった
長姫神社境内↓
三条実美の碑というのが、↑上の写真の石碑のようだ。石碑の内容は、
多分上記のような事が漢文で書かれているみたい。
この神社には、堀秀政(堀氏出世のキッカケになった人)、堀親良(秀治の次男で堀宗家内が揉めている→滅んだ、という変遷の中一族を離れていたためにお咎めを受けること無く堀氏再興させた人)、堀親昌(親良の次男で飯田藩主堀家初代)の3霊が祀られ、俗に「ご三霊さま」と呼ばれているそうだ。
元は東京の堀家菩提寺・東江寺というお寺さんに祀られていた三霊神を、嘉永3(1850)年、当時の藩主堀親義が飯田に遷し、飯田市内の普門院に神殿を作り祀った。明治に入り廃藩後は藩主家も城を出て別の場所に引っ越したが、明治13(1880)年旧飯田藩士が協議して最初は飯田城の二の丸に、明治33(1900)年現在地に社殿が出来た。
新しい方の説明板には、内容としては古い方と同様だったが本丸の図があった。
そして神社の周りは高い杉で囲まれていた。
観耕亭がこれ↓
安政6(1859)年に建てられた碑で、説明板によると、
- 飯田藩主堀親義は文武に励み、折に触れ城外に出て山水を賞することを楽しみとしていた名君
- が、外出すれば働いている農民の邪魔になると思いついた
- そのため城内に小亭を造り働いている農民を眺めることにした
- 賢者だ、まさに仁政の人
この堀親義という人のwiki見たら、「病弱、凡庸で父に嫌われた」「ケチ大名と呼ばれ古着で蔵がいっぱい」「家臣に押込められた」など賢者でもなく仁政を施した人でもなさそうだった。親義の父親、先代の飯田藩主は非常に賢い人物だったようで、幕府老中にまで出世していた。
観耕亭とは関係ないが、甲子の碑もあった。こちらにはなんの説明もなかったが、商売繁盛や五穀豊穣を神様に祈るお祭りに関係する碑だと思う。観耕亭とセットでもおかしくないかも。
日夏館↓
日夏耿之介(1890~1971)という飯田市出身の文学者・詩人の記念館だそう。地元の名士の家に生まれた人で煌びやかな経歴の持ち主。この人の祖父は愛宕神社(元飯坂城)の宮司だったそうで、元飯坂城の中にあった自宅で晩年過ごして亡くなっている。この建物はそのお城跡にあった自宅を復元したものだそうな。
柳田館↓
民俗学者の柳田国男(1875~1962)の記念館・伊那民族学研究所。この人は名前だけ知ってる程度だけど、長野県の出身者じゃなかったと思ったが。柳田国男は兵庫県出身だけど旧飯田藩士の柳田家に養子に入ったという縁らしい。
世田谷区成城にあった柳田国男の書庫だった建物を移築したんだそう。
この2つの記念館を建てる際、用地の発掘調査を行ったとあった。建物周りの井戸跡やら礎石みたいなのは、本丸時代の建物群の跡のようだ。
この辺りから二の丸で、今は飯田市美術博物館がある。目の前の道が城内のメインストリートでまっすぐ行くと追手門(大手門)、銀座3,4丁目交差点となる。城跡は明治維新後に筑摩県の飯田市庁舎が置かれたそうで。大手筋には今も公の建物が多かった。
藩主居館跡は現在長野県の飯田合同庁舎に↓
合同庁舎の敷地内に見えるのが桜丸御門(御守殿門)という門で、これは大名家に嫁いだ将軍家の娘に許された格式ある門だそうだ。飯田藩主家には将軍家からお嫁入りした人がいないそうだが、第7代藩主堀親長の元へ柳沢吉里(将軍家光の側近で有名な柳沢吉保の子)の娘が嫁いだときに特別に許されたという。ちなみに柳沢家の方が格上らしい。御守殿門は朱く塗るので赤門と俗称される。火事などで焼失しても再建は許されないので赤門はあまり残されていない。ここにあるのは厳密な意味では御守殿門でない。日本で唯一現存する、正真正銘の御守殿門は東大の赤門(加賀藩前田家上屋敷御守殿門)だそうだ。
藩の文武所は小学校になっており↑、当時の建物はないが現在の小学校は明治5(1872)年に建てられた古いもので国の登録有形文化財指定。
飯田は古くから栄えた町らしく、長野県内でも4番目に人口が多い市で南信の中心地だ。北信の人間にとって南信はむちゃくちゃ遠くて、とにかく真冬でも10℃以上ある温暖なイメージしかない。この日は普通に寒かった。えっ寒いんだ…と普通に驚いた。
★★★★★
旅館良かったよーまた行きたいー
<飯田城>
築城年 不明
築城主 坂西氏?