↑こういうのを見に行った。
実は子供が発表してきた「楽しかった夏休みの思い出」が「家でテレビを見たこと(特に金ローでやってたトトロ)」だったらしいので、自分の中でモヤってしまい、とにかくどこか連れて行かなきゃという気分になった。ご時世的に「家で過ごした」は大正解なんだろうけど。
そして何故か、酒の企画展に行くことにした。この施設には去年秋の国宝土偶展見てきた以来。あら私何気に通ってるわね。
常設展示も見てきた。子供は屋内展示初めてかも。室内は暗く、古代・中世・近世とそれぞれの住居を再現している。季節柄か、子供はお化け屋敷と勘違いしたらしい。最後までビクビクしていた。何も出てこないから。
前々から気になっていた、某UMAの名前の店で優雅なランチタイムですよ。某UMAは日本酒が好きで、2メートルもの高さを飛び、降りは(高いところより転がってくるから)早いが登りは苦手。なにそれ怖い。長野県内から出土した縄文土器(茅野市の尖石考古館にある土器のようだ)にもそれらしき生き物が描かれているそうな。じゃあ長野県内にも住んでいるのかー。食事は美味しかった。あんまりお腹空いていなかったにも関わらず、あっさり完食。
お店の近くには古いお寺があるそうで。
長野県宝並びに市指定文化財 仏像2体を探しています
こちらは無人のお寺さんだそう。残念だけど、仏像は日本から持ち出されていそうだなー。
創建は坂上田村麻呂が東征の折り(約1380年前)という伝承が残っており、御本尊も古そうな感じよ。戦勝祈願で奥さん(高子さん)が寄進したとも。
坂上田村麻呂が蝦夷討伐に出かけた初出は延暦10(791)年、延暦13(794)年には副将軍、延暦20(801)年には征夷大将軍として遠征している。延暦23(804)年にも征夷大将軍に任官されているが、それ以降は東北へ行っていないようだ。伝承通りなら791年~804年の間に創建されているのかなー?
ちなみに、現地の看板には大同年間(806~809)創建、と書かれていた。
上記の「盗まれています」のお知らせには聖観音と書いてあるけど、市の他のホームページの記事には「盗まれた木造千手観音像」とあったりする。別の記事には「御本尊が盗まれている」ともあり、話がぐちゃぐちゃだよ。
現地の案内板には
- 木造千手観音座像 平安時代作(御本尊)
- 木造聖観音菩薩立像 平安時代作
- 木造十一面観音菩薩立像 平安時代作
- 木造観音二十八部衆 鎌倉・室町時代作
- 木造毘沙門天立像 室町時代作
- 木造不動明王立像 室町時代作
があるそうだ。
開基の坂上田村麻呂が信仰していた千手観音が御本尊で、盗まれたものが聖観音像と不動明王像だと書いてあった。
盗まれた聖観音は平安時代の一般的な作風とは特徴がかなり違っているそうで、「地方造像の典型~」とあった。少し意味が分からなかったが、どうやら地方の仏師の手による「素朴で親しみやすい仏像 」ということのようだ。中央で活躍する有名仏師は自前の工房を持って宗派・寺派も越えて天皇家や貴族などお金持ちからの発注を受けていたらしい。地方の仏師は(きっとお金持ち以外からの注文も受けるだろうし、金銀財宝散りばめるゴージャスな仏像を造る機会もなさそうだし)都会の流行りや縛りに影響されない自由な仏様を造っていたということらしい。
こういう屋根って何年毎に葺き替えているんだろう? 調べると15~20年のサイクルで葺き替えが必要だそうで。古民家だと屋根全体の葺き替え費用は大体2000万程度で、このお堂の大きさなら1000万くらいでなんとかなる? クラウドファンディングで募れば意外と達成できる気もするけど、地域住民の集金だけなら厳しいのかもな。
お堂は江戸時代に再建されているそうだ。
近くにも、観龍寺の他に「坂上田村麻呂創建」と伝わる妙音寺というお寺さんがある。そちらの由緒は「京都の若い仏師が故郷・倉科の美しい恋人が忘れられず、思いを込めて娘の面影を宿した十一面観音像を彫り、蝦夷討伐に向かう坂上田村麻呂に託して故郷の地に安置してもらった」という内容。素敵な話ね(そんなに綺麗ならもう男いるに決まってるでしょ、娘もさぞかし迷惑だったろうな、と思うわ)。
古い石仏も。
帰り、山門を出た先で湧き水?を見つけた。
現地の案内板には「延命水といい、この水で身を清めると心にゆとりが生まれ晩年家庭に恵まれると言われている」とあった。枯れている。残念、四六時中イライラして家族にも見放されそうだわ。
お水が枯れた時期は分からないが、案内板の内容から察すると昭和62(1987)年はちゃんとお水が流れていたようだ。平成22(2010)年晩秋頃ココを訪れた人のレポートを見つけ、そこには「申し訳程度に流れていた」とあった。その後10年で完全に止まっちゃったのか。