お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

岩松院館

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小学校の遠足だか社会科見学で来た(記憶がある)岩松院。ここは葛飾北斎の天井絵「八方睨み鳳凰図」があることでも知られる。絵は「どこで見上げても鳳凰と目が合う!」という触れ込みだが、当時の私は「目ぜんぜん合わないんだけどw」と思った。その所為で天井絵・岩松院のことを覚えていた。まあ心の清い人だけ目が合うように設計されているのかもしれない。

 

ここは地元の土豪・荻野さんの館跡だと伝わり、詰めの城は背後に見える山中にある雁田城らしい。雁田城は雁田小城・雁田大城からなる複合施設のようで、岩松院の背後の瘤みたいに盛り上がった部分に雁田大城がある。

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雁田大城より奥に進むと「千僧坊」という表示がある。これは滝の入城の郭の一つ。千僧坊から姥石方面に曲がらず、尾根伝いに登ると滝の入城の本郭に到達できる。この地図には載っていないが、どうやら滝の入城の住所が隣村(高山村)になってしまうらしく、そのため小布施町のハイキングコースには含まれないようにしているのかも?

千僧坊現地の案内板には「岩松院の前身である千僧林念仏寺から名付けられているが、ここに念仏寺があった訳ではない。寺址ではなく城址の一部と思われる」と書かれているようだ。隣村の城「滝の入城」には触れない。滝の入城は近隣で最も高い所となるようだ。

滝の入城から、北西の尾根を麓に向かって下りていくと「二十端(つつはた)城」というお城がある。二十端城は一の城・二の城・三の城・四の城・五の城からなる。雁田山周辺はお城だらけ。やだー大規模要塞じゃないの。

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ちなみに雁田(苅田)城は、東条荘苅田郷の領主だった平(苅田)繁雅が造ったとも言われる。元暦元(1184)年、源頼朝が東条庄のうち高井郡狩田郷の領主職を平繁雅に戻すと認めた。源平合戦で旧領を失っていた平繁雅が嘆願を出していたらしい。平家(越後平氏)の傍流で、横田河原の戦いをもちろん平氏方(新潟から来た城氏の配下)として戦い、負けてしまったみたい。

だが、この人は平家にも近いが鎌倉幕府源頼朝)にも近い北白河院(彼女の祖母は源頼朝の命の恩人であり、平清盛の継母である池禅尼)という女院の側近(平繁雅の奥さんが北白河院の乳母をつとめ、夫婦で養育に当たっていた)だったようで、その縁で旧領復帰出来たのかもしれない。平清盛の曾孫に当たる男子と平繁雅の孫が結婚しているという感じで、血縁では平家が濃く、源氏とは婚姻関係なし。

また東条庄は八条院領に含まれる。八条院領は北白河院の夫(後高倉院)から娘(安嘉門院)に相続されたが、実質的に管理していたのが北白河院らしい。八条院領は以仁王と源氏の挙兵と関係が深い。

平繁雅本人は皇族に仕える身なので、在京し続けたようだ。雁田城には関わりがあるようだが、麓の岩松院館とは関係ないっぽい。

 

二十端城は荻野氏(初代は荻野常倫というらしい)が造ったと伝わる。荻野氏は高井郡の名家・(信濃源氏)井上氏の庶流と言われる。

  1. 井上満実の三男・家光が、保元3(1158)年に丹波国芦田庄(兵庫県丹波市)へ配流される
  2. 以後、この系統は流刑先の地名「芦田」を名乗る
  3. 建保3(1215)、芦田為家が父から所領を分知され、移り住んだ地名から赤井氏を称する
  4. 赤井(芦田)為家の次男・重家(朝忠)は家督を継げなかったが為家から領地を分けてもらい、荻野家を興した
  5. この萩野一族出身・萩野常倫が小布施の地頭として赴任してきた?

という説があるそう。ああ里帰りかー。

  1. 太平記に出てくる「丹波国の住人荻野彦六朝忠」(この人は太平記の作者とも言われる児島高徳と行動を共にしていたので、”太平記”中では活躍する)
  2. 正慶2/元弘3(1333)年、後醍醐天皇挙兵に応じて参戦→敗北
  3. 足利尊氏の配下になる
  4. 貞和元/興国6(1345)年、足利尊氏と戦う→敗北
  5. 貞和4/正平3(1348)年、高師直の配下として新田と戦う
  6. 文和2/正平8(1353)年、新田と戦う→敗北→以後不明
  7. そんな萩野朝忠の子? 荻野常倫が小布施に赴任

 

小布施史では、室町時代初め荻野常倫が故郷の丹波国から栗の木を持ってきて植えたことから、栗の生産が盛んになった、とある。丹波栗は古事記日本書紀万葉集にも登場するほど歴史ある丹波国の名産品だそうだ。

小布施町公式では、貞治6(1367)年に荻野常倫が二十端城を築いたことになっている。ただ、荻野常倫本人は記録がほぼ無く謎の人物とされる。

 

永享2(1430)年、浄土教系の念仏寺が建てられ、その後の文明4(1472)年に同じ場所で改めて荻野常倫が開基となり、建てたお寺が曹洞宗の岩松院だという。えらい長生きだなと思ったが、恐らく荻野常倫と荻野氏歴代の菩提寺として建てられたんじゃないかなー?

 

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お寺の周りにはお堀の成れの果て? みたいなものもあった。

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山門。

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仁王さん。

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↑あの山の中に雁田小城があるらしい。

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雁田城登山道はお寺の脇道から↑

 

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お寺は周囲より高い。

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ゴツい石垣の上にある。

登り切った先には。

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小布施観音というらしい。永遠の平和を祈念。

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こちらが岩松院本堂。ちょこっと見える鳳凰図が件の「どこでも目が合うよ」という天井絵のレプリカと思われる。どうせ今日改めて見たって目が合うとは思えないわ。

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謎の石柱もあった。意味が分からなすぎるので調べると、「祭屋台の像”皇孫勝”が完成した旨の報告文」だという。皇孫勝(公孫勝)は水滸伝に出てくる道士で変な術を使うヤツらしい。

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五七桐の紋があしらわれている。これは内閣総理大臣の紋章でもあり、現在の日本国政府の紋章として使われているもの。歴史上大切な紋章で、室町時代室町幕府が貨幣に刻印して以降、天皇から賜った「政権担当者を示す紋章」とされているみたい。一応豊臣政権まで菊のご紋に次ぐ格式の紋として使われていた。江戸時代に徳川家が使用制限しなかったために菊のご紋と同様、自由使用となって庶民の間で流行ったみたい。その後、明治時代に入り「政権担当者=政府を示す紋章」として格式が復活した。

 

ただ、このお寺に桐の紋章があるのはこの人↓の菩提寺でもあるからと思われる。

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豊臣氏の家紋が五七桐で、この人豊臣姓を下賜されて公的文書での名前が「豊臣正則」だそうだから、桐紋も使ってるんじゃないかな。

 

福島正則公霊廟がある。標柱の側面には、

広島49万石より信越4万5千石に流され居ること6年、寛永元(1624)年歿す

と書かれていた。

負けたくないな負けるの嫌だな、と思わせる一文ね。

 

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本堂の裏。なんかあるよ。

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ここにも石垣が。

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本堂より高い位置にある。

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小布施は福島正則推しなのか? なんの関係の幟なのかと思ったら、福島正則の野外劇やった名残りみたい。

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霊廟は立派だった。

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その辺の墓地とは違うぞ。格式高い墓地。

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先ほどの雁田城に向かう登山道もあったよ。墓地へのスロープも兼ねているのかな。折角だからこちらの道を下ってみる。

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なんかの石碑あった。

高井鴻山の顕彰碑らしい。碑文の内容を記した説明板もあったが、文章が長くて長くて…頭に入ってこなかったよ。公爵徳川家達が揮毫、文学博士三島毅が撰文ぐらい読まなかった。

 

三島毅は幕末から大正にかけて活躍した漢学者で、松山藩の藩校の教授→東京帝国大学の教授→東宮御用掛(東宮の家庭教師)を歴任した凄い人らしい。

公爵徳川家達は徳川宗家の第16代当主。徳川家達の母親は高井武子(生家は津田氏で津田梅子の伯母)というそうだけど、ひょっとして高井鴻山と関係があるのだろうか?  単に母方の姓と同じだね☆ってだけで揮毫してくれたのかな(徳川家達の生家の田安家の家臣に高井氏がおり、高井氏は田安徳川家が創設された際に召し抱えられた家柄らしい)? 太っ腹なのかな? そもそも高井鴻山って本名「市村健」ってwikiに書いてあったわ(石碑の横の石柱には「贈従五位 高井健」の文字が)。

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↑何一つ頭に入らなかった文章

 

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↑こちらは本堂落成記念?(読めなかった)

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山門の近くまで下りてきた。

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湧き水がある様子。

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案内板には、

  • 弁天池清水
    この池の水は雁田山の沢に集まった水が崩壊した溶岩岩塊の中を通り抜けて湧き出してきたもの
    中性で鉄分を含まない
    お茶の水としては最高で、旨味を倍加する
    珪酸の微粒子を含むので白濁しているが、逆に胃腸の健康維持には良い
    まさに霊泉だ

とあった。わりと水量少なめ。持ち帰っている人もいないのでは…? という雰囲気ではある。

 

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夕方に近かったが、疎らに人影はあった。そしてタクシーで乗り付けてきた、慌てた風の若者に「ここって天井絵ありますよね? まだ見られます?」などと話しかけられた。本堂に券売機あったけど…? って言っただけで若者は風のように走り去っていった。あの人、鳳凰と目が合うといいね! と思いつつ帰途についた。

 

 

★★★★☆

「49万石から4万5千石に減らされた流人」という短文が一番心に響いた

 

 

<岩松院館>

築城年 不明

築城主 荻野常倫?