ここは千年ぐらい前から存在している古い街らしい。
ここから山の方へ進むと、石器時代の遺跡だのノノウ巫女の墓などがあるようだ。ノノウ巫女が気になる。信濃巫と呼ばれた歩き巫女の一種らしい。歩き巫女とはあちこちさすらう巫女さん(後継者として見目麗しい少女を各地で探してきて育てるそうで、当然活動している巫女さんはアラサーまでの美女揃いで金品をばらまきつつ祈祷をこなし春も売ったとか)で、平和な時代には各地で歓迎を受けたとwikiに書いてあった。
それ以前の、平和でない時代は信濃巫は武田信玄に仕える訓練された女忍者とされるようだ。つまりかげろうお銀みたいなー?
とりあえず、家族に「ノノウ巫女ってなんだろね!?」と言ってみたが「ハァ?」と返されたので行かないことになった。
まずは海野宿に入ってみる。
この祠辺りから街域になるのかな?
先へ行くと古い建物が現れ始める。
海野宿のメインストリートにはこんな場所が↑
以前来たときもあった気がする(確か10年近く前だったような?)。その当時見かけたとき(これ高く売れそう)と思ったが、もうサビサビで買い手つかなそう。もったいない。
人気無し。
海野宿に隣接する保育園のお散歩でワーワーしていたが、観光客はほぼいない。
この場所には案内看板があった。
- 重要伝統的建造物群保存地区「東御市海野宿」
- 成立は寛永2(1625)年?
- 宿場東端には白鳥神社
- 宿場東西には枡形があり、東西650mの長さ
- 宿場町なので、建物の多くは旅籠屋
- 江戸時代末から明治時代、この地は養蚕業で栄える
この場所は宿場町の真ん中辺りだろうか。
元は海野氏の城下町だったらしい。賑やかな場所だったのが、上田城に城下町を造るにあたりそちらに人を移すこととなったらしい。
街の真ん中には用水路が流れていた。
家屋の玄関先には用水路への階段があり、生活用水だった。今は当然使われておらず、汚い。
本陣はこの場所にあったようだ。宿場町になった時は田中宿と上田城下町の間の宿扱いで本陣は田中宿にあったそうで。寛保2(1742)年の大洪水で田中宿が壊滅状態となり、田中宿一時廃止→海野宿が本宿に昇格したときにここが本陣となったようだ。
明治7(1873)年進善学校は、脩斉学校と夏目田学校と共に公立学校として誕生したそうだ。海野宿から1kmと少し離れた田中小学校に統合されたそうだ。
本陣は他の建物とはやっぱり造りがちょっと違う。
大きい蔵もある。
蔵も分厚い壁で出来ているけど、卯建もあった。これも火事除け。
海野宿が本宿に格上げされた後、田中宿は復興して数回の海野宿側との交渉後にまた宿場町となった。本陣も海野宿・田中宿両方に置かれ、「どちらに泊まるかは旅人次第」という決まりとなった。しかし、慶応3(1867)年に田中宿は燃えた。その後も再建されるものの。災害が多い田中宿に泊まらず、海野宿を選ぶ人が多かったらしい。
千曲川のすぐそばにありながら、江戸時代からの建物が残されるほど火災も自然災害も少ない地区だったのね。
ちなみに田中宿跡は現在の田中駅周辺のようだ。あちらは跡形もなさそうね。
マンホールの蓋(旧東部町仕様)も海野宿だった。
↑こんな子もいた。2020年、どれほどの日本人はこの子を甘エビと呼んだだろうか。見た目甘エビとほど遠い、人魚かどうかも謎の生き物だよなーカテゴリは妖怪らしい。
手に持っている物は蚕らしい。
養蚕も盛んだったから、という理由で。
ここには媒地蔵という縁結びのお地蔵さんがいた。
- 加賀国の殿様には年頃の娘がいたが、なかなか良縁に恵まれなかった
- 縁結びの地蔵尊が海野にいると聞き、参勤交代の折りにお詣りしていった
- すると立派な男性と結婚することが出来、殿様は大変お喜びになった
- 海野氏家臣の赤石藤治友信が媒地蔵を安置したことが始まり→天文年間衰退→寛永2年地蔵寺として再興→元禄4年現地移転→昭和26年焼失→廃寺
- 廃寺となったが、平成7年山門と常夜灯は再建した
田中学校支校跡という碑もあった。進善学校・風声学校が田中小学校となる過程にあった小学校なのかな?
↑こんな表もあり、家族も何故か喜んでいた(こういうの好きなのかもしれない)。
白鳥神社に来た。
白鳥神社という名前は全国各地にあるが、ヤマトタケル由来が多いらしい。この神社も、「東征の折りにヤマトタケルがこの地に滞在されたことから白鳥神社と称し」と書いてあった。ヤマトタケルは父の景行天皇の命令で西征・東征を繰り返し帰京の途中で倒れ、白鳥となり天へ還ったという人であるそうだ。ちょっと可哀想な人生の人らしい。白鳥になった日本武尊がこの場所にも降り立ったので、神社が建てられたようだ。
主祭神は日本武尊だけど、この地域を治めた豪族の海野氏の祖とされる、貞元親王(清和天皇第三皇子)・善淵王・海野広道も祭神としているそう。 ちなみに、清和天皇第四皇子の貞保親王を祖先としているものもあるらしい。貞保親王の母親は有名な藤原高子だそう。貞元親王や貞保親王は9世紀と10世紀に跨がる時代に生きていた人達であるようだ。善淵王は貞保親王の孫で滋野氏の祖、海野広道は滋野氏後裔で海野氏初代だと書いてあった。ややこしい。
海野氏という一族が有力なので、治承5(1181)年の白鳥河原の勢揃もこの場所を選んでみたっぽい。
すぐ近くに千曲川がある。こういう河原でエイエイオーってやってたんだろうか。
実は、今回は白鳥河原や海野宿をメインにしていたわけではない。
落ちた海野宿橋を見たかったのだ。ポッキリいっちゃってる!
ここは川筋を変えるとか、かなり大がかりな工事をしており、新しい橋ができるまで何年かかるんだろう? 急ピッチで工事してたせいか、杜撰施工もバレてしまったので大変なことになったらしい。
この日のご飯はこれだった。
<海野宿>
開設 寛永2(1625)年
↑コレに行った。
事前情報では「わりと難しい」と聞いたけど…本当に小学生・幼稚園児向けかと思っていたのよ。そのぐらいの年代の子が居る家族連れが1~20組ほど冊子を片手に歩いているのを見かけた。これで1日潰せたけどさ、私はノーヒントじゃ解けなかったわ。今は反省してクイズ雑誌買って解いている。うちの子供は問題一切解かなかった、考えたくないと言っていた。