5月に入っても北アルプスには雪が残ってるー。
鳥羽館というのを見てきた。
ここは史跡だけど、民家でもある。安曇野市内の館跡は私有地(人が住んでいる民家)が多いように感じる。
安曇野市が設置している杭には略歴も書いてある。
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熊倉街道の要衝で鳥羽郷開発の拠点としての館
- 本郭は、東西84m・南北72m
- 北西隅に堀と土塁が残る
- 15世紀末、生坂の日岐氏の子孫にあたる丸山肥後、丸山将監が居住
こちらは平成4(1992)年に発掘されており、調査報告書があった。
それによると、
- 南北約80m、東西約90m
- 北西隅に堀と土塁が残る
- 東には土塁に囲まれた副郭(大字古屋敷)がある
↑の地図で「鳥羽城址」の表示がある部分が北西隅。副郭というのは県道316号線(太い道路)や「松原ニット」さんを含むらしい。副郭は完全消滅ということなのかな?
- 東北に稲荷社、北に山の神が祭られ、西側には阿弥陀堂があったとされる
とのことで、グーグル先生に教えを乞う。
松原ニットさん近くにはこんなものがあるそうです↑
土塁の成れの果てに見えなくはない茂み。一生懸命見ていたら、茂みの中に祠が隠されていたよ。これが稲荷社なのかも?
報告書添付の図には、「山の神」と「阿弥陀堂」の位置も示されていた。
↑山の神があった辺り
大きな木に囲まれた、森のような場所。古そうな屋敷?があるようだ。木とかで見えないが。報告書添付の図には、その辺りが「山の神」って書いてあった感じ。
鳥羽館を分断する県道316号線は近年出来た道路のように思える。古い道は田んぼの畦道として残っているように思った。
↑阿弥陀堂の方
非常に見通しが良い。何もないことがよく分かる。
こんな感じの位置関係かなー?
近隣の吉野町館、吉野の堀屋敷は丸山氏の館だったようだ。つまり、丸山一族が支配範囲がそこそこ広い。そして、法蔵寺の開基も丸山氏かも? と報告書に書いてあった。法蔵寺は元は梶海渡という場所にあったそうだが、そこも丸山氏の息がかかった地区。丸山氏は地元のごく普通の土豪だとされるけど、領地経営が上手くて財を成している印象が以前から強い。シムシティ得意みたいな。隣の飯田郷の領主・飯田氏はそういうイメージないんだけど、ここの丸山氏だけはヤリ手一族っぽく感じる。なんでなの?
鳥羽館15世紀半ばくらいに築城で、吉野町館は16世紀後半? とこちらの方が古いという。
- 丸山氏は松本市笹賀(神戸の館)に転居
↑多分ココがお引っ越し先。おそば屋さんがある。名前がずばり…。
- 江戸時代の上鳥羽村庄屋は鳥羽館跡にあった
- 20世紀初めまで屋敷があったと思われ、明治末に水田・畑になった
- 不用の家財が東側の堀に捨てられた痕がある
丸山氏は日岐村(生坂村北陸郷日岐)の領主から安曇野市に進出し、吉野や鳥羽を開発したり武田の家来したり、武田滅亡後は小笠原氏の家来となり松本へ。小笠原家の転封に従ったり、従わなかったり(土着した)で、あちこちに分散したらしい。
ここの堀跡はどういう訳か、水が溜まっている。本当にどこから水が入ってきているのか? 周りは田んぼだが、堀の水は流れていないように感じる。
あと、思いっきり民家なので気まずい。
隣の田んぼで作業している人はいたが、民家の人は見かけなかった。庭木はよく手入れされている様子。
だが、堀・土塁に関してはそうでもない???
見て歩こう。
濁ってはいるものの、死んでる水の雰囲気なし。さすが安曇野。
↑土塁は北側からの方がよく見えた。
土塁上にすっくと伸びる私の天敵・一本杉。もう花粉は治まったので、全然怖くないから。
ここまでで土塁も堀も消えてしまう。
途切れた堀の辺りには、石柱が残っていた。恐らく「鳥羽館址」って書いてあるんじゃないかな…。
杉の花の残骸が浮いてるー! この子たちは雌花(しかも種を飛ばし終えた残骸で、まつぼっくりみたいな存在だという)なので、花粉出さないそうだ。でも「杉」ってだけで嫌な気分になるよ。
僅かしか遺っていないので、アッという間に気が済んだ。
元の場所に戻った。
★★★☆☆
堀に水が溜まっている場所あんまりないと思うが、どうして水があるのだろう?
<鳥羽館>
築城年 15世紀半ば
築城主 丸山氏