架道橋を見に行ったのに花見客のふりをした日から三日後。まだ少し咲いていたものの見物客もおらず。代わりに鉄道マニアが電車の写真を撮っていた。
小坂城はここから上がっていくらしい。
見知らぬ墓場を通っていくので何か変な感じ。墓参りするような雰囲気だよ。
墓場の中を表示の通りに歩いていく。いよいよ山道となる。片隅に看板があった。有名な人のお墓らしい。
- 小林迎祥
- 安政6年 稲荷山に没す
- 54才
ざっくり↑のようなことが書いてあった。誰? なんか寺子屋の師匠で俳人の方らしい。この辺の有名な人なのだろうか。
その墓からピンク色のテープを辿っていく。
登山道はこのような雰囲気だった。急に変わったよ。それなりに人の手が入っているらしく、荒れていなかった。
それでも獣道みたいなもんだけどねー。
笹ゾーンを1,2分進むと視界が開けた。笹藪は墓場と城を隔てる門みたいな役目なのかな? 笹ゾーンを過ぎればただの、その辺によくある里山。
里山にありがちな倒木だって勿論ある。
まだロクに進んではいないものの、親切なピンク色のテープはそこら中にあり、道を迷うこともなさそう。
↑下界の見え方
最初の笹藪は多少の不気味さがあったものの、それさえ過ぎてしまえば登る易い山だと思った。
景色は普通で、珍しさもない。春先だけど花は全く咲いていないし(この時期山にありがちな水仙がいない。春の山は水仙が咲いている印象を持っているけど、私の頭がおかしいだけで、普通は咲いていないものなのかねー?)。
ダラダラと単調な登り道が続いていく。
何かありそうで、何もない山道。ちょっと飽きてきた頃、ようやく何か怪しげな風景に出くわした。
何かあるのかなー? 平場っぽいんだけど。
だいぶ高くまで上がってきており、そろそろ城域に達するのかな! とワクワクした。
しかし上の平場までまっすぐな道ではなく、何故か迂回して進まされている。
(後で調べたところ、頭上に見える平場っぽいやつ、やっぱり段郭の一部だったようだ)
これはもしかして、私のワクワクを裏切る自然地形かしら? トキメキを返して欲しいな。平場はあっという間に越してしまった。
その後、またしても怪しげな平場らしきものが頭上に現れた。今度こそ何かあるのかな?
ここでもやはり迂回するような形で道が続く。
地形と歩いてきた道の関係がよく分からんので、どう歩かされているのかこんがらがってきたわ。
カーブした道の先が急に怪しいよ。これは期待してもいいのかな! 虎口に見えちゃう。
ウキウキしますよ。
杉の木がたくさん植えてある、雑木林だった。地形がおかしい、多分郭だな。
私の天敵・杉がこんなにも!
ちなみに、杉の近くにいても離れていても花粉症の症状自体はさほど変化がない。考えてみれば春は「杉ヤバイ」という理由で山を避けていたが、それは意味の無い行動だった。
それなりに広い郭だった。最初に見た変な平場はここだったのだろうか…もう方向感覚おかしいのでよく分からない。
なんとこの郭には石垣もあった。
崩れてボロボロである。
石垣は奥の方が綺麗に残っていた。
こういう場所は蛇いそう。足がないのに動きが素早い蛇もまた、私の天敵である。
あまりに綺麗なので、放棄された耕作地風でもある。この郭跡、人の手入りまくりの様相だしな。
↑おそらく本郭方面。分からない感じの地形だよ。見張り台かな?
古墳みたいだよ。
ここには郭が3,4個くらいありそうだけど、結構な勢いで崩れている。また杉の枝葉なのか枯れたシダなのか分からんヤツで地面がフカフカしており、足下も不明瞭。石垣は見事だよ。
郭を出て、元の道に戻った。
そういえば、龍洞院からの登り口には「小坂城」の表示があったものの、以降見かけていなかったな。ここもどう見ても郭だけど、特に表示が無かった。小坂城は千曲市の史跡に指定されているけど、入山城みたいな扱いで「史跡には指定したが、それ以上はなにもない」感じで、説明板もなく整備されてもいない状況なのかしら? もっとも入山城は入り口に表示もなかったしなー。
あんなところにも石垣あるぞ。
下の広い郭で見上げてた変な地形がここにある↑
どうやら本郭みたいだ。
下の郭も広かったが、こちらは更に広い雰囲気ある。
蛇いそう。
さっきの郭の石垣同様、本郭周りも非常に綺麗。ピシッとしている。
そして、到達した。
先ほどの郭達が見える。本郭から見れば、ここもクッキリ残っているのね。
とはいえ、崩落している箇所も多い。
さて本郭内部の様子は。
さっきの郭とは違い、新しめの木柱が立っているぞ。
入山城とは違うね!
蟹沢川というのがあり、そっちからも登れたらしい。大手道は龍洞院からの道である。
また、立派な説明板まで備えている。最初「ちゃんとしていないタイプの城かな」って思っちゃってごめん。
小坂城址
- 建武2(1335)年の「船山の乱」で、官軍(小笠原貞宗軍)が勝利し塩崎・桑原は小笠原氏の所領になった
- 塩崎城主・赤沢氏は村上氏に備え、土豪桑原氏(左近大夫)を小坂城主として置いた
- 陣ヶ窪番城址は小坂城の外廊
- 天文22(1553)年の合戦の後、当地は武田領となる
- 小笠原氏に対抗するため、小坂城に保科義昌を置く
- 保科氏は清和天皇後裔・井上頼秀の子孫である
- 井上忠正が保科に移り、保科氏と称した
- 忠正より六世が保科正利で、その子・正則と共に永享年間(1429~1441)村上顕国と戦ったが敗れ、伊那郡高遠へ落ち延びる
- 正則の弟・保科左近尉は永禄年間(1558~1570)の始め頃、武田氏の配下となる
- 天正10(1582)年、武田氏滅亡後に上杉景勝が本郡に侵攻し、保科氏は上杉氏に降り小坂城は上杉に帰す
- 保科義昌が保科正則の弟と同一人物かは不明
- 小坂城は篠山の南東側にあり、東に竜川・西に地獄沢が流れる
- 標高640mにある本郭は周囲141m、46m×29mの広さ
- 戦後、耕作されたために原形をとどめていないが、水源を西に流れる蟹沢から取っている
- 本郭の南側と西側にはいくつか郭があり、当時の石垣も存在し壮大な城址を思わせる
- また、数多くの掘割により、仕切られている
建武2年の「船山の乱」とは、青沼合戦のことを指しているようだ。現在の千曲市役所付近で起こった合戦。中先代の乱というのに含まれるようだ。身内が以前うちで昔の大河ドラマの太平記を見ており、私も少し見てたけど、主人公がぼんやりした人だった。ドラマの内容は、主人公が糞だなーという感想以外忘れちゃったよ。もう頭に残らないくらい話がややこしくて難しかったんだと思うよ!
青沼合戦は建武の新政に不満を持つ四宮氏や保科氏などが船山守護所を襲撃し、それを小笠原貞宗の軍勢が鎮めるという内容らしい。この青沼合戦自体が陽動作戦だったのか、小笠原軍を引きつけている間に松本市内の国衙を北条時行と諏訪氏の軍が襲い、そこで勝利したのち鎌倉へ進軍した。
四宮氏は信濃国四宮ともされる武水別神社の神官家一族だったらしい。武水別神社は元々聖山の頂上にあったそうだが、現在地に移転している。wikiには白助(五万長者)との関係を匂わせる記述があったよ。四宮氏は諏訪氏と繋がりがあるそうで、保科氏も一説には諏訪氏系とされる。両者親戚かも? ということのようだ。田舎だからか血縁が濃いのかなー?
青沼合戦は小笠原氏勝利なので、負けた側の領地を接収したようだ。小笠原氏傍流の赤澤氏(この時の赤沢氏当主の赤沢経興という人は小笠原貞宗の従兄弟に当たるそうだ)を伊豆国から呼び寄せ、新しく得た領地を統治させたみたい。赤澤氏の新しい館は筑摩郡浅間郷(松本市内)に建てられたが、四宮氏の領地も併せてもらったようだ。塩崎に居城の塩崎城を、桑原に小坂城を築いて小坂城には地元の土豪・桑原氏を置いている。
赤澤氏は小笠原宗家にとって執事みたいな一族のようで、小笠原=信濃守護、赤澤=信濃守護代という関係の家柄。赤澤氏は信濃国人衆との戦いに敗れたり、小笠原氏の内紛に巻き込まれたりで、弱体化したようだ。
あと、説明板の文中にある「陣ヶ窪番城」が何を指しているか分からない(外廊ってなんだろうね…)。
「天文22年の合戦ののち、武田領となる」という内容については、村上義清を破り武田氏が信濃平定を果たしたことを指しているようだ。同年には第1次川中島合戦も勃発している。
急に出てきた「保科義昌」が小坂城の城将となったようだが、この人は武田氏の家臣らしい。小笠原氏に対抗(ただ、その小笠原氏も武田氏に敗れ、信濃国から出奔しているから脅威になるのかね?)し、守備を固めるために保科義昌がきたらしい。
その後は保科氏の出自とかダラダラと書いてある。青沼合戦で四宮氏と一緒に小笠原氏と戦った保科氏のことらしい。
- 保科氏は須坂の井上氏(信濃源氏)の傍系だが、正則の代で村上氏に敗れ高遠に移住
- 正則の子・正俊は諏訪氏に仕官し、頭角を現す
- 正則の弟・左近尉(左近将監)は武田氏に仕える
- 天正10年武田氏滅亡→上杉氏が信濃侵攻→左近尉は上杉氏に仕える
- 小坂城は上杉氏支配となる=保科義昌が城を預かる
- 正則の弟=保科左近尉が保科義昌かどうか分からない
ざっくりと↑こうだった。
系図を見ると、正則の子に正俊と正保(左近将監)という人物がいるようだ。正俊の直系は飯野藩祖となり、正保の方は真田家家臣と書いてあった。私が見た系図には保科義昌という人物はいなかった。
他のサイトでは、保科正則の弟左近将監は村上氏→武田氏→(織田家家臣の)森氏→上杉氏と主君を変えたが、その間変わらず保科を領した、とあった。正則時代に高遠移住する系統・保科に残った系統と2種類あるらしい。
保科正則が高遠に移住した理由は「保科正利の弟が伊那の藤沢村に領地を得て引っ越しているため、彼らを頼ったから」のようだ。
また、この説明板は間違い多めらしい。文中の「永享年間(1429~1441)」ではなく「長享年間(1487~1489)」に村上顕国に敗れた保科正則が移住、が正しいようだ。上杉家に仕えている保科氏としては保科豊後守正信という人が稲荷山城代になっていた。この人は保科家の系図には出てこない。その後は上杉家の会津引っ越しについていった保科一族(たぶん保科豊後守正信の子孫)と、居残り組(保科正保の直系子孫で真田に仕えた一族)とまた分かれていったようだ。分裂しすぎだわ。
↑古墳みたいに見えたヤツだ。
↑眼下には崩れた石垣の残骸。
北側には深い堀。
下りる道があった。地図によれば↓
この先にも郭がたくさんあり、一番北には「頂上の郭」というものがあるらしい。
堀は4間(約7m)の高さだそうな。
この看板の「小坂山」が頂上の郭だろう多分。25分かーどうしようかな、行くかな(当日ハイキングのハシゴをする予定だった)、と悩んだが。せっかくなので行くことにした。また登るのが嫌という理由で。
細い道だったよ…。
堀をよじ登り。
尾根伝いを進む。
もう目印のピンクテープはほぼないけど、なくても道が分かる。
相変わらず人間には出くわさないが、それなりに人が通っているのだろうか。
尾根の両脇はずっと斜面。
なんだアレは。進んでみると、入り口らしかった。
立派な門構えですね!
門の先は明らかに人の手が入っている。
連続した郭がある場所に到達したようだ。何故門があるのだろう…? ここから本郭に向かう道ですよ、という意味かしら?
後ろを振り返り、門を見れば。背後の変なこんもりしている山?みたいなのも、なんか怪しい。あれも人工物なのだろうか。巨石の陰に隠れている兵にブスッとされそうな。見通し悪くて気持ちも悪い。
堀が見えてきたようだ。図には、郭×4・堀割×3の表示があった。門の表示はなかったので、何か割愛されている気がする(門の周りだって色々あったのにさ)。
木が倒れている。
本郭北側の7mの堀に比べれば浅いが、それでもなかなかの深さ。
2つめ。
3つめ。
4つめ。
少し歩いて、5つめ。
どうやら、この堀が最後だったようで。
また普通の山道に戻った。
さっきの連続堀切と本郭の雰囲気が違う気がする。後付けなのかなー?
尾根を歩いて行く。
頂上の郭というものが現れない。
堀なのかなー? 自然地形なのかなー? とりあえず怪しむが、だいたいが自然由来だろうと思う。
平場あった。何かに使えそうだけど? もう分からないや。
急に出てきた注意。
- 小坂城址・龍洞院方面に行かれる方はこれより先、下り坂・左側急斜面・足下は凝灰岩で滑りやすく危険
- 「昔から怪我と弁当は自分もち」です
だそうだ。
小坂城方面から来たから知ってる…。結構強めな警告だよ、危ない場所だったのかな。
で、看板の裏に何かあった。
回り込んでみる。
祠だった。山の頂によくあるやつ。
頂上の郭に到着したようだ。
ご丁寧に三角点まである。
郭にしては非常に狭い。てっぺんの周りの方が広い。
後で知ったけど、このすぐ下辺りに桂馬平と呼ばれる場所があるようだ。名前からしてお城の一部じゃないの?
むしろ、見えてる平場が桂馬平じゃなかろうか?(すぐ近くらしい) 先達の山歩き記録によれば、人工的な段差がいくつもあったとか。
頂上の郭=見張り台という位置づけらしいが、本当にその通りだわ。特に、松が生えてる盛り土のあたりとか。でも見張り台作るほど開けて見通せるかというと、そこまででもないような?
また注意看板の内容から察するに、どこからかこの祠を経由して小坂城・龍洞院にいけるようだった。これも後で調べたことだが、越将軍塚古墳からここまでの道があったようだ。ひょっとしたら塩崎新城からも来られたかも。
ここから先「遊歩道」的なものが存在していて、標識なんかも整備されていたけど、現在は荒れ果ててしまった様子。
祠があるぐらいだから相当昔からある道路を遊歩道にしたのかな? どことどこを結んでいる道だったのかは分からなかったわ。
見張り台やこの先にあった郭&堀も、塩崎新城から来る敵を警戒しているとかなのかね? 「頂上の郭」周りは兵士おけそうな場所もあるし。
この場所、頂上にしてはさほど見晴らしイマイチ。景色が良い場所だと「急に隕石が落ちてきて全部燃える」という妄想でひとしきりぼーっとして、日頃のストレスを解消することも出来るのに、ここではそれが叶わなそう。
先に進むつもりはないので、ここで折り返し。
一度通った道だからかすごく早く通り過ぎている気がする。この後の予定もあるし、夕方で少し肌寒くなってきたせいもあるかもしれない。
あっという間に連続堀切に到達。
例の門も見えてきた。
初めてこの区間を通る人は、頂上の郭の注意書きの通り、キツいかも。
あの区間以外は苦労ない気がするよ。
そして、本郭に辿り着く。
この深い堀を通って。
やはり誰もいない。
さっき見たから満足しているので、さっさと通り過ぎます。
この下、高速道路が貫いているためうるさい。
この辺の石垣はもう一度見たかったので、しばらく堪能した。
下りるよー。
笹藪まできた。ここを抜けると。
墓場。
おしまい。
今回一番驚いたのが、筋肉痛出なかった事。年を取ると骨折しても気付かない程、痛みに鈍感になる。って聞いたことがある。ひょっとして筋肉痛に気付いていない? やだ怖い。
★★★★☆
連続堀切面白かった。なんであんな場所にあるんだろう。
<小坂城>
築城年 康正年間(1455~1457)?
築城主 赤沢氏