家族の用事で佐久まで車で出かけた。中部横断自動車道初めて通った。
ついに欲しかった御城印を手に入れる日が来たのだ。
しかし日曜というのに、御城印を配布している施設は休みだった。ここは毎年8月1日お休みらしい。なんで?と思ったが、この日町の人達の多くがお墓参りをしている様子だった(戌の満水の墓参と少し時間が経ってから気付いた)。また出直します…。
龍岡城址が現在小学校となっていることは以前から知っていた。小学校だから部外者立ち入り禁止だと思っていたのよね。
この小学校は立ち入りを禁止ではなさそう? 休日なので学校には誰もいない。
幕末に許可を受け新築されたお城で、日本に二つしか無い西洋式城郭。もう一つは函館にあるやつ。
ここに新築された経緯は
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三河奥殿藩の藩主は徳川家康の5代前の松平家当主松平親忠の次男の子孫である大給松平家で、信州1万2千石と三河4千石の領地を持つ。
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大給松平家初代は先祖ゆかりの三河国加茂郡大給(6千石)を知行地としていたが、2代目が大坂の陣の功により、近畿地方に領地(1万石)加増となる。本拠は大給に置いたままにしたので大給藩の藩主家となる。
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3代目のとき、近畿地方などの領地(1万2千石)と信濃国佐久郡田野口(1万2千石)を交換される。大給が山の中で狭いという理由で本拠地を三河国額田郡奥殿に移転し、奥殿藩となる。
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幕末になり、領地の大半がある信濃国佐久郡田野口への本拠地移転が幕府に許可されたので思い切って洋風城郭にしてみた。当時の当主の松平乗謨は学問好きで西洋事情にも詳しかったらしい。龍岡藩となる。
こういうお城、15世紀のイタリアが発祥らしい。正式名称は星形要塞というようで発展してきた発展してきた砲に対して防御力を高めた形の要塞だそうだ。
- 従来の高い城壁は砲で簡単に壊される為やめて、砲を撃ち込まれても崩れない厚い土塁を作る
- 至近距離から大砲を撃たせないための広い堀を設ける
- 堀の外側からも撃てないように土塁を傾斜付けて盛っておく
- こっそり城に近づいてくる敵兵を城内から殲滅できるように死角を作らない
という構造となっている。また、高所からの攻撃に脆いため山間部には作らないことが前提。
龍岡城はすぐそばに山があり、山の上には田口城跡がある。田口城から大砲撃ち込まれたらおしまい。
五稜郭展望台も田口城に設置されていた。
そして、堀もしょぼい。土塁の高さもイマイチ。
置いてあったパンフレットにも「松平乗謨は早くから洋式築城に憧れていた」「高所からの攻撃に弱いことや当時の大砲の射程距離などは本人も分かっていた筈なので、この築城は一生に一度の夢を託したものであったとも言える」などと書かれてしまう。ちょっと切ない。大給松平家はお城を造れない格式の家なので、堀の幅も土塁の高さもこれが精一杯だったのかもしれない。
陣屋も建築するにあたり制限があるようで。石垣は低く、堀は浅く、櫓はダメ、塀に狭間も禁止、郭は一つだけが基本。内部は役所とか藩主住居程度で防御力が低い。敷地の面積とか立地とかも条件あったのかもしれないなー。お城造った人、最終的には陸軍総裁に就任したそうなので、このお城を造った経験が何かで生かされたかもしれない。
陣屋とはいえ、端っこはこんなのもある↓
これは龍岡城の枡形だったらしい。横を通り過ぎたが鳥居しか目立たず。近くの新海三社神社の参道かな? と思っていた。
龍岡城のパンフレットによれば新海明神下屋敷道という名前のようだ。「田野口村入り口」には土塁とか土手があったとあり、ここのことらしい。鳥居も随分年季の入ったものなので、幕末のお城造成と同時に造ったんじゃないかと思う。現在この部分を避けるように舗装路が続いている。
新海三社神社(新海明神)は佐久地方の総社だそうだ。古地図にも描かれているような、これより大きな鳥居(一の鳥居なのかなー?)が他の場所にあり、群馬県に向かう古道沿いにあった。
枡形に置かれた鳥居は佐久郡の集落沿いを結ぶ佐久甲州街道側にあり、新海三社神社には向かう少し大きめの通りという感じ。新海明神下屋敷路の両側には古くて重厚なお屋敷が建ち並んでいる。
御城印を配布している施設の辺りは、惣門と面番所・家老や中老の屋敷があったようだ。現在は↓
この門は明治とか大正期っぽい雰囲気よ。
小学校の入り口である大手門というか、大手橋。
すっかり字が読めなくなった石碑。
大きな石碑の後ろでひっそり打ち棄てられた小さな石標があった。
これも随分古そう。味わいがある字。龍岡城はこの地区のシンボルとして大事にされている。
大手には説明板が二つもあり、これ↑は相当古く見えるが文字が彫られているので読めた。
本城は文久三年旧龍岡藩主松平乗謨(後名伯爵大給恒)其の居城として九月工を起し
慶応二年十二月竣工我国に於ける欧式築城中五稜型の典型である
明治四年廃藩とともに廃城となり建造物は撤去させられ其の一部が小学校舎として使用されている
累濠に破壊せらたる所あるを以って修理を加え其の旧規を存す
注意
一、累濠を破損せざること
一、工作物 樹木等を損傷せざること
一、其の現状を変更せざること
昭和九年五月一日 文部省
昭和9(1934)年に国の史跡に指定されたようで、その時に掲げられたもののようだ。
この辺りはお城の正面なので、堀が綺麗。
橋を渡ってみる。
蓮で埋め尽くされていた。花は終わっちゃってるみたい。
堀の形が大分変だと思った。無理やり星形にしているせいだ。
石垣の高さは堀の底から3.4mだそうだ。一応?武者返しも設けてあり、石垣の上には土塁が2mちょっとの高さで盛られ、頂上の武者走りは幅2m程。この石垣は大手橋付近はしっかり造っているけど、大手橋の反対側(雨川側)に近づいていくと打ち込み接ぎ・堀が狭くなる→野面積み→堀は未完成と残念なことになっていく。
橋を渡ると古い門柱があった。
廃城後、小学校が設置されたのが明治8(1875)年。一瞬、龍岡城の門なのか、と最初思ったが。パンフレットには
- お城一番の難工事は石垣で、当時の高遠藩が養成していた洋式築城石工を招いて3年をかけて造った
- 採石した石を接合面を成形して積む切り込み接ぎで造られている
- 大手橋付近は布積みで、大きめの石を積みあげ横目地が通り美しい
- 砲台付近は石を六角形に加工し亀甲積みとしており、極めて美しい
と書かれていた。手前の門柱はやっぱり明治以降の物だろうなー。
布積みは強度がイマイチらしい。まぁ、このお城の立地条件そもそもイマイチだという評価だしな…。
ちなみに「砲台」は五角形の各先に造られる筈が結局一カ所しか出来上がらなかったようだ。
↑この写真の正面にある、旧校舎(元はお城の御殿の一部で、お台所だったそうだ)の裏辺りに砲台があるようだ。
こんな場所らしい。道路は堀跡かねー?
図によれば御殿は校庭にあったみたい。
旧校舎の元台所も最初は、
現在と反対のこちら側↑にあったとか。
内部の建物は廃藩したときに国から取り壊しを命じられ、解体されたあとに一部お寺や一般の民家に貰われて移築されて残っているものもあるらしい。台所の建物は「小学校に使いたい」という申請が許可され、遺された。昭和4(1929)に現在地に移され、昭和35(1960)年に復元工事が行われ今に至るとか。
建物がない部分は土塁まで見通せるので。土塁がクネクネしているのよく分かる。
現在の小学校。近々閉校の予定だとか。小学校が閉校した後ここを史跡として何かしたいという議事録を読んだが、その中に150年分700冊ぐらいの陣屋日記があるという記述があった。それは欲しい研究家いるんじゃないかな…もったいない気がする。
小学校の通用門として使われている旧黒門もあったが、かわいらしい石橋が架けられ車もギリ通れる様子。
ここまで車で見に行ったけど、切り返して戻るのが難儀だったよ。
小学校の片隅、正門入ってすぐ右手には神社があった。
田口招魂社。
こちらにも龍岡藩主家・神社の縁起・田野口藩と幕府領と岩村田藩の領地内訳の図があったが、消えかけて読みにくい。藩主家の説明はそこら中に書かれているからまあいいけど。
元は藩運営に功績があった3人の藩主を祀る三社神社として城内に建立されていたものを、戊辰戦争(1868~1869)のときに戦死した4人を合祀し以後招魂社となったものらしい。戊辰戦争(のひとつである北越戦争)の後、現在までの戦死者もあわせ合計207柱の神様を祀っているそうだ。
大所帯。
明治2(1872)年招魂社となったようだ。万治元(1864)年に戦没者の身分を問わずすべて神として祀る櫻山神社が建立され、明治に入ると全国各地に戦死者を慰霊する「招魂社」が建てられるようになったそうだ。
長野県だと松代妻女山招魂社(妻女山陣場跡)と岩村田招魂社(岩村田城跡)と上高井招魂社(須坂藩陣屋跡)の3社が官祭招魂社として建てられ、次に私祭招魂社として田口招魂社など4社が建てられている。
神社手前の狛犬の台座には
「揚宣」「威国」
と書かれており、右から文字を読んでやる感じの、戦前に設置されたような雰囲気だった。国威宣揚といえば、昭和15(1940)年の皇紀2600年記念事業関連で建てられたんだろうか? ってイメージ。
社殿は昭和28(1953)年に改築。狛犬達より新しいと思われる。
社殿の裏・右手も歪な土塁が続く。
土塁の上に桜の木を植えちゃっているので、樹木にも良くないし土塁下の石垣にも良くない状況だそうな。
とはいえ、桜が咲いたら風情があるねって思うよ。
★★★★☆
日曜だからすんなり入ることができたが、平日は変質者扱いされる…かも?
<龍岡城>
築城年 文久3(1863)年
築城主 松平乗謨(大給恒)