田口氏の館があった場所である。正面奥の山に田口城がある。城域は広大らしい。
現在ここには蕃松院というお寺さんがあり、お墓参りの人達がたくさん来ていたために、この日(8月1日)が戌の満水のお墓参りの日だと気付いた。
最初「大楽山」かと思ったら、実は「大梁山」という山号でした。この字を書いた17世紀の高僧の書は貴重だそうで「掲げると火災除けになります!」と紹介されていた。
田口氏はこの辺りを治めた有力な豪族で、応永の頃(1400年前後)には既にいたらしい。佐久市田口は交通の要衝であったらしく。
長野・群馬県境にある田口峠にはこんなボロいトンネル(第一隧道)が存在するぐらい、大昔からあった街道っぽい。
この「群馬県道・長野県道93号」は9世紀に最澄が通りかかり「険しい!」と感想を漏らした記録があるそうだ。長野県佐久郡と群馬県甘楽郡を結ぶメインストリートで、現在でも主要地方道の指定を受けている。wikiには「北の星尾峠や南の余地峠と共に、佐久地方と群馬県南西部の交易路の一つだった」という記述があった。ただ、星尾峠・余地峠は現在も徒歩道のままのようだ。
余地峠(長野県道・群馬県道108号)は武田信玄が軍用道として使い、星尾峠(群馬県道201号、群馬県星尾集落~長野県は立岩・荒船山の登山道となっている)は今の大河ドラマの主人公が度々通った道なんだそうだ。
両隣の峠と違い田口峠だけが冬期閉鎖しない車道として整備され(南にある酷道の十石峠は閉鎖されちゃう)てはいるものの、こいつもとんでもない険道であるそうだ。コスモス街道(内山峠)があるので田口峠が今後大々的に改良されることもなさそうだし。
群馬県と佐久地方を結ぶ峠道は、矢川峠・内山峠・星尾峠・田口峠・余地峠・矢沢峠・大上峠・十石峠・武道峠となんかいっぱいあるけど、このうちの半分しか車道化していないらしい。
そんな感じで栄えていた地域の豪族だった田口さんなのにあまり記録には残らず。
田口城は武田氏に落とされ、お寺の案内板にすら田口さんには触れていない。
「蕃松院の由来について」
- かつての寺号は「明法寺」
- 天正11(1583)年、田口城主・依田信蕃は岩尾城攻めで戦死
- その子の松平(依田)康国は小諸城主となり、父の菩提を弔うため居館跡に堂宇を再建し、父の戒名から「蕃松院」と寺号を改めた
- 江戸時代以降、田野口藩(大給藩・奥殿藩)の庇護を受ける
- 天明6(1786)年から歴代藩主の位牌を安置している
- 寛政2(1790)年、落雷のため本堂焼失
- 文政5(1822)年、本堂再建
- 寺の裏手には信蕃・信幸兄弟の墓と伝わる五輪塔があり、近年その下から愛刀らしきものが発見される
と書かれていた。
お寺の建立経緯には田口氏が1ミリも関わっていないので仕方ないのか。
田口氏は室町時代以降、豪族として当地を治めていたらしい。新海三社神社の神宮寺である上宮寺にたくさん寄進しているそうだ。
- 田口長慶、天文5(1536)年の武田信虎の佐久侵攻に対して、村上義清方として海ノ口城を守る
- その後、武田信玄に仕える
- 田口長慶の子・田口長能は天文17(1548)年上田原の戦いで大敗した武田信玄から離反した。武田方の小山田信有に攻撃され、田口城陥落、本人も討死=田口氏滅亡
- 相木(依田)氏が田口城主となる
- (芦田)依田信蕃が田口城主となる
相木氏・依田氏に城主が変わってからも、館として機能していたようだ。
田口城の本郭には大井氏神の祠という古い祠が遺されているそうで。じゃあ歴代城主が大井氏と血縁関係があるのかと思いきや、田口氏も依田氏も関係があるような雰囲気でもなかった…。
大井氏は小笠原系で、依田氏は清和源氏なんだってさ。依田一族のうち芦田氏は大井氏の重臣になり、芦田氏から分かれた相木氏も同じく大井氏の重臣となった。大井氏は依田氏の主君筋であったが、大井氏宗家の滅亡ののち(宗家は滅んだが甲斐武田氏系の人が大井氏の名跡を継いだらしい)、両家とも独立したらしい。
田口氏は謎の一族らしいしなー。祠は誰が設置したんだろう?
仁王門より奥、お寺のお堂がある場所は少し高い。
仁王門は明治21(1888)年に建てられたもの。日本に曹洞宗をもたらした久我家(村上源氏の宗家)出身の道元の兄弟の子孫に当たる久我通久侯爵が扁額を書いたとあった。
お寺は賑やかだった。全体的に新しい雰囲気だった。仁王門も平成に改修しているそうで、本堂とかもあちこち手直ししているのかもしれない。
★★★★☆
中まで入ってみたかった。
<田ノ口館>
築城年 不明
築城主 田口氏?