お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

稲荷山城(勝間反砦)

 

誰も一度は見たことがある例のロケットがある場所が稲荷山城だった。

 

はやぶさイカロス君にはまってた頃、臼田宇宙空間観測所には行ったことがあったけど、とんでもない山奥(でも道は異様に綺麗で立派)にぽつんとある静かな場所で。行くまでが大変だった。あんな場所からデータを相模原まで送っているとか、壮大だわと感心してた。

パラボラアンテナの周りには野ウサギのコロコロウンコが辺り一面転がっていたのをしっかり覚えている。ウサギが好きだから。

佐久地方の野辺山にも国立天文台があって、こちらの方が見応えがあった。臼田のほうはとにかく大きいアンテナがどーんしているだけに対し、野辺山は大小アンテナがたくさんあって、引退した古いアンテナも展示されているし。

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臼田宇宙空間観測所はもういいかな…という感じだけど、野辺山国立天文台はもう一回行ってみたいかなー?

 

稲荷山公園。私はこちら側↓から入った。

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フォトジェニックな場所だった。

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大量の鳥居が奉納されている。

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稲荷神社とある。石標の消された文字は「郷社」だと思われる。近くの案内板には、

と書かれていたので。お稲荷さんは元は農業の神様だったけど、今は農業と商業の神様とされている。御神徳として挙げられたものも「五穀豊穣」の他「養蚕豊熟」「商売繁盛」「殖産興業」「除災招福」「万民豊楽」と色々だ。

 

御由緒は

  • 社伝では、正暦年間(990~995)に山城国より勧請
  • 戦国時代は「勝間城鎮守」として、武田信玄から緋色の玉垣を奉納された
  • 勝間城の廃城後もお稲荷さんとして親しまる
  • 千曲の真砂(宝暦3(1753)年)という書物には、「稲荷山に稲荷大明神あり、石段二百ばかり川に臨みて良き風景なり」と描かれる
  • 明治6年、郷社

と書かれていた。

そして神社庁の稲荷神社の項目には

  • 天徳4(960)年、村上天皇皇子が佐久郡春日村に下り、一条院の御代正暦3(992)年には当地に移られた
  • 山城国紀伊郡より稲荷山に勧請し、祀られた
  • 武田信玄が社に緋の垣を改築して、永禄9年川中島凱旋の日に大神にお参りした

と詳しくあった。

 

山城国紀伊郡といえば、全国のお稲荷さん総社である伏見稲荷大社がある。

天徳4年は村上天皇の代で、正暦年間は一条天皇一条天皇の時代は紫式部清少納言などが活動していた時期となる。天慶5(942)年に伏見稲荷大社正一位を授けられてからは京からの参詣者が多かったそうで、相当賑わったらしい。人気が高かったから勧請したのかなー?

村上天皇の皇子は第十皇子までいたけど、該当するような皇子はいなかった。村上天皇の縁者を名乗る人物が移り住んで稲荷社を創建したとか?

 

「千曲の真砂」の稲荷山城の項目には、

  • 桜井対馬守の居城とされる築城年代不明の古城が臼田村日影山の観音崫の山頂にある
  • また、稲荷山にも城が有り、これは出丸とも言われている
  • しかし古老曰く、稲荷山城は出丸ではなく武田信玄信越二州に出陣した際に度々陣場とした場所で、堀柵石垣などがある堅固な要害だという
  • 近年まで石垣と堀が残っていたそうだ
  • その稲荷山の城跡は勝間反砦だろう

桜井対馬守は滋野宗平(滋野氏)の末裔らしい。桜井対馬守の子孫は武蔵国荏原郡(品川区・目黒区・大田区辺り)住みで、「我々は海野氏後裔の桜井対馬守の三男の長三郎の子孫というが、系図や古文書もなく真実かどうか分からない。また、家には先祖の桜井対馬守が16才の頃に着用していたという甲冑と槍一筋があったが、槍は所在不明となり甲冑だけは残っている」という情報だけ見つかった。

 

臼田村日影山の古城というのは、医王寺城のことだと思われる。医王寺には日影観音堂というお堂もあるし、武田信玄が佐久地方に出陣した際に陣を置いたとされる「桜井山」は医王寺城のことだという説が近年有力になっているらしいから。

 

勝間反砦(岩崎砦)の項目には

  • (武徳)編年集成によれば天正10年8月に北条方との戦闘があり、193人討ち取る
  • その中には増山豊前・内田加賀の首もあった
  • 海野市介は北条氏直の監使・芳賀四郎右衛門を討ち取った
  • その後、津金監物、その弟の津金修理、小池筑前・米倉主計・折井市左衛門らが会合を開いて勝間反砦を交代で守備し佐久郡一揆の城を守り抜く旨の注進をした
  • (武徳)編年集成では神君(徳川家康)が浜松を出発し、北条家との和睦など模索した
  • 信州佐久郡一揆の残党は上野まで米を秘密裏に運び籠城する味方に届けることに成功
  • そして神君出陣し、柴田七九郎康忠は監使となり甲斐信濃両国を治めた
  • 勝間反砦は鳥居・大久保・平岩が巡検来て、敵の城砦を攻めた
  • 同年11月には松平家忠が勝間反砦を改修している
  • 台命(貴人の命令)により、天正13年真田父子の居城である上田城を攻めた時、鳥居と平岩が勝間反砦に入り、後に甲州へ引き上げていったという
  • 私(著者)は、岩崎砦を佐久郡と書いたが、もしかしたら甲州のものかもしれない。というのも、天正10年12月に辻弥兵衛が賜った神君の朱印状が残っているからだ。内容に「甲州岩崎のうち長延寺分40貫文」という文言があり、甲斐国の話と思われるから
  • また、川東三分村の上の山を岩崎といい、山嶺に観音堂が有り眺めが非常によい場所もあり、ここかもしれない…ここも勝間と向かい合わせの砦であり、兵が篭もれる(=岩崎山陣場

と書かれていた。

多分、近辺にお城がたくさんありすぎて。千曲の真砂が編纂された江戸中期には各城の来歴が分からなくなっているようだった。

岩崎山陣場というのは龍岡城の南側にあるこの山↓にあるらしい。

 

この山頂には佐久市有形文化財の大日宝塔がある。江戸時代以前には宝塔がある場所に大日堂という大日如来を祀るお堂が有り、麓には遍照寺という馬頭観音を御本尊とした古刹があるそうだ。

 

この「勝間反砦」項には人の名前もいくつか出てくる。

北条方として、増山豊前・内田加賀力・芳賀四郎右衛門。

佐久郡一揆方として、海野市介・津金監物・津金修理・小池筑前・米倉主計・折井市左衛門。

北条方の人々、最初の二人は分からないが、監使として挙げられた芳賀四郎右衛門という人はそれなりの身分の人だと思われる。北条氏直の家臣で垪和という人がおり、読み方も同じハガだったので、誤記かもしれない。垪和氏は後北条氏初代が関東へ下向した時に従った最古参の家臣とも考えられているという、北条家の重臣。この垪和一族の縁者じゃないかなー?

 

佐久郡一揆方は、津金監物=小尾祐光(兄)と津金修理=津金胤久(弟)と小池筑前の「津金衆」、折井市左衛門=折井次昌と米倉主計=米倉忠継の「武川衆」が旧武田家臣で武田家滅亡後は徳川家に身を寄せていた人々。津金衆も武川衆も武田の領国の国境警備に当たった武士団で、武田氏滅亡後はいち早く徳川に忠誠を誓っていた。

海野市介は会合に出席したのではなく、監使を討った人としてあげられていたが、地元の土豪かなんかかな?

 

引用元の武徳編年集成には、内容が少し違うらしい。

  • 佐久郡岩崎にて戦闘があり、北条方153人討ち取る
  • 津金衆と武川衆が集まり群議を行う
  • 敵地から15里の勝間反砦を交代で守備し、佐久郡一揆の城砦を守り抜くべきだと報告
  • 津金衆と武川衆は伊賀の忍者と共闘して、甲斐国江草の小屋(獅子吼城)を落とすことにした
  • 作戦通り、伊賀忍者団は夜襲で城を落とす、津金衆と武川衆は城の周りに伏兵を配置し応援に駆けつけた北条軍478人を討った
  • 徳川家康はその奮闘ぶりを称えた

勝間反砦を拠点としつつ、15里(約59km)先の甲斐のお城を奪い徳川と北条の戦いで戦局が変わったそうだ。

 

その後、勝間反砦は徳川家の武将の柴田康忠が入った。この人は甲州奉行、その後は諏訪郡代として主に旧武田領の統治を手がけたみたい。依田信蕃に協力しながら佐久地方の平定にも尽力した人だそうだ。柴田康忠は一時期富士見城の城主だったようだ。

柴田康忠の他にも鳥居(元忠)・大久保(忠世)・平岩(親吉)といった家康の側近達が来たりしていたという。

  1. 鳥居元忠 側近中の側近で、天正壬午の乱以後は甲斐国都留郡を治めた
  2. 大久保忠世 めちゃくちゃ強い、天正壬午の乱後は信州惣奉行として小諸城に在城、依田信蕃を監視
  3. 平岩親𠮷 人質時代からの家康の小姓、天正壬午の乱後は甲斐郡代甲府城を家康の命で築城)

第一次上田合戦での徳川軍はこの3人がメインで戦っているという。徳川軍はボロ負けした。甲斐にいた鳥居さんと平岩さんは勝間反砦にも帰り道に立ち寄っていると書かれていた。

 

松平家忠が城を直しにきた記述もあった。松平家忠は徳川家臣団の中でも土木工事を請け負うことが多かった人で、各地の城の普請や修理を担当して回っていたようだ。

 

「岩崎」が甲斐国内の地名ではないか? という記述に関しては。

甲州岩崎のうち長延寺分40貫文」の長延寺とは相模国にあったお寺である。北条軍に焼かれてしまったお寺さんを武田信玄甲府に再建させたことに始まっている。武田家滅亡の際には、武田と親密な関係にあったこのお寺(住職が武田信玄の孫)を織田信長が焼き討ちしている。住職を務めていた武田信玄の孫は信濃国へ逃亡、甲斐が徳川領になったときに地元へ戻った。長延寺が再興されたものの、旧武田家臣の大久保長安の事件に巻き込まれたため、最終的には廃寺。多分、徳川領になったときの長延寺再興に辻弥兵衛という人が関わっているのかもしれない。

山梨県出身で某有名企業創業者の辻さんのwikiによれば、辻家は甲府に500年続く旧家であり、武田信玄の家来・山形昌景の子孫を称しているとのこと。辻弥兵衛さんってこの辻家の人じゃないかな? 長延寺は廃寺となったが、慶長18年に光澤寺として再興され現存する。光澤寺にも辻藤右衛門さんという方が寄進をしている。

 

ちなみに「岩崎甲州」というワインがある。旧勝沼町岩崎地区で育ったぶどうから造られたワインだそうだ。その岩崎地区は昔、武田信光の七男・信隆を祖とする岩崎氏が支配しており、有名な「御旗」(日本最古の日章旗らしい)と「楯無」(大鎧)を所有していたようだ。このふたつは甲斐源氏棟梁が受け継ぐ品々で、そんな家宝を持っているぐらいだから相当家格が高い一族だったらしい(この一族から甲斐守護を出したことがあるそうだ)。守護(武田氏)と守護代跡部氏)との戦いで岩崎氏はほぼ滅亡状態になってしまう。

そんな岩崎氏の後裔と称していたのが岩崎弥太郎だって。

岩崎氏の館のすぐ近くには後に勝沼氏館(武田信玄の叔父の館)が出来たので、岩崎地区は戦略上重要な場所だったのかも? 

 

鳥居が続く長い階段の他に登れる所があった。

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なんか石碑が色々。

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なんだろうねぇ? 展望台的な場所もある。

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ハイキングコースのような? カラーコーンが置いてある場所もあったけど、特に崩れているとか危ない箇所でもなさそうな感じ。

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鳥居が見えてきた。

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麓の参道入り口からずっと鳥居が続いているらしい。奉納されたものだろうが、とにかく数が多い。

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鳥居が終わると普通のハイキングコースに戻った。

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水が湧いていたような跡地。
鳥居をくぐって登る人が多いらしく、急に他の参詣者が現れだした。良い天気だけど暑い…。

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一応お城っぽい何かがないか探しているが、特に見当たらず。

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トイレだ!

 

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トイレを過ぎると朱色の建物が見えてきた。朱色だから…多分お稲荷さんのお社に違いない。お稲荷さんにお参りするのは後回しにして、他の場所を見に行ってみた。

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何か広い場所。

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とりあえず走り回るには問題ない様だが、暑すぎて誰もおらず。肥前郭って名前の場所だろうか。

一緒に歩いていた子供も限界を感じて文句言い始め、急かされる。

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階段を登った先、また広い場所だよ。こちらは扇岡と呼ばれる場所かもしれない。

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色々石碑は置いてあるものの、それぞれが何を顕彰(記念)しているものかは謎。というか、ブーブーされたのでじっくり眺める時間がなかった。

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配水場。本郭だった場所だそうだ。立ち入り禁止だけど頑張れば侵入出来そう?

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配水場の先が例のロケット型タワーである。タワー周辺は公園になっているそうで、滑り台とかあるとかなんとか。タワーと公園側にも郭があるらしいが、やはり残っているものは少ないようだ。こちら側には丸馬出しや櫓台があったみたい。

航空写真で見る限りは消滅かなー?

正面の建物(勝間公会場)付近が櫓台だった場所のようだ。

 

↑左:櫓台(勝間公会場) 真ん中:堀跡 右:丸馬出し跡(墓地)

この付近だけ、微妙に昔の面影が残っているらしい。

 

↑こっちが大手らしい。

 

さて、子供の収拾がつかなくなっており、稲荷神社に向かいます。

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ここにも石碑が有り、それは読むことが出来たよ。参道の鳥居の件で、

  • 稲荷山は古社・稲荷神社を中心とした景勝地
  • 信仰、史跡、文学の丘でもある
  • 稲荷神社神域の尊厳維持と万民への加護を祈念し、また観光名所作りを目指して、平成10年に朱鳥居130基を建て、参道石段を改修し、奉納した

信仰(稲荷神社)、史跡(稲荷山城)は分かるけど、文学って? もう見なかったけど小諸城址にある島崎藤村の詩碑「千曲川旅情のうた」の対になるものがここにあるそうだ。私、小諸城址には何度か行ったけど、そんな碑見たことないかもしれないわ。

また、島崎藤村作「力餅」という童話の中で「臼田に稲荷山公園というところがあって、公園前の橋のたもとあたりから望んだ千曲川の眺めは実にいい(第7章 浅間のふもと)」と書いているそうで。つまり稲荷神社の麓辺りからみた千曲川がイイ。と書いていた→ここに詩碑を建てよう。という流れのようだ。

 

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稲荷神社には「和楽」という額が飾られていた。
この額は明治28(1895)年に臼田小学校長などを務めた人物が揮毫し献額されたそうな。文字通り「和やかに楽しむ」という意味で、なんか殺伐していた時期に奉納されたのかな? 明治28年は日清戦争終結した年だった。
この神社にはたくさんの狐の置物があって賑やかだった。


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登ってきた道や参道の他にもまだルートがあった。階段下りるの大変そうだったから、こっちにしてみた。

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稲荷神社側は急斜面ばかりで見晴らしがすごくいいや。物見台でも置いていたかな?

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この道には供養塔のように見える石塔や塚が多くあった。一番古い参道がこの道なのかもしれない。

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庭園? 造りかけなのか放置されてしまったのか…島崎藤村(1872~1943)が生きていた時代には稲荷山公園が存在していたので、当時の「稲荷山公園」とはココのことだったのかな、と思った。

例のロケットタワー(正式名称はコスモタワーという)の設置は昭和63(1988)年なので、タワー周辺も昭和末期に整備されたんだろうし。千曲川にかかる橋も稲荷山神社の鳥居のすぐ近くだしな。

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御岳信仰の碑もある。古くからあったような道なのかな。

 

最終的にはここに出た。鳥居はすごかったが、歩きやすいのは断然こっち。

 

 

★★★★☆

見たい物がないけど子供が遊ぶには最適

 

<稲荷山城>

築城年 不明

築城主 不明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は一人でご飯食べられる機会がぐんと増えて嬉しい。

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山羊のチーズも使われているカルボナーラだよ! 

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エスプレッソと、美味しそうだったからデザートにティラミスを頼んだんだけど、一瞬「その組み合わせはマヌケだって思われないかな!?」と内なる自分に囁かれた。コーヒー好きには堪らなく美味しかったけどね!