お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

飯山城

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飯山城は飯山市の中心部にあって、飯山高校のすぐそば。最近、高校の統廃合があったらしく、飯山高校の門には「長野県飯山北高校」とあった。直せばいいのでは…? と思ったが何か事情があるのかしら。明治の旧制中学の流れを汲む凄い高校。

飯山城の周りに飯山高校のグラウンドが2、3面あった。いつの間にか体育学科というのが出来たらしい。個人的には探求科っていうのが気になる。とにかく名前がカッコイイ(飯山北高校理数科が名称変更したようだ。哲学関係かと思ったよ)。

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この場所は飯山城三の丸付近で、グラウンドは三の丸の外に存在した外郭だそうだ。現在のグラウンド部分には番所・長屋・台所・調練場があって、それら施設の更に外側には北門という門があったそうだ。

外郭と三の丸を隔てる北中門があり、防衛上重要な場所であったからか江戸時代初めには二層の大きな門だったのが、時代が下るとただの仕切り門にされてしまったとか。

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ここから城内に入って行くよ。

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14世紀初めには泉氏という一族のお城だったのが、高梨氏→上杉氏と城主が代わって。今みたいな大きなお城になったのが、上杉氏の時代らしい。ちょうど武田氏と戦争をしていたので、北の守りを固めるために永禄7(1564)年に築城。多分、元あったお城の原形を留めないようなものだったらしく、「上杉謙信が新たに築城した希有な例」的な内容のことがwikiに書かれていた。

 

泉氏の話は伝承レベルらしい。

泉親衡の子孫の泉弥七郎が飯山城の場所に居館を築いたという話。泉氏は清和源氏満快流の子孫とか、清和源氏足利氏庶流の伊奈氏の分家とか言われている。また、井上氏とも同族らしい。とにかく清和源氏の流れであることは間違いない。

泉氏は小県郡小泉荘(現・上田市)の地頭をやっていた。泉という名前もこの荘園名が由来のようだ。泉親衡の父・泉公衡は源平合戦で源氏方として戦い、鎌倉幕府御家人となった。

清和源氏の棟梁がトップだったはずの鎌倉幕府が北条氏に乗っ取られたことに、泉親衡は不満を持ち、打倒・北条義時を掲げて内乱を起そうとした(泉親衡の乱)。首謀者とされる泉親衡は捕縛の使者と合戦になったが、逃亡→行方不明に。泉親衡さんは仲間を300人ほど集めており、有力御家人の和田氏の人も参加者として名前を連ねていたため、和田合戦という戦争の引き金とされた。田舎の小さな荘園の地頭に過ぎない泉親衡が北条義時打倒の兵をたくさん集められるはずがない、とかで北条義時の罠だとも言われているらしい。

この内乱計画はインパクトがあったようで、怪力の凄い武将とか伝説的な人物になっていまい、挙げ句に信濃の民話の小泉小太郎と混ざってしまい、「泉親衡物語」という小説が文化6(1809)年発刊されたほど。

また横浜市泉区には泉親衡ゆかりの寺社や屋敷跡が「泉小次郎伝承地」として横浜市の史跡となっている。

ちなみに今年の大河は好きな時代、登場人物殺されまくる感じなので見ています。現時点の登場人物のほとんどが最終回前に死ぬんじゃないかなー? そのうち泉さんも殺されるために登場するはず。

 

この泉氏の後裔を名乗るのが、後の飯山城代となり飯山城下町の礎を築いた岩井信能である。木島神社の隣の山に岩井城というお城を持っていた人でもある。木島神社をお城の鎮守として創建したのも泉氏だと言われている。

 

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飯山城の場所に初めて居館を築いたと言われる人が、信州泉氏17代目・尾崎氏5代目の泉弥七郎こと尾崎重歳とか、泉氏11代目泉持重である。

 

尾崎重歳の時代は泉一族で飯山地域を支配しており、尾崎氏は泉氏嫡流を称していた。また、隣の領主の高梨氏の配下であった。

尾崎重歳は享禄元(1528)年に室町幕府の第12代将軍・足利義晴に拝謁。従五位下、左近太夫という地位まで出世している。従五位下だと天皇に拝謁できる身分なので思った以上に高貴な一族だった。

天文22(1553)年、尾崎重歳は信濃国に侵攻してきた武田信玄に圧迫され上杉謙信を頼る。身分が高いので上杉謙信と一緒に上洛したり、将軍からのお手紙を預かったりしていた。

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長野縣町村誌の「寿村」(飯山市)の項目では、

  • 寿永2(1183)年、尾崎城築城
  • 文治元(1185)年、泉親衡が尾崎城主となる
  • 建暦3(1214)年、泉親衡の乱、泉親衡が当地に逃れる
  • 泉親衡の子、家衡が尾崎氏を称す
  • 文保年間(1317~1319)、泉氏は分家を増やす(泉八家)、尾崎はその本拠となる
  • 8代目の飯山入道氏重は飯山に隠遁した
  • 11代目(または12代目)泉重治に9人の男子がおり、嫡流の尾崎家の他、7つの分家を作る(九男は僧となる)
  • 後に分家が2つ増え「尾崎家と外様十人衆」の体制となる
  • 尾崎家は衰退し、外様十人衆と共に村上義清から上杉へと主君を変えた

とあった。

 

また高野村の項では、

  • 建久8(1197)年、源頼朝が小菅神社の封戸を改め、700貫文を小菅神社に寄進。高井・水内両郡の守護で尾崎村の三桜城主の泉親衡にこれを管理させる
  • 文明(1469~1487)頃の当主、泉政重が尾崎氏に改姓
  • 大永(1521~1528)頃の当主、尾崎重廣が飯山村の飯數山に城を移す
  • 尾崎重廣の子どもが尾崎重歳

などと書かれていた。ちょっとした差異があるものの、とにかくこの地域は泉氏・尾崎氏とその一族の話ばかりだよ。

 

尾崎城の別名が三桜城というそうだ。尾崎城跡近くに三桜神社という神社があった。旧尾崎村社の三桜神社もまた泉親衡が文治2年に創建したと伝わる。この神社、四方に空堀を巡らせているらしい。なんだその城みたいな奴?

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改修した人が上杉謙信だそうで、元のお城よりも規模が大きくなり強固になっているようだ。多分、尾崎氏が作ったお城とは似ても似つかなそう、別物ぐらいに改築されていると思ったよ。


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階段があるので、登ってみた。

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高い。気持ちが良い眺め。

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広い郭に出た。
三の丸だそうだ。櫓や武器庫などがあったそう。門が東西に二カ所。

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広いので、端っこには色々おいてある。

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眼下に広がる千曲川にかかる橋が長い、そして向こうは越後との国境の山だよ! そんなどストレートな歌ですかね…土田耕平という歌人で大正時代に信毎の短歌の撰者をしていたようだ。
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向こう側には木島神社や岩井城も見えるよ。
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二の丸にはもっとたくさんの石碑があるようだ。

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上がってみたよ。

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思ったより広い感じがした。もっと狭いと思っていた。

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石碑達は後でゆっくり見学させてもらうことにした。

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あちこちに真新しそうな説明板があった。描かれている図によれば、三の丸・二の丸・本丸、大体同じ広さのようだ。兵がいっぱい詰められるね!

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本丸の方へ向かう。何故かここだけ崩れそうな箇所あった。

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一応、本丸まで行く階段があったものの。どうやら江戸時代を通じて「不明門」という門があって常に扉が閉ざされていたそうだ。使っていなかったから不安定な場所になってしまったのかな。階段自体は大丈夫そうだけど…。

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本丸裏手だし、ちょっと怪しいので大手道から侵入します。

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井戸の跡かしら?

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と、ここで子供が「トイレ行きたい」と言い出す。なんだよ、と思いつつ城跡公園内のトイレに行ったが冬期閉鎖中。一旦お城から離れることとなる…。

 


再び戻ってきたが…子供は既に飽きてしまっており、城跡公園内にあった遊具(西郭のところにあった)に子供と監督者が行ってしまった。

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そして、私は1人大手門跡に。門は復元されていた。その近くには飯山城を大改築して城代となった泉一族の岩井信能さん顕彰碑。

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現在、飯山城は「上杉謙信公築城450年」記念で大規模整備中のようだった。最古の地図が残る、この1645年当時の姿に戻そうとしているのかな。
で、手始めに門を。

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質素な門だな。

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中にあった説明板には、

  • 江戸時代の飯山城には15の門があった
  • 明治5(1872)年から飯山城の取り壊しが始まり、門はそれぞれ売却された
  • どこに売られたかは分からないが、確実に飯山城の門だったと言えるのは「南大手門」(長野市内へ移築)、「本丸裏門(不明門)」(飯山市内の妙専寺へ移築)、「どこの門か不明の門」(長野市内へ移築)の3つ
  • (城門として)ここに移築した門は、飯山市内のM家に残されていた長屋門で飯山城内のものか、上級武士の住居の門か不明
  • けれど、この門の様式から「本丸裏門」や「どこの門か不明の門」と同じ作業場で作られていると考えられる
  • 飯山城内の門だと十分考えられるが、M家に移築された時に大幅な改造をされてしまい、飯山城のどこの門に該当するかが判然としない
  • M家解体の際に、門の部材を調査して当時の門の材料のみを取り出したが、全体の規模など不明な点が多く当時のまま復元は不可能だった
  • 今回の復元作業は飯山城南中門の規模に合わせた
  • 南中門、(城跡公園内にある)弓道場の前に遺構を展示した
  • 飯山城取り壊しから既に120年以上経っている

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元のお城の地図ってないのかな。

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ここにも石碑がいっぱいだよ。

他の人の顕彰碑もあったけど、分かる範囲だと飯山藩に関係する人々らしい。

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入り口なので、他にも何かの記念碑があった。スキー発祥とか(飯山の体育教師で僧の人がレルヒ少佐に教わってきたそうだ)。

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お城にまた入った。

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西郭という場所かなー?

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本丸方面。

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隣は飯山小学校。

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本丸にはここから上がります。
また石碑達がいた。

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ここにも「飯山城址」の表示だよ。

こちらは飯山藩関係ではない人達の顕彰碑かな?

高橋幸作さんは飯山鉄道(現飯山線)の常務取締役の人だそうだ。

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大手道? 昔の地図にはどうやらこの道はないようだ。

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ガッツリ塀か土塁で固められている。南大手門からは中大門→三の丸または二の丸という順序で、昔は南大手門から直接本丸へ向かうルートがない。

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時代が下って、強引に開いた道のようだが。これはこれで趣があると思った。道はくねって見通し悪い。戦国時代の城内の道みたいな雰囲気ある。

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飯山藩はわりと頻繁に藩主が変わっているそうだ。

  1. 皆川家 4万石
  2. 堀家 4万石
  3. 佐久間家 3万石
  4. 松平(桜井)家 4万石
  5. 永井家 3万3000石
  6. 青山家 4万8000石
  7. 本多家 2万石→3万5000石

飯山は千曲川の水害やら寒い地方で雪も随分積もるし、実際の石高が一万程度しかなかったとか。しかも頻繁に領主交代させられてるし、新田開発など領地経営が難しそうな気がする。

 

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桜の木が多い。こちらもお城にありがちだけど、桜の名所になっているようだ。

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振り返って道を見る。切り通しになっている。両側はぴったり同じ高さ。元の風景が容易に想像出来るよう。

ここから本丸はすぐそばだった。

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神社になっているようだ。

この神社のために、帯郭が通路として改造され、先ほどの戦国時代みたいな切り通しが作られたみたい。

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先は二の丸となる。

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神社の参道から本丸へ入る。

 

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あの石垣の向こう、二の丸と本丸を繋ぐ通路があった場所。

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この礎石は昔の鳥居のものだろうか。

 

本丸は神社の境内となり、飯山城跡公園として整備されているのは本丸以外の部分。

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本来の出入り口(写真右側)。

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飯山城は、

  • 丘陵をならした平山城
  • 本丸の南側は特に防御を固めている(ここに来るまでに来た道)
  • 本丸と二の丸と三の丸には城主の居館、政庁、櫓があった
  • 西郭(飯山高校のグラウンド近辺)には重臣の屋敷
  • 堀の外は重臣以外の藩士の屋敷と公共施設
  • さらにその外側は城下町

という構造になっているそうだ。f:id:henrilesidaner:20211202141445j:plain

この石段は昔からありそうだ。門番小屋の出入り口とか? なんだろうねー?

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葵神社本殿。
名前の由来となった「葵」はこれ↓

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飯山藩主を一番長く勤めた(豊後守)本多家の家紋「本多葵」から来ているそうだ。豊後守本多家の家祖の本多広孝さんが御祭神。今後の飯山城の整備計画では、将来の遷座が決まっているみたい。

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本丸(葵神社境内)も石碑いっぱいだった。

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ただあの石碑は毛色が違う感じだよ。

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なんでしょうね?

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不明門跡、本丸側。

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常に閉じられた門。冠木門という注意書きもあったようで、簡単な門だったとか。

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単純だけど「開かず」って言葉に惹かれてしまう。

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石碑たち↓

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↑こちらは明治天皇が詠んだ歌?

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飯山小学校の敷地が見える。

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本丸櫓跡。

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ちょっとよく分からない。

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本丸出ます。

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帯郭。江戸時代には建物などなかったそうだ(今もないけど)。

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帯郭は二の丸からのみ出入りが出来る。なので、一度二の丸へ入って本丸に行く。

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二の丸。

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そういえば、二の丸の石碑たちをロクに見ていなかったぞ。
一番目立っているアノ石碑。

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忠魂碑だった。

戊辰戦争で、幕府軍衝鋒隊と官軍の松代藩尾張藩兵士が飯山城下で戦闘を行ったそうなので、その関係? この時城下町がけっこう燃えちゃって被害凄かったみたい。

いつ建てられたものなのかとか、そういうのは分からなかった。

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だって近くまで行けなかったんだもん。入っちゃ駄目な感じだった。

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二の丸ぐるっと回ったので、本丸の通路に向かう。

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門があったの、この辺りかな?

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わーカッコイイ。

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本丸内はこれ以上格好良くないので、帯郭に戻る。

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帯郭の下が南郭。

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広い。ここも改造されており、直接南郭に下りられるようになっていた。

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弓道場。南中門があった場所。

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道は当時のままなのかな? ちょっと狭い?

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復元の門まで戻った。

 

 

★★★★★

とにかく遊具があるのが良い。

 

 

<飯山城>

築城年 不明

築城主 泉氏