非常に多忙。我に返ったら桜咲いてたよ、びっくりした。
なんかよく分からないけど、常盤大橋を建設しようとしたらお城跡が見つかったらしい。あまり知られていないお城だったのか、気持ちよく見事に真っ二つにされている。
常盤大橋は平成4(1992)年に開通しており、近所に「マチカフェ発祥の店」というローソン某店もある。このルートは国道117号線バイパスとして昭和時代から建設が進められていたようだ。バイパスが全面開通したのが平成28(2016)年。
バイパス全面開通から5年ほどだけども、30年モノの常盤大橋の風格。道路造るって時間かかって大変よね。
長野縣町村誌の旧常盤村の「大倉崎城」については、
- 東西10間(約18m)余り、南北45間(約82m)
- 東は千曲川に接している
- 南、西、北の三方は堀がある
- 南側が高く、北側は低め
- 城主も築城年代も不明
- 噂では、外様十人衆の頃に武田方だったので追われたらしい
とあるだけだった。
現地の説明板には、
- 中世(鎌倉~室町)の豪族居館跡
- 当時の典型的な館
- 東側は千曲川に接しており、北と南と西には幅10m、深さ5m以上の空堀があった
- 堀の長さは、北34m、南42m、西104m
- 昭和63(1988)年に常磐大橋建設の前に発掘調査された
- 中国からの輸入品(白磁、青磁)や、珠洲焼・越前焼・美濃焼・瀬戸焼など各地の焼き物、中国銭、鎧の一部や釘などの鉄製品、茶臼や硯など様々なものが見つかった
- 屋敷の規模や出土品を見る限り、有力な豪族の館だと思われるが主はハッキリしない
- 言い伝えでは「竹内源内」
とあった。
飯山は上杉方の尾崎氏とその親戚にあたる外様十人衆勢力下にあったようなので、武田方の城主は駆逐されて、跡形も無く消されてしまったのだろうか。明治時代には「誰も知らない城」になってしまって、地元の人も思い入れが無いのか荒れている。
橋の下は何かあるようにも見える。
もう一つ、説明板があった。
- 豪族の館址があったため、千曲川側の崖を「上野の城崖」と呼んでいる
- 上野の城崖は水面からの高さが25m
- 鉄道が開通する以前、千曲川は通船があり新潟から関田山脈の平丸峠などを経て運ばれてくる塩や魚などの海産物を引き揚げる拠点だった
- 棚のように続く通路跡は風のない日に船を陸に引き上げるための施設の遺構
江戸時代にあった千曲川通船のことらしく、寛政(1790)年に西大滝村(飯山市)の人が福島宿(須坂市)まで船を運航する独占権を幕府から認められたことが始まり。西大滝は信越国境に近く、ここから終点の須坂まで6~7日ほどかかったらしい。冬期は当たり前だけど運行休止。途中の飯山港とかなんかあったらしい。
この船便は貨物船で許可され、人間を乗せるの禁止だったけど。寛政11(1799)年にあった善光寺御開帳(大昔は一定間隔ではなく、善光寺の都合で開かれていた)で貨物ないしおうちに帰る人たちが難儀するかも? という通船側の好意で人間を乗せて飯山まで帰る途中、定員オーバーで沈むという事故とかあったらしい。100人以上亡くなったようだ。
移転したと思われるが、その当時建てられた供養碑(一番左)が残されている。西大滝ダムの近くの、国道117号旧々道っぽい道?の端に安置されていた。ひょっとしたら西大滝ダムが千曲川通船の終点だったのかな? 他の碑は
千曲川通船は明治に入ると更に繁栄し、最盛期には千曲川区間・上田~西大滝となったが、鉄道開通のせいで衰退してしまった。
常磐大橋から少し上流にある柏尾橋は昔、北国脇往還「大倉崎の渡し」だったようだ。
明治12(1879)年に初めて船橋が架けられ、昭和37(1962)年に現在の柏尾橋になるまでの83年間、橋の流出を4回経験していた。数年前の令和元年東日本台風でも柏尾橋の水位15mが越えという過去最大値を観測していた。
船着き場の「上野の城崖」からも近く、荷物を受け取る人々で賑わっていたのだと思う。
今の柏尾橋は戸狩野沢温泉駅の近く、長野県道95号とその先に続く長野県道408号(戸狩野沢温泉駅の近くで急に番号が変わる形で繋がっている)という、大正国道10号(国道117号の旧道でもある)と思われる道路と国道117号バイパスを結んでいた。
ちなみに大正国道10号は東京から秋田へ向かうが、群馬から新潟に抜ける三国峠を踏破することが出来なかったらしく、東京~高崎だけ国道17号を使い、高崎~長野~飯山~小千谷と進み、小千谷から国道17号に戻って新潟、秋田へ抜ける道となっている。今の国道17号の三国峠トンネル開通が昭和34(1959)年。明治期には新潟と群馬の県境を越える国道があったが、大正国道では存在せず(もし新潟・群馬の県境を越えることが出来ていれば大正国道10号のルートなんて止めちゃって、9号の東京~前橋を秋田まで延長させていたかも)、変なルートで新潟と秋田まで頑張っていた。
でも船便があるぐらいだから、それなりの往来もあったようだ。
明治時代以来新潟港はとにかく大きな港であり、明治国道は信越本線を辿っている。大正国道指定と前後して敷設された飯山鉄道は、大正12(1923)年に西大滝駅を開業した。さようなら千曲川通船。
平丸峠はちょっと分からなかったが、関田峠なら知っている。有名な道だし、何故か夜中に通ったことがある。夜間は二度と通らないと思う。
平丸峠はマイナーらしく、あまり情報がない。
何かあるように見えるが、草ボーボー。
藪だよ、進む気にもならん。北側はどうしようもない感じがする…。
南側は…。
何故か整備されていた。こちらには説明板など「何か」を示す物は一切ない。
非常に歩きやすく、何か植えてあるが。変な地形だけど、コレというものはない。
大体がこんな感じだった。なんかあるのかなー? って感じで見終えた。
道路の向こう側は…。
さっきの場所に比べたら分け入る気力が萎える。
もういいかな…。
★☆☆☆☆
このまま朽ちていくのだろうと思った
<上野の館>
築城年 不明
築城主 不明