お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

牧之島城

牧之島城に来た。GWなので!

誰もいなかったー!

駐車場は「丸馬出し」の部分を利用しているようだ。

駐車場の土塁↓

土塁の向こう側に堀があるようだ。

土塁の裏側は武田さんのお城にありがちな三日月堀。なんとなく水も残っている雰囲気。ぱっと見、草原?みたいだけどさ。

季節が悪いのか、グーグルさんだとこんなんだったわ↑

丸馬出しとお城本体の間にもお堀があって。

橋は壊れそう?

自転車はともかく、馬で入っちゃう人いるのかな???

お城の入り口は三日月堀と丸馬出があることから、ここだと思うが。残念、侵入出来ず。

 

丸馬出しのすぐ真横を道路が通る。道路の反対側には民家が並んでいる。現在の道路は新道らしい。

旧道はグーグルカーも通らない細い道。

三日月堀に近づかないよう、住宅の間を縫うように曲がり、空堀の手前で合流している。

牧之島城は高台にあり、近くには高校や住宅がある。

設置された案内板には、

  • 南・西・北を犀川がめぐり、東は山に続いている(小花見高原に向かう)、舌状台地の上にあり、自然の断崖絶壁と深沢を利用した城
  • 「千曲之真砂」では、<甲州流兵学の最も優れた城で、大量の兵が籠もっても狭くないし、少量の兵で守っても広すぎない>的に賞賛されている

とあった。

続いて長野県の文化財調査報告に触れており、

  • 本丸東側に「千人升」と称する枡形がある
  • 千人升から堀を渡った先には丸馬出し(現:駐車場)があり、そこにも三日月形の堀と土塁がある
  • 丸馬出しの更に東側(小花見高原方面)に大手口があった、大手口からさらに東へは屋敷割(城下町)が続く(↓東側はこのような感じ)

 

  • 屋敷割の先には東西に走る深い堀がある

 

深い堀はこの辺り↑のようだが、切り通しのような箇所の先に堀があるっぽい。

お城はそんなに大きくない。

橋が通行止めの現在、お城の入り口には神社があった。

お稲荷さんらしい。琵琶古跡神社という名前で、牧之島城を別名琵琶城と呼んだ為に、名付けられたのだろうか。古い時代この辺りを牧郷琵琶ノ里と呼んだらしい。

元々は香坂さんという滋野氏の末裔で、東信から移り住んで来た人々のようだ。wikiによると、承久3(1221)年の承久の乱で北条方として戦い、敗れた後鳥羽上皇方の土地(牧郷)を恩賞としてもらいこちらへ引っ越してきたらしい。牧郷の範囲は恐らく、明治22(1889)年~昭和31(1956)年に存在していた旧牧郷村と同じかなと思われる。

 

牧郷の中心だった牧城はこちらにあったようだ↓

 

入り口の石柱には堂々と「香坂牧城跡」と彫られている。普光寺というお寺さん。こちらは牧之島城下の屋敷割の東の外れにあり、立ち位置的には城下町の東を守っている。

 

長野縣町村誌によると、

  • 普光寺の創建年は不明
  • 築城年不明の古城跡(香坂氏代々の居城)には後に正明寺が建立されたが、明治8(1875)年廃寺となる
  • 香坂氏は村上氏の配下となり、天文22(1553)年に武田信玄と上田原と戦った。村上義清は武田に敗れて越後に去った後、香坂氏は武田に降る
  • 永禄4(1561)年、香坂氏嫡流は武田氏に滅ぼされてしまい、牧城も廃城

とあった。永禄4(1561)年で香坂氏の嫡流は途絶えたが、婿養子が入りおうちを継いでいる。私は腐った人間だからか、何故かその婿養子のことを知っていたよ。

長野縣町村誌としては「普光寺=牧城」ではないという。長野市文化財データベースの地図では普光寺の駐車場になっている辺りを牧城として紹介していた。正明寺のあった場所は「村の子のほうにあり」と書いてあり、普光寺は「村の午のほうにあり」だった。実は二つの寺院、お隣同士だったのかも(JAの加工所付近が怪しい)。

 

ちなみに牧之島城については、

とあったので、武田が香坂氏の領地を召し上げた後に造ったお城だということのようだ。

  • 馬場信房、150騎で牧之島城を守った
  • 天正3(1575)年馬場信房戦死
  • 天正10(1582)年には武田氏が滅んで織田信長の城になり、海津城に移った森長可が当地を治めたが、牧之島城代として誰がやってきたか不明
  • 織田信長死去のあとは上杉家の領地となり、芋川氏が城に入った
  • 慶長3(1598)年に芋川氏が上杉氏に従い、会津に去った後は誰が城主となったか不明
  • 慶長8(1603)年松平忠輝が領主だった時代には、家臣の松平甚兵衛が入る
  • 元和2(1616)年、松平忠輝の領地が没収され同時に廃城

築城から50年程で機能を失った。

入り口の石碑は来歴を示すものではなく、神社を改修したとき寄付をした方のお名前がずらずらとあるだけだった。

苔むした境内がいかにも古社という趣き。創建年不明とあるが、廃城年の元和2(1616)年以降に建てられたものだと思う。

お社の横からは奥に進む道を発見。こちらは後回しにします。

鳥居をもう一度潜った。

神社の境内は二の丸を見下ろす場所にあった。

二の丸の印象は、整備された芝グラウンドだった。

過ごしやすそうな場所だった。が、地面ぬかるんでいる。芝がぬかるみを隠し、気付くとスニーカーがグッチョリしている。恐ろしい場所じゃないか。

前日、雨だったのかな? 水捌けが良さそうに思えて、実に悪い場所だよ。長野縣町村誌には地質は中程度、(高台のため)水利は不便で旱魃の憂いあり、などと書かれていた。田には不向きとのことだが、こちらを苛つかせる程度には水分があるよ。

二の丸と本丸の間は水のある堀が横たわる。

橋で繋がれていた。


ここにも牧之島城についての説明文があった。

  • 牧之島城は永禄9(1566)年武田信玄馬場信房に築かせ、越後に対する警衛と更級・水内の山間部統治のための城である
  • 元は香坂氏の居城・牧城の一部
  • 天然の要害を利用し、新たに縄張りしたものである
  • 虎口の丸馬出、三日月堀、本丸脇の隠馬出(千人枡形)を設ける
  • 本丸の大きさは、東西31間(約56m)、南北28間(約51m)
  • 二の丸の大きさは、東西47間(約77m)、南北22間(約40m)
  • 本丸と二の丸の間を水堀で隔て、本丸北側には枡形を設けている
  • 天正10(1582)年武田氏滅亡後、上杉氏の城となる
  • 慶長3(1598)年上杉会津移封後は、海津城主の田丸直昌、森忠政らが支配した
  • 慶長8(1603)年海津城主となった松平忠輝は家臣の松平信直を在城させた
  • 元和2(1616)年の忠輝改易と共に牧之島城も廃城となる

本丸の桝形がなかなかだった。

ご立派ですよ。
土ではなく、石積みだったら観光名所になれそうな、築城の教科書通りの造りだと思った。

本丸はほぼ土塁で囲まれていた。出入り口用以外は土で高く盛られて、外部からの侵入を厳重に防いでいる。

本丸も二の丸同様、芝生の心地よさそうな場所に見えるがぬかるんでいる。歩きづらい。

背後は植栽の並木があるけど、そこは崖で落ちたら犀川ドボンする。

土塁を上る道がある。

本丸内には井戸完備だった。

本丸内には藤棚があり、もうすぐ満開になりそう。クマバチがぶんぶんしていてうるさかった。

桜の木も何本かあったが、さすがに花はなく葉を茂らせていた。

本丸北側にも通路らしきものがあり、隣の廓とつながっているようだ。

犀川に落ちないよう、植栽されている木。

なんかものすごく高そうな場所だった。

そんな訳で、土塁上がる道を辿ってみた。

土塁の上に上がった時点で、通行止めの橋が見えた。

右は何か神社っぽい何かがあった。

左のこちらは多分、琵琶古跡神社の社の脇に出る道だな。

 

橋の方へ降りてみた。

先ほどから説明板に何度も登場している千人枡がココだったようだ。

千人枡とは大きく出た感じ。この場所は100人も入れない気がする。

上にある社も見てこよう。

比較的新しいような建物に見える。祀られた方がどなたか分からなかったよ。

社からは本丸も千人枡もよく見える。

本丸に戻る。

二の丸に行きます。

水堀の向こう側は北の廓があるはずなので、ちょっと見てくる。

水堀から本丸に上がれない。土塁ある。

この先に本丸と北の廓とつながる通路がある。

北の廓の横は巨大な空堀だった。

今は道路があるけど、堀は向こうまで続いているよう。この道は高校までつながっている。明治時代の地図にも残っていたので、昔からある道らしい。

ちなみに、右側の下っていく道がメインストリートである。

また丸馬出しまで戻ってきた。



★★★★★
典型的なお城だった。


<牧之島城>
築城年 永禄9(1566)年
築城主 武田信玄馬場信房