お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

冠着山城

冠着山の頂上まで行ってみた。

当日は生憎の空模様で…雨の日に眺望で名高い山に登らなくてもいいのに、無理やり登ってやったわ。麓から見た山頂は雲に覆われていた。まあまあ寒い。

近くの古峠からの景色もこの通り。かなり低い位置に雲がいる。

ここまで人っ子1人いないし、車の音もしない。

 

登山口のひとつ、鳥居平で車を止めた。

こんな感じの寂しい林道だけど、数年前にクラシックカーのラリーイベントやっていた。ぐねぐね山道を走るあんな車やこんな車…。

このイベント行ったんだよね。

私が初めて買った車と同車種も2台来ていて、めっちゃ写真撮っていたら車のオーナーさん?に不審がられた。「えっ何でこの車を!?」という表情だった。この車以外のほとんどが田舎じゃ見かけない珍しい車ばかりだったのにねー。

でも私としては思い入れのある車だったんだよー。楽しかったなー。

 

 

冠着山はこの辺ではメジャーな里山らしく、登る人も多く登山口もいくつかある。鳥居平の他に坊城平登山口と久露滝登山口(通行止め)があるようだ。ハイキングを楽しみたい人=坊城平、サクッと登りたい&体力が無い人=鳥居平、という区分らしい。マニア向けのほぼ整備されていないルートも用意されているらしい。

天気が良くないのでサクッと行きますー。

 

入り口付近は何やら一本道となっている。貴族の邸宅のポーチへ向かうような佇まい。ふと左を見れば。

この登山道だけ不自然に高い。

というか、堀と土塁に見える。あれ? もう城域なの?

反対側はというと。

低地ではあるものの、堀とか見当たらないし目を引くようなものはない。

 

家に帰って調べたところ、別に城とかいう訳ではなく寺院の跡地?だったようだ。麓に安養寺という古寺があって、そのお寺の奥の院(満光寺)だった場所。登山者用の駐車場としてはかなり広めだし、もうちょっと木々を伐採すれば広く出来そうなほどの広大な平坦地。

満光寺がどんなお寺だったか(奥の院といえば基本は寺院の墓地だけど)、遙か昔に廃されたようで、全く情報無し。

 

安養寺は信濃国に5つあった定額寺(国で管理していた寺院のうち、上から3番目の格式)のひとつだという説があるみたい。ただ「安養寺」という寺号は長野市内にもあるようで、定額寺の安養寺の比定は2カ所。長野市の安養寺さんは大堀館の跡地だった更北中学に隣接している。

信濃国定額寺の5つは更級郡・安養寺の他、伊那郡・寂光寺(=座光寺?)、筑摩郡・錦織寺埴科郡・屋代寺(=雨宮廃寺?)、佐久郡・妙楽寺

このうち安養寺は2カ所に比定されて現存扱い。

佐久郡の妙楽寺は現存(旧中山道沿いにあるみたい)。

寂光寺に比定される座光寺は現在の元善光寺のことらしい。元善光寺は以前、坐光寺というお名前だったそうな。

屋代寺は雨宮廃寺ではないかとされ、その跡地は現在の雨宮坐日吉神社とされている。

この中でも跡地すら分からない錦織寺が不憫(明科廃寺という物凄く古い寺院の跡地も近隣にあるんだけど…コレと錦織寺は別物らしいし、後身のお寺と言われているのは別の寺)。

 

そんなこんなで古代の有力寺院だったらしい場所なので、堀とか土塁とかあるんだろうか…?

軽トラ幅の轍を進んで行くと、ついに土塁や堀がなくなった。

よく分からない終わり方である。登山道整備のせいなのか。

だけどまだ先に土塁らしきものが続いているようにも見える。本当にココなんなんだろう?

この地点でどうやら土塁らしきものが分断されているようにも感じ、ちょっと気になる。

そして、向かって左側には朽ち果てた何かの施設。崩れないように擁壁も設置されている。この施設は何か結局分からず仕舞い。

昭和を感じる擁壁が。冠着山登山道整備で設置されているのか、件のボロ施設建設で造ったのか謎だが、施設周辺だけは何故か昭和臭いものがたくさんあった。

擁壁に沿って登っていくとそれなりに山道って感じになってきた。

霧も出てきて、なかなかの趣きである。

でも軽トラ走っているようだ。

こんな場所、車で走りたくないねー。

崖下には先ほどのボロ施設がある。うーん観測所かなー?

どんどん進んでみよう。

軽トラの轍を辿って、ついに開けた場所に出そうだ。

ただの休憩所っぽい。

登山口と頂上の中間にあるらしい。そして、さすがの軽トラさんもここまでしか進入できないようで、駐車場ともなっているらしい。

中間休憩所のようだが、特にベンチとか東屋はなく、単なる平場。入り口の「なんか土塁・堀らしきものがある」というような人工的な雰囲気もない。

本物の登山道が始まる地点には石を集めた箇所もあったが。

整備する際に出た石を集めた場所かな? と思います。

大した距離も歩いていないので、特に休憩しません。

この先も十分に整備されているようだ。

ただし標高もそれなりに高くなってきているのか、それまで霧雨だったのに雨粒に変わってきて冷たいよ。

見通しきかないものの、どうやら中間地点は平らな場所が広がっているようだ。

ここも以前建物があったとか、そういう雰囲気はなし。

幻想的な雰囲気。蛇や熊は絶対出てこない雰囲気。安心できますわ。

景色もロクに分からないので、正直楽しくない。元々自然の景色なんて関心薄いんだけど、今日はいつもに増して苦行感あるわ。一体私は何をしているのだろうか。

丁寧に整備された登山道、全く滑らないし足場が悪いところもなし。「ぎゃー怖いよう。すべっちゃうよう」と緊張することもない…。良いのか悪いのか。

尾根に出た。地図ではこの尾根が千曲市筑北村を分けているそう。大昔からこの尾根が村の境でもあったらしい。しばらくは千曲市筑北村を行ったり来たりしちゃう。

急に二股に道が分かれたぞ! そして、木に矢印書いてある。初めて見たパターンだよ。そういえば、ここまで全くピンク色のテープを見かけなかった。

矢印もあの木だけだったらしくて、この先はひたすら一本道。

おっついに危険箇所発見か?

全く危険じゃ無かったー。右に曲がる。

気になる花とか草木もなく、ようやく茸を見つけた。こじんまりした茸。食べたいとも思えないかわいらしい姿。

頂上はまだ見えません。

この先、何もなさそうなほど明るい感じがするー。

どうやらビュースポットだったらしい。ベンチ用意されていた。晴れていれば、山々の連なりが見えていたらしいが。

びっくりするほど何も見えない。ちなみに、設置されていた案内板も文字がハゲてしまっており、どういった山が見えるか謎でした。北アルプスとかかなー?
みんな晴れた日ならここでワーキャー言いながら暫くの休憩をするのかもしれないけれども、現在の私は虚無になってしまったので景色の感想もなし。

そろそろお城に着きそうかな? という時間になってきた。

先も見えないし、登山道の下は急斜面だし。まだ苦行続いている。

この辺りまで来ると地形に変化が出てきた。郭みたいなのがある。

と思ったら、なんか急に平らな場所が!

祠があった。

祠の周りは明らかに郭。ちなみに祠は。

四方を土塁に囲まれていた。地面を掘り下げて、一段低い場所に安置されている。
冠着山権現と呼ばれているらしく、修験道が盛んだったことの名残りのようだ。

この祠は坂井村にある永井という地籍の人達が設置したものらしく、
「麻績組 永井村中 ○○」
という文字が彫られていた。「寛政11年9月吉日」とあり、江戸時代後期のもののようだ。

なんかシュール。祠は永井地籍の方角を向いていると思われる。

 

この祠がある場所、2の郭らしい。

本郭はこちらです。

案内板。

2の郭と本郭を分ける土塁のようなものがある場所。

ちょっとだけ平場。

奥には土塁。その先は崖なんだろう。

高くなっている場所は本郭(冠着神社)。社殿はこんな場所だからか、プレハブ小屋の中に仕舞われているようだ。

さあ本郭へ。

やはり誰もおりません。

頂上は石碑がいくつかあるようだ。

冠着神社。ちょっと怖い。
御祭神は月夜見尊。月の名所だからだろうか。

私は月夜見尊がどういう人なのかよく存じ上げない。有名人の兄弟に挟まれて残念なことになっているからか? 調べて見ると月夜見さんは男か女かも不明らしいぞ(後世の人々は一般的に「男」だと考えているとのことだが、元の文献達には性別が書かれていないという)。そしてエピソードも少ないし、他の姉弟が派手なのでバランスを取るためにあえて地味な存在に落ち着いているとも。

 

冠着神社社殿の裏にもやはり土塁が。


冠着山城についてはほぼ情報もなく、地元に伝わる話として「物見や狼煙台として使われた」と言われているだけであった。
物見台としての存在意義は申し分ないらしい。

360°なんにも見えないけど。

凄い場所よね。

色々あった石碑はこれとか↓

高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」という句だそうで。そっかー…お月様綺麗だったんだね。という感じ。

 

あとは、冠着山の紹介が書かれていたやつとか。

 

私が登ってきた道は正式な道ではなく、本来の参道は坊城平登山口のようだ。坊城平登山口には鳥居もちゃんとあるし、山頂の鳥居も坊城平側に向いているし。

でも坊城平側には段郭とかあまりないらしい。

坊城平へ向かう道もただの山道に見える。

冠着山権現の祠は「麻績組」という文字が彫られていたが、冠着神社は羽尾村の村社だった。現地の説明板によれば社殿は宝暦4(1754)年に創建だそうだが、長野縣町村誌では創建年不明となっていた。現在の社殿は昭和時代に建てられた。

また、山頂は羽尾村領だけど一段低い場所から西は坂井村(明治8(1874)年永井村と安坂村が合併して坂井村となった)領だという。なので、隣の村の祠(冠着山権現)はあんなところにあったのか。

鳥居の近くには梨の木があり、たくさんの実を付けていた。

驚くほど小さい。スーパーで見かける梨の1/4程度の大きさじゃないのかな? 日本の品種改良の技術って凄いのね。野生の梨で、山梨って種類?

霧で全く見通せないものの、山頂は広く崖で覆われているので中々攻めにくい場所ではありそう。城ではないようなので、攻める必要があるかどうかも含めて難しそう。説明板には「冠着山の裾には東山道の支道が通っており」とあって街道監視用の砦だったという見方が一般的なようだ。東山道支道とは反対側の山裾にも日本武尊が通ったという伝承が残るハベシナの峠もあるようだ。つまり両サイド監視出来るスゴイ砦なのか。

下山することした。

見たいものが特にない(何も見えない)ことが分かりきっているせいか、非常に早く下山出来そうです。

気のせいか、霧が濃くなってきたような…?

だいぶ下りてきたよ。

見に行く気分じゃないんだけど、変な形をした岩とかあった。岩の方まで行ったらびしょびしょになりそう。

残り半分。せっごろついているごろついている箇所をよく見てみた。

登山道整備したときの名残りだろうね、やっぱり。

また一気に下るよー。

今年の山は栗が豊作なのか、至る所にイガが散乱していた。車で登山口まで走ってくる途中にもイガたくさん落ちていたよ。

かなり登山口に近づいた。件のボロ施設の辺りに到着。

ここの土塁の切れ目?みたいなの、やっぱり気になるなあ。誰か専門家に頼んで調査して欲しい。

人工的だもん。

お寺の跡地? 麓の安養寺の説明板にもこの場所で「鎌倉時代のものと思われる阿弥陀三尊の板碑や礎石などが発見されている」とか書かれているようだが、もうちょっと掘れば何か出てくるかもしれない。

そして、貴族の邸宅のアプローチみたいな直線道路に出た。

こちらも土塁と空堀らしきものが気になって仕方ない。

頂上よりも城っぽい感じにも思えてきたよ。気になるー。

なので、入ってみることにした。

駐車場の周りには有刺鉄線が張り巡らされていたが、人気のない山の中のこと、ボロボロで壊れている。そもそも、「立ち入り禁止」の看板もなし。

入りまーす。

白樺が生えている。それなりに平坦地だったが、直線アプローチの脇にあるような堀や土塁、建物があったような気配はない。

何もなさそうな気がしてきた。

なので、土塁や空堀とおぼしきものを見てから帰ろうと思う。

土塁。

土塁側から奥の平坦地を見る。

空堀。けっこう深い。

帰るか。

無事出てきたよ。


★★★☆☆
子供でも登れそうな山だなと思った



冠着山城>

築城年 不明
築城主 不明