お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

大法寺

上田市の隣村にある古い寺院。大法寺の三重塔が別名「見返りの塔」と言い、国宝に指定されている美しい塔だという。お庭がよく手入れされていた。

出かけたのは結構前。

本堂のようだ。

本堂は…普通? よくある感じがする。まずはお参り。

創建は大宝年間(701~704)に藤原鎌足の子・定恵(643~666)だというが、正直年代が合わないので否定されている。浦野駅が設置されたときにそれに関係して建立された寺、ということらしい。大宝年間なら時代も合うしね…。

古い土蔵や祠もあったよ。本堂から案内板の矢印に沿って進むと。

まだ参道が。アレひょっとして違うお寺さんだったかしら? 不安になってきた。

とはいえ、参道の石仏様がなんともいえない姿形をしている。

左の人は宴会で楽しそうに酒飲んでいるような。右の人は毒でも飲まされて苦しんでいるような。左も杯に毒入っていて、苦しむ前の束の間の平安なんだ。自分の心が荒んでいるのでそうとしか思えないです。きっと心が澄んでいると「どちらも楽しそうに笑っている仏様!」と思うはず。

五百羅漢の石仏というらしい。お釈迦様の500人の弟子(羅漢)たちで、現在も寄進され続けて仲間を増やしているそうだ。

ちなみに羅漢さん達はお釈迦様が入滅し悲しみに暮れる中、「戒律も緩くなって好きな事もできるんじゃ?」と呟いた奴もいたとか、高弟の摩訶迦葉が綱紀粛正を決意したとかいう話がHPに載っていた。この石仏たちは羅漢さん達の願望を表しているのかな?

 

栗林一石路という俳人の句碑? 出身地なので記念館があるみたい。

 

参道を上がり、ようやく目的地に着いた。

古いお寺ではあるが、本堂よりもこちらの三重塔のほうが宝物だらけらしい。

一番古いものが、十一面観音像と脇侍の付言菩薩像で、平安時代末期の作品らしい。いずれも国重文に指定されている。「観音堂の本尊」とあったので、ひょっとしたら観音堂が最初に建てられたものかもねー。観音堂は特に指定されていない。

観音堂内にある厨子須弥壇も国重文指定で、こちらは鎌倉時代末期~南北朝時代の作品で、禅宗様だという。

 

こういう看板はちょこちょこ出てくるものの、肝心の建物が…。

やっと登場した。もったいぶりやがって…。

でも勿体ぶるのも分かる気がする。安楽寺の茸っぽい三重塔よりずっと良かったからだ。こればっかりは好みなのかなー?

大法寺の三重塔は、

  • 正慶2(1333)年、四天王寺の大工・四郎某と7人の匠により建てられる
  • 塔の特徴として「初層が特に大きい」ことが挙げられる。一番下の階が大きく、上へ登るにつれ塔身が細くなっていくので安定感がある
  • この構造は他に奈良・興福寺に挙げられる挙げられる程度で、珍しいもの
  • 三重塔が建てられた時代(鎌倉時代末期~南北朝時代)には装飾を施すのが通例であるのに、大法寺三重塔は装飾が少ない(初層の蛙股だけ)のに全体の調和が取れている

ということだそう。

正慶2年は鎌倉幕府滅亡の年。大河も終わっちゃったしなあ(和田合戦以降、ちょっと平和になったせいか人が殺されるスピードが遅くなった。正直ガンガン死んでいく人々を眺めたかった。キャラクターを「良き」と持ち上げてからの惨殺というスピード感が鎌倉殿の良さだったのに。来年の大河は戦国時代だし、まず見ないだろうな)。

世情不安だったのかもしれないのに大阪の四天王寺から(多分)四天王寺お抱え大工を呼び寄せており、当時の大都会にある建物と同程度洗練された塔が出来たという。ただ、四天王寺と大法寺の接点は分からず、大工の四郎さんたち一行がどういう経緯で招かれたか不明らしい。

ちなみに、四天王寺お抱え大工集団とは世界最古の企業と言われる金剛組である。四天王寺聖徳太子が建立した日本最古のお寺で、そのお寺を建てる為に百済から金剛、早水、永路という3名の技師を呼び寄せた。3名は推古天皇元(593)年より四天王寺を建てた後、早水と永路は他の現場へ派遣されたが、金剛は居残りで四天王寺のメンテナンスを請け負うことになった=金剛組創業、ということらしい。

大法寺三重塔と同じ造りの興福寺三重塔は国宝指定されており、興福寺の伽藍の中でも最も古いと言われている建物。康治2(1143)年建立後、一度燃えてしまい(治承4年の南都焼き討ち?)間もなく再建されたと言われている。鎌倉前期の建築物らしい。なので、大法寺三重塔とは少し時代がずれているようだ。

急に現れた供養塔?らしきもの。

ようやく正面に出た。説明文通り、塔は下から徐々に小さくなっていく。安心するよね。

写真で取ると歪に見えるが…調和が取れた見事な塔だったんだよ!!

上の方へ登る道があった。登ってみると。

塔を真横から見る場所に出た。田畑が広がる昔ながらの農道っぽいが、明治時代の地図ではこの先の飯縄山城(飯縄山社)まで行かれる道があったようだ。現在は飯縄山社もなく、そこへ道も廃道となっているようだ。由緒ある道なのかもしれない。

塔の観賞には非常に良い位置である。

在りし日の道は飯縄山社が終点で、旅人が行き交うような街道ではなかったらしい。塔を振り返って眺めた旅人達は山の麓にある松本街道(保福寺街道)を歩いていたらしく。まあ、辺鄙な山の中にお洒落な建物があれば何度も見ちゃうかもしれない。個人的な例え話だと、保福寺街道を頑張って進んだらカメノヤ別館があるという感じだな(一度行ってみたいんだよ)。

オシャレというか、微笑ましいような気がしてきた。安心感というか。

正直、今まで見た京都とか古寺院の塔もひっくるめて一番愛らしいかもしれない。

一周まわって、また塔の近くまで下りられるようになっているらしい。下草も綺麗に苅られていた。

下りてきた。

簡素だ。

ここにも何かの供養塔が…。

十分堪能したし、他にも人がやってきたので帰ります。

こちらは観音堂(本尊は十一面観音像)。安置されている観音像は寺の中で最も古く、平安時代。次いで、厨子須弥壇室町時代)。観音堂は江戸時代のもの。

 

 

★★★★★

三重塔がとにかく良かった、来て良かった

 

<大法寺>

創建年 不明

開基 不明