
米山城の見張り番所の跡地らしい。こちらも石柱&説明板がある。
- 米山城の南裾に当たるこの場所は金剛寺集落の入り口にあたり、中世には通行人を見張る番所が置かれて取り締まりが行われていたという
- 金剛寺集落の北側、金剛寺峠付近も同様に番所があったと伝わる
- 金剛寺集落は東西の米山城・砥石城など周りの山々にいくつかの城や砦を築き、中央に屋敷を置いた
- 出入り口の北・南には土塁や高土手、番所で防御を固めた様子は一乗谷(福井県)に似ていると言われている
一乗谷とは大きく出たな!? とは思ったが似ていなくもないかも。
谷の間にびよーんと延びている城下町。
認知度はともかく、ひょっとしたら似たような構造の城下町は全国にいくつもあったのかもしれない。
印象としては、砥石城の城下町で発展したらしい伊勢山集落よりも古い雰囲気がある。砥石城より古いらしい米山城の城下町として出来た様子が今も残っている。
ここの集落には洞源寺というお寺さんがある。
創建年は南北朝時代の1332(元弘2/正慶元)年で、開基は海野幸則と伝わる。この年は元弘の乱が終結し負けた後醍醐天皇が隠岐に流されている。しかし鎌倉幕府倒幕のために各地でゲリラ戦が行われていた。その翌年に鎌倉幕府が滅亡した。
この時代の海野家には海野幸康という人物がいる。鎌倉幕府滅亡から中先代の乱まで北条側についていた人物のようだ。この人は北条時行軍→南朝軍に属して各地を転戦したのち、埼玉県の笛吹峠で1352(観応3/正平7)年に戦死している。兄弟かどういう関係か分からないが、幸則という人物が地元に残って領地を守っていたのかも(海野則幸という人物がいて同一人物かと思うが、この人が何をしたか不明)。海野氏全体の意思として「今の地位を築けた恩義が鎌倉にある」が根底にあったのかもしれないし、乱に乗じないと自分たちが危ない! があったのかもしれない。
信濃国はその後、全国に先駆けて戦国時代に突入し反体制側で居続けたものの、屈して小笠原氏の配下に組み込まれてしまった。海野氏も村上氏などに圧迫されて、天文10(1541)年の海野平の戦いで負けたために領地を追われた。この場所は村上氏の領地となり、洞源寺は「海野氏ゆかりの寺」ということで破却された。江戸時代に入り、山を隔てた隣の集落から海野(真田)ゆかりの陽泰寺から人が派遣されて再興し、今に至るそうだ。
ただし、貞治2(1367)年、永和5(1379)年と彫られた宝篋印塔が残されているそうで。いずれも北朝の元号だ。前述の海野幸康氏は最期まで南朝方の武将だった。ちなみに村上氏主流は北朝方だ。海野幸則という人物は北朝方だったのかな? 中世でのライバル村上氏も北朝・南朝と分れて戦うこともあったし、海野氏後裔とする真田氏も徳川・豊臣で分れて家の安泰を図っていたしね…よくある話なのかな?
もう一つあった寺・金剛山玉蔵寺は弘仁12(819)年創建という洞源寺より古い起源を持つらしく、集落の名前はこの寺から取ったとされている。こちらも海野平の戦いで燃えてしまい集落の中心部で再興されたが明治42(1909)年に火事で失われ、今に至る。旧玉蔵寺跡付近からは四世紀頃の翡翠勾玉や鎌倉末期の茶碗が発見されているらしい。また古い時代の五輪塔も発掘されているようだ。玉蔵寺も海野氏の古くからの菩提寺であった海善寺の末寺であったため、海野氏ゆかりの寺だったはず。壊された記録はなさそうだ。
洞源寺は城館機能を持っていたとも言われ、洞源寺の山側には白山城という城があったとされている。
確かに何かありそうな雰囲気もある裏手の空き地。しかし先達のブログを読んでみると「白山城跡が見つからない」「よく分からない」が多かった。長野縣町村誌にも記載がない謎の城である。長野縣町村誌に記載されている「柏山にある古城跡」はその内容から考えても柏山城(上の城・下の城)であるので、洞源寺裏の白山にある城じゃないことは間違いないです。
玉蔵寺は何もせず? 洞源寺のみ破壊したところを見ると、やっぱり城館だったかもしれないなあとは思います。

見張番所跡は道路より少し高い位置にある。

この道路は古くから有るようだ。私もこの道を通って隣の伊勢山集落からやってきたよ。石碑が点在していた。

慰霊碑だった。日清戦争で従軍し、異国で戦死した方の名前が書かれていた。
集落内には墓(しかも古そうな時代の)が点在しているらしく、たまたま冬の時期でよく見えた。

その他にも異郷(埼玉県)で教職に就いていた方が川に落ちた生徒を助けようとして殉職した、その慰霊碑もある。この方は上田城内にも慰霊碑がある(この集落出身者で公共事業に私財をなげうった方の身内らしい)。

伊勢山集落もそうだが、この地区も昔からのお金持ちが多いんだろうなって印象。集落内に漂う何かが他と違う。

長野縣町村誌の旧住吉村図にも集落内のあちこちに「墓」という文字が散らばっている。また、中世の五輪塔が集落内で多数発掘されている。
玉蔵寺の裏、(玉蔵寺はだいたい洞源寺の隣り)白山の麓にも「ハカ」という字がたくさん書かれていた。白山の麓には14世紀に墓があったとされている。この五輪塔群も畑から出てきたものの一部であるらしい。
この地区で一番恐ろしかったのが、これである。

冬でよかった。

集落の中心部にある石碑群。

井戸。集落内にはかつて井戸が9つあったそうだが、現存しているものはここだけ。米山城・砥石城の水も賄ったと言われている。水が豊富なのは素晴らしい。この井戸は「義清水」と呼ばれている。

グーグルマップのストリートビューで見たことある城代屋敷跡。


民家の一部。

各所の説明板も「ちょっと盛りすぎな部分あるんじゃないかな」と思う半分、以前の栄花も垣間見えて楽しかったです。

城下町が隣り合っている場所ってなかなかないよなあ。
★★★☆☆
こういう長閑な集落をうろついていると不審者って思われそうで緊張する
築城年 不明
築城主 不明