
久しぶりに山に行った。何ヶ月ぶりだろう。もう熊も死に絶えたかなー? 最近話を聞かないし! だけど少し緊張しながら山の麓まで行った。
鷲尾城は大日堂から登る。

賑やかな場所だった。

いろいろな石碑があるのは、ここが古くから人間の住む村だかららしい。その証拠に万葉集でここが詠われたという記念の歌碑があるようだ。どれ?

歌碑の内容は以下の通り。
人皆の 言は絶ゆとも 埴科の 石井の手児が 言な絶えそね
意味は「他の皆から無視されても、埴科の石井の手児からの言葉は絶対欲しい」というそうだ。手児とは手児奈という大昔の千葉県市川市真間に住んでいた伝説の美女のことを指しているそうで、とにかく美人だったために彼女を巡って争いばかりなので彼女は悲観して自殺した人。そんな感じの美人がここにも住んでいて、例え世界中の人が敵だとしても彼女とはずっといちゃつきたい的な歌のようだ。
で、「埴科の石井」というのはここです。ということだそうだ。旧埴科郡倉科村には確かに「石井」という地名が残されている。長野縣町村誌の「倉科村」の項には、「埴科石井」がある。そこには「仁和3(887)年7月一カ月間ほど続いた長雨によりに矢ノ口山が崩落し、石井地籍が埋まってしまった」とあった。
仁和3年といえば仁和地震があった年。
仁和地震は平安時代に起きた巨大地震で、南海トラフが原因とされている。甚大な被害をもたらし被害範囲は北海道を除くほぼ日本全域とされる。近畿地方の被害が特に深刻で、津波による多くの溺死者、一ヶ月も続いた余震で長年語り継がれた悪夢の出来事だったそうだが、何故か都から遠く離れた信濃国の被害もセットで伝わっている。この地震の影響で八ヶ岳が崩落し、千曲川にダム湖が出来てしまった。このダム湖が決壊し下流の六郡が流されてしまったそうだ。ここは千曲川に近く、当然流された地域のひとつだ。
矢ノ口山というのは矢ノ口古墳群がある山で、鷲尾城とは近所の山だけどちょっと離れている。旧倉科村は三方向を山に囲まれているが、ぐるりと取り囲む山々には古墳が点在し廃寺跡、古代の遺跡も豊富。かなり栄えていたのかも。遠く千葉県で鳴らした伝説の美女の名前を持ち出してくるぐらいだから、それなりの知識がある人がまあまあ住んでいて、その中のひとりが詠んだ歌が都に運ばれていったんだから都とも繋がりがあるちょっと都会な集落だったはず。
この地域の遺跡(本誓寺遺跡)で当時の建築部材が出土し、当時の一般住宅(竪穴式住居)よりも立派な柱だったのでどうやら「有力寺院」「郡衙跡」のどちらかの可能性があるというところまで分かったらしい。ただし、仁和大地震とその後の大洪水によりこの辺りは壊滅状態になってしまったことも分かった。
藤原寺という倉科にあった天台宗の寺が荒廃し、善光寺を訪れていた親鸞が再興し本誓寺と寺号を改め弟子に運営を任せたと言われている。本誓寺は山の向こう側の長野市に移転したそうだ。藤原寺の起源は分からないが、倉科荘は大洪水で荒廃したあと荘園として復興していったようだ。荘園は文治2(1186)年時点で九条城興寺領となっている。九条城興寺は藤原道長の孫・藤原信長ゆかりの寺だが、平安時代末期には藤原氏から離れ、色々あって最終的には比叡山の管轄に置かれた。最初の領主だった藤原氏ゆかりの寺なんじゃないかな? 九条城興寺が色々あった中には、以仁王挙兵の一因だったり年貢の納入先で揉めた挙げ句青沼合戦(からの中先代の乱)を引き起こしたらしき話もwikiの記述が匂わせている。
石井という地名は近年まで残されていたようで。現在は倉科神社と改称されているが、ここは明治44(1911)年に村内各社が合祀される前は石井神社だった。石井神社の御祭神は健御名方命と八坂斗女命。ただし、現在の倉科神社の主祭神は大国主命のようで、これは(おそらく)薬師山公園辺りにあったんじゃないかなと思う旧倉科神社の御祭神と同じだ。まあ、旧倉科神社は健御名方命も事代主命も祀られていたので乗っ取られたというわけでもないが。
石碑群には西行法師の歌碑もあるという。どれだか分からないが。
この西行法師の歌というのが「信濃なる阿可しの松能あり奈賀良 那どくら志奈の里登いうら無」というものらしいが、この歌が西行法師の作という確証がないそうだ(出典が見えない)。ただし、小野お通(生没年不明)という人物宛てに松代藩の藩主になったばかりの真田信之が送った書状に「西行がこの歌を歌った場所」と書かれている歌が初出らしい。その当時には存在していたようだが、真田信之が創作した可能性もあるのでは? と思った。
他には庚申塔とか祠、猿田彦神とある石仏、何かの顕彰碑など雑多にある。






村内にあった石碑を持ってきたのかね?

船着き石というのもあるし、詳しい説明板もないので謎だらけ。
ここから先の道を上る。
石段の先に小さなお堂があった。大日堂という。
真田信之の次女まさ姫という人は飯山藩世嗣の佐久間勝宗に嫁いでいたが、勝宗が若くして亡くなってしまい子も無かったようなので、実家に戻ってきたようだ。倉科村300石をお父さんにもらいお金にも困らず、お父さんと一緒に暮らし、お父さんを看取って長寿を全うして亡くなったようだ。未亡人とはいえ暮らしに困らないのは良い。そのまさ姫が建てたお寺にあった大日如来を明治8(1875)年ころから安置しているそうだ。

崖と崖の間にある狭い平場に無理矢理建てている感じ。申し訳程度にベンチも置いてあるが、足場が悪い。

景色はまあいいかなー?

小さいお稲荷さんの祠もあった。この横へ抜ける道が登山道であるらしい。

行ってみると。

猪除けなのかフェンスの入り口があった。人の出入りがあまりないのかもしれない。入り口のドアが硬かった。頑張って開けて、頑張って閉めた。帰る時に開けられるのか不安だよ。

巨石がゴロゴロしていた。


落ち葉と雪で最初分からなかったけど、どうやら参道の石段があったようなのだ。

歩いていてそんな印象を受けただけなので、実際はどうだったか分からない。原形は留めていないと思う。急坂だった。
不意に大善寺跡が出てきた。

手前の鷲尾城・倉科将軍塚の標識で見落とすところだった。

真田家の家紋の六文銭がつけられている。ここはまさ姫が建てたお寺なので。
長野縣町村誌には「創建年不明、明治6年廃寺となる」とあったが、ちくま検定という地元の千曲市が作成しているサイトだと、
・まさ姫は清涼院(倉科地区にある寺院)の西に屋敷を構えた
・藩士の小山武衛に命じて大善寺を建てた
・明治6(1873)年の廃仏毀釈により廃寺
・明治8(1875)年に小山文三郎が大善寺の後継としてお堂を一宇建て、大善寺の本尊であった大日如来を安置した
とある。小山武衛の子孫が小山文三郎なんだろうな。グーグルマップの情報だと、1673年見樹院が建立、1742年大雨により流出、とあるようだ。延宝元(1673)年はこの人の没年に当たる。どうもまさ姫(見樹院)という人は信心深かったのかあちこちに寺を作ったり再興したりやっている。ここにあった大善寺が最後に建てたお寺だったのかも。
1742年は寛保2年で「戌の満水」があった年である。大雨というか、大洪水の影響を受けたんじゃないのかな。この大洪水で松代藩の財政は一気に悪化し、大善寺自体も再建されなかったという話もあるし、そうかもしれない。だって153年前の明治6年に廃寺となったわりには参道がほぼないんだもん。

お寺の跡地はすごく綺麗だった。

何かあっただろうというのがよく分かる。基礎の石とか残っていないが、この一角だけtとても綺麗に整地されていた。

先の道もなんとなく分かる感じ。ここもそれなりの往来があるのかも。



大善寺跡の前だけ大変だった。あとは普通の山道なのか。

標高はまだ高くなさそう。


まだ虎ロープは使わぬ!!

手作りの案内がある。この地域は丸太を加工して作っている。こういうのも地域性があって面白いな。

加工していない丸太がゴロゴロと。



お城らしきものは全然見えてこない。


久しぶりにちゃんと歩いたので疲れてきた。運動不足だ。
息が上がってきたなーと思っていたところに現れた、石の山が。


ここは「石垣」というより「石積」の方がしっくりくる。平たい石を重ねている。


なので段数は多いが低い、ちょっと日本っぽくない。などという印象がある。日本で一番古いお城の石垣というのは岐阜にある六角氏の観音寺城だそうだが、それに比べても違和感ある。
観音寺城の石垣は弘治2(1556)年頃で、その辺によくある野面積みの石垣だった。こちらは煉瓦みたいな積み方、名称は小口積みというタイプらしい。何か見覚えがあるような? と思った。どうやら古墳でこのような積み方があるらしい。遺体を納める石室の石積の代表的な積み方のひとつだ。
古墳の石室も、自然石をアーチ型に積む(野面積み)・加工した平たい石を積む(小口積み)・ピラミッドみたいに加工した四角い石を積む(切石積み)などある。
古代には石垣を備えたお城もあったそうで、白村江の戦いで敗れた日本が大陸からの侵攻を恐れて作ったお城なんかも石垣が多用されているらしい。福岡県の大野城とか。古代山城は百済人の技術で建てられたという。本土決戦に備えたお城なので西日本にあるが、信濃にも百済系技術者が多数来ていることも知っている。白村江の戦い(663年)当時の大和朝廷の勢力範囲は新潟・福島あたりであったかと思うが、一応長野県も最前線に近い国だし軍馬も古代から生産していたしな。
石積ありで知られる山城は「霞城」「鞍骨城」「鷲尾城」「雁田城」などで長野県の北側に位置している。また、これらのお城には近くに古墳がある。「霞城」の近くは大室古墳群、「雁田城」の近くは岩松院古墳群、「鞍骨城」「鷲尾城(鷲尾城は鞍骨城の支城扱い)」の近くには埴科古墳群。ちなみに埴科古墳群は長野県で一番大きい古墳(森将軍塚古墳)と三番目に大きい古墳(倉科将軍塚古墳)を有する。二番目は川柳将軍塚古墳である(近くの城は夏目城)。なので、古代から人が住んでいる地域でもある。
長野県北部に点在する石積みの山城は古代山城なんじゃない!? ってワクワクしたんだけどどうだろうか。雁田城も来歴が古い(1184年頃にはあった?)ようだし、霞城も1100年代築城と伝わる。ちなみに夏目城には石垣がなかったと思う。この城は都落ちした中流貴族という余所者のお城だからかな? 他のお城はみんな地元の人が作っている。
古代山城の石を積む技術は平安時代以降には廃れてしまい、戦国時代に入ってからお城に石垣を作る技術が出来たという。その間、例えば1100年代とかには石を積むなんて技術は存在しなかったとされる。でも石工はフリーメイソンの話に代表されるように、特殊な技能であるから信濃の一部でひっそり継承されていたが鎌倉時代に入りついに消えてしまったとか…考えると楽しいですわ。

ここの石積みは登る前に想像していたよりも広範囲だった。



風雨に耐えきれずに壊れた箇所もある。












石積みの上に鷲尾城の標柱が刺さってる?ようだ。ひとしきり石積みを見たので、本郭に登ってみる。





本郭に到着。説明板があった。大したこと書いてない。

特徴としては小口積みの件の他、
・山城なのに近世城郭のような石垣で築かれている
・たぶん倉科氏が作ったんだと思う
とあった。
長野縣町村誌では、鷲尾城主を「倉科源三郎」と紹介している。この人は村上氏の家臣だったらしい。倉科地区は鎌倉時代に九条城興寺領だったが、その後は村上氏の所領となり、村上氏が駆逐されたあと武田領となっている。倉科氏は九条城興寺領倉科庄の地頭ではなかったかとされるらしいが、どうやら鎌倉幕府の御家人だとか土豪レベルではなかったようだ。村の代表者クラスとかいうのかな? 小さな部族の長老みたいなポジション?



小さな部族の長老が作った城にしては手が込んでいる気もするのよね。あの石積みにかける情熱は権力者じゃないと無理そうな気もするが、倉科氏以外に別の人が利用するため改修したような様子もなく。

眺望は非常によいから使い道たくさんあると思うんだ。
そんな下界に向けて「ばか」「あほ」「しね」って叫んでおいたよ。


本郭も広かった。ただ、登山道には他の郭や平場が見えなかった感じ。帰宅後調べたら、どうも登ってきた道ではない、西側の尾根にも帯郭等があったようだ。


土塁もあった。



こちらにも石積みが。



土塁も石がごろごろ。積んであったのが崩れたのか、自然のままなのかは知らないが。もし土塁も石積みだったらもうちょい高い壁を築いていたのかな? 名も無き土豪未満の城にしちゃ凄いと思う。

多分郭と思われる平場があった。


郭と本郭の間。石積みが残っている。石でぐるっと取り囲んでいたのか。

ここは史跡に指定されていないけど、指定した方が良いのでは…?






私の中では古代山城にしておきたい。楽しいから。


せっかくなので、倉科将軍塚古墳も見に行くことにした。



堀切りがあった。


人の足跡などひとつもないが、獣の足跡がたくさん。小さめのものが多いので、さほど気にならないが。登山道ではなく獣道なのね。

往来が大変多い。

今まで見かけなかった堀切がある。深い。



こちらが大手道だったのかね。反対側は本当に石垣しかなくて急斜面だった。登るの大変だったよ。

獣道は倉科将軍塚古墳まで続いているはず。

行ってみよう。
堀は終わり、少し平らになった。


何かあるようで、何もなかった。少し離れているようだ。獣たちの足跡は豊富で皆が古墳に向かっているようだった。倉科将軍塚古墳に一体何があるのか?
変な地形が出てきた。



獣たちと一緒に下りてみる。

小さな堀切が幾筋かあった。





獣なのに全く同じ箇所を通るのって自然の法則みたいなのあるのかな。かと思えばあさっての方向へ向かう足跡もあったりしっちゃかめっちゃかな場所もあったりする。獣に理由を聞けば教えてくれるのかな。

堀切を抜けると、よくある尾根道に戻った。しばらく進むと。


遠くに看板らしきものが見えてきた。

倉科将軍塚古墳だった。
鷲尾城からはさほど離れていない。

正直なところ木々が生え過ぎて古墳には見えない。グーグルアースとかで上空から見れば古墳だと分かるような形をしているのだろうか。実際グーグルアースで遺跡探している人達いるもんね。
さっき見た看板は倉科将軍塚古墳の説明が書かれていた。古いものらしく、今はなき「更埴市教育委員会」とあった。倉科将軍塚古墳は長野県史跡に指定されており、指定年月日は昭和48(1973)年3月12日。その頃建てられた看板なのだろう。
内容は、
・古墳時代前期の様式である前方後円墳、5世紀ごろ築造
・県内の前方後円墳のうち最も高所にある
・丘尾切断方式、東方に前方部がある
・主体部の規模は未確認だが、後円部に竪穴式石室があると思う
・長野県内では三番目に大きい
・重要かつ貴重
とあった。
丘尾切断方式とは、古墳の造営方法のひとつ。丘を人為的に削り必要な形に造成する方法らしい。なので、円部分は丸くなるように・方形部分は四角くなるように土砂を削り、なるべく地形を有効活用することで効率的に古墳を作る方法。確かに土砂盛るよりも削って行った方が大変じゃないわ。
この説明板の内容が古そうなのだが、こういう古墳って盗掘されているのが普通じゃないかな…? どこかで石室が開口してるのでは? と思った。本格的な調査は行われていなさそう。規模第1位の森将軍塚古墳はあんなに綺麗に整備されているのに。
場所が場所だけに難しいのかな。

お墓に登る気が無かったので、古墳脇の登山道を歩いた。

丘尾切断方式というのがよく分かる道だった。


円部分だったらしい。前方後円墳は丸い部分=埋葬・方形部分=祭祀所という位置づけらしく、丸い方に副葬品のお宝がある。倉科将軍塚古墳は中期の古墳だそうで、円墳と方墳が同じ大きさぐらいのものらしい。


円部分と方形部分が見えるあたり。前方後円墳の形になるまで土砂を削ってすてる。

本当は斜面を急にして盗掘など出来ぬよう細工をするらしい。しかし長い年月を経てただの斜面になってしまっている。私でも簡単に登れそう。登らないけど!


再び現れた堀切。古墳を削ったのか。方形部分なので郭としてそのまま利用ができるし便利だよね。


ここもまあまあ深い。


ここは大きなもの1つだった。

また少し先へ行くと。

堀切またあった。




鷲尾城はここまでだったようだ。石積部分の本郭より古墳部分の方が広い。
なんか楽しくなっちゃって、このまま先に進んだ。獣道もまだあるしね。


何かあるかもしれないし。

古墳よりも先の道は人の手が入っていない世界だった。


さすがに心細くなり、奇声を発して歩くようにした。昼間でも獣出てくるから。

鷲尾城本郭で長々と大声大会しなくて良かったわ。さすがに大声大会延長戦があるとは思わなかったもん。



言葉にならない人外の叫び声を上げつつ歩くと自分を見失いそうになる。幸いにも人や動物が現れない。もしここで言葉の分かるヒトが現れたら異常者の徘徊かとオシッコ漏らさせてしまうかもしれない。

読める字が出てきた。
ここは薬師山で、いつの間にか登頂に成功していたらしい。そしてまっすぐ進むと鞍骨城があるそうだ。鷲尾城は鞍骨城の支城、そう遠くない場所にあるのではないか。
あまり深く考えずに、更に進んでみることにした。

そして足跡も増えていく。何故なのか。やはり皆城が好きなのか。




歩いてきたが、思った以上に何もない。そのうち登山道が鉄塔管理道と重なってきた。しかし、人間の足跡はまだない。
★★★★★
石積は本当に見て良かったと思う、あと名前がかっこいい。
<鷲尾城>
築城年 不明
築城主 倉科源三郎?
先月終わりに配信開始のTAKE THATドキュメンタリーだけど、現在7周目に突入した。週1で1,2回は見ているのかねー? 第一話の冒頭、1994年マンチェスターコンサートの楽屋でゲイリーとロビーがふざけてBack for goodを歌っている場面でちょっと泣きそうになり、その次のロビーが「ハグしてステージに上がる」と言い真っ直ぐゲイリーの所へ向かい抱き合うとか、いま本当にこの人報われて(こういう表現があっているか微妙だけど)良かったなと思うわ。
デビューのためレコード会社に売り込みしてたときに「デブなしの4人ならうちでデビューさせる」なんて言われたこともあったらしいし、ゲイリーに対して「デブ」は禁句だったんだろうな…。
ただそのデブがいないと成り立たない、その辺もアイドルグループとしては常識外のことなんだろうし。デブが作詞作曲からプロデュースまでしているなんて普通は思わないか。で、当の本人も見た目にコンプレックス抱えているから拗らせて、音楽の才能で輝くしかない才能が無いと思われたら立つ瀬がないとアイドル時代考えていたらしく、血反吐を吐きながら作曲をしていたために音楽の話は非常にナーバスになっていたらしいことまではなんとなく分かった。
それで音楽関係のアイデアを持ってきたロビーを拒絶したから、ロビーもおくすりとお酒に浸り、反転アンチとなり長年に渡ってゲイリーに執着する羽目になったのかもしれないなあと思った。
今は普通にいちゃつけるようになって良かったなあ。
そして影響されてワンダイレクションの動画にまで手を出してしまったよ。ハリーかわいい。