お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

稲荷山城(勝間反砦)

 

誰も一度は見たことがある例のロケットがある場所が稲荷山城だった。

 

はやぶさイカロス君にはまってた頃、臼田宇宙空間観測所には行ったことがあったけど、とんでもない山奥(でも道は異様に綺麗で立派)にぽつんとある静かな場所で。行くまでが大変だった。あんな場所からデータを相模原まで送っているとか、壮大だわと感心してた。

パラボラアンテナの周りには野ウサギのコロコロウンコが辺り一面転がっていたのをしっかり覚えている。ウサギが好きだから。

佐久地方の野辺山にも国立天文台があって、こちらの方が見応えがあった。臼田のほうはとにかく大きいアンテナがどーんしているだけに対し、野辺山は大小アンテナがたくさんあって、引退した古いアンテナも展示されているし。

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臼田宇宙空間観測所はもういいかな…という感じだけど、野辺山国立天文台はもう一回行ってみたいかなー?

 

稲荷山公園。私はこちら側↓から入った。

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フォトジェニックな場所だった。

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大量の鳥居が奉納されている。

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稲荷神社とある。石標の消された文字は「郷社」だと思われる。近くの案内板には、

と書かれていたので。お稲荷さんは元は農業の神様だったけど、今は農業と商業の神様とされている。御神徳として挙げられたものも「五穀豊穣」の他「養蚕豊熟」「商売繁盛」「殖産興業」「除災招福」「万民豊楽」と色々だ。

 

御由緒は

  • 社伝では、正暦年間(990~995)に山城国より勧請
  • 戦国時代は「勝間城鎮守」として、武田信玄から緋色の玉垣を奉納された
  • 勝間城の廃城後もお稲荷さんとして親しまる
  • 千曲の真砂(宝暦3(1753)年)という書物には、「稲荷山に稲荷大明神あり、石段二百ばかり川に臨みて良き風景なり」と描かれる
  • 明治6年、郷社

と書かれていた。

そして神社庁の稲荷神社の項目には

  • 天徳4(960)年、村上天皇皇子が佐久郡春日村に下り、一条院の御代正暦3(992)年には当地に移られた
  • 山城国紀伊郡より稲荷山に勧請し、祀られた
  • 武田信玄が社に緋の垣を改築して、永禄9年川中島凱旋の日に大神にお参りした

と詳しくあった。

 

山城国紀伊郡といえば、全国のお稲荷さん総社である伏見稲荷大社がある。

天徳4年は村上天皇の代で、正暦年間は一条天皇一条天皇の時代は紫式部清少納言などが活動していた時期となる。天慶5(942)年に伏見稲荷大社正一位を授けられてからは京からの参詣者が多かったそうで、相当賑わったらしい。人気が高かったから勧請したのかなー?

村上天皇の皇子は第十皇子までいたけど、該当するような皇子はいなかった。村上天皇の縁者を名乗る人物が移り住んで稲荷社を創建したとか?

 

「千曲の真砂」の稲荷山城の項目には、

  • 桜井対馬守の居城とされる築城年代不明の古城が臼田村日影山の観音崫の山頂にある
  • また、稲荷山にも城が有り、これは出丸とも言われている
  • しかし古老曰く、稲荷山城は出丸ではなく武田信玄信越二州に出陣した際に度々陣場とした場所で、堀柵石垣などがある堅固な要害だという
  • 近年まで石垣と堀が残っていたそうだ
  • その稲荷山の城跡は勝間反砦だろう

桜井対馬守は滋野宗平(滋野氏)の末裔らしい。桜井対馬守の子孫は武蔵国荏原郡(品川区・目黒区・大田区辺り)住みで、「我々は海野氏後裔の桜井対馬守の三男の長三郎の子孫というが、系図や古文書もなく真実かどうか分からない。また、家には先祖の桜井対馬守が16才の頃に着用していたという甲冑と槍一筋があったが、槍は所在不明となり甲冑だけは残っている」という情報だけ見つかった。

 

臼田村日影山の古城というのは、医王寺城のことだと思われる。医王寺には日影観音堂というお堂もあるし、武田信玄が佐久地方に出陣した際に陣を置いたとされる「桜井山」は医王寺城のことだという説が近年有力になっているらしいから。

 

勝間反砦(岩崎砦)の項目には

  • (武徳)編年集成によれば天正10年8月に北条方との戦闘があり、193人討ち取る
  • その中には増山豊前・内田加賀の首もあった
  • 海野市介は北条氏直の監使・芳賀四郎右衛門を討ち取った
  • その後、津金監物、その弟の津金修理、小池筑前・米倉主計・折井市左衛門らが会合を開いて勝間反砦を交代で守備し佐久郡一揆の城を守り抜く旨の注進をした
  • (武徳)編年集成では神君(徳川家康)が浜松を出発し、北条家との和睦など模索した
  • 信州佐久郡一揆の残党は上野まで米を秘密裏に運び籠城する味方に届けることに成功
  • そして神君出陣し、柴田七九郎康忠は監使となり甲斐信濃両国を治めた
  • 勝間反砦は鳥居・大久保・平岩が巡検来て、敵の城砦を攻めた
  • 同年11月には松平家忠が勝間反砦を改修している
  • 台命(貴人の命令)により、天正13年真田父子の居城である上田城を攻めた時、鳥居と平岩が勝間反砦に入り、後に甲州へ引き上げていったという
  • 私(著者)は、岩崎砦を佐久郡と書いたが、もしかしたら甲州のものかもしれない。というのも、天正10年12月に辻弥兵衛が賜った神君の朱印状が残っているからだ。内容に「甲州岩崎のうち長延寺分40貫文」という文言があり、甲斐国の話と思われるから
  • また、川東三分村の上の山を岩崎といい、山嶺に観音堂が有り眺めが非常によい場所もあり、ここかもしれない…ここも勝間と向かい合わせの砦であり、兵が篭もれる(=岩崎山陣場

と書かれていた。

多分、近辺にお城がたくさんありすぎて。千曲の真砂が編纂された江戸中期には各城の来歴が分からなくなっているようだった。

岩崎山陣場というのは龍岡城の南側にあるこの山↓にあるらしい。

 

この山頂には佐久市有形文化財の大日宝塔がある。江戸時代以前には宝塔がある場所に大日堂という大日如来を祀るお堂が有り、麓には遍照寺という馬頭観音を御本尊とした古刹があるそうだ。

 

この「勝間反砦」項には人の名前もいくつか出てくる。

北条方として、増山豊前・内田加賀力・芳賀四郎右衛門。

佐久郡一揆方として、海野市介・津金監物・津金修理・小池筑前・米倉主計・折井市左衛門。

北条方の人々、最初の二人は分からないが、監使として挙げられた芳賀四郎右衛門という人はそれなりの身分の人だと思われる。北条氏直の家臣で垪和という人がおり、読み方も同じハガだったので、誤記かもしれない。垪和氏は後北条氏初代が関東へ下向した時に従った最古参の家臣とも考えられているという、北条家の重臣。この垪和一族の縁者じゃないかなー?

 

佐久郡一揆方は、津金監物=小尾祐光(兄)と津金修理=津金胤久(弟)と小池筑前の「津金衆」、折井市左衛門=折井次昌と米倉主計=米倉忠継の「武川衆」が旧武田家臣で武田家滅亡後は徳川家に身を寄せていた人々。津金衆も武川衆も武田の領国の国境警備に当たった武士団で、武田氏滅亡後はいち早く徳川に忠誠を誓っていた。

海野市介は会合に出席したのではなく、監使を討った人としてあげられていたが、地元の土豪かなんかかな?

 

引用元の武徳編年集成には、内容が少し違うらしい。

  • 佐久郡岩崎にて戦闘があり、北条方153人討ち取る
  • 津金衆と武川衆が集まり群議を行う
  • 敵地から15里の勝間反砦を交代で守備し、佐久郡一揆の城砦を守り抜くべきだと報告
  • 津金衆と武川衆は伊賀の忍者と共闘して、甲斐国江草の小屋(獅子吼城)を落とすことにした
  • 作戦通り、伊賀忍者団は夜襲で城を落とす、津金衆と武川衆は城の周りに伏兵を配置し応援に駆けつけた北条軍478人を討った
  • 徳川家康はその奮闘ぶりを称えた

勝間反砦を拠点としつつ、15里(約59km)先の甲斐のお城を奪い徳川と北条の戦いで戦局が変わったそうだ。

 

その後、勝間反砦は徳川家の武将の柴田康忠が入った。この人は甲州奉行、その後は諏訪郡代として主に旧武田領の統治を手がけたみたい。依田信蕃に協力しながら佐久地方の平定にも尽力した人だそうだ。柴田康忠は一時期富士見城の城主だったようだ。

柴田康忠の他にも鳥居(元忠)・大久保(忠世)・平岩(親吉)といった家康の側近達が来たりしていたという。

  1. 鳥居元忠 側近中の側近で、天正壬午の乱以後は甲斐国都留郡を治めた
  2. 大久保忠世 めちゃくちゃ強い、天正壬午の乱後は信州惣奉行として小諸城に在城、依田信蕃を監視
  3. 平岩親𠮷 人質時代からの家康の小姓、天正壬午の乱後は甲斐郡代甲府城を家康の命で築城)

第一次上田合戦での徳川軍はこの3人がメインで戦っているという。徳川軍はボロ負けした。甲斐にいた鳥居さんと平岩さんは勝間反砦にも帰り道に立ち寄っていると書かれていた。

 

松平家忠が城を直しにきた記述もあった。松平家忠は徳川家臣団の中でも土木工事を請け負うことが多かった人で、各地の城の普請や修理を担当して回っていたようだ。

 

「岩崎」が甲斐国内の地名ではないか? という記述に関しては。

甲州岩崎のうち長延寺分40貫文」の長延寺とは相模国にあったお寺である。北条軍に焼かれてしまったお寺さんを武田信玄甲府に再建させたことに始まっている。武田家滅亡の際には、武田と親密な関係にあったこのお寺(住職が武田信玄の孫)を織田信長が焼き討ちしている。住職を務めていた武田信玄の孫は信濃国へ逃亡、甲斐が徳川領になったときに地元へ戻った。長延寺が再興されたものの、旧武田家臣の大久保長安の事件に巻き込まれたため、最終的には廃寺。多分、徳川領になったときの長延寺再興に辻弥兵衛という人が関わっているのかもしれない。

山梨県出身で某有名企業創業者の辻さんのwikiによれば、辻家は甲府に500年続く旧家であり、武田信玄の家来・山形昌景の子孫を称しているとのこと。辻弥兵衛さんってこの辻家の人じゃないかな? 長延寺は廃寺となったが、慶長18年に光澤寺として再興され現存する。光澤寺にも辻藤右衛門さんという方が寄進をしている。

 

ちなみに「岩崎甲州」というワインがある。旧勝沼町岩崎地区で育ったぶどうから造られたワインだそうだ。その岩崎地区は昔、武田信光の七男・信隆を祖とする岩崎氏が支配しており、有名な「御旗」(日本最古の日章旗らしい)と「楯無」(大鎧)を所有していたようだ。このふたつは甲斐源氏棟梁が受け継ぐ品々で、そんな家宝を持っているぐらいだから相当家格が高い一族だったらしい(この一族から甲斐守護を出したことがあるそうだ)。守護(武田氏)と守護代跡部氏)との戦いで岩崎氏はほぼ滅亡状態になってしまう。

そんな岩崎氏の後裔と称していたのが岩崎弥太郎だって。

岩崎氏の館のすぐ近くには後に勝沼氏館(武田信玄の叔父の館)が出来たので、岩崎地区は戦略上重要な場所だったのかも? 

 

鳥居が続く長い階段の他に登れる所があった。

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なんか石碑が色々。

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なんだろうねぇ? 展望台的な場所もある。

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ハイキングコースのような? カラーコーンが置いてある場所もあったけど、特に崩れているとか危ない箇所でもなさそうな感じ。

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鳥居が見えてきた。

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麓の参道入り口からずっと鳥居が続いているらしい。奉納されたものだろうが、とにかく数が多い。

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鳥居が終わると普通のハイキングコースに戻った。

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水が湧いていたような跡地。
鳥居をくぐって登る人が多いらしく、急に他の参詣者が現れだした。良い天気だけど暑い…。

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一応お城っぽい何かがないか探しているが、特に見当たらず。

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トイレだ!

 

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トイレを過ぎると朱色の建物が見えてきた。朱色だから…多分お稲荷さんのお社に違いない。お稲荷さんにお参りするのは後回しにして、他の場所を見に行ってみた。

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何か広い場所。

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とりあえず走り回るには問題ない様だが、暑すぎて誰もおらず。肥前郭って名前の場所だろうか。

一緒に歩いていた子供も限界を感じて文句言い始め、急かされる。

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階段を登った先、また広い場所だよ。こちらは扇岡と呼ばれる場所かもしれない。

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色々石碑は置いてあるものの、それぞれが何を顕彰(記念)しているものかは謎。というか、ブーブーされたのでじっくり眺める時間がなかった。

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配水場。本郭だった場所だそうだ。立ち入り禁止だけど頑張れば侵入出来そう?

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配水場の先が例のロケット型タワーである。タワー周辺は公園になっているそうで、滑り台とかあるとかなんとか。タワーと公園側にも郭があるらしいが、やはり残っているものは少ないようだ。こちら側には丸馬出しや櫓台があったみたい。

航空写真で見る限りは消滅かなー?

正面の建物(勝間公会場)付近が櫓台だった場所のようだ。

 

↑左:櫓台(勝間公会場) 真ん中:堀跡 右:丸馬出し跡(墓地)

この付近だけ、微妙に昔の面影が残っているらしい。

 

↑こっちが大手らしい。

 

さて、子供の収拾がつかなくなっており、稲荷神社に向かいます。

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ここにも石碑が有り、それは読むことが出来たよ。参道の鳥居の件で、

  • 稲荷山は古社・稲荷神社を中心とした景勝地
  • 信仰、史跡、文学の丘でもある
  • 稲荷神社神域の尊厳維持と万民への加護を祈念し、また観光名所作りを目指して、平成10年に朱鳥居130基を建て、参道石段を改修し、奉納した

信仰(稲荷神社)、史跡(稲荷山城)は分かるけど、文学って? もう見なかったけど小諸城址にある島崎藤村の詩碑「千曲川旅情のうた」の対になるものがここにあるそうだ。私、小諸城址には何度か行ったけど、そんな碑見たことないかもしれないわ。

また、島崎藤村作「力餅」という童話の中で「臼田に稲荷山公園というところがあって、公園前の橋のたもとあたりから望んだ千曲川の眺めは実にいい(第7章 浅間のふもと)」と書いているそうで。つまり稲荷神社の麓辺りからみた千曲川がイイ。と書いていた→ここに詩碑を建てよう。という流れのようだ。

 

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稲荷神社には「和楽」という額が飾られていた。
この額は明治28(1895)年に臼田小学校長などを務めた人物が揮毫し献額されたそうな。文字通り「和やかに楽しむ」という意味で、なんか殺伐していた時期に奉納されたのかな? 明治28年は日清戦争終結した年だった。
この神社にはたくさんの狐の置物があって賑やかだった。


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登ってきた道や参道の他にもまだルートがあった。階段下りるの大変そうだったから、こっちにしてみた。

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稲荷神社側は急斜面ばかりで見晴らしがすごくいいや。物見台でも置いていたかな?

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この道には供養塔のように見える石塔や塚が多くあった。一番古い参道がこの道なのかもしれない。

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庭園? 造りかけなのか放置されてしまったのか…島崎藤村(1872~1943)が生きていた時代には稲荷山公園が存在していたので、当時の「稲荷山公園」とはココのことだったのかな、と思った。

例のロケットタワー(正式名称はコスモタワーという)の設置は昭和63(1988)年なので、タワー周辺も昭和末期に整備されたんだろうし。千曲川にかかる橋も稲荷山神社の鳥居のすぐ近くだしな。

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御岳信仰の碑もある。古くからあったような道なのかな。

 

最終的にはここに出た。鳥居はすごかったが、歩きやすいのは断然こっち。

 

 

★★★★☆

見たい物がないけど子供が遊ぶには最適

 

<稲荷山城>

築城年 不明

築城主 不明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近は一人でご飯食べられる機会がぐんと増えて嬉しい。

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山羊のチーズも使われているカルボナーラだよ! 

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エスプレッソと、美味しそうだったからデザートにティラミスを頼んだんだけど、一瞬「その組み合わせはマヌケだって思われないかな!?」と内なる自分に囁かれた。コーヒー好きには堪らなく美味しかったけどね!

 

中之条陣屋

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坂木陣屋の焼失後、安永7(1778)年にこちらに陣屋を誘致した。
跡地には何もない。

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中心地はここ↑なのかなー? 中之条陣屋の説明板があったよ。

  • 中之条陣屋は江戸幕府の直轄地の支配所である
  • 宝暦4(1754)年、坂木陣屋は中野へ移動し、出張陣屋となる
  • 同年九月には出張陣屋も廃止
  • 明和8(1771)年、中之条に御用場(仮陣屋)が置かれる、支配地は32ヶ村
  • 仮陣屋は整備され、安永8(1779)に本陣屋となる
  • 増改築がなされて天保11(1840)年には敷地面積約155坪(512.4㎡)に
  • 敷地内には、御門・御本陣・御白州・役宅・仮牢その他の施設があった
  • 支配地は佐久、小県、埴科、筑摩、水内、高井の六郡にあって、約5万石
  • 慶応4(1868)年に明治政府により廃止された

この説明板には所有者の名前も挙げられていた。宅地化されて、遺構はないらしい。

 

とりあえずザックリ歩いてみるか、と路地を進む。

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事前情報で「井戸が残っている」とあったが。井戸は2つほど見つかる…。

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↑この薮の中にも井戸らしきものがあったよ。でもネットで見た「井戸」はこれらじゃなかった。

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↑古そうな土蔵。この辺りは物凄く古そうな建物・戦後から昭和末期に建てた感じの建物・新築が入り乱れており、カオスだった。

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ひとしきり歩いてみて、本当に何もないことが分かると。

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国道を挟んで向こうのコレ↑を見に行った。

 

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文化の館というらしい。

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 施設内の図を見ると、公民館みたいな機能の建物? と思った。

ここはシルバー人材センターの基地にもなっているようで、駐車場には事業用軽トラが数台置かれていた。

 

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仰々しい門からは出入り出来ず、裏手から入る感じ。建物数は余り多くない。土蔵と母屋と離れの3つだけ。庭も広くはなかった。

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野点場とあったが、新型コロナのせいか茶会開いていなさそう。使われている形跡がない。文化の館の建物内にも茶室と水屋があるようで、屋内でもお茶ができるみたい。庭園があるので茶道メインで使おうという施設なのか。

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庭園は綺麗に維持されている。

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この庭に面した部屋が茶室のようだ。

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なんか誰もいなかったわ。

 

離れ?

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使われてないようだ。

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立派な門の裏側↑

 

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土蔵もひっそり。

 

★☆☆☆☆

中之条陣屋周辺も人いなかった。住宅密集地なので散策するには勇気が必要かもしれない(驚くほど狭いので車来たら避けるの大変そう)。

 

 

<中之条陣屋>

築城年 明和8(1771)年

築城主 江戸幕府

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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家族がこれ↑の話を振ってきて、このゲームやってないけど(数ヶ月前にサービス終了のお知らせを見た作品だわ)似たようなモノをやっているのでちょっと興味があって見に行った。

至る所に謎の美少女がおり、「誰だよこいつ」「私の知っている○○はこんなヤツじゃない」とか思っていたわ。

 

元々この施設は刀工で人間国宝の宮入行平さんを顕彰する記念館、刀の作り方や作品展などやっている展示館のようだ。宮入行平さんの甥が燭台切光忠の写しをつくった宮入法廣さんだそうで。

あんまり刀と関係ないけど、某テレビドラマのパブリックドメインとして使われていた「津田助広」の元ネタが刀工名だと知り満足した。

刀を見てたら、本当に「一本欲しいな…」と真剣に思った。写しだけどちゃんと斬れる真剣なんだよねえ。見終わったあとにソハヤノツルキと三日月宗近のクリアファイルを買った。

今度は燭台切光忠の写しを出張展示してくれると嬉しいな…(子供がみっちゃん推し)。

 

そういえば、山浦環さんこと源清麿も長野県出身だった。

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坂城町出身じゃないけどさ。

源清麿(と長曽祢虎徹)の作品展があると私が喜ぶよ。

新海三社神社

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新海三社神社に来た。

神社の説明板には、

  • 興波岐命(佐久地方開拓の祖神)、健御名方命(興波岐命の父神)、事代主命(興波岐命の伯父神)と誉田別命八幡神)の四神を祀る
  • 佐久地方の総社
  • 古来より人々の崇敬を集めており、武家からも源氏・足利氏・田口氏・武田氏・徳川氏・大給氏より寄進を受けている
  • 源頼朝は源氏の祖神である誉田別命も祀るよう命じ、甲斐源氏である武田氏も戦勝祈願文を奉じている
  • 三重塔は嘉祥2(849)年建立、東本殿は室町時代に再建、それぞれ国の重要文化財

とあった。

図を見ると、左側の2つの社(西本社と中本社)と右側の1つの社(東本社)が分かれているように思えた。重文の建造物は東本社とその裏手にある三重塔。

西本社と中本社の間には御魂代石という磐座的な石があるようだ。拝殿も西本社と中本社側にあるし、元々はこの二つの社がメインだったのか? と思ったら。 

祀られている神様はそれぞれ、

だったので、主祭神と思われる興波岐命がいらっしゃる東本社が主殿のようだ…これはちょっと罠だわ。

ちなみに、御魂代石というのは私の想像と違い、石造物で彫り物がしてるらしい。しかも室町時代を示す年月日が入っている。

 

興波岐命は諏訪の健御名方命の子で、佐久地方を開拓した神様だそうだ。田口を本拠地とした集団のリーダーで、古墳時代から祀られているとあった。図にも「西御陵」「中御陵」「東御陵」って場所があった。身分の高い人の墓みたいじゃない? この他にも古墳が残っているようだ。

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この辺りを区画整備したときに移動してきたんじゃないかな? と思われる道祖神たち。

 

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拝殿↑

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本来の参道↑

なかなか雰囲気よい。

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まだ七五三の季節じゃないと思うのに、幟がたくさんあるよ。

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古い祠が有り、このすぐ近くに注連縄を張った大きな石があった。御休石という名前で、神様がお出かけになる神事?があるときに使われる石らしい。なんか詳細見たけどよく分からなかったよ。見た感じが磐座で、御魂代石(石塔)よりもソレっぽい。まあ分類上間違いなく磐座なんだろうけどさ…。

 

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怪しい跡地もあった。

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神宮寺跡だそうな。

お寺は廃止ではなく移転だそうで、現存している。

 

神宮寺跡、建物の基礎とか石段なんかそのまま自然に還りつつあり、私の好きな雰囲気となっている。

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神宮寺跡のすぐ横には東本社だった。

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  • 重文、室町時代
  • 祭神は興波岐命
  • 御名方命の子で、佐久の開拓神
  • 色々な事に霊験あらたか

興波岐命を新開神(にいさくのかみ)とも呼ばれ、その名からこの神社も「佐久神社」とか呼ぶらしいし、もしかしたら地名の「さく」もこの神様の名前から来ているのかしら?

 

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東本社からちょっと離れた所に中本社・西本社。あの二つは仲良く隣り合っている。

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もうひとつの重文は東本社の裏、ひっそりといた。真正面からは見えないよ。

東本社も三重塔もほぼ同じ時代に造られているらしい。三重塔は上宮寺のものだったが明治元年廃仏毀釈の際に「お寺さんのじゃなくて、ウチの宝物庫」と申請したために破壊されず残されたそうだ。

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↑神楽殿と拝殿

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↑中本社・西本社

東本社と趣が違う。朱色だし。江戸時代に建てられたのかしら?

源頼朝誉田別命を合祀した際に社殿を再興したらしいので、それ以前から存在していたらしい。その後も改築と再建を繰り返して、元禄12(1699)年から2年かけて現在の社殿を造ったようだ。

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ちなみに拝殿は中本社に向かって造られており、中本社の祭神は健御名方命だった。

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この配置だと本当の主祭神って健御名方命じゃないの…? と不安になってしまうよ。なんとかしてほしい(大昔は健御名方命主祭神だったが、東本社が国重文になったので主祭神を変えました説が捨てられない)。

元は三重塔の前にはお堂があって、それが明治に入り廃される→東本社になる建物が神楽殿前から移転する→古い社だったので重要文化財に、という流れらしいです。だから東本社はボッチらしい。あの場所、冷静に考えればお寺の境内にあたるはずだしなー。

ただ「興波岐命は本来の御祭神ではないのか」というわけではなく。神楽殿の前にあり移転したお社には大昔から此処にいた地主神(健御名方命の子とされる)が祀られていたらしい。その神様が最終的に「興波岐命という神号である」となったらしい(時代が下っても神様の名前が出てこなかったとか)。

とにかく変わった神社だなと思った。

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↑拝殿

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↑御神木

 

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★★★★★

古墳もたくさんあるし、杉林が綺麗だった

 

 

 

<新海三社神社>

創建年 不明

御祭神 興波岐命・健御名方命事代主命誉田別命

田ノ口館(蕃松院)

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田口氏の館があった場所である。正面奥の山に田口城がある。城域は広大らしい。

現在ここには蕃松院というお寺さんがあり、お墓参りの人達がたくさん来ていたために、この日(8月1日)が戌の満水のお墓参りの日だと気付いた。

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最初「大楽山」かと思ったら、実は「大梁山」という山号でした。この字を書いた17世紀の高僧の書は貴重だそうで「掲げると火災除けになります!」と紹介されていた。

 

田口氏はこの辺りを治めた有力な豪族で、応永の頃(1400年前後)には既にいたらしい。佐久市田口は交通の要衝であったらしく。

 

長野・群馬県境にある田口峠にはこんなボロいトンネル(第一隧道)が存在するぐらい、大昔からあった街道っぽい。

この「群馬県道・長野県道93号」は9世紀に最澄が通りかかり「険しい!」と感想を漏らした記録があるそうだ。長野県佐久郡と群馬県甘楽郡を結ぶメインストリートで、現在でも主要地方道の指定を受けている。wikiには「北の星尾峠や南の余地峠と共に、佐久地方と群馬県南西部の交易路の一つだった」という記述があった。ただ、星尾峠・余地峠は現在も徒歩道のままのようだ。

余地峠(長野県道・群馬県道108号)は武田信玄が軍用道として使い、星尾峠(群馬県道201号、群馬県星尾集落~長野県は立岩・荒船山の登山道となっている)は今の大河ドラマの主人公が度々通った道なんだそうだ。

両隣の峠と違い田口峠だけが冬期閉鎖しない車道として整備され(南にある酷道十石峠は閉鎖されちゃう)てはいるものの、こいつもとんでもない険道であるそうだ。コスモス街道(内山峠)があるので田口峠が今後大々的に改良されることもなさそうだし。

群馬県と佐久地方を結ぶ峠道は、矢川峠・内山峠・星尾峠・田口峠・余地峠・矢沢峠・大上峠・十石峠・武道峠となんかいっぱいあるけど、このうちの半分しか車道化していないらしい。 

 

そんな感じで栄えていた地域の豪族だった田口さんなのにあまり記録には残らず。

田口城は武田氏に落とされ、お寺の案内板にすら田口さんには触れていない。

「蕃松院の由来について」

  • かつての寺号は「明法寺」
  • 天正11(1583)年、田口城主・依田信蕃は岩尾城攻めで戦死
  • その子の松平(依田)康国は小諸城主となり、父の菩提を弔うため居館跡に堂宇を再建し、父の戒名から「蕃松院」と寺号を改めた
  • 江戸時代以降、田野口藩(大給藩・奥殿藩)の庇護を受ける
  • 天明6(1786)年から歴代藩主の位牌を安置している
  • 寛政2(1790)年、落雷のため本堂焼失
  • 文政5(1822)年、本堂再建
  • 寺の裏手には信蕃・信幸兄弟の墓と伝わる五輪塔があり、近年その下から愛刀らしきものが発見される

と書かれていた。

お寺の建立経緯には田口氏が1ミリも関わっていないので仕方ないのか。

 

田口氏は室町時代以降、豪族として当地を治めていたらしい。新海三社神社の神宮寺である上宮寺にたくさん寄進しているそうだ。

  • 田口長慶、天文5(1536)年の武田信虎の佐久侵攻に対して、村上義清方として海ノ口城を守る
  • その後、武田信玄に仕える
  • 田口長慶の子・田口長能は天文17(1548)年上田原の戦いで大敗した武田信玄から離反した。武田方の小山田信有に攻撃され、田口城陥落、本人も討死=田口氏滅亡
  • 相木(依田)氏が田口城主となる
  • (芦田)依田信蕃が田口城主となる

相木氏・依田氏に城主が変わってからも、館として機能していたようだ。

 

田口城の本郭には大井氏神の祠という古い祠が遺されているそうで。じゃあ歴代城主が大井氏と血縁関係があるのかと思いきや、田口氏も依田氏も関係があるような雰囲気でもなかった…。

大井氏は小笠原系で、依田氏は清和源氏なんだってさ。依田一族のうち芦田氏は大井氏の重臣になり、芦田氏から分かれた相木氏も同じく大井氏の重臣となった。大井氏は依田氏の主君筋であったが、大井氏宗家の滅亡ののち(宗家は滅んだが甲斐武田氏系の人が大井氏の名跡を継いだらしい)、両家とも独立したらしい。

田口氏は謎の一族らしいしなー。祠は誰が設置したんだろう? 

 

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仁王門より奥、お寺のお堂がある場所は少し高い。

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仁王門は明治21(1888)年に建てられたもの。日本に曹洞宗をもたらした久我家(村上源氏の宗家)出身の道元の兄弟の子孫に当たる久我通久侯爵が扁額を書いたとあった。

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お寺は賑やかだった。全体的に新しい雰囲気だった。仁王門も平成に改修しているそうで、本堂とかもあちこち手直ししているのかもしれない。

 

 

★★★★☆

中まで入ってみたかった。

 

 

<田ノ口館>

築城年 不明

築城主 田口氏?

龍岡城(田口陣屋)

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家族の用事で佐久まで車で出かけた。中部横断自動車道初めて通った。

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ついに欲しかった御城印を手に入れる日が来たのだ。

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しかし日曜というのに、御城印を配布している施設は休みだった。ここは毎年8月1日お休みらしい。なんで?と思ったが、この日町の人達の多くがお墓参りをしている様子だった(戌の満水の墓参と少し時間が経ってから気付いた)。また出直します…。

 

龍岡城址が現在小学校となっていることは以前から知っていた。小学校だから部外者立ち入り禁止だと思っていたのよね。

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この小学校は立ち入りを禁止ではなさそう? 休日なので学校には誰もいない。

 

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幕末に許可を受け新築されたお城で、日本に二つしか無い西洋式城郭。もう一つは函館にあるやつ。

 

ここに新築された経緯は

  1. 三河奥殿藩の藩主は徳川家康の5代前の松平家当主松平親忠の次男の子孫である大給松平家で、信州1万2千石と三河4千石の領地を持つ。

  2. 大給松平家初代は先祖ゆかりの三河国加茂郡大給(6千石)を知行地としていたが、2代目が大坂の陣の功により、近畿地方に領地(1万石)加増となる。本拠は大給に置いたままにしたので大給藩の藩主家となる。

  3. 3代目のとき、近畿地方などの領地(1万2千石)と信濃国佐久郡田野口(1万2千石)を交換される。大給が山の中で狭いという理由で本拠地を三河国額田郡奥殿に移転し、奥殿藩となる。

  4. 幕末になり、領地の大半がある信濃国佐久郡田野口への本拠地移転が幕府に許可されたので思い切って洋風城郭にしてみた。当時の当主の松平乗謨は学問好きで西洋事情にも詳しかったらしい。龍岡藩となる。

  5. しかし、城郭としては未完成のまま明治維新となった。龍岡藩は財政破綻し廃藩。

 

こういうお城、15世紀のイタリアが発祥らしい。正式名称は星形要塞というようで発展してきた発展してきた砲に対して防御力を高めた形の要塞だそうだ。

  • 従来の高い城壁は砲で簡単に壊される為やめて、砲を撃ち込まれても崩れない厚い土塁を作る
  • 至近距離から大砲を撃たせないための広い堀を設ける
  • 堀の外側からも撃てないように土塁を傾斜付けて盛っておく
  • こっそり城に近づいてくる敵兵を城内から殲滅できるように死角を作らない

という構造となっている。また、高所からの攻撃に脆いため山間部には作らないことが前提。

龍岡城はすぐそばに山があり、山の上には田口城跡がある。田口城から大砲撃ち込まれたらおしまい。

五稜郭展望台も田口城に設置されていた。

そして、堀もしょぼい。土塁の高さもイマイチ。

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置いてあったパンフレットにも「松平乗謨は早くから洋式築城に憧れていた」「高所からの攻撃に弱いことや当時の大砲の射程距離などは本人も分かっていた筈なので、この築城は一生に一度の夢を託したものであったとも言える」などと書かれてしまう。ちょっと切ない。大給松平家はお城を造れない格式の家なので、堀の幅も土塁の高さもこれが精一杯だったのかもしれない。

陣屋も建築するにあたり制限があるようで。石垣は低く、堀は浅く、櫓はダメ、塀に狭間も禁止、郭は一つだけが基本。内部は役所とか藩主住居程度で防御力が低い。敷地の面積とか立地とかも条件あったのかもしれないなー。お城造った人、最終的には陸軍総裁に就任したそうなので、このお城を造った経験が何かで生かされたかもしれない。

陣屋とはいえ、端っこはこんなのもある↓ 

 

これは龍岡城の枡形だったらしい。横を通り過ぎたが鳥居しか目立たず。近くの新海三社神社の参道かな? と思っていた。

龍岡城のパンフレットによれば新海明神下屋敷道という名前のようだ。「田野口村入り口」には土塁とか土手があったとあり、ここのことらしい。鳥居も随分年季の入ったものなので、幕末のお城造成と同時に造ったんじゃないかと思う。現在この部分を避けるように舗装路が続いている。

新海三社神社(新海明神)は佐久地方の総社だそうだ。古地図にも描かれているような、これより大きな鳥居(一の鳥居なのかなー?)が他の場所にあり、群馬県に向かう古道沿いにあった。

枡形に置かれた鳥居は佐久郡の集落沿いを結ぶ佐久甲州街道側にあり、新海三社神社には向かう少し大きめの通りという感じ。新海明神下屋敷路の両側には古くて重厚なお屋敷が建ち並んでいる。

 

御城印を配布している施設の辺りは、惣門と面番所・家老や中老の屋敷があったようだ。現在は↓

この門は明治とか大正期っぽい雰囲気よ。

 

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小学校の入り口である大手門というか、大手橋。

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松平氏発祥の岡崎市と提携したことを示す標。

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すっかり字が読めなくなった石碑。

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大きな石碑の後ろでひっそり打ち棄てられた小さな石標があった。

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これも随分古そう。味わいがある字。龍岡城はこの地区のシンボルとして大事にされている。

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大手には説明板が二つもあり、これ↑は相当古く見えるが文字が彫られているので読めた。

 

本城は文久三年旧龍岡藩主松平乗謨(後名伯爵大給恒)其の居城として九月工を起し
慶応二年十二月竣工我国に於ける欧式築城中五稜型の典型である
明治四年廃藩とともに廃城となり建造物は撤去させられ其の一部が小学校舎として使用されている
累濠に破壊せらたる所あるを以って修理を加え其の旧規を存す

注意
一、累濠を破損せざること
一、工作物 樹木等を損傷せざること
一、其の現状を変更せざること
昭和九年五月一日 文部省


昭和9(1934)年に国の史跡に指定されたようで、その時に掲げられたもののようだ。
 

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この辺りはお城の正面なので、堀が綺麗。

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橋を渡ってみる。

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蓮で埋め尽くされていた。花は終わっちゃってるみたい。

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堀の形が大分変だと思った。無理やり星形にしているせいだ。

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石垣の高さは堀の底から3.4mだそうだ。一応?武者返しも設けてあり、石垣の上には土塁が2mちょっとの高さで盛られ、頂上の武者走りは幅2m程。この石垣は大手橋付近はしっかり造っているけど、大手橋の反対側(雨川側)に近づいていくと打ち込み接ぎ・堀が狭くなる→野面積み→堀は未完成と残念なことになっていく。

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橋を渡ると古い門柱があった。

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廃城後、小学校が設置されたのが明治8(1875)年。一瞬、龍岡城の門なのか、と最初思ったが。パンフレットには

  • お城一番の難工事は石垣で、当時の高遠藩が養成していた洋式築城石工を招いて3年をかけて造った
  • 採石した石を接合面を成形して積む切り込み接ぎで造られている
  • 大手橋付近は布積みで、大きめの石を積みあげ横目地が通り美しい
  • 砲台付近は石を六角形に加工し亀甲積みとしており、極めて美しい

と書かれていた。手前の門柱はやっぱり明治以降の物だろうなー。

布積みは強度がイマイチらしい。まぁ、このお城の立地条件そもそもイマイチだという評価だしな…。

ちなみに「砲台」は五角形の各先に造られる筈が結局一カ所しか出来上がらなかったようだ。

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↑この写真の正面にある、旧校舎(元はお城の御殿の一部で、お台所だったそうだ)の裏辺りに砲台があるようだ。

 

 こんな場所らしい。道路は堀跡かねー?

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図によれば御殿は校庭にあったみたい。

旧校舎の元台所も最初は、

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現在と反対のこちら側↑にあったとか。

内部の建物は廃藩したときに国から取り壊しを命じられ、解体されたあとに一部お寺や一般の民家に貰われて移築されて残っているものもあるらしい。台所の建物は「小学校に使いたい」という申請が許可され、遺された。昭和4(1929)に現在地に移され、昭和35(1960)年に復元工事が行われ今に至るとか。

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建物がない部分は土塁まで見通せるので。土塁がクネクネしているのよく分かる。

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現在の小学校。近々閉校の予定だとか。小学校が閉校した後ここを史跡として何かしたいという議事録を読んだが、その中に150年分700冊ぐらいの陣屋日記があるという記述があった。それは欲しい研究家いるんじゃないかな…もったいない気がする。

小学校の通用門として使われている旧黒門もあったが、かわいらしい石橋が架けられ車もギリ通れる様子。
 

ここまで車で見に行ったけど、切り返して戻るのが難儀だったよ。

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小学校の片隅、正門入ってすぐ右手には神社があった。

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田口招魂社。

こちらにも龍岡藩主家・神社の縁起・田野口藩と幕府領と岩村田藩の領地内訳の図があったが、消えかけて読みにくい。藩主家の説明はそこら中に書かれているからまあいいけど。

元は藩運営に功績があった3人の藩主を祀る三社神社として城内に建立されていたものを、戊辰戦争(1868~1869)のときに戦死した4人を合祀し以後招魂社となったものらしい。戊辰戦争(のひとつである北越戦争)の後、現在までの戦死者もあわせ合計207柱の神様を祀っているそうだ。

大所帯。

明治2(1872)年招魂社となったようだ。万治元(1864)年に戦没者の身分を問わずすべて神として祀る櫻山神社が建立され、明治に入ると全国各地に戦死者を慰霊する「招魂社」が建てられるようになったそうだ。

長野県だと松代妻女山招魂社(妻女山陣場跡)と岩村田招魂社(岩村田城跡)と上高井招魂社(須坂藩陣屋跡)の3社が官祭招魂社として建てられ、次に私祭招魂社として田口招魂社など4社が建てられている。

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神社手前の狛犬の台座には

「揚宣」「威国」
と書かれており、右から文字を読んでやる感じの、戦前に設置されたような雰囲気だった。国威宣揚といえば、昭和15(1940)年の皇紀2600年記念事業関連で建てられたんだろうか? ってイメージ。

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社殿は昭和28(1953)年に改築。狛犬達より新しいと思われる。

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社殿の裏・右手も歪な土塁が続く。

土塁の上に桜の木を植えちゃっているので、樹木にも良くないし土塁下の石垣にも良くない状況だそうな。

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とはいえ、桜が咲いたら風情があるねって思うよ。

 

 

 

★★★★☆

日曜だからすんなり入ることができたが、平日は変質者扱いされる…かも?

 

 

 

 

龍岡城

築城年 文久3(1863)年

築城主 松平乗謨(大給恒)

塩田城

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10年ぶりに1人で飲みに行った。好物の馬刺しの店だよ。盛り合わせとかホルモン煮込みとかもあって、しこたま飲み食いしたよ。盛り合わせには、死ぬ前にもう一度食べたいと常々思っていたタテガミがあった。やったー。

何故か写真が上記のものしか残ってなかった。お酒は長野県内のものがほとんどで、焼酎の種類が少なく(もぐらが飲みたかった)、代わりに日本酒がっつり飲んでやったぜ。「美味い」以上の感想が出てこない。翌日、口内炎になった。食べ過ぎた。

 

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塩田城だよ。ここは紫陽花で有名な場所らしい。

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確かに紫陽花らしき植物が物凄く生えている。まだ咲いていないので観光客は皆無。

ローカル天気予報だったか、ここの紫陽花が見頃です! っていう小ネタを何年か前に見たような記憶がある。

周辺地図↓(※「現在地」とある場所は塩田城ではない)

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wikiによると、

  • 長野県における中世城郭最大級
  • 昭和42(1967)年~昭和52(1977)年にかけて、発掘調査が何度か行われた
  • 鎌倉幕府第六代連署(執権に次ぐ要職で、現代風にいうと副総理の偉い人)北条義政が建治3(1277)年より当地に居住し、居城とした
  • 元弘3(1333)年、塩田北条氏は鎌倉にて滅亡(鎌倉幕府も滅亡)
  • その後の支配者は、村上氏→武田氏→村上氏→武田氏→真田氏→廃城

とあった。

財力ある一族が作ったので規模がでかいです。ということみたい。

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ちなみに、塩田城に辿り着く前にうっかり前山寺に入り込んでしまった。

そして、この先行き止まりとなる(神戸川渓谷へ下る徒歩道らしきものもあったが、通行止めだった。凄く荒れているようだった)。

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お城の入り口にも谷へ下りる通行止めの道があった。ココに出てくるのかな? こちら側だと荒れている風が感じられなかった。

山の奥へと道が伸びる。

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非常に蒸しており息苦しく、またやたらと虫がいる。

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ぽつんとお墓があった。

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祠っぽいが、先ほどのお墓の近くにあったので…こちらもお墓かな?

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窪地がところどころある。近くの集落から山の方までずっと、段郭がたくさん遺っているらしい。この辺も発掘されたのだろうか。

そして急に、植林されてる感じの場所に出た。

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図にあった「発掘地点」だそうな。

説明板があった。

  • 昭和54(1979)年以前から何度も発掘調査が行われ、「虎の口跡」「空堀跡」などその特徴を確認してきた
  • 昭和50(1975)年から昭和52(1977)年度にわたり、3回の大規模調査が行われた
  • 調査地点は麓集落から数えて14段目の段郭
  • 建物跡や土器・陶器・磁器・金属製品(小銭や刃物類、釘等)・石製品(硯や石臼等)・木製品(塗物、曲物、箸みたいなもの、将棋の駒、人形、建築部材等)が見つかる

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発掘地点は自然に還りつつある。

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そして更に奥へ。こういうフェンスがどうも苦手。

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扉を開けて進む。軽トラ幅の轍が遺っている。鉄塔とかの施設でもあるのだろうか?

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そして長野の山とは思えない感じの大きなシダ植物が現れ始めた。

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フシギハナの葉っぱみたいだわ。デカい。調べて見たがオシダという植物かしらね? 

初めて見た気がするけど、長野県内の山間地にはよくある植物だそう。ブナ林帯で、笹が生育しづらい岩がゴロゴロしている場所にいるらしい。

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確かに笹薮がない。

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そうかと思えば竹が生育中だし。ちなみに、笹は寒冷地でも育つが竹は育たない(北海道には竹が生えていないそうだ)。

オシダ?は見た感じ亜熱帯風なんだけど、寒冷地のシダ植物だって。ここの湿気がすごいこともあって、アマゾンの植物だとしか思えなかったわ。

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分かれ道に来た。

右側は「虎の口を経て国時の墓」とあり轍がない。

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左側は三島社へ向かう、轍有りの道。

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まずは轍の残る三島社行きの道を通った。

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遠くにお社が見えた。

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この辺は下草がさほど生えていないようで、郭の様子が分かった。

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家帰ってから知ったが、三島社の裏手に畝状の竪堀が五本あったそうだ。分からなかったわ。まあ雑草が繁っていて歩くのも難儀そう。

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三島社は大山祇神を祀る神社だそうだ。山の神様だー。

お参りをする。

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三島社からも道?があるようだ。怖いから行かない。

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三島社の総本社である伊豆国三嶋大社源頼朝が篤く信仰したそうで、当然鎌倉幕府も崇敬されている。お城の守り神としてこちらに勧請されたのかな?

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お城の石碑から三島社までが「御前」と呼ばれる区域で、城の中心部だそうな。

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「御前」だけでもとにかく広い。きょろきょろすれば、至る所に郭らしき平場が見える。

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先ほどの分岐点に戻った。

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進んでみる。

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例のシダ植物が増えてきた。お城入り口のフェンス辺りで「暑い、虫が多い」とイライラしていたのに、すっかり慣れてしまった。マスクは息苦しいので止めちゃったけど。

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お城の中枢部である「御前」からは離れてしまったはずだけど、人工的な地形が続いている。

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ちょうど左側に三島社が見えた。杉林を突っ切っても来られそうな気がした。

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ここはよく見ると。

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石積みしてあった。

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崩れているけどさ。そういえば、入り口の図には三島社の上辺りから石垣がしこたま描かれていたな…。

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どうやら石垣エリアに着いたらしい。

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往時は凄かったんだと思うよ。土塁はいっぱい残ってる。

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この場所はお城の本郭に向かう最終防衛ラインなのか分からないけど、すんごい迂回させられている。見通しも良くない。大きいシダ植物ばかり目に入り、とても気になる場所だった。

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そして急に奥に平場が見えた。この辺りの石垣は崩れずほぼ原形を留めている。

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鎌倉時代に作られたものじゃないのかなー?

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鎌倉時代にも石積みの技術があり、福岡の石築地というのが有名らしい。これは元寇の時に博多湾に整備された石塁だそうだ。モンゴルの2度目の襲来から国を守ろうとしたらしい。

石築地とはこういうの↓

 

ちょうど、塩田北条氏の祖がここに移住する前後(家祖の北条義政は執権の北条時宗を支える立場で、第1回目の元寇文永の役)辺りまでは政治の中心にいたようだ)に福岡の石築地が造られている。似たような感じに作ってみたのかな?

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重要な場所なのか、説明板があったよ。

  • 塩田城跡「虎の口」
  • 塩田城跡は弘法山の北斜面にあり、塩田平を一望できる位置にある
  • 南北約700m、東西約80mにわたり20以上の段郭がある(「御前」のことらしい)
  • その北側には南北約700m、東西約200mの規模の集落があり、これはかつての侍屋敷の名残り
  • 現在「塩田城跡」という石碑が置かれている場所を境とし、南の弘法山に段郭(御前)、北側に集落(侍屋敷跡)がある
  • また石碑は空堀跡(長さ約180m、幅約20m)に置かれている
  • 「虎の口」は坂城の村上氏統治時代のものとされている
  • ここから更に登るといくつか小さい郭があり、北条時国と伝わる墓がある郭に到達する、その辺りが城跡の最高部
  • 「虎の口」は昭和43(1968)年、44(1969)年、45(1970)年と3回調査した
  • 戦国時代以前の石垣、城郭内最大の井戸などが発見されている

この説明板はお城入り口の図なんかよりずっと新しいようで、平成28(2016)年におかれたものだった。

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ここにも見事な石塁が。

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どれが戦国時代以前(室町時代ってこと?)の石垣なんだろう?

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そして「虎の口」って虎口のことなのかな? って思ったけどむしろ城の最奥部に近いし、井戸もあるし、ちょっと違うのかな? 「虎の口」という言葉は極めて危険な場所とか事柄を意味するみたい。転じて重要な場所ってことなのかも?

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この場所はまあまあ広いという感じ。井戸と最奥部の墓を死守します的な場所?

 

そういえば、道中あまり案内表示やピンクテープもなく、自分で何も考えていなかったのに、迷わず来られたわ。行き来する人が多くて道が明瞭なのかなー?

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井戸あったー。

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井戸の上にも郭らしき平場が見えるような。

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まだ先があるので行ってみる。

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なんか雑な感じがする。

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でも道は分かるよ。

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やっと案内表示を見つけた、非常に時代を感じるヤツだ。

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道のまわりは急斜面で歩ける場所が決まっている様子。

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落ちても怪我しなさそう。

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やっとピンクテープ見つけた!

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ただし、人が入って山を管理している風はない。自然のままにされてそう。

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さほど時間かからずに、次の目的地に到着したようだ。

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最奥はさっきの「虎の口」より広いみたい。

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お墓。

北条国時と子の俊時のものだそうだが、この2人は元弘3(1333)年元弘の乱における鎌倉での合戦で戦死しちゃったそうだ。だから、ここにお墓があるのは間違っていると思う…。実際のところも供養塔であり、故人がここに眠っている訳ではないらしい。

 

山の中なのに妙に日当たりが良く、とても明るい。龍の巣内にある歴代ラピュタ王の墓みたいな感じだった。塩田城域の一等地だと思われる。

やっぱり、ここまでお参り?に来る人が多いようで、お墓にワンカップなどお酒が何本も供えてあったよ。私もお参りしました。

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お墓の上も何か広そうな場所があるよ。

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ただ、この先はとにかく荒れているようだ。弘法山に行けるらしいが、とにかく険しいとか。

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さきほどのお墓みたいに明るくない。建物が建てられそうな程度広い。

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 ちなみに、ここでオンボロデジカメが壊れた。お墓の呪いが発動か。

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弘法山の頂上まで塩田城の土塁やら砦やらが残っているらしい。山全体が要塞なのかな。「弘法山」という名前の通り修験道の修行の場でもあったみたい。

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↑この図にも弘法山には石仏だらけのアレとして描かれている。

 

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眼下にはお墓。

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そして弘法山頂上方面。弘法山まで迷わず到達できる自信がないどころか、無事に下山できる気がしない。

ビビりながら下山します。

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こんな表示があった。ちょっと道は分からなかった。

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「虎の口」到着。

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石垣を抜けた。更に下る。

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ほぼ麓についたところで、突然デジカメが復活。

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お墓に許してもらえたのだろうか…。静かに帰ろう。

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無事にフェンスも通り抜けた。良かった。

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「塩田城跡」の石碑も通り過ぎ、侍屋敷跡と言われる集落方面。

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休耕地が広がる(田植え前なだけかなー?)。デカいお屋敷建てられる平地がたくさんある。

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空堀跡の遊歩道(奥)と車道↓

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遊歩道をせっかくなので歩いてみる。デジカメもまだ生きているし(お墓もこれぐらいなら呪ってこないかもしれない)。竪堀跡を探してみたい。

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でもデジカメさんには休憩してもらうことにした。

 

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入り口の図↑には龍光院に向かう道のようだったが、案内看板は塩田の館という施設を目指す表示となっていた。

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塩田の館は塩田城の発掘調査の成果を展示している施設らしい。

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山の中のよくある道に見える。

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途中、水が溜まっている箇所があった。

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祠。移設されたものか、なんとなく新しいような気がする。道中安全祈願。

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なんとなく竪堀を探しているものの、それらしきものが分からず(夏草でもう見えないよ)。

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ちょっと舗装(石畳)され始めた。

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道は山裾に沿うように曲がる。

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完全に畑の畦道化した。

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井戸らしきものを発見。ただの井戸ではなかったようで、説明板があった。

  • 大昔、偉いお坊さんが旅の途中にふと見つけた泉に映る中秋の名月を見て「月餅のようだ」と呟いた
  • 故郷の中国を思い出したのか
  • 月餅は中国のお菓子で、丸い物は幸運を呼ぶと大変喜ばれている
  • 里の人々はこの泉を「月餅」と呼び、大切に守っている
  • 干魃の時でも泉は枯れないと伝わる

坊さん、単にお腹空いていたのでは? という微妙なエピソードだわ。

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やっぱり井戸に見えてしまうしねえ。

 

ただ、中国から来た偉いお坊さんが泉を通りかかって呟いた話は生々しい印象を受けた。坊さんは実在してそう。

月餅の先は細長く何処までも続く階段とぶつかった。

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右も左も、大人1人だけが通れる程の幅の階段。

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両側は1m程度の生け垣で、ちょっとした圧迫感がある。

まさかこれが竪堀ではないよね?

ちょっと登ってみたら鐘撞き堂が見えた。龍光院の参道らしい。

 

後で調べたところ、龍光院は塩田北条氏の菩提寺だそうで初代の北条義政さんを供養するため2代目が建てたお寺。初代のお墓があるそうな。細長い参道の先っぽい。つまりこれはお墓参り用の道として造られたんか?

元来た道へ引き返した。

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竪堀がありそうな場所なら↑ここ? と思ったけどもう草ボウボウで!

 

 

★★★★☆

弘法山まで登るなら、一日潰す覚悟で来た方が良さそう

 

<塩田城>

築城年 建治3(1277)年以降

築城主 北条義政

小諸城大手門+鍋蓋城

ついに御城印を集め始めた。春に龍岡城の御城印が発売されたというのを最近知ったからだ…最終的には鮫ヶ尾城の御城印が欲しい(あれは私が喜ぶ内容だわ)。

 

上田城に行った。上田城の御城印は印刷ではなく、手書きだった。気合い入ってる! f:id:henrilesidaner:20210613111238j:plain

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真田神社では茅の輪くぐりしてきた。御朱印を求めてやってくる人が多いようで、御朱印帳片手の観光客いっぱいだった。

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上田行った理由がコレ↓なんだけどね。信州の土木カード第3弾。

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取り組みやすい範囲。

 

その後は電車で小諸へ。

途中の駅で凄い物あった↓

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化学泡消火器じゃないの!? 実物を初めて見たわ。ボロボロだけど。中の構造までバッチリ見えるぞ。しかし何故あんなところに?

 

小諸到着。

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小諸での目的はご飯。とても美味しかったです。

テラス席にした。ハーブの良い匂いがただよって居心地が良かった。

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そして懐古園小諸城)へ。

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さらーっと天守閣跡登って。

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さらーっと水の手展望台へ。

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今は橋かかっているが、元の構造は違うらしい。

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水の手不明御門跡という案内板があったい。

後に(大手門のところで)教えてもらった話だが、ここには開かずの門があり城が落ちるヤバイと切羽詰まったら城主が逃げるところなんだって。

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下の石にはブツブツがついている。どういう理由のブツブツなのか分からず(滑り止めとかでつけたのか、水滴が穿ったのか、単なるデザインなのか…)。

門の礎石が見当たらなかったが、橋の下にあるのかな?

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本来は横の階段から登るようだ。

ただ、いざ逃げる時ここからどうやって崖下へ下りるんだろう? みたいな場所。

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眼下は千曲川だよ。とても低く見える。

 

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さらーっと歩いた。三の門は崩れちゃったようで、工事中。

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時間があったので、大手門まで行った。

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櫓のところ、開いてない?

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こちら側はがら空きだけど。

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反対側は兵士配置出来るみたい。狙われてるー。

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どうやら上登れるらしい。何かやっているみたい。

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行ってみた。

 

内部は資料室だった。ボランティアの方が居り、小諸城と大手門とかの説明をしてもらった。

  • 大手門は四の門とも言われ、お城の入り口の門でもある
  • 明治維新後民間に払い下げられ、大手門は料亭となる
  • 他の門は買い手がつき移築されたものがほとんどだが、三の門は大きすぎて移せず
  • ちなみに水の手展望台の不明御門は買う者がいなかったそうだが、現在は所在不明
  • 料亭のあとは学校とか図書館としても使われたあと所有者から市へ寄贈された
  • 国の重文指定を受け、改修した
  • 図面が遺っていたので、江戸時代当時のものに復元した
  • 建材も当時のものをなるべく使用
  • 大手門の中には三の丸などがあったが、面影はなし(さっき食事した場所とか含まれる広範囲な郭)
  • 今は小諸城内の雰囲気ない、なぜなら信越本線でぶった切られ駅前として開発されたから
  • 大手門は小諸城内の他の門(三の門とか)と違い、往時から瓦葺き
  • 古い形式の門で、東日本だとあとは弘前城の門ぐらいしか遺っていない
  • 小諸城の原形はこの近くにいた人(名前は言わなかったが大井氏だと思う)だが、武田氏がやってきて作り替え、最終的には仙石秀久が整えた

大手門の櫓内部に地図があり、「ここにいた人がー」と屋敷を構えた場所を教えてくれた。

 

その後、小諸城が酷い水害に遭い三の門が壊された話(聞いたら、戌の満水だった)、三の門近くの徴古館は本丸御殿を模している話とか、

↑徴古館

懐古園料金所近くは本来もっと石垣が狭くなっており、敵がわっと押し寄せないようになっていたとか、水の手展望台は城主が逃げる最終手段である場所とか。

そういう話を聞いたよ。

 

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↑こっちの方角に館跡があるはずなので行ってみる。

 

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布引トンネルの看板あった。

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塀に狭間が設けられた民家が見つかった。

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どうやらココらしい。人が住んでいる?

塀の狭間は昔からあるものなのか、わざわざ作ったものなのか…。ちなみに横から見たら普通の家だった。

門にこの場所の説明が書いてあった。

  • 1487年、大井光田忠により作られた鍋蓋城跡
  • 小諸の街中に初めて出来た城
  • 武田氏統治下では鍋蓋城を取り囲むように街道が作られた
  • 街道沿いに人を移して城下町を形成
  • 同時に小諸城の原形も作られた
  • 江戸時代には小諸藩城代家老(家臣の中で一番身分が高い)の屋敷として使われた
  • この屋敷の石垣は小諸城の城郭であり、また武家地と町人地を仕切るものでもあった
  • 現在の建物は昭和に宿泊施設として建てられたもの(非公開)

説明書きには古い地図と現在の地図を重ね合わせたものも載せられていた。見た感じ、家老屋敷の敷地の真ん中を今立っている道路が貫いている。狭間を設けた塀は後付けだね。宿泊施設の雰囲気作りのために作ったわざと狭間を設けたのかな。

布引トンネルの制限云々の道路標識辺りも鍋蓋城の範囲かもしれない。

 

鍋蓋城から小諸駅まで戻ったが、ここらは江戸時代に武家地だった場所と思われる。

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工事中。公園を拡張しているようだ。工事の内容は「町並み保存」らしい

一帯に遺っている建物は明治後期に作られた商家っぽい。その商家を保存する事業を行っているようだ。

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よく見れば商家の造りしてるじゃない。

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この周辺は「禰津曲輪」「馬場」があったが、大手門で教えて貰ったとおり鉄道で懐古園と切り離され、駅前開発されたためにこういう風に商家が立ち並んで小諸城内の面影がなくなったということかー。なんかもう「うちは大昔から町人地でしたよ?」みたいな感じだよ。


★★★☆☆

一番気になったのが、化学泡消火器と鍋蓋城の名前の由来

 

 <鍋蓋城>

築城年 長享元(1486)年

築城主 大井光忠