お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

毛野館・毛野城

仕事で疲れた(毒気に当てられた)ので、浄化をしに景色の良い場所に行った。折角来たのに子供に振り回されてしまい、ソーセージ2本食べただけで終わった…今度は1人で来ようと心に決めた。

お子様連れ、お犬様連れの方々で賑わっていたよ!

 

ここから車で10分くらいの集落に、毛野館・毛野城という城館が残されているらしい。毛野と言えば群馬県と栃木県一部を示す古い文化圏の名前だが、全く関係なさそう。

現在、「諏方宮(諏訪社)」「勝教寺」がある区画が毛野館跡のようだ↓

 

勝教寺より諏訪社が高い位置にある。本郭は神社がある場所と思われる。

勝教寺は元々小さな庵のようなお寺さんだったようで、明治13年に寺号を受け改称した、と長野縣町村誌にはあったが明治時代の地図には現在地に「長命寺」という別の寺院が置かれていた(長命寺は文政12年に火災に遭うと書かれていた)。諏訪社は諏訪社でずっと存在し続けているようだ。

ちなみに、長野縣町村誌には毛野氏の居住地跡について記載があったものの、肝心の場所の記載がない(毛野氏館と毛野氏城があるので)。毛野氏についても事績不明。

 

毛野館と毛野城の位置関係は以下の通り。

 

わりと近くにある。毛野城跡は小高い丘にあった。

近くに車を置いて、ちょっと上ってみようかなってレベルの小高さ。ただ、周辺に車を置くスペースどころか、周辺の道は1車線幅で停めると迷惑になっちゃう。

↑中央の丘が毛野城だよ!

正直、城というには貧弱な感じ…。

 

別の位置から見る。大きな木が生えている微高地が毛野城。

すぐやられちゃいそうだよ。周りは宅地と田畑で囲まれているので、堀やら土塁やらはすべて消されちゃっているのかもしれない。

大きな木の下辺りに何か石碑っぽいモノが見えた。「毛野城跡」とか書いてあるのかな!? と思ったが、城主一族の子孫とされる家のお墓らしい。

戦国時代以前に帰農したのかもしれないなあ、と思った。

 

この辺りは永正年間には村上氏配下となっており、その後は村上氏→武田氏→織田氏(森氏)→上杉氏→飯山藩領という変遷で明治を迎えているようだ。

 

さて、毛野館は少し遺構が残されていた。

諏訪社の本殿。境内は広い。

西側には土塁が残されていた。

西側以外の場所は、崖。

西側には毛野城への逃げ道が存在していたはず。

 

こちらには毛野城跡を示す説明板があった。

内容は、

  • 天喜4(1056)年、藤原氏末裔の清水氏が奥州安部頼時の戦乱にあたり、鬼門除けにこの地に社殿を建立したと伝承されている
  • 拝殿の床下には畳2枚ほどの大杉の切り株が残され、境内に現存する杉も三水村で最も古い樹齢4~500年の杉
  • 広大な屋敷跡でもあり、当時は隣の寺院も屋敷の一部であったと思われる
  • 西側に土塁が残されている
  • 六百坪余りの水平地があり、相当な豪族の屋敷跡であったようだ

この文中に出てくる清水氏は、毛野城にあるお墓の持ち主のようだ。毛野城からはちょうど鬼門にあたる場所だ。

 

「奥州安部頼時の戦乱」というのは、陸奥国に半ば独立国を形成していた安部頼時を討伐するために朝廷が軍勢を差し向けた「前九年の役」のことを指しているようだ。

永承5(1050)年、藤原登任という人が陸奥守として現地に下向。翌永承6(1051)年、衣川(当時は朝廷と蝦夷の国境だった)より南へ進出しようとする安部氏となり、朝廷側が負けた。そこで、河内源氏の2代目棟梁である源頼義が派遣され、その翌年の永承7(1052)年に大赦が出され安部頼時が赦されることとなり、和睦する。

天喜4(1056)年は阿久利川事件があった年。阿久利川事件とは、源頼義陸奥守任期満了日直前に源頼義が襲われた謎の事件だという。安部氏と朝廷側が再び戦闘状態となる。天喜5(1057)年に安部頼時は戦死するが、その後も嫡子の安部貞任が戦死するまで戦乱が続いたようだ。安部頼時の娘婿が藤原経清であり、その子孫が奥州藤原氏源頼義の子孫が源頼朝前九年の役のせいで、源頼朝は奥州を征服したかったのかー。

 

毛野城主の清水氏は「前九年の役」頃に豪族やっていた一族なら、そりゃ資料にも残ってないような? と思うほどの昔の豪族だったということなのかな。

 

平安時代中期のお城ってあんまり高い場所に造る技術なさそうな気がする。大丈夫? って思っちゃった毛野城でも当時は最先端だったのかもしれないわ。



★★★☆☆
毛野館は良かった。

 

<毛野城・毛野館>

築城年 不明

築城主 清水氏?

久米路峡

信濃の国に歌われる久米路橋である。

 

以前見に行って「ちっちぇーな!」とガッカリしたので、個人的にはあまり好きではないが、県歌に出てくるぐらいだから皆好きなのかな?

元は跳ね橋だったそうで、多分犀川通船のために跳ね橋にしたのかなー? とは思った(跳ね橋といえば、幕末に完成して「皆で渡り初めだ!」と大勢の人間がドドド…と駆け込んできてそのまま崩落した大屋橋を思い出す)。

 

久米路橋(水内橋)自体は大昔から何度も掛け替えられている有名な橋。伝説では推古20(612)年に百済渡来人の土木技術者・路子工という人に作らせた約180もの橋のうちのひとつらしい。路子工はイラン系ペルシャ人で、中国を経て百済から日本へにやってきたらしい。

路子工は推古20(612)年に帰化した。身体中に白斑があったので「伝染病患者か!?」と思われて島に捨てられそうになったが、「病気ではありませんし、僕には技術があります、連れて行って」と言いなんとか難を逃れた。当時最先端の思想だった仏教の教えを用いた見事な庭園(須弥山石組)を造ったので、国のお抱え技術者となった。

日本史に記録された最初の技術者であり(当然、路子工の前にも庭師や土木技術者はいた)、とにかく以前とは比べものにならない高度な技術者を持っていたらしい。最初の仕事は造園だったのに、「長い橋を架けるのが得意」と橋メインの業績が残される。

橋の業績は、久米路橋の他には三河国八脛長橋(江戸時代に国内最長を誇った矢作橋のこと?)、木曽の梯(桟橋)、遠江国浜名橋、会津の闇川橋、兜岩の猿橋山梨県にある猿橋)などがある。

 

矢作橋は慶長6(1601)年初代開通とされる(それ以前は橋が架けられなかったという)が、平安時代末期の源行家矢作川に架かる橋を取り外して云々(平家物語巻6洲俣合戦)という文があったり、矢作橋で子供時代の豊臣秀吉のエピソードがあったりで、謎が多い。

 

福島県の闇川は渓谷で有名らしい。闇川橋より隣の古い鉄橋の方が人気あるらしい。

 

ここではどうやら闇川橋は「聖徳太子百済人の路子麿に造らせた180の橋のうちのひとつ」ということになっているらしく。この橋の近くに祀られた橋姫神社も橋守として創建されたらしい。闇川橋のすぐ近くに福島県内最大の縄文時代の環濠集落(ムラ)跡があるという。

国道121号線が阿賀川を渡り始めるカーブ辺りの田んぼを発掘調査したら出てきたらしい。橋姫神社と闇川橋は↑この地図の左下にある。

この場所ではどうなのか分からないが、環濠集落の堀の上に橋を架けていたことが発掘調査で分かった例がいくつかあるようだ。推古天皇の時代に架けたという闇川橋もそういう感じなのかなー? ひょっとしたら推古天皇時代の大和朝廷北限が会津盆地で、蝦夷に最新の文明を見せつけてやる為に架けたんだろうとか、色々な妄想が広がりそうな橋だな!

また闇川橋は戦乱で度々落とされているらしく、このルートは古くからある道だったようだ。災害で通行止めになった鶴ヶ城城下町と日光を結ぶ会津西街道の代替道として整備された会津中街道のルート上でもある。国道121号線の旧道っぽい雰囲気も持っている。

 

久米路橋、猿橋、木曽の梯、浜名橋は古くから和歌に詠われる有名な橋たちである。

久米路橋は拾遺和歌集に選ばれた和歌「埋もれ木は中むしばむと言ふめれば久米路の橋は心して行け(詠み人知らず)」がある。ちなみに、昔は水内の橋と呼ばれており、久米路の橋(久米路橋)という名前になったのは明治に入ってからだという。結局、矢作橋みたいに古代からあったんだかなかったんだか…ということなのかもしれない。

 

そんな久米路橋を渡った先にあったトンネル(久米路隧道)↓の方が私の心を打ったよ。

 

堀跡も荒々しく、ワイルドだな。昭和6(1931)年生まれの現役隧道だそうだ。一部覆っており、補修の跡もあった。

現役の久米路橋も昭和8(1933)年に架けられたそうで、多分この二つはセットである。久米路橋は令和三年に登録有形文化財になった。久米路隧道も一緒に登録して欲しかったな。

 

あと、私の心に何故か残る「雉も鳴かずば撃たれまい」の生まれ故郷だった。

現在の久米路橋・久米路隧道は交通量は少ない(でも、国道19号不通時の代替道路として整備され続けている)。国道19号には新久米路トンネルがあり、小さな「←久米路峡」という案内板に惹かれなければ普通コッチまで来ない。

 

ここでは、大がかりな工事が行われているらしい。

犀川の流路にある変な出っ張り部分に、河川用のトンネルを2本も掘っている。この出っ張り、素人の私ですら「邪魔」と思ってしまうわ、なんであるんだろう(私がもし腐るほどカネ持ってたら、こんな出っ張りすべて爆破してなくし、川の流れを整えてあげたい)。ここに水路トンネル掘りたくなる気持ちがよく分かる。

久米路河川トンネルさん。平成4(1992)年竣工、長さ229m。

 

久米路第2トンネルさん(右側、開口部が四角い)。平成26(2014)年竣工、長さ199.5m。断面積は水路トンネルとしては国内最大級らしい(高さ12m、幅15m)。

2本のトンネルとも稼働中。まだどこか工事しているのかな?

砂利トラが当日も出入りしていた。

 

昭和58(1983)年の台風被害がキッカケで、昭和60(1985)年から「犀川久米路恒久治水対策事業(3点セット)」という大がかりな工事をやっているそうだ。この事業には東京電力(長野県内はほぼ中部電力の勢力下なので馴染みがない)も協力しているそうだ。東電が出ていたのは、久米路峡から下流側に東電所有の水内ダムがあるからだろう。

昭和58(1983)年の台風10号は中心気圧885hPaとかいう強い台風で、長野県内でも千曲川が決壊するわ、諏訪湖が溢れるわ、色々大変だったらしい。

久米路峡近くの信州新町の中心部が浸水したそうで、620棟もの家屋が浸水したという。犀川の水位が最高約431mまで上がったとかで、一階部分は水没状態、平屋だったら死んでるかもね。信州新町だけで被害額が32億900万円。町の住民は水内ダムがあるせいで町が水没したとダム設置者の東京電力と交渉を開始し、東電から5億円の解決金・3億8500万円の生活再建費用を引き出すことに成功。

一方長野県は、模型を使った実験を行いその結果から治水対策としてこの事業を行うことになったという。なので、事業に東電が協力することになったのかな。

 

信州新町だけではなく、どこも水害に対する備えとして河川改修・ダム設置など治水対策関連の事業が活発になったそうだ(そういえば、元々沼地みたいな場所だった長野市松代でも、この台風のせいで地中にでっかい排水溝とか埋める大きな工事やったとか数年前に聞いたわ。そのせいで令和元年の台風はまぁまぁの被害で済んだのかもしれない)。

 

事業名にある3点セットというのは、長野県が実施した実験結果と住民の意向で決まった以下の事業を指す。

  1. 久米路河川トンネル
  2. 杉山開削
  3. 久米路第2河川トンネル

「杉山開削」は少し上流で信州新町の中心部に近い杉山という場所を削ったことのようだ。

 

本当は久米路峡を削りたかったらしい。気持ち分かります。久米路峡を削る・爆破させることは景観破壊だとして住民に反対された。

 

平成26(2014)年、久米路第2河川トンネル開通により、すべての工事が完了となっている。

 

泉小太郎像。
ここの泉小太郎君は、かつて大きな湖だった安曇野を開拓した人として語られている。

  • 安曇野は大きな湖で、犀龍(女の神様)と白龍(男の神様)が住んでいた。この2人の子供が泉小太郎である。
  • 小太郎が生まれてすぐ、母の犀龍は自分が龍だということを恥じて、湖に隠れてしまう
  • 成長した小太郎は母を探しながら、「こんな大きな湖の水を落としたら、肥沃な平野が生まれて貧しい人々の暮らしも豊かになるのにな」と思うようになった
  • そして母の犀龍は小太郎と再会し、小太郎の願いを叶えようと龍の姿になり、小太郎を背に乗せ三日三晩荒れ狂って湖の水を越後の海に注ぐことが出来た
  • 小太郎と母の龍が湖の水を流し降った川を「犀川」と呼ぶようになった

大昔の安曇野開拓と犀川の治山治水を語った話であるともされるようだ。

 

母親も(多分)父親も龍なら、小太郎も龍になるんじゃないかな? と思うこともあるが、泉小太郎君は人間という設定である。

平成3(1991)年の手形がいっぱいだよ。

 

 

★★☆☆☆

治水事業の完了を記念した公園がある、久米路峡の公園は寂れているし狭い。

 

 

 

信州新町のオシャレ洋館も見てきた。

宴の城

先に見える小高い丘のようなものが「宴の城」という場所だという。

入り口?の案内板には、

  • 左手前方上部が城
  • 篠ノ城の出城か砦、岡田氏の要害、大塔合戦に(兵士の休息所として)使用した、と色々伝わる
  • 色々伝わっているものの、詳しいことは不明
  • 展望がよく、水利もあり、手頃な広さで、とにかく昔から「城跡」だと言われている

という、かなりざっくりした内容だった。

 

「篠ノ城」はここから動物園・恐竜公園を抜けた奥の山に残されている。直線距離で500m離れている。布施御厨を治めていた布施氏の初代・布施三郎(布施惟俊)が土着し、その子孫の布施頼直という人が篠ノ城を造ったという。布施氏初代の父親は平正弘といい、伊勢平氏の傍流だが保元の乱崇徳院側として戦った結果、領地没収の上、流刑・斬首でほぼ滅亡しているらしい(信濃土着組は名乗りも変えているし、いち地方豪族として中央との関わりと絶ったからとか、兵力がないとか、そんな感じで見逃されたのかな?)。

岡田氏はなんか地元の土豪か何かじゃないかな…? その一族のことは謎だけど、「宴の城」がある場所は古くは岡田村という名前だった。

まあ、見晴らしも良いし、出城・砦(要害)の類いが置かれそうな場所だよ。

大塔合戦では、名前の通り宴で使われたと言われている。

 

とにかく上ってみよう。

整備されているのに、右側は葛が繁っている。

まさか葛畑? 葛を育てている農家なのかな。葛粉は長野でも生産されているのだろうか?

ネギ植えられてないか? あらら人の家の畑なのか。

見晴らしは良かった。肝心の眺望の写真がないが、こんな感じ↓

周りの民家に比べても、ここだけ小高い。

人が集まって宴会する場所としても優れているかも。

「宴の城」自体は口伝として残されていたのか、本当に資料がないらしい。ふざけた名前を付けられているが、見た感じただのひょっこりした丘だし遺構もなし。「中曽根という場所に家臣の館があった」という話が長野縣町村誌「岡田村」に載っているものの、中曽根がどの辺りを指しているのか分からなかった。

ちなみに、字中曽根は岡田村の酉戌の方(西北西の方)と書かれており、動物園・恐竜公園がある辺りのように思えた。ひょっとしたら家臣の館跡=宴の城かなとか思ったけど…中曽根の家臣館跡地が残っていない可能性の方が高いかー。

小高い丘ではあるが、防御を固めるための土塁とか必要じゃなかったのかな。そういうものがなさそうだよ。

葛畑なのか、単にここだけ荒れているのか分からなかったよ!

 

★☆☆☆☆

見張り台を兼ねて、兵士がたまにキャンプしてた場所なんだろうな、という感じ。

 

 

<宴の城>

築城主 不明

築城年 不明

 

 

 

 

 

今回の目的は茶臼山動物園でした。

混雑してたよ。人間がたくさんいた。

 

 

ご飯。

常楽寺

天台宗の別格本山だそうだ。格式が高い。

 

北向観音堂と同じ、天長2(825)年に創建。何度も再建され、現在の本堂は江戸時代中期・享保年間(1716~1736)の建築と言われている。御本尊は(多分)阿弥陀如来。正式には「妙観察智阿弥陀如来」というそうで、どんな仏様なのかなー? と調べてみたけど阿弥陀如来の話しか出てこなかったから。「妙観察智」とは仏教用語で、客観的に物事を見るとかいう意味のようだ。

五智(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)という密教智慧(物事をありのままに把握し、そこから真理を見極める力?)があり、そのうち妙観察智を司る仏が阿弥陀如来という関係のようだった。

正直、何の話なのかサッパリだわ。

 

御本尊・阿弥陀如来像には「享保十年」という文字が残されていると説明板にあった。

階段の向こう、見えているのが本堂のようだ。

格式が高いわりには、非常に素朴と思った。鄙びた印象のお寺さんだが、屋根が丸っこい。葺くの、難易度高そう。

本堂にお参りした後、裏手にある北向観音が出現したという場所を目指した。

六地蔵がいらっしゃる。

 

 

石仏はたくさん奉納されていた。六地蔵は新しめに思えたが、他の石仏は古いモノが多そうだ。

どんどん奥へ進む。

中国仏教協会会長の趙樸初さんという人の詩碑。中国の仏教指導者・政治家だという。

 

古そうな供養塔が建ち並んでいる。僧侶の墓だと思う。参道両脇にお墓というのは、今まで経験したことがないかもしれない。無縁仏と思われる石塔もたくさん残されていた。この場所が心の拠り所だったり、非常に大事にされていたことが分かる。

奥のフェンスの向こう側にある多宝塔が目指す場所である。こちらの石造多宝塔は国の重要文化財に指定されている。

よく見かけるような気がするが、古いから重文指定? と思ったら違うらしい。石造りの多宝塔で残っているものが少ないからだそうだ。どうやら、私がよく見かける石造りの塔は宝篋印塔というものらしい。

 

↑これが構造図

 

傍らの説明板には、

  • 天長2(825)年、炎に包まれた北向観音がこの場所に出現
  • 初め木造の宝塔を建立したが、寿永年間(1182~1184)に焼失
  • 弘長2(1262)年、現在の宝塔を建立した、この時に金銀泥(金銀を泥状にしたもの)で書いた一切経(仏教経典)の一部を奉納した
  • 石造りの宝塔は全国的にも少なく、特に重要文化財となればこちらを含めて二基(もう一つは滋賀県の少菩提寺
  • 本塔は鎌倉時代の典型的な多宝塔の様式である

とあった。

 

滋賀県の少菩提寺は既に廃寺となっている。

聖武天皇の勅願により、天平3(731)年に建立されたお寺さんである。元亀元(1570)年に戦火に遭い、そのまま復興されなかった。少菩提寺には焼け残った多くの石仏も残されているらしい。

説明板にある少菩提寺の石造りの宝塔はこちらの塔(3m弱)より大きく、高さが4m以上あるようだ。宝塔に「仁治2(1241)年」の銘があり、常楽寺の塔より20年程早く造られているようだ。

鎌倉時代は石造りのものが流行した印象がある。

 

宝塔の左右に置かれた石塔は後付けだそうだ。

大正13(1924)年に近く(北向観音堂・長楽寺の西側山麓かな?と思った)で水道工事をしていたら、地中からたくさんの多宝塔・五輪塔・宝篋印塔などがバラバラの状態で地中から見つかったそうで。石塔の遺物は残されなかったが、地元の人が行方を捜し続け、関西にあることが分かった。持ち主に懇願し昭和56(1981)年に地元に戻り再建された。もちろんこの塔も鎌倉時代のものらしい。五輪塔はお墓のイメージだし、その他の塔も多分供養塔。その水道工事した場所って旧墓地だったのかな?

 

 

★★★☆☆

ちょっとした美術館もあって、落ち着く場所だった。

 

 

常楽寺

創建年 天長2(825)年

開基 慈覚大師

北向観音堂

北向観音善光寺とセットで語られている。善光寺は南向きで北向観音堂はその名前の通り北向きで、向かい合っているかららしい。善光寺は来世にご利益があり、北向観音は現世にご利益があるからとか、なんかゴチャゴチャ書いてあったけど、そもそものキッカケは分からない。結局「昔からそうだから」というふわっとした話だと思われた。

 

善光寺が現在地に建てられたのが皇極天皇元(642)年、北向観音堂の創建が天長2(825)年で、延暦寺のお坊さんが常楽寺含めた3つのお寺(三楽寺)と共に建立したそうだ。常楽寺が管理している。天長2年に常楽寺の裏手の山が大変揺れ、地面が裂けて被害が出たそうで、これを沈める為に第三代天台座主延暦寺の三代目貫首)の慈覚大師(円仁)が護摩を焚いたら観世音菩薩が現れて、この観世音を祀った所が北向観音堂である。観世音菩薩が現れたわりには御本尊が千手観音とある。千手観音は観世音菩薩が変化したものなので同じ神様だそうだ。

観世音菩薩が現れた場所は常楽寺の境内にある。そのため常楽寺が本坊となる。

 

御開帳期間中に「善光寺」とつくお寺さんに(多少のタイムラグがあるけど)お参り済み。

よしこれで片参りにならないはずだ!

 

元々、北向観音堂を管理していたお寺(長楽寺)は元和7(1694)年に燃えた後再建されず廃寺。跡地は旅館が建っているようだ。

両脇の柱には「普門示現」「龍作依怙」とある。

普門示現=観音様は人々を救うために色々な姿で現れる(有名な仏教用語らしい)、は分かったよ。「龍作依怙」は観音様を頼って欲しいな、みたいな意味かしら?

石段を下りると、川だった。

湯川という川かしら? この川の周りは温泉いっぱい湧くんだという。河床がワイルド。長い年月をかけて切り刻まれている感じ。

川と仲見世の先はまた石段。

これは苧環さんですかね。

このお手水は温泉水だった。飲用可。でもちょっと私は無理だった。糖尿病と高コレステロール血症に効果あるようだ。

戦捷紀念(戦勝記念)ということで、このお手水を作ったらしい。大正~戦前辺りの、こういう遺物は絶対見ちゃう。疚しいわけでもないのに背徳感があるというか、ドキドキしちゃうわ。

本殿。

お参りをする。某有名歌手の寄進があったようで、大きく名前の書かれた提灯があった。

奉納された絵を見たかったのよね(飾ってあるって聞いてきたのよ)。

この絵だよ。

 

外へ出た。

樹齢1200年の木で、現れた観音様が宿った霊木であるそうだ。愛染桂という名称だそうで、傍らの愛染明王堂とこの桂の木から恋愛小説(死別シンママと病院経営の金持ち御曹司との恋愛モノのようだ)が生まれたので、そのタイトルから取ったらしい。それ以前は名前もなかったそうだ。あらら霊木なのに…。


傍らの「愛染明王堂」はどこだろうと思い、周囲を探した。

一番近くにあったのが、不動堂。不動明王だよね…?


結局愛染明王堂は、お手水の近くにあったお堂だった。

ちょっと離れてる! 愛染かつらって語呂がいいからかなー? と思った。


薬師堂もある。うひょー懸崖造りだよ。温泉薬師瑠璃殿という名称らしい。薬師如来薬師瑠璃光如来ともいうそうで、薬師如来の住む世界(浄土)を瑠璃光浄土という。有名な極楽浄土は阿弥陀如来の住む西にある世界で、瑠璃光浄土は東にあるそうだ。

浄土といえばこの二つしか知らなかったので、グーグル先生に聞いてみた。他は聖観音補陀落浄土とかあるらしい。仏様毎に浄土(世界)があるそうなので「○○浄土」はいっぱいあるようだ。

 

ちなみに、北向観音常楽寺の紋が笹竜胆(デザインあのせいで家紋に詳しくなった。家紋を描くコーナーだけ復活してほしい)なのは源頼朝が再興したからだそうだ。彼は善光寺も再興している。

昭和36(1961)年に本殿が撞木造りに改築され、善光寺とお揃いになったそうだ。

なんか石碑がたくさん建てられている。

 

玉垣

七久里橋は架け替え工事中でした。

神社の裏手に行くと。

なんと、この裏手では善光寺とセットでお参りする謂れが分かったよ。
北向観音堂で厄除け札をいただいてから善光寺の御開帳に行ったらM7クラスの大地震(弘化4(1847)年の善光寺地震)に遭ったものの、無事だった。という内容の絵馬が奉納されているという。私はその絵馬、どれだか分からなかったよ!


そんな善光寺地震から6年後、

その後何年もM7クラスの地震が続いていくつも続いており、この世の終わり的な奴がきた雰囲気だったんじゃないかなー? 私も東日本大震災から10年以上たっても、未だに地震アラート鳴ると緊張するもの。

こんなに大地震が頻発してたら、革命も起したくなりますわな…と思った。

 

明治12年頃には地震も落ち着いていた様子。良かったね。

 

★★★★★

家族連れでちょうどいい感じ

北向観音堂>

天長2(825)年?

 

 

 

 

月1くらいで1人で出かけて、美味いもの食べないと生きていけない気がする。肉が柔らかかった。年取ったせいなのか、もう1人にしてほしい衝動に駆られまくってる。

このお店、たくさんのマダム達で賑わっていたよ。

上条御屋敷

謎の上条屋敷に来たよ。

 

大昔、「信濃国水内郡丸栗庄」という荘園があったらしく、そこの領主館だった御様子。旧中条村に丸栗神社があるそうで、丸栗庄の中心地はそっちだった? と思いきや。wikiには長野市七二会? と書かれていたりする。門跡寺院仁和寺領だったそうだ。

長野縣町村誌の「七二会村」には、

  • 笹平村、岩草村、大安寺村が丸栗庄だった
  • 本村は古時、太田郷に属す

とあった。ので、中条村及び丸栗神社がある日下野の項を見てみると。古い時代の話は「不明」になっていた。どうやら丸栗庄は上条(信岡村)・中条・下条(日下野)という地区に分かれており、日下野の隣の村が七二会だったようだ。ちなみに信岡村(信州新町)と中条、日下野は山の中に点在する集落を合併、どんどん大きくなっていき現在は長野市に吸収されている。長野縣町村誌だと、この辺の村は大体「古時不明」になっており、村の沿革は戦国時代以降がほぼだった。

 

丸栗庄の上条地区中心地であった旧信岡村の項では、

  • 中世、牧之島城主香坂氏の代々の領地である
  • 香坂氏は村上氏の配下
  • 応仁2年、小川の古山城主だった小川貞綱が村上顯國(顕国?)の命に従わず、村上配下の香坂氏と大日方長利などが古山城を攻めて小川貞綱が戦死した
  • 口伝では、牧之島城から香坂某が移り住んで来たそう
  • 源真寺には大永7年に亡くなった香坂範利の位牌がある
  • 領主は間違いなく香坂氏であるが、子孫の事績は不明

と書かれていた。

香坂さん自体はずっと存続していたようだ。wikiによれば、

  1. 武田家滅亡後、香坂氏は織田家(森さんの配下)→上杉家に仕えた
  2. かつての本拠地・牧野島に近い場所に所領を安堵される
  3. スパイ行為の咎で上杉家により香坂氏が滅ぼされる(ここまで度々香坂家は滅ぼされては復興されている)
  4. 分家?は上杉家臣として会津にお引っ越しして、幕末まで存続

とあった。牧之島近辺で安堵された領地って上条地区とかかなー?

 

ちなみに、「古山城(信濃国)」と小川氏は、

  • 南北朝時代末期の1392年に三河を追放された小川貞綱が小川庄に引っ越してきて、古山城を築城した
  • 以後、小川庄は小川氏の領地となる
  • 戦国時代、小川氏は村上氏の配下であった
  • 永正2(1505)年、村上氏に背いたため、村上さん家来の香坂忠宗と大日方長利(小笠原氏の出身で、一時は小笠原宗家の後継者となったがお家騒動で失脚し生坂村に移住。後見人は香坂忠宗だった)に攻められたために祖国の三河へ亡命
  • 三河では姓を小川から「水野」に改める→徳川家康の母方実家の水野氏であるという伝承あり

水野氏の項目には、

とあり、信濃国にいた小川氏の伝承と多少重なるが、その後の続きでは小河氏(水野氏)は愛知県から出ていない感じの記述だった。当然、古山城主小川氏の話は一切なし。

長野縣町村誌「小川村」にも、三河から来た小川氏の話はなく。そもそも小川村の項には違うことが書いてあった。

  • 継体天皇の子、兎皇子の子孫である酒人公が真人の姓を賜る
  • その子孫である酒人小川真人(さかびとのおかわのまひと、と読むそうだ)が都より下向し、小川を開墾した

とあり、小川村小根山にある小川神社(式内社小川神社と言われている。ただし、小川神社の論社は3つある)の縁起にも似たような内容のことが書かれていた。

「真人」姓は天智天皇13年に継体天皇以降に即位した天皇の子孫に当たる貴族に対して与えられた。八色の姓のうち最高位である。真人(皇族)・朝臣壬申の乱で功績があった氏族)・宿禰(神別氏族)・忌寸(国造系豪族や渡来系氏族)・道師(授与例なし)・臣(地方豪族)・連(地方豪族)・稲置(授与例なし)と八段階あった。身分を表す称号みたいなもの?

それ以前の姓はもっと種類が多く(30種類ほどあったらしい)、天智天皇13年に改めた姓で、「公」の姓を持っていた皇族身分の人々が「真人」姓をもらったようだ。ただ「真人」姓は皇族向けにも関わらず懲罰的な授与例が相次いだため、第二位の朝臣姓を望む者が増加し、最終的には朝臣だらけになった、と説明されていた。「真人」姓の一族は都での出世がなくなったので、都落ちしてきちゃったのかな?

 

酒人小川真人という人の話は三河国にもあり、「神明社・小川天神社」という旧郷社格の古い神社が安城市にあるそうで。こちらは三河国碧海郡小川郷に属している。お名前の通り、現在は神明社と小川天神を祀る小川天神社が合祀されている。このうちの小川天神社の御祭神が小川天神で、継体天皇の子の兎皇子を祀っているとされている(この地を領していた小川氏の祖先で、当地で流行した疫病を鎮めるため先祖の兎皇子を祀った)。

 

信濃国式内社・小川神社には論社が3つある。小川村小根山にある(小根山)小川神社、小川村瀬戸川にある(澤の宮)小川神社、小川村高府にある武部八幡宮(小川八幡宮)。

 

このうち小根山小川神社(里宮)と澤の宮小川神社(奥宮)は一体の神社であると考えられ、御祭神はどちらも健御名方神健御名方神信濃を開拓し、本人の母の故郷である糸魚川に向かう道(糸魚川街道)の要衝に健御名方神を祀る社を建てたとあった。今年御柱やってたようだ。小根山小川神社の背後の山には酒人小川真人の一族が拠点とした小川古山城がある。

 

武部八幡宮は成り立ちが違う。まず、日本武尊東征の副官として吉備武彦という人が高府に立ち寄った。日本武尊薨去後にその威徳を広めるために各地に縁者を送られた。高府には稲依別王の一族がきて、日本武尊を祀ったのが始まりらしい。その子孫が武部氏となった。神護景雲2年に全国でいいことをしたと褒賞された一般人9名の中に親孝行で建部大垣さんという人が選ばれており、彼は稲依別王の子孫とされる。更級郡の人としか記されていないが、現在の信州新町在住だったのでは? と言われている。その後、貞観8年に石清水八幡宮から勧請して誉田別神も祀っている。

 

小川神社の論社たちが、伝承として三河国碧海郡の小川刈谷城主の小川貞綱が元中9年南朝を支持したという理由で信濃に追放され、当地を支配したと言っていた。刈谷城徳川家康の母於大の方松平広忠と離婚後に住んでいたところである。水野氏の拠点は尾張国知多郡小河にあった緒川城らしい。

っていうロマン溢れる内容だった。古代から続く一族なのか。長野の小川村って山中の小さい集落ってイメージなんだけど、大昔から有名な人が移住するような場所なのか。

 

よそ様のお宅の前の道を通る。

何かがあった。

石碑・柱?・祠だ。

香坂○跡。○に入る字がなんだろう? 城?

屋敷跡を示すものはこれだけ。規模とか年代とか、詳しい内容は一切なし。入り口の立て看板のみだよ。

 

入り口も見逃しそうな感じだし。

おそらく屋敷跡。畑となっている。

 

上からだとこんな様子らしい。原形留めているのかどうかも分からないぞ。古い地図だと、この近くを通る道は明治には存在している道のようだ。峠を越えて隣村(水内村)へ向かう。旧水内村に入ると日影という地区になるが、ここに香坂塚という史跡があるそうだ。

長野縣町村誌「水内村」には、

武田氏の兵が上条の城を襲い、城主香坂某は防戦したが家臣と共に日影まで逃れて、自刃した。里人が彼らを埋葬し塚を築いた。

と書かれていた。

ストビューで香坂塚探して見たけど、ちょっと分からなかった。そもそも香坂塚という史跡の情報が無い。お寺や神社、城もあるし栄えていた地域なのに現代に残された情報少なめですよ。

館址ですよって言われないと誰も分からない感じよ。

畑の奥、山裾に何か石碑らしきものが見えるけど、そこまで侵入出来そうにない。

畦道。

何かありそうな山に見えるけど、この先に何かあるという話も全くなし。

伝承がないだけで、ひょっとしたら何かあるのかもしれない…。

でっかい毛虫いた。

 

 

 

★☆☆☆☆

居づらい場所だった。

 

 

<上条御屋敷>

築城年 不明

築城主 香坂氏

 

ローストビーフ丼専門店。この日は行こうと思っていた飲食店がすべてお休み(または日替りメニューの内容が好みじゃない)という日だった。が、ローストビーフ丼は美味しかった。

 

安楽寺

常楽寺へ行きました。

大正12年に建てられた石標らしい。左は安楽寺青木村方面。

右は、

別所神社と常楽寺へ。

傍らの黒門には「崇福山」という扁額が掲げられていた。安楽寺の山門である。この先から安楽寺の境内となり、門は寛政4(1792)年に建てられたそうだ。

古そうな常夜灯もあるし、この先にポップなのもあった。

ハート柄のラブリーな奴だよ。ピンク色に塗りたくりたい。

蓮池があった。

ここから上るよ。

広い。

安楽寺は天長年間(824~834)に開かれたと伝わる寺院だけど、鎌倉時代以前の記録が乏しいらしい。

しかし古いお寺さんであることは確かである。

なんか古そうな感じするから。

千社札ベタベタ貼ってあるよ。

安永年間(1772~1781)頃、天愚孔平(本名:萩野信敏)という変わり者の寺社仏閣マニアがおり、

  1. お参りしては記念に落書きする
  2. 落書きするのが面倒になる
  3. そこで自分の名前をB5くらいの紙に大量印刷して貼ることにした
  4. 名前を貼ることが江戸でブームになる
  5. 皆で真似して寺社に札を貼ってしまう
  6. 寛政11(1799)年、町奉行により禁止令が出されるが守られず…

文化14(1817)年に亡くなった天愚孔平さんは千社札開発者として名を残した。

 

千社札の大きさも一応決まったサイズがあるそうで、B5よりずっと小さいもので落ち着いたらしい。高いところへハシゴをかけて貼っていたのかと思っていたら、実は竿の先に札をつけて貼っていたそうだ。この札は「参籠と同じ功徳がある」という民間信仰があって、寺社仏閣側の許可と御朱印を戴いた後で貼ることが出来たそうだ。今はもうどこでも許可されないだろうねえ。

古くて格式高いお寺さんらしく、お庭が非常に綺麗。手入れが行き届いている。

鐘楼。

安楽寺の本堂。

長野縣町村誌によれば、

  • 天平年間(729~749)に行基が建立した(一説には天長年間(824~834)の建立)
  • 安和年間(968~970)、平惟茂が戸隠山で鬼退治した後に別所山に至り、八角四重塔と三楽寺四院を建立
  • 養和年間(1181)、木曽義仲が横田河原の戦ったとき兵火にかかり、燃えてしまったが八角四重塔だけ残った
  • ただし、上記の内容は寺伝で伝わる内容である(定かではない)

続いて、

  • 鎌倉の建長寺で受戒している樵谷惟仙が中興の祖で臨済宗に改まった
  • 樵谷惟仙は宋へ留学、弘安元(1278)年帰国(建長寺開山の蘭渓道隆も同じ船にいたらしい)
  • 正応元(1288)年、北条貞時が堂宇を再建する
  • その後また荒廃してしまい、正安元(1299)年に北条貞時がもう一度再建する
  • 第二代の住職である幼牛恵仁は樵谷惟仙が留学中、一緒に学んだ法弟である
  • 樵谷惟仙が帰国した際、一緒に連れてきた
  • 樵谷惟仙が亡くなった後、幼牛和尚が跡を継いだ
  • 樵谷惟仙・幼牛恵仁のそれぞれの木像には嘉暦4(1329)年という年号があった
  • その後、また火災で堂宇が燃えてしまったが、塔だけ残った
  • 天正8年(1580)に高井郡の興国寺(須坂市臥竜公園の隣にある寺)から住職が来て、曹洞宗に改まった

 

樵谷惟仙さんが実質的な開山のようだ。

wikiによると、この方は生没年不明になっているものの寛元4(1246)年に宋から帰国しているというので、鎌倉時代中期くらいの人らしい。外国留学をしているぐらいだから物凄く優秀な方だったらしくて、ここに信濃国最古の禅寺を作ったそうだ。元々が信濃国出身(木曽義仲の縁者とか?)で最初は隣の寺(常楽寺)で修行したという縁。二代目の住職は宋出身の人。

本堂へお参りした後、国宝の塔を見に行った。このお寺さんの塔は長野県初の国宝指定された凄いもの。

 

簡単な説明文があった。

蘭渓道隆の文章、ちょっと難しくて分からなかったけど、多分「建長寺安楽寺は一心同体みたいなモノだから皆で仲良く学んで盛り立てていってね」とかそんな感じなのかな?

建長寺鎌倉五山のトップだった。

臨済宗は宗派が15派もあって、それぞれ本山があってややこしい感じ。建長寺は北条氏の独裁政治が確立した時期に、北条氏によって建てられた寺院だという。だから、鎌倉で一番権威ある寺院。そんな寺院と肩を並べる安楽寺は偉い、ということのようだ。

まずは経蔵。文字通りお経を収納している建物。

ここから上っていく。

池があった。

錦鯉いるよ。

この日は非常に天気が良く、平日にも関わらず観光客が多く居た。善光寺御開帳のせいなのか大河ドラマの影響もあるのかしら(結局毎週見てる…今の時代の地上波ドラマであれだけ登場人物ガンガン殺されていくの他にないからいい。仲間とか絆とかゲロ吐きそうなヘンな思想もないしさ)。

木々の向こうに建物が見えた。あれが国宝か。不揃いな六地蔵もいらっしゃる。

島木赤彦という人の歌碑みたい。大正12年、別所温泉に来詠んだ詠んだ歌だという。この人は旧諏訪藩士で明治時代は教員やってたという父を持ち、本人も長じて教師となり僅か33歳で尋常小学校長に上り詰めたアララギ派歌人だそうだ。なんか聞いたことあるから有名なんだろう(この人の歌碑、他でも見たわ)。

歌碑の内容は、古い像(樵谷惟仙さんと幼牛恵仁さんの木像二体)を見たよ、ということで。

塔までのゆるゆると上る道の途中に傳法堂という建物があった。短歌に出てくる木像はこちらに納められている。

どちらも嘉暦4(1329)年に彫られた古い像。国の重要文化財である。傍らの説明板には没後に弟子達が作らせた、とあった。

建物の左隣には水子地蔵と北条氏の家紋、そして裏の高台には三重塔。

建物の右隣は、ひっそりと祠が並んでいた。

歴代の住職のお墓かもしれない?

さて目指す塔が近づいてきている。
ちなみに塔の周りは墓地が広がっている。安楽寺の檀家さんたちのお墓。

正式名称は、安楽寺八角三重塔というそうだ。

第一印象は、茸を裏から見たとき、だった。恐らく屋根が八角形だからだ。日本には現在木造の八角塔がココしかない。大体は屋根が四角形。円に近いから茸の傘に見えてしまったのか、なんという不敬だろう。

ぱっと見、四重塔に見えるが、一番下の屋根は「裳階」という見解となっている。屋根は上の写真にある3つだけということになっている。裳階は風雨を避けるための庇(本来の屋根だけでは小さすぎて雨など防げない)、屋根らしきものをたくさん付けると立派に見えるという飾りの意味、裳階は外回廊の役目も兼ねることが出来るのでその分部屋の広さを確保出来る、などと色々な理由で付けられているそうだ。

裳階がある塔は、世界最古の木造建造物である法隆寺金堂と五重塔(いずれも7世紀)、薬師寺東塔(天平年間、729~749)など古い時代から存在する。よくある装飾なんだろうな。

建てられた時期については、塩田北条氏がいた建治3(1277)~元弘3(1333)年の間が定説となっているらしい。塔は本来、仏舎利(お釈迦様の遺骨、または遺物と見立てた宝石や経典)を安置するためのものだったが、中世になると死者の供養のために建てられる事が多くなり、この八角三重塔も供養塔ではないかとされる。時代的には元寇の頃だしな。

宋(南宋)から僧が来日し、また南宋も滅亡(1279年)したので、意外と亡命してきた僧以外の宋人(建築技術者とか)は多いのかもしれないなと思うぐらい、中国っぽい建物のようだ。禅宗様(唐様)という様式だそうで、鎌倉時代初期から徐々に日本へ技術が渡ってきたそうな。

八角塔は安楽寺以外にも建てられた(京都や奈良)が、他はすべて失われてしまった。特に京都の法勝寺(現在の京都市動物園内の観覧車付近)にあった八角九重塔が有名らしく。こちらは白河院が承保3(1076)年に建立した壮大な寺院で、白河院の権力の象徴だったそう。当時「国王の氏寺」とか呼ばれたらしい。永保3(1083)年に落成した八角九重塔は高さ約80mというデカさ。

完成以来、デカすぎて地震などの自然災害の被害を受けまくっていたが、承元2(1208)年落雷によりトドメを刺されたようだ。その5年後に再建。康永元(1342)年、再び焼失。再建されず。法勝寺も応仁の乱(応仁元(1467)年~文明9(1477)年)前後に度々焼失、荒廃し、いつの間にか廃寺に。京都市街地のお寺さんは「寛永頃、徳川家により再建された」という印象だけど、再建されずに消えたお寺さんも相当数ありそう。

 

この八角三重塔の説明板には、「三重塔は仰いでお参りすることが大切です。山の上から眺めおろすものではありません」とハッキリ書かれていた。えっ上から見た方が綺麗なのかなと思うけど、それは違うのか…。まあ、檀家さんたちの墓地が塔の周りに広がっているので、墓地の方へは行かない(←明記してあった)ようにさせるためかもしれないけど。

周りは山で木々が覆い繁っている。木々の間に避雷針らしきものが伸びていた。ひっそりと国宝を守っている。

八角三重塔の案内板には、

  • 中国から伝わった「禅宗様」で作られた、現存する国内唯一の八角三重塔
  • 長野県内では「国宝第一号」
  • 禅宗寺院にもかかわらず、内部には大日如来が安置されている
  • 太陽信仰と関わりがある?
  • 創建は1290年代

とあった。

「塔」はお釈迦様の遺骨(仏舎利)を納めるためのものなので、内部に階段がないそうだ。そういえば以前、薬師寺の特別拝観で塔の扉を開けて内部を公開していたので見せて貰ったことがある。確か、平城京とかせんとくんで盛り上がってた頃。内部はがらんどうとしており、階段とかなかった。それまでは螺旋階段かなにかあって、最上階まで登れると思ってた…。(薬師寺の特別拝観期間に西塔初層の拝観が出来た。平成27(2015)年には昔安置されていたであろう塑像がいくつか新たに再現され安置されたそうだ。私が拝観したときには多分なかった)

格子窓のように見えるアレは換気口なのかな?

 

安楽寺の御本尊は釈迦如来だそう。大日如来密教の御本尊でもあり、太陽神とされる。うちの宗派は禅宗じゃないから詳しくないけど、大日如来はすべての仏を生み出した存在とされ、釈迦如来大日如来から生まれたらしい。曼荼羅の真ん中にいる仏様が大日如来だそうだ。ちなみにうちの宗派は浄土宗で、浄土宗も曹洞宗大日如来についてあまり言及していないそう。まあ浄土宗は阿弥陀如来の話しかしない気がする。

 

ここが塔の入り口だよ。

 

下ります。

経堂まで戻った。

 

ここ1年ほど御朱印集めに手を出してしまい、なんとなく集めている。

世の中の人は御朱印帳に直接書いて貰うのが一般的みたいだけど、私は凝った綺麗な紙に墨書きされている書き置きを集めたい人。しかし美しい書き置きを用意されている寺社仏閣は多くない。やっぱり書いて貰う方が徳を積めるのだろうか? でも限定書き置きの方が気になるのよね。

御朱印帳も諏訪・稲荷・伊勢など、御祭神毎に御帳面を分けた方が良いのか、習合しちゃってる神仏も多いが神社とお寺を分けたりするのが正しいのか、特定の神社を管理する為に建てられた神宮寺はお寺なのか神社なのか、色々考えるともう分からなくなっちゃうんだよね。昔の人はどうしていたんだろうか? 家族には「お守りだっていくつも持ち歩いている人いるんだし、神様も仏様もみんな一緒でも気にされないのではないだろうか?」と言われた。そっかー納得した。

古い扉だ。

筍生えていた。

 

★★★★★

国宝の八角三重塔もいいけど、よく手入れされた庭園や三重塔へ向かう道が良かった

 

常楽寺

創建年 不明

 

 

 

青木村の道の駅でお蕎麦食べたよ。自分にそばアレルギーの疑いを持っているので滅多に食べない。1年ぶりのそばは大変美味しかった。

道の駅では御城印がたくさん売っていた。世間的には少々目立たないような染屋城とか岡城とかあれば、松本城とか弘前城も何故かあった。ああこれは「定期的に通って集めろ」という宇宙から飛んできた電波のメッセージかも!

 

北条氏のお寺に行ったから、塩田城の御城印を買った。

塩田城の本郭、木漏れ日が差していてとても居心地の良い場所だったなー。安楽寺の三重塔の所に書いてあった「北条氏の太陽信仰云々」は塩田城にも何かしらあったのかなー? と思った。