お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

窪寺城・窪寺観音

新年早々、また車に当てられちゃったよ。

前回と違い反社絡みじゃなさそうだから張り切って取り立てようと思ったら、ただの貧乏な爺だった。当然任意保険も未加入だし、住んでいるのも臭突が伸びるスラム風の市営住宅

事故の内容(雪道でノーマルタイヤの軽トラがスリップして突っ込んできた)からするとこちらの被害額は奇跡的に僅か。それでも腹は立つので「社会的に抹殺出来たらなー」と色々作戦を考えたが…ボロ長屋に住んでいる爺をこれ以上落とす有効な術が見つからない。既に落ちるところまで落ちていて、あと死ぬだけの無敵の人だった。私もなくす物がないような無敵の人だったら爺の住処に火を付けちゃうんだろうけどさー。世の中は理不尽。

あと、この手の話をすると「お祓い行きなよ」って言い出す人がいるんだけどさ。祟られたことがある経験上、まずこの程度じゃ済まないし普通に死にかけるよ! と声をかけたい(現実では話が長くなるからハイヨで終わらせちゃうけど-)。

 

その数日後。今度は車のタイヤがパンクした。ディーラーに連絡して修理をお願いしたところ、パンク箇所は側面だったので修理不可能を言い渡された。元々タイヤも古くて買い換え時だったので4本すべて交換にした。タイヤもちょうど4本だけストックがあったそうで、1日ですべて済んだ。飛び込みだったので代車もなく、ラッキーだなと思った。洗車もしてもらった車を引き取り帰宅。爺に付けられた傷を何気なく見ると、おかしな事に傷がない。跡形も無く消えている…!?

当てられた家族に「傷がないんだけど」と確認したが、本人は「確かに当てられて、ドアミラーが折れてしまってプラプラしている状態だった。たまたま近くにあったディーラー(これはタイヤ取り替えたトコとは別)で見てもらったけど、ドアミラー全損で交換だねって言われて6万の見積もりもらってきたでしょ」とのこと。しかし、ドアミラーは電動格納するしデフロスター入れれば温まってくれる。「気付いたらドアミラーは直っていたけど、最初は確かにプラプラになっていたんだよ…いつの間にか直ってたんだよ…」なんて本人は悲しげに呟いていたが、とにかく爺にぶつかる以前に戻っている状況である。ちなみにドアミラーがプラプラになっている状態は私まったく見ていないです。

やっぱり私はものっすごく運が良い。死にかけたこともあるが生きている(その遠因になった腫瘍も存在を確認されて、容態が落ち着いてからの手術となり日にちも決まっていたのに、突然消えて医者に手術出来ませんと宣告された)し、タイヤも新品にしなかったらうちの車も凍った道で滑っていただろう。

私が新興宗教の教祖になったら大儲けできるんじゃないかな!! ウキウキが止まりません。買い物帰り、玄関まで荷物を運んでいた時に急に思い立って「俺が運ぶのは荷物だけじゃない。幸運を運ぶ」と子供に言ったらガン無視された。それでもウキウキしちゃう。今乗ってる車、心の底から大事にしようと思う。

爺は絶対許さない。

 

中世、窪寺氏という一族が支配していたらしい。鎌倉時代に窪寺村へ移住し「窪寺氏」を称したみたい。滋野氏の傍流だそうな。

善光寺警護の奉行人を務めていた窪寺左衛門入道光阿さんは文永2(1265)年に善光寺側から「税の横取りなど職務を越えた行為があった」と訴えられ、鎌倉幕府内で評議の末クビになっている。これが窪寺氏の初出らしい。なんとも不名誉な。

その後も窪寺氏はこの地を代々領地として守ってきたが、寛正年間(1460~1466)頃にはお隣の小市村の領主・小田切さんの配下に成り下がってしまったとか。

弘治元(1555)年窪寺さん最後の当主の幸忠さんが死に、窪寺氏は滅亡したらしい。小市村領主の小田切さんも弘治2(1556)年に武田信玄に敗れて滅亡、小市も窪寺も武田の領地となったという。

 

近くには窪寺氏さんの館跡もあるよ。

 

ここは耕作地になっている。石垣なんかはあったけど、廃城以降のものだろうなと思う。

非常に見晴らしの良い場所で、犀川川中島一帯が広く見渡せる。城を置くには非常に良い場所だねー。

冬場なので、放棄地なのか休耕なのか分からないが、手入れされている様に見える。周りの畑には働いている人の姿もある。

どこが出入り口か分からないが、恐らく堀跡らしきココ↑を行くよ!

この様子では堀以外の何も見つけることが出来ず。

堀跡ですらこんな感じに↓

まあ、まだ通り抜け出来るがね!

また畑。

よく分からん。

変な藪を通らなくても横から進入出来ていた。

上から見るとこんな感じ↓

恐らく、ただの畑にいるような気がする。本体はまだ先のような気がするんだよね。

上がってきた堀。

ここもただの畑にしか見えず。この先の藪の中なんじゃないかな?

しかし畑より先に続く堀は、もはや見えない。

藪に覆われ、何も見えない。自然に還っているわ。

蛇とか居ない時期とはいえ、この中に入って行く気分にはならない(この前に窪寺観音に参拝してたんだけど、デカそうな生き物の物音に脅された。蛇は居ないけど猪は出るかも)。安茂里でも古い家が建ち並ぶこの辺りは旧道含めて檄セマだし、今日も窪寺観音の手前の坂で危うく車壊すところだったしさ。なんかイイコトなかったわ。

他に登れる場所はないのだろうか。

分からん。きっとこの畑も城の一部なのかもしれない!

見晴らしは良かったよ!

畑を抜けていく(藪へ進む)ことは諦めました。人の目が気になりますー。

すぐそばに正覚院というお寺さんがあり、そこから道があるか見に行ってみた。

正覚院は善光寺七寺に挙げられる場合(善光寺の近くにあった正覚院と合併した経緯がある)がある。もっと古い時代からお寺があるそうなので、ひょっとしたらここから窪寺城への道があるんじゃないかと。

結果、道はなかった。


このお寺は算額で有名で、長野県内で2番目に古い安永10(1781)年のものが奉納されている。気になる算額の内容は…画像で見たけど全く分からない。頭良くなりたい。

「月林寺跡地」という看板が山門のそばにあった。天安2(858)年、慈覚大師(794~864)が開山した、この辺りでは極めて大きなお寺だったとか。

慈覚大師(円仁)は第3代天台座主に就任した高僧。最後の遣唐使船に乗り留学した。wikiによれば、留学は物凄く大変だったらしい。行きは2回失敗、3回目で難破しながら辛くも唐に上陸。帰りも唐が滅亡しそうで船がなく新羅の商人の船に乗って帰ったらしい。留学中の約10年間は不法滞在して捕まったり、あちこちの山へ巡礼に行ったり、仏典を集めまくった日々を日記に書いていた。そして生きて帰国し、この人の日記は「日本人が書いた旅行記」として後世に残されている。また、日本のあちこちにお寺を建てたらしく、その数700近くあるという。布教しまくっていたんだねー。

とにかくこのお寺さんは古い。文献に初めて登場したのが吾妻鏡の文治2(1186)年三月の項で、朝廷から送りつけられた「源頼朝領地で年貢未納の荘園等の名簿」の中に月林寺の名前があった。

その後は衰退しちゃったので元和年間(1615~1624)に善光寺近くの正覚院から僧を出して再興した。その時に月林寺から正覚院に寺号が改まった。月林寺時代より平安時代初期の観音像があったみたいで、この木造観音像も県内2番目に古いものらしい。ここ2番目多いな。

観音像の他にも千手観音・薬師如来などもあったらしいが、今はないようだ。寺号より窪寺観音のほうが通じる気がする(私自身も窪寺観音って言われた方が分かる)。

山門をくぐって参道を行くと最初に見えてくるお堂(月光殿)には聖観音が祀られている。玉垣は大正7(1918)年の銘があった。

こちらには平安時代初期の観音像が有り、この観音像が何の観音像なのか(十一面観音っぽかったが違うのかな)ハッキリしないらしい。なので「伝観音像」として指定されている。前身の月林寺が衰退したせいなのか曖昧だわ。そして、その観音像は月光殿に祀られているわけではないようだ。

 

↓ここの左側にあったらしい。

正覚院と月光殿の間の墓地にあったらしい。出入り口がサッシの白いコンクリ造りのお堂があったが、あれがそうらしい…。予備知識なければ分からないと思う。

境内にはこんな供養塔たちも。

そして、高台にもお堂がある。

急な階段だよ。左側が上り。

途中の手すりがおかしくなっている! 手すり自体はびくともしなかったよ!

高台のお堂は円通殿という名前。千手観音が祀られている。

ここも見晴らしが良い。

句碑?

 

お堂の裏は林道だか道になっている。どこまで通じているのか分からない。

こんな感じの古そうな道もあった。

小さな祠もある。天満宮と三島社だった。

少し道を上がってみた。

時々、新幹線の走るグォーという低い音が聞こえてくる。

道はどんどん上にあがっていくが、窪寺城方面ではないのでUターンした。

円通殿の横から、また古そうな道があった。石仏が並んでおり、おそらく階段下にあった西国霊場とかの仏様だと思われる。

でも放置気味なのか倒れたり歪んだり埋まったり。まぁ、行ってみるかーと下りていった。

ガシャンドガッ。というとんでもなくデカい音がした。慌てた大きな獣がいたらしいが、姿が見えない。熊さんではなさそう(さすがに冬眠中じゃなかろうか)、猪かしら…こわーい。
霊場巡りは諦めました。

 

階段は急だし、せっかくだから裏手の道を下ることにした。

車の行き来はあるのか(山の方は畑があるようだ)、轍が残る。

墓地に出た。

山門に戻った。


★☆☆☆☆

人里そばの山の方が獣遭遇率高い気がする、餌が豊富なのかな?

 

 

<窪寺城>

築城年 不明

築城主 窪寺氏

大法寺

上田市の隣村にある古い寺院。大法寺の三重塔が別名「見返りの塔」と言い、国宝に指定されている美しい塔だという。お庭がよく手入れされていた。

出かけたのは結構前。

本堂のようだ。

本堂は…普通? よくある感じがする。まずはお参り。

創建は大宝年間(701~704)に藤原鎌足の子・定恵(643~666)だというが、正直年代が合わないので否定されている。浦野駅が設置されたときにそれに関係して建立された寺、ということらしい。大宝年間なら時代も合うしね…。

古い土蔵や祠もあったよ。本堂から案内板の矢印に沿って進むと。

まだ参道が。アレひょっとして違うお寺さんだったかしら? 不安になってきた。

とはいえ、参道の石仏様がなんともいえない姿形をしている。

左の人は宴会で楽しそうに酒飲んでいるような。右の人は毒でも飲まされて苦しんでいるような。左も杯に毒入っていて、苦しむ前の束の間の平安なんだ。自分の心が荒んでいるのでそうとしか思えないです。きっと心が澄んでいると「どちらも楽しそうに笑っている仏様!」と思うはず。

五百羅漢の石仏というらしい。お釈迦様の500人の弟子(羅漢)たちで、現在も寄進され続けて仲間を増やしているそうだ。

ちなみに羅漢さん達はお釈迦様が入滅し悲しみに暮れる中、「戒律も緩くなって好きな事もできるんじゃ?」と呟いた奴もいたとか、高弟の摩訶迦葉が綱紀粛正を決意したとかいう話がHPに載っていた。この石仏たちは羅漢さん達の願望を表しているのかな?

 

栗林一石路という俳人の句碑? 出身地なので記念館があるみたい。

 

参道を上がり、ようやく目的地に着いた。

古いお寺ではあるが、本堂よりもこちらの三重塔のほうが宝物だらけらしい。

一番古いものが、十一面観音像と脇侍の付言菩薩像で、平安時代末期の作品らしい。いずれも国重文に指定されている。「観音堂の本尊」とあったので、ひょっとしたら観音堂が最初に建てられたものかもねー。観音堂は特に指定されていない。

観音堂内にある厨子須弥壇も国重文指定で、こちらは鎌倉時代末期~南北朝時代の作品で、禅宗様だという。

 

こういう看板はちょこちょこ出てくるものの、肝心の建物が…。

やっと登場した。もったいぶりやがって…。

でも勿体ぶるのも分かる気がする。安楽寺の茸っぽい三重塔よりずっと良かったからだ。こればっかりは好みなのかなー?

大法寺の三重塔は、

  • 正慶2(1333)年、四天王寺の大工・四郎某と7人の匠により建てられる
  • 塔の特徴として「初層が特に大きい」ことが挙げられる。一番下の階が大きく、上へ登るにつれ塔身が細くなっていくので安定感がある
  • この構造は他に奈良・興福寺に挙げられる挙げられる程度で、珍しいもの
  • 三重塔が建てられた時代(鎌倉時代末期~南北朝時代)には装飾を施すのが通例であるのに、大法寺三重塔は装飾が少ない(初層の蛙股だけ)のに全体の調和が取れている

ということだそう。

正慶2年は鎌倉幕府滅亡の年。大河も終わっちゃったしなあ(和田合戦以降、ちょっと平和になったせいか人が殺されるスピードが遅くなった。正直ガンガン死んでいく人々を眺めたかった。キャラクターを「良き」と持ち上げてからの惨殺というスピード感が鎌倉殿の良さだったのに。来年の大河は戦国時代だし、まず見ないだろうな)。

世情不安だったのかもしれないのに大阪の四天王寺から(多分)四天王寺お抱え大工を呼び寄せており、当時の大都会にある建物と同程度洗練された塔が出来たという。ただ、四天王寺と大法寺の接点は分からず、大工の四郎さんたち一行がどういう経緯で招かれたか不明らしい。

ちなみに、四天王寺お抱え大工集団とは世界最古の企業と言われる金剛組である。四天王寺聖徳太子が建立した日本最古のお寺で、そのお寺を建てる為に百済から金剛、早水、永路という3名の技師を呼び寄せた。3名は推古天皇元(593)年より四天王寺を建てた後、早水と永路は他の現場へ派遣されたが、金剛は居残りで四天王寺のメンテナンスを請け負うことになった=金剛組創業、ということらしい。

大法寺三重塔と同じ造りの興福寺三重塔は国宝指定されており、興福寺の伽藍の中でも最も古いと言われている建物。康治2(1143)年建立後、一度燃えてしまい(治承4年の南都焼き討ち?)間もなく再建されたと言われている。鎌倉前期の建築物らしい。なので、大法寺三重塔とは少し時代がずれているようだ。

急に現れた供養塔?らしきもの。

ようやく正面に出た。説明文通り、塔は下から徐々に小さくなっていく。安心するよね。

写真で取ると歪に見えるが…調和が取れた見事な塔だったんだよ!!

上の方へ登る道があった。登ってみると。

塔を真横から見る場所に出た。田畑が広がる昔ながらの農道っぽいが、明治時代の地図ではこの先の飯縄山城(飯縄山社)まで行かれる道があったようだ。現在は飯縄山社もなく、そこへ道も廃道となっているようだ。由緒ある道なのかもしれない。

塔の観賞には非常に良い位置である。

在りし日の道は飯縄山社が終点で、旅人が行き交うような街道ではなかったらしい。塔を振り返って眺めた旅人達は山の麓にある松本街道(保福寺街道)を歩いていたらしく。まあ、辺鄙な山の中にお洒落な建物があれば何度も見ちゃうかもしれない。個人的な例え話だと、保福寺街道を頑張って進んだらカメノヤ別館があるという感じだな(一度行ってみたいんだよ)。

オシャレというか、微笑ましいような気がしてきた。安心感というか。

正直、今まで見た京都とか古寺院の塔もひっくるめて一番愛らしいかもしれない。

一周まわって、また塔の近くまで下りられるようになっているらしい。下草も綺麗に苅られていた。

下りてきた。

簡素だ。

ここにも何かの供養塔が…。

十分堪能したし、他にも人がやってきたので帰ります。

こちらは観音堂(本尊は十一面観音像)。安置されている観音像は寺の中で最も古く、平安時代。次いで、厨子須弥壇室町時代)。観音堂は江戸時代のもの。

 

 

★★★★★

三重塔がとにかく良かった、来て良かった

 

<大法寺>

創建年 不明

開基 不明

冠着山城

冠着山の頂上まで行ってみた。

当日は生憎の空模様で…雨の日に眺望で名高い山に登らなくてもいいのに、無理やり登ってやったわ。麓から見た山頂は雲に覆われていた。まあまあ寒い。

近くの古峠からの景色もこの通り。かなり低い位置に雲がいる。

ここまで人っ子1人いないし、車の音もしない。

 

登山口のひとつ、鳥居平で車を止めた。

こんな感じの寂しい林道だけど、数年前にクラシックカーのラリーイベントやっていた。ぐねぐね山道を走るあんな車やこんな車…。

このイベント行ったんだよね。

私が初めて買った車と同車種も2台来ていて、めっちゃ写真撮っていたら車のオーナーさん?に不審がられた。「えっ何でこの車を!?」という表情だった。この車以外のほとんどが田舎じゃ見かけない珍しい車ばかりだったのにねー。

でも私としては思い入れのある車だったんだよー。楽しかったなー。

 

 

冠着山はこの辺ではメジャーな里山らしく、登る人も多く登山口もいくつかある。鳥居平の他に坊城平登山口と久露滝登山口(通行止め)があるようだ。ハイキングを楽しみたい人=坊城平、サクッと登りたい&体力が無い人=鳥居平、という区分らしい。マニア向けのほぼ整備されていないルートも用意されているらしい。

天気が良くないのでサクッと行きますー。

 

入り口付近は何やら一本道となっている。貴族の邸宅のポーチへ向かうような佇まい。ふと左を見れば。

この登山道だけ不自然に高い。

というか、堀と土塁に見える。あれ? もう城域なの?

反対側はというと。

低地ではあるものの、堀とか見当たらないし目を引くようなものはない。

 

家に帰って調べたところ、別に城とかいう訳ではなく寺院の跡地?だったようだ。麓に安養寺という古寺があって、そのお寺の奥の院(満光寺)だった場所。登山者用の駐車場としてはかなり広めだし、もうちょっと木々を伐採すれば広く出来そうなほどの広大な平坦地。

満光寺がどんなお寺だったか(奥の院といえば基本は寺院の墓地だけど)、遙か昔に廃されたようで、全く情報無し。

 

安養寺は信濃国に5つあった定額寺(国で管理していた寺院のうち、上から3番目の格式)のひとつだという説があるみたい。ただ「安養寺」という寺号は長野市内にもあるようで、定額寺の安養寺の比定は2カ所。長野市の安養寺さんは大堀館の跡地だった更北中学に隣接している。

信濃国定額寺の5つは更級郡・安養寺の他、伊那郡・寂光寺(=座光寺?)、筑摩郡・錦織寺埴科郡・屋代寺(=雨宮廃寺?)、佐久郡・妙楽寺

このうち安養寺は2カ所に比定されて現存扱い。

佐久郡の妙楽寺は現存(旧中山道沿いにあるみたい)。

寂光寺に比定される座光寺は現在の元善光寺のことらしい。元善光寺は以前、坐光寺というお名前だったそうな。

屋代寺は雨宮廃寺ではないかとされ、その跡地は現在の雨宮坐日吉神社とされている。

この中でも跡地すら分からない錦織寺が不憫(明科廃寺という物凄く古い寺院の跡地も近隣にあるんだけど…コレと錦織寺は別物らしいし、後身のお寺と言われているのは別の寺)。

 

そんなこんなで古代の有力寺院だったらしい場所なので、堀とか土塁とかあるんだろうか…?

軽トラ幅の轍を進んで行くと、ついに土塁や堀がなくなった。

よく分からない終わり方である。登山道整備のせいなのか。

だけどまだ先に土塁らしきものが続いているようにも見える。本当にココなんなんだろう?

この地点でどうやら土塁らしきものが分断されているようにも感じ、ちょっと気になる。

そして、向かって左側には朽ち果てた何かの施設。崩れないように擁壁も設置されている。この施設は何か結局分からず仕舞い。

昭和を感じる擁壁が。冠着山登山道整備で設置されているのか、件のボロ施設建設で造ったのか謎だが、施設周辺だけは何故か昭和臭いものがたくさんあった。

擁壁に沿って登っていくとそれなりに山道って感じになってきた。

霧も出てきて、なかなかの趣きである。

でも軽トラ走っているようだ。

こんな場所、車で走りたくないねー。

崖下には先ほどのボロ施設がある。うーん観測所かなー?

どんどん進んでみよう。

軽トラの轍を辿って、ついに開けた場所に出そうだ。

ただの休憩所っぽい。

登山口と頂上の中間にあるらしい。そして、さすがの軽トラさんもここまでしか進入できないようで、駐車場ともなっているらしい。

中間休憩所のようだが、特にベンチとか東屋はなく、単なる平場。入り口の「なんか土塁・堀らしきものがある」というような人工的な雰囲気もない。

本物の登山道が始まる地点には石を集めた箇所もあったが。

整備する際に出た石を集めた場所かな? と思います。

大した距離も歩いていないので、特に休憩しません。

この先も十分に整備されているようだ。

ただし標高もそれなりに高くなってきているのか、それまで霧雨だったのに雨粒に変わってきて冷たいよ。

見通しきかないものの、どうやら中間地点は平らな場所が広がっているようだ。

ここも以前建物があったとか、そういう雰囲気はなし。

幻想的な雰囲気。蛇や熊は絶対出てこない雰囲気。安心できますわ。

景色もロクに分からないので、正直楽しくない。元々自然の景色なんて関心薄いんだけど、今日はいつもに増して苦行感あるわ。一体私は何をしているのだろうか。

丁寧に整備された登山道、全く滑らないし足場が悪いところもなし。「ぎゃー怖いよう。すべっちゃうよう」と緊張することもない…。良いのか悪いのか。

尾根に出た。地図ではこの尾根が千曲市筑北村を分けているそう。大昔からこの尾根が村の境でもあったらしい。しばらくは千曲市筑北村を行ったり来たりしちゃう。

急に二股に道が分かれたぞ! そして、木に矢印書いてある。初めて見たパターンだよ。そういえば、ここまで全くピンク色のテープを見かけなかった。

矢印もあの木だけだったらしくて、この先はひたすら一本道。

おっついに危険箇所発見か?

全く危険じゃ無かったー。右に曲がる。

気になる花とか草木もなく、ようやく茸を見つけた。こじんまりした茸。食べたいとも思えないかわいらしい姿。

頂上はまだ見えません。

この先、何もなさそうなほど明るい感じがするー。

どうやらビュースポットだったらしい。ベンチ用意されていた。晴れていれば、山々の連なりが見えていたらしいが。

びっくりするほど何も見えない。ちなみに、設置されていた案内板も文字がハゲてしまっており、どういった山が見えるか謎でした。北アルプスとかかなー?
みんな晴れた日ならここでワーキャー言いながら暫くの休憩をするのかもしれないけれども、現在の私は虚無になってしまったので景色の感想もなし。

そろそろお城に着きそうかな? という時間になってきた。

先も見えないし、登山道の下は急斜面だし。まだ苦行続いている。

この辺りまで来ると地形に変化が出てきた。郭みたいなのがある。

と思ったら、なんか急に平らな場所が!

祠があった。

祠の周りは明らかに郭。ちなみに祠は。

四方を土塁に囲まれていた。地面を掘り下げて、一段低い場所に安置されている。
冠着山権現と呼ばれているらしく、修験道が盛んだったことの名残りのようだ。

この祠は坂井村にある永井という地籍の人達が設置したものらしく、
「麻績組 永井村中 ○○」
という文字が彫られていた。「寛政11年9月吉日」とあり、江戸時代後期のもののようだ。

なんかシュール。祠は永井地籍の方角を向いていると思われる。

 

この祠がある場所、2の郭らしい。

本郭はこちらです。

案内板。

2の郭と本郭を分ける土塁のようなものがある場所。

ちょっとだけ平場。

奥には土塁。その先は崖なんだろう。

高くなっている場所は本郭(冠着神社)。社殿はこんな場所だからか、プレハブ小屋の中に仕舞われているようだ。

さあ本郭へ。

やはり誰もおりません。

頂上は石碑がいくつかあるようだ。

冠着神社。ちょっと怖い。
御祭神は月夜見尊。月の名所だからだろうか。

私は月夜見尊がどういう人なのかよく存じ上げない。有名人の兄弟に挟まれて残念なことになっているからか? 調べて見ると月夜見さんは男か女かも不明らしいぞ(後世の人々は一般的に「男」だと考えているとのことだが、元の文献達には性別が書かれていないという)。そしてエピソードも少ないし、他の姉弟が派手なのでバランスを取るためにあえて地味な存在に落ち着いているとも。

 

冠着神社社殿の裏にもやはり土塁が。


冠着山城についてはほぼ情報もなく、地元に伝わる話として「物見や狼煙台として使われた」と言われているだけであった。
物見台としての存在意義は申し分ないらしい。

360°なんにも見えないけど。

凄い場所よね。

色々あった石碑はこれとか↓

高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」という句だそうで。そっかー…お月様綺麗だったんだね。という感じ。

 

あとは、冠着山の紹介が書かれていたやつとか。

 

私が登ってきた道は正式な道ではなく、本来の参道は坊城平登山口のようだ。坊城平登山口には鳥居もちゃんとあるし、山頂の鳥居も坊城平側に向いているし。

でも坊城平側には段郭とかあまりないらしい。

坊城平へ向かう道もただの山道に見える。

冠着山権現の祠は「麻績組」という文字が彫られていたが、冠着神社は羽尾村の村社だった。現地の説明板によれば社殿は宝暦4(1754)年に創建だそうだが、長野縣町村誌では創建年不明となっていた。現在の社殿は昭和時代に建てられた。

また、山頂は羽尾村領だけど一段低い場所から西は坂井村(明治8(1874)年永井村と安坂村が合併して坂井村となった)領だという。なので、隣の村の祠(冠着山権現)はあんなところにあったのか。

鳥居の近くには梨の木があり、たくさんの実を付けていた。

驚くほど小さい。スーパーで見かける梨の1/4程度の大きさじゃないのかな? 日本の品種改良の技術って凄いのね。野生の梨で、山梨って種類?

霧で全く見通せないものの、山頂は広く崖で覆われているので中々攻めにくい場所ではありそう。城ではないようなので、攻める必要があるかどうかも含めて難しそう。説明板には「冠着山の裾には東山道の支道が通っており」とあって街道監視用の砦だったという見方が一般的なようだ。東山道支道とは反対側の山裾にも日本武尊が通ったという伝承が残るハベシナの峠もあるようだ。つまり両サイド監視出来るスゴイ砦なのか。

下山することした。

見たいものが特にない(何も見えない)ことが分かりきっているせいか、非常に早く下山出来そうです。

気のせいか、霧が濃くなってきたような…?

だいぶ下りてきたよ。

見に行く気分じゃないんだけど、変な形をした岩とかあった。岩の方まで行ったらびしょびしょになりそう。

残り半分。せっごろついているごろついている箇所をよく見てみた。

登山道整備したときの名残りだろうね、やっぱり。

また一気に下るよー。

今年の山は栗が豊作なのか、至る所にイガが散乱していた。車で登山口まで走ってくる途中にもイガたくさん落ちていたよ。

かなり登山口に近づいた。件のボロ施設の辺りに到着。

ここの土塁の切れ目?みたいなの、やっぱり気になるなあ。誰か専門家に頼んで調査して欲しい。

人工的だもん。

お寺の跡地? 麓の安養寺の説明板にもこの場所で「鎌倉時代のものと思われる阿弥陀三尊の板碑や礎石などが発見されている」とか書かれているようだが、もうちょっと掘れば何か出てくるかもしれない。

そして、貴族の邸宅のアプローチみたいな直線道路に出た。

こちらも土塁と空堀らしきものが気になって仕方ない。

頂上よりも城っぽい感じにも思えてきたよ。気になるー。

なので、入ってみることにした。

駐車場の周りには有刺鉄線が張り巡らされていたが、人気のない山の中のこと、ボロボロで壊れている。そもそも、「立ち入り禁止」の看板もなし。

入りまーす。

白樺が生えている。それなりに平坦地だったが、直線アプローチの脇にあるような堀や土塁、建物があったような気配はない。

何もなさそうな気がしてきた。

なので、土塁や空堀とおぼしきものを見てから帰ろうと思う。

土塁。

土塁側から奥の平坦地を見る。

空堀。けっこう深い。

帰るか。

無事出てきたよ。


★★★☆☆
子供でも登れそうな山だなと思った



冠着山城>

築城年 不明
築城主 不明













 

手子塚城

色々立て込んでしまい、グズグズになっていたところ。「飲みに行ってこい」と強引に話をまとめられた。飲みに行く前、朝から資格の講習受けていて頭が疲れていたんだけどさ。

馬刺しと酒は最高。生きてて良かった。

 

千曲川のすぐそばに「手子塚城」があった。現在は神社(諏訪社)となっている。北信五岳道路の起点や立ヶ花橋(昔は立ヶ花の渡し)のすぐそばで、交通の要衝である場所。現在は国道117号線とその旧道の間にある。

入り口はこんな感じ↑

城の前の道路はこんな感じ↓

ちなみに、ガードレールの向こうはJR飯山線

 

最初、川が流れているのかと思った。列車が随分と低い位置で走っている。ひょっとして堀跡に線路を敷いたのかしら? 堀跡だとすれば、かなり深い空堀である。

 

入り口には「村社 諏訪社」の石柱の他、何かが刻まれた石碑もあった。

 

内容は、

 鈴木鶴治翁明治十二年于鳥居町中村亀
 次郎君長子也幼穎悟有至孝之誉出嗣長野
 市鈴木家推挙市会議員農会長等幾多名誉
 職有令名矣翁天資温厚篤宝富神仏尊崇之
 年為郷土氏神諏訪社昇格記念寄進狛犬
 社標寄付多額基本財産依之至極社殿設備
 荘厳焉氏子一同感謝之情不能禁茲胥謀欲
 建碑以仰翁敬神崇祖之高風不朽翁功徳請
 文於余余乃叔之如此矣

 昭和十九年五月 芳賀○(剛?)太郎撰文題額併書

だった。

明治12(1879)年生まれの鈴木鶴治さんはここ、鳥居村の中村亀治郎の長男で、デキが良かったから鈴木家の養子となり、(長野)市議員・農会長などの多くの名誉職を歴任した。性格は温厚、神仏を篤く敬っていたので、郷土の氏神である諏訪社が昇格した記念に狛犬や社標など多額の財産を寄付し、立派な社殿が出来た。氏子一同皆感謝し、鈴木鶴治さんの功徳を顕彰する。という感じの碑文かなー?

 

大正4(1915)年の人事興信録の情報では、

鈴木鶴治さんは、明治19(1886)年11月に鈴木勝之助さんという長野市在住の人の養子となり、明治29(1896)年5月に鈴木家当主となる。金融界に身を投じて長野実業銀行の取締役、第六十三銀行監査役、長野新聞監査役として知られる。

とあり、昭和3(1928)年版には上記の情報の他に、

 長野県多額納税者、六十三銀行・信濃電気・信濃製糸の各社監査役

という情報が付け足されていた。

お金持ってる人が地元に還元しているって話だな? 17歳で家督を継いで、色々と立派な仕事をしてきたエリートさんのようだ。大恐慌が起こった昭和4(1929)年にはどうなっているのか分からないところがちょっと怖い所。この人が関わっている企業が昭和4年に大変な目に遭っている。

 

長野実業銀行は明治36(1903)年から昭和3(1928)年まで存在していた長野市の銀行。銀行って合併や吸収を重ねたり、他県に移転だとか、ゴチャゴチャでよく分からない感じだけど、最終的には現在の八十二銀行に吸収されていったようだ。

具体的には

長野実業銀行(1903~1928)→信濃銀行(1928~1942、但し業績悪化で1930年に破綻、事業停止。1941年に長野市で整理再起案が決定された)→上田殖産銀行(1942~1943、信濃銀行が改称)→八十二銀行

という変遷。

 

明治11(1878)年に創立した国立銀行が前身の第六十三銀行。元は松代町に本店を置いていたが、経営難だったが明治24(1891)年の松代大火でトドメをさされたらしくて明治26(1893)年に稲荷山銀行と合併する。明治30(1897)年私立銀行として第六十三銀行となった。

現在はもう一つあったナンバー銀行と合併し、八十二銀行となる。

稲荷山銀行と合併したときに頭取となったのが飯島正治(1861~1922)さんという人で、この人は後に小坂家と戦う。また、信濃電気や長野新聞とも関わりが深い。

もしかしたら、鈴木さんは第六十三銀行の頭取だった飯島さんから薫陶を受けた優秀な部下かなんかだったのかもしれない。

1929年当時、県内最大の銀行だった信濃銀行が破綻に追い込まれた影響で、昭和6(1931)年に同じくナンバー銀行の第十九銀行(1877年創立)と合併して、現在の八十二銀行となる。

 

長野新聞は「初代」「2代目」の2種類があり、「初代」は紆余曲折を経て信濃毎日新聞に吸収されている。鈴木さんが関わっているのは2代目らしい。

初代の長野新聞は明治11(1978)年~明治13(1980)年

長野新報(1873、隔月刊)→官許長野毎週新聞(1874~1876、週刊)→長野新聞(1876~1879、隔日刊)→長野日日新聞(1880、日祝除く日刊)→信濃日報(1880~1881、日祝除く日刊)・信濃毎日新報(1880~1881)→信濃日報と信濃毎日新報が合併し、信濃毎日新聞(1881~1945)→信濃毎日共同新聞(1945)→信濃毎日新聞(1945~)

という感じ。明治14年から基本的に名前が変わらない(1945年に一瞬名前が変わっているが、終戦前後の政府命令によるもので全国紙と共同で発行させた為らしい)。

信濃毎日新報は明治13(1880)年に創刊された後発の新聞社であり、老舗の信濃日報とはライバル関係にあった。1年あまりで両社は社会情勢の変化で共倒れた。なんか自由民権運動というのが盛り上がっちゃってて、1881年に出来た政党のうち、

信濃日報=立憲改進党(イギリスの影響で漸進的な立憲主義、二院制)

信濃毎日新報=自由党(フランスの影響で急進的な自由主義一院制

という党の政治思想を支持する立場を取ったらしく、党の支持層も違うので新聞の購読者もそれぞれ違ってくる。その為、結局2社とも経営が行き詰まり、長野の政治家である小坂善之助が介入し、2社を合併させて出来たのが信濃毎日新聞だそうな(この件がキッカケで小坂家は政治の傍ら実業家にもなったようだ)。

 

「2代目」は、信濃毎日新聞に対抗する形で創刊された。創刊年は明治32(1899)年で廃刊年は昭和12(1937)年。

社長の小坂さんとその出身地域とで政治関係で対立していた人達が立ち上げたらしい。なので、信濃毎日新聞とも対立していた。

明治時代には拮抗していたが、大正時代に入ると社長が代替わりした信毎の紙面拡充などの事業拡大路線についていけず、昭和12(1937)年廃刊。

対立していた側が祭り上げたのが、第六十三銀行と関わりの深い飯島正治さん。元々は同じ長野一区という選挙区の有力なメンバーで構成される信濃実業同志会という団体のメンバーだったが、小坂家(上水内郡)ばかりずるいウチからも議員出したいということで更級郡の人々が担いだ人が飯島さんであり、同時に信濃実業同志会も小坂派・反小坂派に分裂した。飯島家も小坂家と同じく代々続いた旧家である。

小坂家と飯島家は帝国議会議員の椅子を何度か争っており、ライバル関係にあった。明治31(1989)年に2回行われた衆議院の総選挙では飯島家は小坂家に2回とも選挙で勝った。敗れた小坂さんは一度経営権を手放していた信濃毎日新聞の社長に返り咲いた。そこで更級郡にも新聞欲しいと創刊されたのが長野新聞である。最後の社長は県会議員・衆院議員・稲荷山町長も務めたことがある人物で、更級郡出身者の政治家や第六十三銀行関係者の社長が多いようだった。

 

信濃電気は明治36(1903)年から昭和12(1937)年に存在した電力会社で、本社は須坂市にあったそうだ。

長野市にあった長野電灯とはライバル関係にあり、2社とも東北信への電力供給をしていたが、昭和5(1930)年に長野電灯の子会社となってしまう。昭和12(1937)年、長野電灯に吸収合併され信濃電気は消滅。

長野電灯は明治30(1897)年、小坂善之助を中心として設立されて消滅まで小坂家が社長職を受け継いできた会社である。また、信濃電気も設立に飯島正治さんが関わっている。

長野電灯も色々あって、最終的には現在の中部電力の一部になった。

県内1番目開業の長野電灯は裾花川に水力発電所を設けており、善光寺周辺から始まり長野市に電力を供給して行った。県内6番目に開業の信濃電気は米子川に水力発電所を設けていた。信濃電気は須坂市から始まり、北側の地域へ供給範囲を急拡大した。西側の長野市方面にも供給しようかなと考えたらしく、長野市に元々あった長野電灯と喧嘩になり明治43(1910)年に長野県知事を調停者として棲み分ける契約が成立した。その為、東の上田地域へ勢力拡大を目論見、県内5番目設立の上田電灯を吸収合併した。水力発電所をいくつも開設増強したり、勢力下に電気鉄道がいくつか開業したり、その後もどんどん供給範囲を広げて北は飯山市・東は東御市までと大きく成長した。しかし昭和4(1930)年の昭和恐慌により一気に経営悪化し、長野電灯に吸収された。

この信濃電気は信越化学工業の前身会社(信越窒素肥料)も運営していた。新しく造った工場に供給すれば電気も将来に渡って安定的に売れる(そして電気代を高くぶんどってやろう)、という理由らしい。実際、一番の大口取引先はこの工場だったようだ。いや信越化学ってすんごい優良企業じゃんなんなんだよすげーな、と思った。ただし信濃電気が合併する直前、操業したばかりの信越窒素肥料の業績は非常に悪くて合併の一因にもなっていた。

現在の信越化学はチッソのグループ企業だが、元の信越窒素肥料はチッソの前身会社・日本窒素肥料信濃電気との合弁会社だった。信濃電気が電力と原材料の供給担当、日本窒素肥料が工場設立に関する工事や設置後の操業を担当したそうだ。

信濃電気は長野電灯と合併が決まった。合併が決定した時、資本金の額では信濃電気>長野電灯なのに、経営状況は信濃電気<長野電灯という捻れ方をしていたようだ。少し信濃電気の業績を安定させてから昭和12(1937)年両社は合併、長野電気という新会社を設立した。しかし戦争中の昭和16(1941)年に施行された配電統制令と昭和17(1942)年に電力供給管理の目的で設立された日本発送電という国策会社が出来て消滅した。配電統制令に基づき9つの配電会社が出来た。長野電気はこのうち中部配電という電力会社の下に置かれた。戦後、電気事業再編令により中部配電は中部電力となる。

 

信濃製糸は大正9年に松本で創立された会社である。名前の通り、製糸業の会社。小口大一という人物が社長を務めていた。

この人は諏訪にあった小口組という会社を経営していた一族から独立した人。彼は小口商事という会社を興し、独立の際にもらった彦根の製糸工場を経営しながら、土地を転がしたり、また新しく製糸工場を建てたりしていた。

その中のひとつが信濃製糸である。

小口商事は1929年に経営破綻した。何かの記事で経営破綻の理由を「大正バブル期だった1918~19年度を中心に約120万円を投じた工場などへの設備投資したこと」を挙げていた。記事中には信濃製糸の名前も挙げられており、たまたま大きく資金投入していた時期で重なってしまったのかもしれない。

資金を過剰投資したわけでもないが、たまたま大正バブル(1915~1920)が1920年3月に弾けてしまったことにある。第一次世界大戦のために好景気(大正バブル)で設備投資したところ、1920年には焼け野原だった欧州が完全に市場復帰したため、日本からの輸出品が過剰生産となり株価が暴落してしまったらしい。生糸は日本の主力輸出品だったために影響をモロに受けた。生糸の値段は半分以下に。1921年には銀行が次々倒産し、1922年に関東大震災。金の輸出解禁(金本位制)が云々(よく分からん)で揉めていたので円相場がぐちゃぐちゃ。やっと持ち直し初めて金の輸出解禁を発表した1929年11月だが、その年の10月にウォール街大暴落が起きた。タイミングが悪く1930年の金輸出解禁日では円高となる。輸出は激減し、その代わり日本から海外に金が大量に流出していった。生糸は農家の主力生産品でもあったので、農家の収入が半分以下に。もう一つの主力生産品は米だったが、たまたま昭和5年豊作年となってしまって米の価格も落ちた。そもそも国民の所得がバブル崩壊直前の3割減となったので購入額も減ってたかも?

小口組は大正14(1925)年の輸出向け生糸生産会社全国4位を誇った。しかし昭和恐慌のため昭和7年小口組は倒産した。諏訪・岡谷は製糸業で栄えた地域であり、全国生産の25%程度を担っていたのに、恐慌でほとんど倒産してしまった。

日本から金が流出しすぎたので、1932年には金輸出を禁止した。そのため、円が暴落し円安となる。景気は良くなった。日本の景気が良くなったために諸外国はこれに対抗し、ニューディール政策など各国でブロック経済を構築。経済圏の中は内需が拡大し景気も良くなるが、ブロック毎に経済格差が発生。日本は満州国を含んだ日満ブロックを構築した、らしい。

 

何か昔は更級郡と上水内郡で争っていたんだなーと思った。大恐慌の前は稲荷山って相当栄えていた町だったらしいので…今だと長野市千曲市が戦っている感じ? 凄い狭い世界だよ! 昭和19年だと、上記関係者が多数没落した後だろうと思う。裕福で華やかな時代を懐かしむ気持ちもあって、こんな記念碑を建ててみたのだろうか。お金がないと精神もしんどくなっちゃうもんね。

 

 

撰文の芳賀○太郎さんは「芳賀剛太郎」さんかな? と思った。同名の人がおり、慶応3(1867)年から昭和22(1947)年に生きていた人。漢詩の大家らしく、漢和辞典を編纂したりしている。石碑が建てられた昭和19年にはご存命。

 

入り口にも変な草むらあったよ。深そう。

 

怪しい。何かありそう(どうやら、埋められた堀の一部らしい)。

五輪塔?が見える。相当古そうだけど、よく分からない。

鎌倉時代から室町時代にかけて中国から禅宗が伝わると同時期に今日の墓石に近い形の角柱型が建てられるようになったらしく。こういう五輪塔はそれ以前に建てられた墓だと考えられる。五輪塔=墓は平安時代から鎌倉時代にかけて(禅宗室町幕府に庇護されたために、その頃は角柱の墓になっていたと思われる。庶民も戦国時代から角柱の墓を建てていたらしい)。

この城、意外と古い城なのかもしれない。

長野縣町村誌「蟹澤村」の項を見ると、大昔から蟹沢村と称していたが天変地異(河川氾濫とか?)や兵乱で村人が出ていったりで昔の話が伝わらないというような内容が書かれていた。手子塚城のことも来歴不明となっていた。

 

五輪塔群の上に見える部分が土塁のようだ。

 

説明板があった。

  • 東西75間(約135m)、南北65間(約117m)
  • 面積は507坪(約1673平方メートル)
  • 西側、南側、北側の3面は3段。東側は川に面しており、急斜面となっている
  • 北側には土塁とV字型の堀切が残っている
  • 西南には空堀があったと思われる(これがJR飯山線の線路のことかな?)
  • 築城者・築城年代は不明
  • 大倉城(2kmほど離れている)の出城であると伝わる

 

北側から3段の段郭と¬形の土塁→V字の堀切→本郭、という感じのようだ。

説明板がある場所も段の様子がよく分かる感じ。

 

↓急斜面という東側はこんな感じのようだ。

 

この道と、国道117号線の旧道は昔からあるようで。蟹澤村中心部に向かう↑ストビューにある道と、立ヶ花の渡しからのびている117号旧道の部分が手子塚城の裏手でぶつかっている。1車線幅だが、昔のメインストリートだった道らしい。

 

文中の「大倉城」は、長沼島津氏の詰城だという。この場所は飯山方面・新潟方面・中野方面・善光寺方面の街道が交わる交通の要衝にあるそうだ。

そんなに離れていないようだ。

 

ふと振り返ると、無数の五輪塔の他に祠まであった。なんだろうな…?

祠がある部分まで土塁らしい。

 

この先に本郭がある。

本郭は現在、神社になっている。入り口の標柱や記念碑の内容にも記載されていた諏訪社。こちらの神社は江戸時代に建てられたらしい。

段が見える。一気に城らしくなってきた。

何か柱?のような細長いモノが仕舞われている倉庫?

古そうな倉庫である。

瓦屋根に漆喰まで塗られて…防火対策バッチリだが、何を仕舞っているのだろうか。

 

この細長い倉庫を抜けると。

諏訪社の鳥居が見えてくる。

本郭近くになると、周りからは随分高くなっている。

何か書かれていたと思われるが、現在は完全に字が消えている。

本郭のある段が見える。

諏訪社の鳥居。

鳥居周りも広い郭が広がっている。

本郭は更に高い。

到着。

 

狛犬、昭和4年奉納。

 

社殿はもう少し高くなっており、石積みもあった。石積みは後世のものだと思われる。明治時代編纂の長野縣町村誌に載せられた絵図には石積みが書かれていた。

 

長野縣町村誌によると、

  • 健御名方神を祀る
  • 地元に伝わる話では、文治年間(1185~1190)に小笠原長清が信仰し土地を寄進した
  • 川中島合戦で兵火にかかる、上杉景虎上杉謙信かな? それとも三郎景虎様の方?)が再建した
  • 承応4(1655)年(改元して明暦元年)に、松平忠倶(当時の飯山藩主)が何らかの理由で神社の土地を没収した(村内の他の神社も松平忠倶により没収されている)
  • 弘化の地震善光寺地震)で瞬く間に建物が崩れた
  • 嘉永年間に再建

とあった。

この他、諏訪社は江戸時代に隣の古宮地籍(今は果樹園が広がっている)から移転してきたそうだ。

 

また、「(手子塚)古城址」の項目には

  • 文化の初め、社殿を再建
  • てっぺんにあった老松を伐採したとき、6尺余りの平らな石が発見された。石室の蓋石だった。謂れは謎
  • この他にも、折れた刀や槍、鏃など色々な物が出土している

とあった。

 

文化年間(1804~1818)までには、古宮から現在地に神社が移転していたらしい。

そして、手子塚城は古墳だったらしい…古墳の上にお城建てちゃうことは往々にしてあるようだ(高台になっているから、かなー?)。古墳の石室の中には炭っぽい塊が数個あっただけ、と書かれていた。壊れた武器が多々出てくるような激戦地だったので、仮に副葬品があったとしても、度々の兵火で炭化しちゃうよね!

この古墳については、その後何か調査された様子は無かった。今、社殿が建っている位置に石室の蓋が発見されたのかな? そもそも古墳として認識されているかどうかも不明。

 

手子塚城の周りには古代から中世の遺跡が大量にあった。膳棚遺跡・手子塚遺跡・坊溜・峯の畑遺跡・南曽峯遺跡・南曽峯古墳とか。旧蟹澤村内だけでもたくさんある。なんやかんやで古墳時代から人は住んでいる(ただし村人さんは移住と離散を繰り返す)ということなのかもしれない。

 

長野縣町村誌の内容だと、お城の来歴は不明ながらも当地は鎌倉時代初期から何かしらあったことがうかがえる。

記事中の小笠原長清源頼朝御家人。治承4(1180)年の富士川の戦いから源頼朝の家来になっており、甲斐源氏で、母親は和田義盛の妹、奥さんは上総広常の娘、富士の巻狩りにも参加しちゃってる、という割と御家人ど真ん中的な人じゃないの?と思いました。格式には御門葉(鎌倉将軍家の親族)だそうな。承久の乱では東山道から京へ上る東山道軍の将軍を、同じく甲斐源氏武田信光と共に務めたそうだ。

小笠原長清の父の加賀美遠光が信濃守に任じられたのは文治元(1185)年で、小笠原長清も後に補任された。この3年後ぐらいに独立したようで御家人となる(加賀美氏は弟が継いだようだ)。

 

旧蟹澤村内の神社はすべて創建年不明とされているが、由緒は残されている社がいくつかある。それら由緒の登場人物から推測すると一番古い神社がここ諏訪社のようだ。

 

社殿の裏手は崖だったよ。

自然に帰ろうとしている(多分)トイレ。

 

社殿の周り。

そのまま南側から下りる。

土塁っぽい。

南側も段郭みたいなのがあった。

鳥居の所まで下りてきた。

そのまま階段を下りたよ。お城とお堀?(JR飯山線)の間にある道。

この道路も段郭を改変したものかもしれない。

彼岸花が咲いていた。子供が喜んで摘もうとしたので慌てて止めた。綺麗だけどね…。そういえば、彼岸花が田んぼの近くでよく咲いている理由は「飢饉の時食べるため」という話を聞いたけど、コレ食べられるのだろうか…(調べたら毒抜きが出来るようだ。人間は凄い、有毒植物も無害化したり何でもやっちゃう)。

そうこうしているうちに、入り口についた。

 

 

★★★★☆

お散歩にちょうどいいお城だった。穏やかな場所だった。

 

 

<手子塚城>

築城年 不明

築城主 不明

毛野館・毛野城

仕事で疲れた(毒気に当てられた)ので、浄化をしに景色の良い場所に行った。折角来たのに子供に振り回されてしまい、ソーセージ2本食べただけで終わった…今度は1人で来ようと心に決めた。

お子様連れ、お犬様連れの方々で賑わっていたよ!

 

ここから車で10分くらいの集落に、毛野館・毛野城という城館が残されているらしい。毛野と言えば群馬県と栃木県一部を示す古い文化圏の名前だが、全く関係なさそう。

現在、「諏方宮(諏訪社)」「勝教寺」がある区画が毛野館跡のようだ↓

 

勝教寺より諏訪社が高い位置にある。本郭は神社がある場所と思われる。

勝教寺は元々小さな庵のようなお寺さんだったようで、明治13年に寺号を受け改称した、と長野縣町村誌にはあったが明治時代の地図には現在地に「長命寺」という別の寺院が置かれていた(長命寺は文政12年に火災に遭うと書かれていた)。諏訪社は諏訪社でずっと存在し続けているようだ。

ちなみに、長野縣町村誌には毛野氏の居住地跡について記載があったものの、肝心の場所の記載がない(毛野氏館と毛野氏城があるので)。毛野氏についても事績不明。

 

毛野館と毛野城の位置関係は以下の通り。

 

わりと近くにある。毛野城跡は小高い丘にあった。

近くに車を置いて、ちょっと上ってみようかなってレベルの小高さ。ただ、周辺に車を置くスペースどころか、周辺の道は1車線幅で停めると迷惑になっちゃう。

↑中央の丘が毛野城だよ!

正直、城というには貧弱な感じ…。

 

別の位置から見る。大きな木が生えている微高地が毛野城。

すぐやられちゃいそうだよ。周りは宅地と田畑で囲まれているので、堀やら土塁やらはすべて消されちゃっているのかもしれない。

大きな木の下辺りに何か石碑っぽいモノが見えた。「毛野城跡」とか書いてあるのかな!? と思ったが、城主一族の子孫とされる家のお墓らしい。

戦国時代以前に帰農したのかもしれないなあ、と思った。

 

この辺りは永正年間には村上氏配下となっており、その後は村上氏→武田氏→織田氏(森氏)→上杉氏→飯山藩領という変遷で明治を迎えているようだ。

 

さて、毛野館は少し遺構が残されていた。

諏訪社の本殿。境内は広い。

西側には土塁が残されていた。

西側以外の場所は、崖。

西側には毛野城への逃げ道が存在していたはず。

 

こちらには毛野城跡を示す説明板があった。

内容は、

  • 天喜4(1056)年、藤原氏末裔の清水氏が奥州安部頼時の戦乱にあたり、鬼門除けにこの地に社殿を建立したと伝承されている
  • 拝殿の床下には畳2枚ほどの大杉の切り株が残され、境内に現存する杉も三水村で最も古い樹齢4~500年の杉
  • 広大な屋敷跡でもあり、当時は隣の寺院も屋敷の一部であったと思われる
  • 西側に土塁が残されている
  • 六百坪余りの水平地があり、相当な豪族の屋敷跡であったようだ

この文中に出てくる清水氏は、毛野城にあるお墓の持ち主のようだ。毛野城からはちょうど鬼門にあたる場所だ。

 

「奥州安部頼時の戦乱」というのは、陸奥国に半ば独立国を形成していた安部頼時を討伐するために朝廷が軍勢を差し向けた「前九年の役」のことを指しているようだ。

永承5(1050)年、藤原登任という人が陸奥守として現地に下向。翌永承6(1051)年、衣川(当時は朝廷と蝦夷の国境だった)より南へ進出しようとする安部氏となり、朝廷側が負けた。そこで、河内源氏の2代目棟梁である源頼義が派遣され、その翌年の永承7(1052)年に大赦が出され安部頼時が赦されることとなり、和睦する。

天喜4(1056)年は阿久利川事件があった年。阿久利川事件とは、源頼義陸奥守任期満了日直前に源頼義が襲われた謎の事件だという。安部氏と朝廷側が再び戦闘状態となる。天喜5(1057)年に安部頼時は戦死するが、その後も嫡子の安部貞任が戦死するまで戦乱が続いたようだ。安部頼時の娘婿が藤原経清であり、その子孫が奥州藤原氏源頼義の子孫が源頼朝前九年の役のせいで、源頼朝は奥州を征服したかったのかー。

 

毛野城主の清水氏は「前九年の役」頃に豪族やっていた一族なら、そりゃ資料にも残ってないような? と思うほどの昔の豪族だったということなのかな。

 

平安時代中期のお城ってあんまり高い場所に造る技術なさそうな気がする。大丈夫? って思っちゃった毛野城でも当時は最先端だったのかもしれないわ。



★★★☆☆
毛野館は良かった。

 

<毛野城・毛野館>

築城年 不明

築城主 清水氏?

久米路峡

信濃の国に歌われる久米路橋である。

 

以前見に行って「ちっちぇーな!」とガッカリしたので、個人的にはあまり好きではないが、県歌に出てくるぐらいだから皆好きなのかな?

元は跳ね橋だったそうで、多分犀川通船のために跳ね橋にしたのかなー? とは思った(跳ね橋といえば、幕末に完成して「皆で渡り初めだ!」と大勢の人間がドドド…と駆け込んできてそのまま崩落した大屋橋を思い出す)。

 

久米路橋(水内橋)自体は大昔から何度も掛け替えられている有名な橋。伝説では推古20(612)年に百済渡来人の土木技術者・路子工という人に作らせた約180もの橋のうちのひとつらしい。路子工はイラン系ペルシャ人で、中国を経て百済から日本へにやってきたらしい。

路子工は推古20(612)年に帰化した。身体中に白斑があったので「伝染病患者か!?」と思われて島に捨てられそうになったが、「病気ではありませんし、僕には技術があります、連れて行って」と言いなんとか難を逃れた。当時最先端の思想だった仏教の教えを用いた見事な庭園(須弥山石組)を造ったので、国のお抱え技術者となった。

日本史に記録された最初の技術者であり(当然、路子工の前にも庭師や土木技術者はいた)、とにかく以前とは比べものにならない高度な技術者を持っていたらしい。最初の仕事は造園だったのに、「長い橋を架けるのが得意」と橋メインの業績が残される。

橋の業績は、久米路橋の他には三河国八脛長橋(江戸時代に国内最長を誇った矢作橋のこと?)、木曽の梯(桟橋)、遠江国浜名橋、会津の闇川橋、兜岩の猿橋山梨県にある猿橋)などがある。

 

矢作橋は慶長6(1601)年初代開通とされる(それ以前は橋が架けられなかったという)が、平安時代末期の源行家矢作川に架かる橋を取り外して云々(平家物語巻6洲俣合戦)という文があったり、矢作橋で子供時代の豊臣秀吉のエピソードがあったりで、謎が多い。

 

福島県の闇川は渓谷で有名らしい。闇川橋より隣の古い鉄橋の方が人気あるらしい。

 

ここではどうやら闇川橋は「聖徳太子百済人の路子麿に造らせた180の橋のうちのひとつ」ということになっているらしく。この橋の近くに祀られた橋姫神社も橋守として創建されたらしい。闇川橋のすぐ近くに福島県内最大の縄文時代の環濠集落(ムラ)跡があるという。

国道121号線が阿賀川を渡り始めるカーブ辺りの田んぼを発掘調査したら出てきたらしい。橋姫神社と闇川橋は↑この地図の左下にある。

この場所ではどうなのか分からないが、環濠集落の堀の上に橋を架けていたことが発掘調査で分かった例がいくつかあるようだ。推古天皇の時代に架けたという闇川橋もそういう感じなのかなー? ひょっとしたら推古天皇時代の大和朝廷北限が会津盆地で、蝦夷に最新の文明を見せつけてやる為に架けたんだろうとか、色々な妄想が広がりそうな橋だな!

また闇川橋は戦乱で度々落とされているらしく、このルートは古くからある道だったようだ。災害で通行止めになった鶴ヶ城城下町と日光を結ぶ会津西街道の代替道として整備された会津中街道のルート上でもある。国道121号線の旧道っぽい雰囲気も持っている。

 

久米路橋、猿橋、木曽の梯、浜名橋は古くから和歌に詠われる有名な橋たちである。

久米路橋は拾遺和歌集に選ばれた和歌「埋もれ木は中むしばむと言ふめれば久米路の橋は心して行け(詠み人知らず)」がある。ちなみに、昔は水内の橋と呼ばれており、久米路の橋(久米路橋)という名前になったのは明治に入ってからだという。結局、矢作橋みたいに古代からあったんだかなかったんだか…ということなのかもしれない。

 

そんな久米路橋を渡った先にあったトンネル(久米路隧道)↓の方が私の心を打ったよ。

 

堀跡も荒々しく、ワイルドだな。昭和6(1931)年生まれの現役隧道だそうだ。一部覆っており、補修の跡もあった。

現役の久米路橋も昭和8(1933)年に架けられたそうで、多分この二つはセットである。久米路橋は令和三年に登録有形文化財になった。久米路隧道も一緒に登録して欲しかったな。

 

あと、私の心に何故か残る「雉も鳴かずば撃たれまい」の生まれ故郷だった。

現在の久米路橋・久米路隧道は交通量は少ない(でも、国道19号不通時の代替道路として整備され続けている)。国道19号には新久米路トンネルがあり、小さな「←久米路峡」という案内板に惹かれなければ普通コッチまで来ない。

 

ここでは、大がかりな工事が行われているらしい。

犀川の流路にある変な出っ張り部分に、河川用のトンネルを2本も掘っている。この出っ張り、素人の私ですら「邪魔」と思ってしまうわ、なんであるんだろう(私がもし腐るほどカネ持ってたら、こんな出っ張りすべて爆破してなくし、川の流れを整えてあげたい)。ここに水路トンネル掘りたくなる気持ちがよく分かる。

久米路河川トンネルさん。平成4(1992)年竣工、長さ229m。

 

久米路第2トンネルさん(右側、開口部が四角い)。平成26(2014)年竣工、長さ199.5m。断面積は水路トンネルとしては国内最大級らしい(高さ12m、幅15m)。

2本のトンネルとも稼働中。まだどこか工事しているのかな?

砂利トラが当日も出入りしていた。

 

昭和58(1983)年の台風被害がキッカケで、昭和60(1985)年から「犀川久米路恒久治水対策事業(3点セット)」という大がかりな工事をやっているそうだ。この事業には東京電力(長野県内はほぼ中部電力の勢力下なので馴染みがない)も協力しているそうだ。東電が出ていたのは、久米路峡から下流側に東電所有の水内ダムがあるからだろう。

昭和58(1983)年の台風10号は中心気圧885hPaとかいう強い台風で、長野県内でも千曲川が決壊するわ、諏訪湖が溢れるわ、色々大変だったらしい。

久米路峡近くの信州新町の中心部が浸水したそうで、620棟もの家屋が浸水したという。犀川の水位が最高約431mまで上がったとかで、一階部分は水没状態、平屋だったら死んでるかもね。信州新町だけで被害額が32億900万円。町の住民は水内ダムがあるせいで町が水没したとダム設置者の東京電力と交渉を開始し、東電から5億円の解決金・3億8500万円の生活再建費用を引き出すことに成功。

一方長野県は、模型を使った実験を行いその結果から治水対策としてこの事業を行うことになったという。なので、事業に東電が協力することになったのかな。

 

信州新町だけではなく、どこも水害に対する備えとして河川改修・ダム設置など治水対策関連の事業が活発になったそうだ(そういえば、元々沼地みたいな場所だった長野市松代でも、この台風のせいで地中にでっかい排水溝とか埋める大きな工事やったとか数年前に聞いたわ。そのせいで令和元年の台風はまぁまぁの被害で済んだのかもしれない)。

 

事業名にある3点セットというのは、長野県が実施した実験結果と住民の意向で決まった以下の事業を指す。

  1. 久米路河川トンネル
  2. 杉山開削
  3. 久米路第2河川トンネル

「杉山開削」は少し上流で信州新町の中心部に近い杉山という場所を削ったことのようだ。

 

本当は久米路峡を削りたかったらしい。気持ち分かります。久米路峡を削る・爆破させることは景観破壊だとして住民に反対された。

 

平成26(2014)年、久米路第2河川トンネル開通により、すべての工事が完了となっている。

 

泉小太郎像。
ここの泉小太郎君は、かつて大きな湖だった安曇野を開拓した人として語られている。

  • 安曇野は大きな湖で、犀龍(女の神様)と白龍(男の神様)が住んでいた。この2人の子供が泉小太郎である。
  • 小太郎が生まれてすぐ、母の犀龍は自分が龍だということを恥じて、湖に隠れてしまう
  • 成長した小太郎は母を探しながら、「こんな大きな湖の水を落としたら、肥沃な平野が生まれて貧しい人々の暮らしも豊かになるのにな」と思うようになった
  • そして母の犀龍は小太郎と再会し、小太郎の願いを叶えようと龍の姿になり、小太郎を背に乗せ三日三晩荒れ狂って湖の水を越後の海に注ぐことが出来た
  • 小太郎と母の龍が湖の水を流し降った川を「犀川」と呼ぶようになった

大昔の安曇野開拓と犀川の治山治水を語った話であるともされるようだ。

 

母親も(多分)父親も龍なら、小太郎も龍になるんじゃないかな? と思うこともあるが、泉小太郎君は人間という設定である。

平成3(1991)年の手形がいっぱいだよ。

 

 

★★☆☆☆

治水事業の完了を記念した公園がある、久米路峡の公園は寂れているし狭い。

 

 

 

信州新町のオシャレ洋館も見てきた。

宴の城

先に見える小高い丘のようなものが「宴の城」という場所だという。

入り口?の案内板には、

  • 左手前方上部が城
  • 篠ノ城の出城か砦、岡田氏の要害、大塔合戦に(兵士の休息所として)使用した、と色々伝わる
  • 色々伝わっているものの、詳しいことは不明
  • 展望がよく、水利もあり、手頃な広さで、とにかく昔から「城跡」だと言われている

という、かなりざっくりした内容だった。

 

「篠ノ城」はここから動物園・恐竜公園を抜けた奥の山に残されている。直線距離で500m離れている。布施御厨を治めていた布施氏の初代・布施三郎(布施惟俊)が土着し、その子孫の布施頼直という人が篠ノ城を造ったという。布施氏初代の父親は平正弘といい、伊勢平氏の傍流だが保元の乱崇徳院側として戦った結果、領地没収の上、流刑・斬首でほぼ滅亡しているらしい(信濃土着組は名乗りも変えているし、いち地方豪族として中央との関わりと絶ったからとか、兵力がないとか、そんな感じで見逃されたのかな?)。

岡田氏はなんか地元の土豪か何かじゃないかな…? その一族のことは謎だけど、「宴の城」がある場所は古くは岡田村という名前だった。

まあ、見晴らしも良いし、出城・砦(要害)の類いが置かれそうな場所だよ。

大塔合戦では、名前の通り宴で使われたと言われている。

 

とにかく上ってみよう。

整備されているのに、右側は葛が繁っている。

まさか葛畑? 葛を育てている農家なのかな。葛粉は長野でも生産されているのだろうか?

ネギ植えられてないか? あらら人の家の畑なのか。

見晴らしは良かった。肝心の眺望の写真がないが、こんな感じ↓

周りの民家に比べても、ここだけ小高い。

人が集まって宴会する場所としても優れているかも。

「宴の城」自体は口伝として残されていたのか、本当に資料がないらしい。ふざけた名前を付けられているが、見た感じただのひょっこりした丘だし遺構もなし。「中曽根という場所に家臣の館があった」という話が長野縣町村誌「岡田村」に載っているものの、中曽根がどの辺りを指しているのか分からなかった。

ちなみに、字中曽根は岡田村の酉戌の方(西北西の方)と書かれており、動物園・恐竜公園がある辺りのように思えた。ひょっとしたら家臣の館跡=宴の城かなとか思ったけど…中曽根の家臣館跡地が残っていない可能性の方が高いかー。

小高い丘ではあるが、防御を固めるための土塁とか必要じゃなかったのかな。そういうものがなさそうだよ。

葛畑なのか、単にここだけ荒れているのか分からなかったよ!

 

★☆☆☆☆

見張り台を兼ねて、兵士がたまにキャンプしてた場所なんだろうな、という感じ。

 

 

<宴の城>

築城主 不明

築城年 不明

 

 

 

 

 

今回の目的は茶臼山動物園でした。

混雑してたよ。人間がたくさんいた。

 

 

ご飯。