お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

仙石氏館(矢沢陣屋)

運動不足を感じたので、久しぶりに山へ行ったよ。集落に極近い山だけど。熊とか本当に勘弁だからな。

まずはこういう感じの。現役の民家だよ。

 

寛文9(1669)年、上田藩主仙石政俊が幕府に隠居を願い出た序でに、政俊の弟・政勝が上田藩領約六万石のうち二千石を分知されて出来た矢沢領の陣屋である。仙石氏の分家ということになる。独立して旗本になっている。

上田藩主の仙石氏は宝永3(1706)年に但馬出石藩へ移封されたそうだが、この分家は当地に留まり明治維新を迎えるまで矢沢領を治めたという。この他にも飛び地で730石ほどの領地があるらしい。

二千石くらいだと旗本でも上級の家格になるらしく、陣屋とはいえ城みたいな石垣を作っている。調べたら現在でいうと年収5~6000万円ほどの家になるようだ。

でかくて近代的なお城だと、こういう感じの石垣あるよね!

↑祠っぽいが、とにかくここ民家なのでじっくり観察してない。

 

航空写真だと民家が3軒はあるみたい。御子孫なのかしら? ちなみに陣屋の主は江戸定府なのでここにはほとんど来ていないようだ。代わりに代官を派遣していたみたい。

石垣の周りは綺麗に整備されており、ちょっと歩いてみた。桜の木が並んでいるので春は美しいかもしれないね。

裏側はこんな感じだった。崖。そして川も流れている。

道路に面している豪奢な蔵も良かったが、こっちも古そうだわ。

戻るよ。

保存されているのか分からんが、蔵だけバンッと現れてびっくりする。ちなみに城内にある民家は現代的な建物だった。蔵は人目を引くものの、江戸時代の建物かは怪しい気もする…?

石垣は続くが、蔵周辺の鋭角な石垣じゃなくなってきている。

入り口と門があった。ここが陣屋の正門跡じゃないかと思う。

しかしながら、案内板などはない。さっきの石垣周辺にも仙石氏館とか矢沢陣屋とかそういった名前が分かる看板はなかったな。グーグルマップにはガッツリ載っているんだけど。

現地にあった看板はこれだけ↓

近くに「矢沢城」というお城があり、こっちを推しているようだ。

石仏?が並んでいる。陣屋があるぐらいだし、街道が通ってる地区だったんだろうなと思う。


矢沢陣屋近くの町並みはこんな感じだった↓

 

狭い道だが、閉店した古い構造の商店が並んでいた。多分、長野県道176号線の旧道じゃないかな? 旧真田町大屋駅を結んでいる。古地図ではこの道が主要道として太線で描かれていた。この道には矢沢村の道路元標もあったらしい。

 

周辺、石積みが多かったよ。一応城下町だしね、とても立派だった。

ここまでが陣屋かな?

 

左側は崖。一応堀的なもの?

耕作放棄地のような場所にも石垣。

道路の向こう側にも石垣がある。お城跡ではないと思うけど。

ここの見所はこれよね! ってことで、蔵を最後によく見た。

おしまい。


★★★☆☆

陣屋にしては大変立派なものだった。




<仙石氏館>
築城年 寛文9(1669)年
築城主 仙石政勝

宮遺跡

皇足穂命神社諏訪社合殿の近くにある。この辺りは古くから「宮」と呼ばれる地区だったそうで、遺跡もその名前が付けられている。

ここは縄文時代中期~晩期の集落跡。この地域(西山地方=戸隠・中条・小川・鬼無里信州新町あたり、善光寺平の西側にある山間部。ローカルな言い方。ちなみに西山地方は年間1mmずつ隆起しており、逆に善光寺平は年1mmずつ沈降しているという関係)では珍しい時代の遺跡だそうだ。

 

縄文時代中期は日本の人口が26万人まで増えた頃で、特に関東地方+岐阜・長野・山梨に人が多く住んでいた(日本人の96%が東日本に住んでいたとか)。26万人でも当時の狩猟社会では養える限度の人口だったそうで、縄文時代終わりになると8万人まで減る。中期までは温暖な気候だったが、後期に気候変動で寒くなってきて縄文時代当時の主食だった木の実が採れなくなってしまったかららしい。後期には現在の関東地方に人口が集中していたが、どんどん減って晩期には東北6県が他の地域より少し人口多いかな? ぐらいの状況になってしまったようだ。

つまりこの遺跡は縄文時代の栄枯盛衰を表しているヤツだわ。人が増えすぎて新しい集落を作って、今度は食物が採れなくなって集落が消滅しちゃったってことだねえ。

弥生時代には大陸から稲作技術が持ち込まれ(造船技術自体は縄文時代からあって、縄文土器風の遺物がエクアドルで見つかる→縄文人が南米に移住した可能性が高い→アメリカ先住民の祖先は縄文人説が昔あった)、西日本を中心に人口が増えていった。東日本はさほど人口が増えなかったようだ。理由は「寒かったから」。気候が稲作に適さなかったらしい。西日本を中心として弥生時代60万人→奈良時代600万人になった。米パワー凄い。

 

縄文時代の集落の特徴として、

  • 中央に墓がある
  • 墓を中心にして倉庫を置く
  • 倉庫を取り囲むように住居を並べる

という墓を中心とした同心円上に建物があるという環状集落である。この他にゴミ捨て場(使われなくなった住居跡がゴミ捨て場と化すようだ)とか祭祀場とか、ストーンサークル作ったり、何かと円状に形成していく癖があったみたい。

ここも典型的な環状集落として、墓を中心に住居が取り囲んでいる感じなんだろうと思う。

お墓からは男性の人骨2体が発掘されている。うち1体は当時の成人の通過儀礼だった抜歯をしているそうだ。抜歯自体も、「大人なのにされていない」「抜歯で抜いた歯に違いがある(犬歯を抜く・前歯を抜く・上下の歯)」で様々なパターンがあり、東日本より西日本で多く行われていた儀礼とも言う。抜歯も結局「なんで歯を抜くのか」という疑問だとか、抜いた歯の差異(身分差や集落外から来たことを表すという説もあるようだ)とか、分からない事が多く。狩猟採集民族に多く残る通過儀礼だそうなので、今も残る狩猟民族の人達に理由聞くしかないよねー。

 

集落の大きさは発掘している部分がわずかなので不明。東西500m、南北300mと推定される。発掘調査は昭和48(1973)年夏に旧中条村教育委員会がメインで行われたという。

墓と住居跡の他に、玉を作る工房跡も見つかったという。糸魚川や白馬を流れる姫川流域で産出された翡翠を加工している途中のまま残されていたそうだ。集落の人々が段々と亡くなり、最後の一人が黙々と石材加工をしていたがついに力尽きて…という風に集落が終焉したのかなー? 切ないなー。

住居跡は6。墓跡は4。それぞれ番号は振られている。この遺跡の発掘調査報告書によれば、5・3・6→1・4→2という順番で新しくなっているそうで。お墓も4→2→3→1という順序。

他に集石跡(竈跡?)と土壙跡(穴が掘られた跡というザックリした意味のもの)があり、集石跡は縄文時代後期の半ば~終わり頃、土壙跡は縄文中期以降(近世のものかもしれない)という結論で、この辺りが川の氾濫、地滑りで地盤が弱い地域ということもあり、「きちんとしたことが分からないです」で終わっていた。

お墓に埋葬されていた男性二人も保存状態が悪くて、何か特別すごい発見があったという訳でもなかったらしい。それでもこの地域では珍しい遺跡なので公園整備されている。

当時のおうちも再現されていた。

竪穴建物は平安時代までは一般人の民家として普通に使われていた建物で、田舎だった東日本では平安時代中期頃に掘立柱建物という住居が普及しはじめたので竪穴建物は姿を消したそうだ。

掘立柱建物とは↓

 

縄文時代から平安時代まで少なくとも1200年間くらいはこういう家に住んでいた訳だし、懐かしさを感じる。

じゃあ住めよって言われても抵抗あるが。

屋敷の裏にはドングリの木もある。縄文時代の主食はドングリだったと思うが、現在ドングリなんてスーパーで売ってないし口にすることもない。米の方が美味しいからというか、それ以上にドングリが物凄く不味いんだろうなー。アクが強いそうで、調理するのは大変そうだ。

宮遺跡公園で整備されている部分、半分以上はただの公園で広い。ところどころ窪みがある(遺跡部分)が、立ち入らないでくれって標識もないし、公園整備される前はどうやら畑だったらしい。弥生時代に入って定住者がいなくなり、後から来た?人達が耕作地として利用していたこともあり、遺跡として全体的に状態がイマイチだからかな。

ただ、古い神社(皇足穂命神社諏訪社合殿)もあるし、民家が現在でもあるので住みやすい場所だったようだ。

ちなみにこの御屋敷とどんぐり林は河岸段丘上ということで、高台にある。どんぐり林の向こうは崖で下は土尻川が流れている。川の向こうは旧中条村中心部で小学校から高校、役場がある地区となる。

中心部に近いせいか公園は大変丁寧に整備されており、竪穴建物も綺麗だし今日この日が有意義だったな! と思えるほど満足してしまった。

 

★★★★★

子供も過ごしやすいし、大人もぼーっと出来る公園だった。

皇足穂命神社諏訪社合殿

長い名前の神社で、「すめたるほのみことじんじゃ すわしゃ あいどの」と読むようだ。皇足穂命神社と諏訪社が合併したということかな。


延喜式に白玉足穂命神社という神社の記載があるが、その論社のひとつである。他は長野市にある吉田神社と飯縄神社と皇足穂命神社(信州新町)。

飯縄神社は全国の飯縄社の総社であり、飯縄山山頂に270年ごろ大戸道尊という神様を祀ったことが起源と言われている。wikiによると大戸道尊は神代七代の神様たちのうち、第5代のオオトノヂ男神)・オオトノベ(女神)のオオトノヂのことだという。オオトノヂ飯縄権現と称し祀った山岳信仰の神様。飯縄山山頂の社を奥宮、麓に里宮がある相当古い神社である。

 

白玉足穂命神社という名前の神社が存在せず、正直4つの論社どれも違う可能性あるよなーと思う。本当の神社は消滅しちゃっているかもしれない。白玉足穂命も皇足穂命も神名(人名?)だろうし。

皇足穂命神社諏訪社合殿のうち、皇足穂命神社の御祭神は、

となっている。

 

ちなみに吉田神社の御祭神は天照大御神豊受大御神、飯縄神社の御祭神は飯縄権現保食神信州新町の皇足穂命神社は瓊瓊杵尊。見事にバラバラ。

世間的には「白玉足穂命神社=飯縄神社」ではないかと言われているようで、明治6(1873)年に飯縄神社の奥宮・里宮共に皇足穂命神社という神号を得ている。飯縄信仰も相当古いしね。

 

ただ、他の神社もそれなりに古かったり由緒あったりするようだ。

吉田神社の辺りには古い時代の御牧が置かれて昔から人が住んでおり、文政2(1819)年に皇足穂命神社という社号をもらっている村社である。移転しており、元の社地は現在地から1kmほど離れた所。

 

吉田の大銀杏が御神木だったと言われている。お引っ越しした際に近隣の神社も全て連れてきたそうで、摂社はかなり多い。古い名前が分からない(どうせ吉田神社とか大神宮辺りじゃないかな?)が、引っ越しエピソードを考えてもこの辺りで最も御神徳が大きい神様だったのかなと思う。

 

中条村も古い時代から人が住んでいる。旧中条村(旧栄村)は中条村日高村・住良木村が合併して出来た村で、住良木は皇という字に変換出来る。神社がある辺りは「宮」という地名で、皇足穂命神社諏訪社合殿は周辺の村々の産土神、郷社という格である。安永2(1773)年に神号を受けた。神号を受けた順序は中条→吉田→飯縄なので、名前だけでいうと一番古いのが中条にある皇足穂命神社。安永2(1773)年以前は諏訪大明神と呼ばれていたらしいが、更にその前は皇足穂宮と呼ばれていたと伝わる。

 

信州新町里穂刈にも「皇足穂命神社」があるが、元は皇足山に瓊瓊杵尊を祀った神社だそうだ。江戸時代には名前を変えており、穂刈神留神社と呼ばれていた。明治26(1893)年に旧称である皇足穂命神社に改称。山が御神体という意味では飯縄神社並みに古そうだ。

 

ということで、どれも古そうだなと決め手に欠けるというか確定しないらしい。昔に戻る技術があれば、こういう話もすぐ分かっちゃうのになー。早くタイムマシン開発してほしい。

 

皇足穂命神社諏訪社合殿の駐車場。

田んぼが広がる。民家は点在している。

玉垣も立派よ。

「郷社」の上の部分、何か書いてありそうな気もするが分からないや(他人のブログの写真を漁ってみたが、どうやら「延喜式内」と書いてありそうな気がする)。

鳥居と社殿。

奥に見える拝殿は1つだが、その先の本殿で「皇足穂命神社」(東宮)「諏訪社」(西宮)とそれぞれ分かれているという。二社の本殿も覆屋で見えないのでよく分からん。

皇足穂命神社本殿は舞良戸式両開き扉、諏訪社本殿は両開き板戸とあるが、大体似た感じの様式のようだ。長野市文化財サイトの画像見ると朱くベンガラが塗ってあるっぽい。そのサイトの説明には「寛文5(1665)年火災のため焼失し、寛文10(1670)年再建したと伝わる。皇足穂命神社本殿に続き、諏訪社も再建されたと考えられ、両宮とも寛文頃の特徴をよく残してある」と書いてあった。ただし当時は諏訪社の方が格上だったらしく、皇足穂命神社は本殿のみ、諏訪社は祝詞殿兼拝殿なども付随してあり、どこかのタイミングで皇足穂命神社<諏訪社と立場が逆転していたようだ。

 

皇足穂命神社の御祭神は倉稲魂命という農業の神様というか、お稲荷さん。そこに気長足姫命と誉田別命も合祀されている。

接点のない神様だが、神功皇后(気長足姫命)の三韓征伐の際、神功皇后信濃国一ノ宮である諏訪大社を訪れ、その時にたまたま出仕していた神官が諏訪大社の御神木を移して祀った(西宮・諏訪社の起源)という伝説が残っているからだという。それで神功皇后(気長足姫命)と子の応神天皇誉田別命)も祀ったというが、神功皇后って熊襲征伐(九州)からの三韓征伐なイメージが強くて、諏訪まで来るような暇があったかちょっと気になる。あと約25kmほど離れた治田神社の御祭神の子孫が神功皇后にあたるので、ひょっとしたら何かしらの縁もあったかもしれないが…昔の伝承って謎なのあるよねえ、早くタイムマシン開発して!

 

諏訪社は健御名方命事代主命。これは神功皇后応神天皇が皇足穂命神社に祀られた経緯で分かるように、皇足穂命神社より後に出来た、相殿神のような立場だった。

天文2(1533)年、地元の豪族・春日氏(この一族は越後国春日山から来たので春日氏と称していたという。周辺の村々を代々治めていた。元は坂城の村上氏配下だったが、天文22年に村上氏が武田氏に敗れたため武田氏に従っている)が社殿を修復したとある。この時期に諏訪社の立場を上にしてしまったかもしれない。治田神社方式で「甲斐の武田軍が侵攻してきた→神社が燃やされないように信玄が信仰している諏訪大明神のお宮にしよう」ということで戦国時代から諏訪社メインになったのかもしれない。江戸時代には「諏訪大明神」と呼ばれる。

 

鳥居の前は広場になっており、筆塚とかあった。

顕彰碑は字読めない。

何か面白い配置になっている。祠が鳥居の外とは。

杉だッ!!

拝殿。諏訪社を示す梶の葉の紋が見える。

お参りをしました。

諏訪社の祝詞殿兼拝殿は弘化4(1847)年の善光寺地震で崩れ、安政4(1857)年再建された。

善光寺地震では中条村周辺も、五十里という地区で山が崩れて土尻川が堰き止められ、五十里より上流側の村々が水没した記録がある。

善光寺地震の報告書のひとつで、松代藩士が残した「むしくら日記」という書籍がある。この書籍のタイトルの「むしくら」とは中条村のシンボルのお山である虫倉山周辺の被害が大きかったし、震源地は虫倉山かなー?とちょっと思ったから、という理由だそうで。拝殿の再建まで10年かかっている、生活再建も相当な時間がかかっていたかもしれない。

 

御神木?と何かの碑がある。「皇紀二千六百年境内拡張記念碑」とあった。昭和15(1940)年の皇紀2600年記念行事の一環で境内を整備していたらしい。狛犬や鳥居もこの時に造られたのかな?

境内、獣の足跡とても多かった。周りに民家も点在しているのにね…猪かしら?

今年、存在感を増した熊か?

社殿の奥にも何か鳥居がある。ちょっと不気味。
子安荒神社。

なんか怪しいが、行ってみよう。

鳥居の入り口にある古ぼけた案内板には、どうやら子安荒神社の由来が書いてあるようだが?

  • 御祭神 奥津日子命・奥津比売命
  • ご利益 かまどの神・安産の神
  • 戦国時代の坂城城主、村上義清の奥方、加治の方(文章の内容から正室の小笠原長棟の娘と思われる)が難産となり村山子安荒神長野市)に祈願したところ、男子が生まれた。この男子(源吾)が後の村上国清である。
  • 跡継ぎの男子が生まれたことに喜び、城主(義清)が村山子安荒神を篤く信仰した
  • 中条平の先人がそんな村山子安荒神を勧請したと伝わる

 

この子安荒神は中条平に住むすべての人を見守り、子のない人には健児を与えるとされる。また、村山子安荒神様だけでは片参りになるとも言われる。

 

村山子安荒神というのは、恐らく長野市篠ノ井布施村山という地区にある三宝寺(荒神堂)のこと。このお寺さんには三宝荒神と子安大荒神の二体の仏像が御本尊となっている。三宝荒神行基の作と伝わる、村上義清の念持仏だった。奥さんの出産時に熱心に祈っていたところ、息子が生まれた。そして息子の夜泣きが酷いので困っていたところ、ある夜急に静かになった。息子を見たら知らん女が授乳し、あやしていたというので驚き、「あの女性は三宝荒神だ」ともう一体仏様を造らせた。それが子安大荒神村上義清が戦争に負け、新潟へ落ち延びるときに仏様を川中島にあった蓮香寺に預けていった。その後、やはり蓮香寺も戦火を逃れて疎開することとなり、篠ノ井山布施という山の中に10年いた。疎開から戻ることになったが、10年間に三宝荒神・子安大荒神の人気が爆発してしまい、荒神さまを現地に残して欲しいという要望が多数来てしまう。荒神堂を建て、蓮香寺は川中島の元あった場所に移転したという。

子安大荒神は旧国宝→国重要文化財の指定を受けている。胎内から村上義清直筆の日付入り書き置きが見つかったからかな?

 

三宝荒神は日本特有の仏様。聖徳太子の言葉「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」の三宝を守る仏様として発展したという。火と竈の神様でもある。源頼義が康平6(1063)年に前九年の役を勝利した記念に鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)と大宮八幡宮(東京都杉並区)を建立した時、三宝荒神も一緒に祀ったらしく。それを考えると平安時代後期には知られた神様だったかもしれない。とはいえ行基はその仏像を作ってないと思います。

 

こちらも覆い屋で保護されていた。入り口が絶妙に暗かっただけで、鳥居を潜ってしまえば普通の神社だったよ。

東宮・西宮の覆い屋。覗くこともできそうな気がするが、ちょっと出来ないよねえ。

 

御大典で杉を植えたのか。5年前かと思う。杉は植えないでほしい。

 

 

★★★★☆

地域を見守る親しみある神社という感じだった。

 

 

<皇足穂命神社諏訪社合殿>

創建年 不明

 

 

 

 

 

やだ長船派に好きな声優さん集結してる

福島も報酬で来るしがんばろー(今やっと1万ちょい集めたぐらい、先長過ぎ)

長野県発祥の地

明治4(1871)年、長野県が発生したようだ。

  1. 明治元(1868)年、江戸幕府消滅のため信濃国内の旗本領・幕府領がまとめて伊那県となる(県庁は飯島町の飯島陣屋に置かれた)
  2. 明治3(1870)年、伊那県のうち東北信地域の旧旗本領・幕府領が中野県として分かれる(県庁は中野市の中野陣屋に置かれた)
  3. 明治3(1870)年暮れに明治政府の増税に怒った民衆が一揆を起こし、中野県庁を焼いたり色々する
  4. 明治4(1871)年、中野市内で県庁を建て直すことを断念し移転を決意、善光寺領を併合して長野県が発生

という経緯で長野県が発生したようだ。

どさくさ紛れで善光寺領をゲットしたため、善光寺に縁の深い西方寺というお寺さんを間借りして庁舎とした。

西方寺は正治元(1199)年に法然善光寺詣りに来たときに創建したとか、大同2(807)年に空海が創建した宝乗寺という寺を浄土宗に改宗して西方寺になったとか、伝わるようだ。

この辺りの地籍が「善光寺領長野村」と言ったらしい。長野村でも善光寺門前町にかかる部分とそうではない部分に分かれていたらしく、善光寺が大きくなるにつれ門前町にかかる部分以外のわずかな農村部について長野村という呼ばれ方になってしまい、人々は「長野村」という村名すら忘れてしまったとか。ただし公的な台帳では長野村とその村域がきちんと掲載され続けて明治を迎える。

明治4(1871)年の長野県発生時ついでに飲み込んだ善光寺領長野村の名前を改めて周知し、県庁舎がある地区名を取り「長野県」と称したのが最初らしく、とても小さな村名から発生している。色々と失敗しちゃった中野県や善光寺県という特定の寺の名前を冠した県名を称する訳にはいかなかったんだろうねえ。

明治7(1874)年、間借りしていた西方寺近くに長野県庁舎が完成した。

明治11(1874)年、明治天皇行幸されたようだ。「明治天皇行幸之処」碑がある県道37号と国道406号の交差点部分から赤煉瓦館がある辺りの長方形の敷地が旧県庁舎の置かれたところらしい。「明治天皇行幸之処」碑は昭和12(1937)年に建てられたとか。碑には長野県庁跡とも書いてあったらしい。

 

現在の信州大学教育学部の敷地は旧県庁・旧師範学校・旧付属国民学校だった場所みたい。昔の県庁狭かったんだな。

 

明治天皇の碑に関しては、明治天皇聖蹟保存会というものが昭和5(1930)年に発足し「明治天皇行幸で訪れた建物や場所を残そう」という運動があったそうで。昭和8(1933)年から昭和23(1948)年まで377件指定された。うち長野県は22件、全国で二番目に多い。旧県庁の裏手にあった松本裁判所長野支庁跡にも碑があったそうだ。

 

昔の人って石碑好きよね。

 

ただ、県庁跡だったという石碑はあまりなかった。

教育学部の正門付近にある石碑ぐらい? これらも教育者を顕彰するものばかりだった。

皆さん幕末生まれ。

教育学部内。初めて入った。

 

長野県庁は明治7(1874)年竣工、明治41(1908)年焼失。

↑これが旧長野県庁の建物群のうち燃え残った書庫である。明治7(1874)年に最初の庁舎が落成の後も他の建物を増やしていき、明治28(1895)年に完成した書籍庫である。現在は国の登録有形文化財に指定されている。

この建物は現役で使われているそうだ。
平成26(2014)年の地震で内部が少し崩れてしまって書庫としては使えなくなった(それでも119年間書庫だったわけでしょ…)が、修復し多目的会館で利用出来るという。

外観は、入り口の庇がない事以外は変わってないそうな。

石垣も明治時代に積んだんだろうな。石加工してある。旧県庁時代の建物配置は謎だけど、書庫の位置は校舎より高い。赤煉瓦館周辺以外は造成されちゃってて、雰囲気が変わってしまった。

ちなみに旧長野県庁があった時代、隣の敷地に長野県師範学校があった。県庁が燃えて1ヶ月も経たないうちに師範学校もよく分からん(校舎が燃えれば休校するから恋人に会える、というサイコパスな)理由で放火され焼失。師範学校は同じ敷地に再建されている。

書庫入り口。

何がなくなっているか、分かりやすい。

ちょっと傷んでいるがコレ直しにくいかもねえ。鉄扉の向こうにも扉があるっぽい。

煉瓦も火災の熱風を浴びたりしているのかねー?

この窓も、鉄扉の中にガラス窓がいるんだろう。

 

 

★★★☆☆
この建物、なかなか見つからなかったのよ…。ひっそりしすぎ。

<旧長野県庁書籍庫>
竣工年 明治28(1895)年



治田神社(下宮)

治田神社の下宮は意外と近い場所にあった。ひとつの村だったのが、規模が大きくなった為に分裂したという経緯だからかなー? 歩いても20分かからないようだ。1km程度しか離れていない。

溜池がある。桜の木が並んでいるので、春はお花見で賑わうのかもしれない。

池は並んで2つある。2つ合わせて治田池とも呼ぶらしい。どっちがどっちか分からないが、慶安元(1648)年に上田藩直轄工事で造成した池を上池または女池、明和2(1765)年に地元民が作った池を下池または男池と呼ぶそうだ。

 

ここは姥捨山冠着山)の遙拝所にもなっているらしく、石碑がいくつもあった。明治22(1889)年に「冠着山=姥捨山」と確定されたものの、昔は別の山だったなどとハッキリしない。ちなみにこの運動を起こした人は更級村初代村長だそうだ。

 

明治8(1875)年から編纂が始まった長野縣町村誌には、冠着嶽(羽尾村)・冠着山(上山田村)・姥捨山八幡村)という3つの山を紹介している。

まず、現在の冠着山は頂上付近で旧羽尾村と旧上山田村に分かれている。

八幡村にあるという姥捨山の記事には、

とあり、冠着山と姥捨山は別とはっきり書いてあった。麻績村の項には姥捨山という山の記載はなく、挙げられている山も八幡村が記載している姥捨山の特徴に一致しない。また「八幡村」名勝の項目にも姥捨山の記載があり、それによると、

  • 山については山の項に、寺(姥捨山長楽寺)については寺の項に記載してるが、山の中腹に「姥石」という巨石がある
  • 観音堂、観月堂があり、東には鏡台山があり観月の名勝地として古来より名高い

とのことで、どうやら長楽寺や姨捨棚田がある付近を指しているようだ。姨捨SAから西へ行けば麻績村だしね…。ただ、山っていうほどの場所でも無く、普通に民家が点在する見晴らしの良い高台の地区である。

姨捨地区と冠着山はまあまあ離れた場所にあるが、同じ山地の中にあって繋がっている。

 

旧更級村は羽尾村・若宮村・須坂村の3つの村からなり、初代村長は羽尾村から出た。元々の羽尾村は冠着山に対して執着心があったようで、明治16(1883)年に冠着山が村有林として下付されたあと、その経営を若宮、羽尾、須坂、上徳間、内川、千本柳の6つの村で行うことになったが、羽尾村は山の単独所有権を主張し、翌年には他の5つの村と訴訟に発展した。明治18(1885)年に6つの村の共同権が確定したものの、争いは泥沼化して明治20(1887)年に戸倉村の県会議員の調停により、ようやく沈静化したという。で、明治22(1889)年に旧羽尾村出身の更級村長による中央の関係機関へのロビー活動により「冠着山=姥捨山」となり、姥捨山の業績まで奪おうとした感じ。個人的には酷いと思います…。とはいえ、今も「姨捨」といえばJR姨捨駅・高速道路の姨捨SAや「田毎の月」の棚田がある地区のことをいうので、姨捨のすべてを奪われなかったので良かったと思う。

 

初代更級村長は「冠着山=姨捨山」事業に対して並々ならぬ熱意があったらしく、遙拝所の説明板には、

  • 冠着山山頂冠着宮奥宮、更級村中心の郷嶺山に冠着山里宮を建立
  • 遙拝所碑を、稲荷山の荒町・麻績の上町ガッタリ・坂城の刈谷原の3カ所に設置
  • 稲荷山宿の料亭、松葉屋の店先にも遙拝所碑を設置

とあった。少々皮肉っぽく「後年、この遙拝所碑は、(治田神社に隣接する)治田公園に移設されました。(初代更級村長塚田)雅丈の思惑とは異なる場所で、現在も冠着宮を遙拝しています」と締められていた。初代更級村長、やっぱりちょっと強引だったと思われていたかなー?

石碑は明治27(1894)年に稲荷山に建てられたもののようだ。説明板にあるように冠着山に向かっている訳でもなく、全く関係ない。

月見れば 衣手さむし さらしなや 姨捨山の みねの秋風 鎌倉右大臣(金槐和歌集 二八四)

信濃なる 富士とは言わむ 冠着の 峯に一夜は 月を見むとぞ 西行法師

という冠着山・姨捨山ゆかりの句が彫られている。西行法師の句は「伝・西行法師の歌」という扱いになっている(西行が詠んだという根拠がないらしい)。

 

「菅公廟」とあり、菅原道真を祀る。奥には平場があるものの建物はなく、取り壊されてしまったのかな?

このちんまりした祠が道真公霊廟かもしれないけど。

 

招魂殿もあった。

明治40年代(1907~1912)に更級郡で戦没者を慰霊するために建立されたが、太平洋戦争の終戦で1度取り壊された後に昭和30年代(1955~1964)に再び建立されたという。日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)、太平洋戦争(1941~1945)で殉死した英霊千十余りの柱を祀っているという。

治田公園内には「建物があったかもしれない」という雰囲気を醸し出す区画が多々あり、不思議な感じがする。

歌碑。読めなかった。

 

枯れた彼岸花。近年は彼岸花を見かけることが少なくなったな。子供の頃はあちこちに咲いていた気がする。

 

隣接する治田神社下宮に行く。

本来の参道ではないが、綺麗だった。

鳥居は池に向かって建っていた。鳥居の近くにも句碑があり、源三宜という人が安政5(1858)年に詠んだという。大層な名前だが誰だか分からん。

 

更級や 治田の神に ぬさむけて 里やすかれと 祈りつるかな

千曲川が度々氾濫し、稲荷山と杭瀬下新田との境界が分からなくなってしまい境界争いがしょっちゅう起こるため、安政5(1858)年に幕府から寺社奉行吟味役という役人の調査団が派遣された。そのメンバーの一人、高木源六郎源三宜が詠んだ歌の句碑。この人は静岡県静岡市の紺屋町陣屋の出張所である山梨県の「石川陣屋」で、文久2(1862)年に代官を務めていたらしい。

安政5(1858)年当時の肩書きは「御勘定評定所留役」だったようだ。この職種は勘定所(幕府の財政や民政を担当、時と場合によっては外交も担当するみたい)で勘定という役職の人が評定所(江戸時代の最高裁判所)へ出向しているという意味。就くには筆算の試験に合格する必要があるとwikiに書いてあった。世襲もあるが、才覚があれば下の身分からでも登用されるそうで、勘定所のトップである勘定奉行は叩き上げの実力者も数多くいたそうだ。

勘定職の人達が評定所へ出向し書記官にあたる評定所留役となり、裁判の審理を担当していたという。評定所のトップは、町奉行寺社奉行勘定奉行の三奉行と老中1名だったが、3つの奉行所だけで扱えない重要案件を裁く場であり、判決を決めるのは評定所留役に任じられた役人だったそうだ。法令や過去の判例を熟知している評定所留役は訴えの事実関係とその整理、関係者への聞き取りや容疑者取り調べ、書類作成をする役人。判決は三奉行や老中が下すものの、実際に捜査を担当した留役の意見が判決に大きく影響するという。今でいう特捜部みたいなもんかしらね? エリートじゃないの。

そんなエリートの句碑を建てようと思ったのだろうか。謂れが分からないものの、碑は新しそうに見えた。最近建てたように思える。

 

ここが↓

 

こんな感じで見えるらしい。

 

ちょうど本殿の前では地元の方が掃除をしていた。落ち葉がすごかった。相変わらずだが「転職成功しますように☆」と祈りを捧げた。

ここは桑原村から分離した治田村→稲荷山村の産土神である。桑原村は桑原宿という宿場があった栄えた村であったが、稲荷山村はそれ以上に栄えた地区である。明治8(1875)年に稲荷山町に昇格する更に栄えた地区であった。天正10(1582)年に稲荷山城が築かれ、その城下町として整備された稲荷山は昭和恐慌で没落する以前は北信濃の経済の中心地だったそうだ。


長野縣町村誌の「稲荷山町」治田神社の項には、

御祭神 治田太神・倉稲魂神事代主神

とある。勧請年月は不明なものの、白鳳5(665? 676?)年に再建→寿永2(1183)年焼失→永享8(1436)年焼失→天正11(1583)年修復→寛政2年造営と古い年号が並ぶ。昔から「元町」と呼ばれるこの場所にあったと言われる、と書いてあった。村落が大きくなると治田神社が分霊され、村落内に祠が点在するようになったそうだ。

天文年間、武田晴信が侵攻してきたために神社の焼失を恐れた氏子が隣村の桑原村にある治田神社を「一ノ諏訪明神」と改称し兵火を逃れたというので、この治田神社も合わせて上下諏訪明神(二社)とした。天正10(1582)年に治田村から稲荷山村に改称し、元和5(1619)年に2村(稲荷山村・桑原村)に分裂した。桑原村には上諏訪明神が属した。治田神社自体は位置変わってない。

と、「元々、治田神社はウチの村内にありました」と主張している。そのせいか、稲荷山の治田神社は縣社と格が高い。桑原村の記事には「治田神社はいくどか遷座している」としか書かれておらず、上宮が元だよと匂わせているものの、ふんわりした書き方とも思えた。遷座っていったら普通は移動したって意味だしさ…。

ちなみに、桑原村の記事は他にも「古い話は不明だが更級郡治田荘更級里桑原郷と称し、桑原村だった」としか書かれておらず、とにかく桑原を推している。二つの村は仲悪かったんかね…?

 

稲荷山の治田神社下宮はハッキリと「うちが最初なんで」と主張している。上宮と下宮とか、遷座っていう単語に惑わされて、旧桑原村の方が古いのかと勘違いしていたかもしれない。

じゃあなんであちらが上宮なのか? という疑問は上宮が出来た時期は向こうの方が栄えていたとか、兵火を逃れるアイデアを桑原村が思いついたからって起源が理由じゃないしれない、と思った。

 

上宮には健御名方命を祀り、下宮は兄の事代主命を祀っている。古地図だと、治田神社下宮を境に桑原村と稲荷山村が分かれているようだ。

長野縣町村誌の記事には、治田神社下宮の摂社についても紹介されていた。

ちなみに高市社は稲荷山町の守護神として中心部に祀られていたが、明治9(1876)年に今の地に移した、とあった。まあ、治田神社は事代主命も合祀されているしね、ちょうど良かったのかも。

 

事代主命は出雲の国譲り神話で、お父様の大国主命が「(国を譲る話については)うちの長男に聞いてくれ」と丸投げされ、海釣りをしている最中に国譲りを迫られたので「分かった」と答えて「天の逆手」を行い自殺しちゃった神様。「天の逆手」とは裏拍手(逆拍手)だと一般的に考えられているようだ。伊勢物語第96段「天の逆手」は内容は会う約束を破った女を男が深く呪うという内容の話。

事代主命は国譲りを迫った皇孫に対して呪いをかけて死んでいった神様らしい。「天の逆手」自体は呪いである説が通説となっているものの、本来は天の栄手であって天皇家の繁栄を願う祈りであるとかいう人もいる。

事代主命の娘・媛蹈鞴五十鈴媛は初代天皇神武天皇の皇后に立てられており、第2代天皇綏靖天皇を産んでいる。綏靖天皇妃も事代主命の娘である五十鈴依媛命で、第3代天皇安寧天皇を産み、安寧天皇の皇后は事代主命の子孫である渟名底仲媛。これでは、天皇家を呪う=自分の子孫を呪う、となってしまう。呪うに呪えない。可哀想だ。

この神様は釣りが趣味という設定で、釣り好き→豊漁の神様→商売繁盛の神様と進化していき、現在は七福神のえびす様と結びついてテンション高めで明るい感じになっている。大国主命も大黒様になっちゃったしな。

兵火回避のために健御名方命のお兄様、事代主命を祀っていたら大商都に発展したということか。これはとんでもないご利益ありそうだわ。

 

熊田社の熊田大神については、治田大神こと彦坐王の子孫である熊田氏のことだろうなと思う。

 

一際立派なお社が北野天満宮(北野社)。もしかしたら以前は、菅公廟と彫られた大きな石碑の向こうの空き地にあったお社かもしれないと思った。

他のお社も高市社が多く、祠のどれかが熊田社なのかもしれない。

祠の前には鳥居があったような跡もある。

 

何故か高市社らしき石碑が埋まっている。どうしたんだ。

 

もう一度鳥居をくぐった。お百度参りのやつある。

本来の参道である。

 

参道を歩いていたら、マダムに呼び止められた。マダムが言うには「友達が治田神社の池を週2ぐらいでランニングしている。今日ランニングしているはずなので会いに来てみた」とのこと。走っている人はいなかったが、そういえば私が駐車場で車を番長止めしてしまい、後からきたおばさんが迷惑そうな感じになってたな、って思い出した。ちょっと気まずいので「知らないし地元民じゃないですー」と去ろうとしたが、マダムは何故か私に色々聞いてくる。マダムはこの神社に初めて来たそうで、神社の話を知りたがった。いや私は地元民じゃないんだって。ご友人の連絡先は知らないのだろうか? ご友人には出会えたのだろうか? その後は分からない。

神馬が奉納されていた。さすが古い神社。

他にも石碑や神社の略年表など掲示物もあった。

茶道のお稽古のとき、よく部屋にかけられている掛け軸の言葉。碧巌録という中国の仏教書に載っている禅語で、「毎日が良い日だ」って意味かなー? 毎日がエブリデイみたいなノリを感じるが、心構えの話だと思います。

 

狛犬はなんかカワイイというか。

古い手水舎に使われていた瓦だそう。諏訪大社の紋である梶の紋を使用している。

現在の手水舎はこんな感じだった。

親しみやすいというか、まあ普通な感じ。

鳥居。この鳥居がある道は元町地区のメインストリートだと思われる。この先へ行くと旧桑原村になる。

この石標も新しい感じ。

 

玉垣には奉納者名がずらっと。

鳥居近くには宮司さんや大人物のお名前が。

倉石忠雄さんは地元出身の政治家(玉垣にも法務大臣の肩書きがある)。戦後国会議員になった人で同期は田中角栄鈴木善幸中曽根康弘等だって。明治33(1900)年生まれ、昭和61(1986)年没。

児玉幸多さんも地元出身で学者。学習院大学の名誉教授で昭和天皇上皇陛下に講義し、今上陛下はゼミの教え子と皇族と深い繋がりがあるので儀式に参加したりもしていた。明治42(1909)年誕生、平成19(2007)年没。

その他の人々も地元の名士だったり、神社に多大な貢献をしているんだろう。

 

玉垣倉石忠雄さんが法務大臣だった昭和54(1979)年11月から昭和55(1980)年7月の期間に竣工したのだろうか。

 

千曲市内だと合格鉛筆を貸し出してくれる(合格したら戻す)という岡地天満宮(毎年ローカルニュースでやってる)が有名なのかなって思っていたけど、ここも賑わうらしい。

ずらーっと人名が並んでるー!

 

 

★★★★☆

賑々しい雰囲気で、近所の人達がよく来ているようだ。

 

<治田神社 下宮>

創建年 不明

 

 

治田神社(上宮)

ちょっとした山に登りたいと思いつつ。今年は熊害多いよなーコロナ明けで狂ったように行事やるなー等々、雑務や子供の行事で時間潰されまくった。11月も子供の行事で忙殺される。物忘れが酷く記憶がぽろぽろとこぼれ落ちてしまい、年を取った実感わいてきてるわー。少し長めに寝たら治るんだろうか。

 

そんなこんなで隙間時間で人里近い神社を巡っているだけの人になってしまった。熊が怖いしね!

治田神社は古く、延喜式内社だという。

上宮と下宮があって、まずは上宮に行ってみた。下宮には以前行ったことがあったけど、上宮は初めてだった。
下宮に比べると小さく、田舎の鎮守社という雰囲気。

境内の説明板には、

御祭神

 

由緒

・治田山(篠山)に創建される

彦坐命の子孫である熊田氏は「治田連」の姓を賜り、近江国から当地へ移住した

先住民達と共に当地を開拓し、治田山(篠山)に祖先神である彦坐命を祀り、この地を治めた

・延長5(927)年、延喜式内社治田神社となる

延長5年完成の「延喜式神社名帳」に記載された

・治田山(篠山)から現在地に遷座する

永享の乱(1438年)以降、地元の豪族・桑原幸光により遷座

同時に健御名方命と八坂刀売命を勧請合祀し、「諏訪大明神」と称する

天明2(1782)年、名前が戻る

元の名前に戻すため、寺社奉行に申請し京都の吉田家の認可を受けた

・明治6(1873)年、郷社となる

それまでの村社から郷社に昇格した

一の宮と称され、人々から篤く信仰された

・昭和46(1971)年、火災により社殿焼失

昭和49(1974)年に、氏子の浄財により再建された

 

治田山という名より篠山の方がメジャーらしい。治田神社の背後の山らしいが。

 

どれかなー? 一番高く見える山かな?

長野市千曲市の境界になっている山だそうで、小坂山を越えていくとあるらしい。登山道はあるようで、わりと登る人も多い山のようだ。

 

開化天皇の第2皇子(wikiだと第3皇子)という彦坐命(日子坐命)の子孫が山に祖神を祀ったというのが最初だそうで。この彦坐命という人の業績について古事記によると、崇神天皇10(紀元前88?)年に「四道将軍」と呼ばれる4人の将軍が日本を平定するために各地へ派遣されており、そのうちの一人らしい(日本書記では、彦坐命ではなく、子の丹波道主命とされている)。

彦坐命の業績は日本書紀にほとんど載っていないが、古事記には系譜が詳細に残されている人物だという。それは多分、彦坐命の子達が天皇暗殺を企てたとか、彦坐命の子孫の一人に神功皇后がいるし、景行天皇の母方の曾祖父にも当たる人がいるとか、子孫に重要人物が多いからだと思った。

 

まず成務天皇の時代に彦坐命の三世孫である大陀牟夜別が淡海国(近江国)の国造に任命される。栗太郡内に治田郷(読み方はハッタらしい)がある。七世紀頃はこちらに子孫が居住していたとか。

彦坐命の四世孫が(北蝦夷?の討伐による)戦功により近江国浅井郡に土地を貰い移住し、その子孫である熊田氏や宮平氏という人達が「治田連」という姓を賜ったらしい。

 

また、岐阜県岐阜市に彦坐命(日子坐命)の墓がある(これは明治時代に宮内庁が認定した陵墓)。その隣に式内社の伊波乃西神社がある。元は彦坐命の墓に伊波乃西神社があったそうで、明治8(1875)年に彦坐命陵墓と認定されたため立ち入り禁止となってしまったためにやむなく現在地に遷座したそうだ。

 

彦坐命を祀る神社は他にもある。

三重県「賀毛神社」

  御祭神 彦坐命、相殿神は子孫の鴨県主治田連命

 近江国から移住してきた治田連の子孫が祀ったものが始まり。鴨県主は山城国から移住してきた、同じく治田連の子孫。

 

京都府「竹野神社(斎宮いつきのみや)」の摂社である「斎宮神社」

  御祭神 彦坐命、竹野媛命(開化天皇妃)、建豊波豆良和気命

竹野神社は開化天皇妃だった竹野媛命が晩年創建したと言われる。御祭神は天照大御神。摂社の斎宮神社には彦坐命も祀られているが、彦坐王の母は竹野媛命ではないという複雑さ。もう一柱の建豊波豆良和気命も開化天皇の子だが、母は竹野媛命ではない。彦坐命と建豊波豆良和気命は異母兄弟で、二人とも庶子。竹野媛命自身の子(第一皇子)もいたようだがこちらは何故祀られていないんだ…? とはいえ、竹野媛命は父が丹波県主という丹波の豪族で、彦坐命の息子とされる丹波道主命は竹野媛命の孫という説もある。

竹野媛命の子は比古由牟須美命(彦湯産隅命)という人。 比古由牟須美命→大筒木垂根王迦具夜比売命垂仁天皇妃)と繋がり、名前の通り迦具夜比売命竹取物語かぐや姫のモデルと言われている。ちなみに求婚した5人の貴公子も3人が実在・残りもモデルだろうと言われる実在の人物がいる。5人が生きた時代が奈良時代初期なので、竹取物語の舞台は奈良時代とも言われているし、竹取物語「竹」も祖である竹野媛命から連想されたとか…個人的には竹野媛命と彦坐命が夫婦で、その子が比古由牟須美命(彦湯産隅命)だったりしてね、と思っている。彦って字が付いてるし。

 

滋賀県「佐波加刀神社」

  御祭神 彦坐王と7人の子(大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遅比売王、室毘古王)

7人の子は2人の妃(山代之荏名津比売、沙本之大闇見戸売)から生まれた。2人の妃はそれぞれ山代(京都府南部)、大和(奈良県の大和盆地北側)に拠点を持つ一族出身。この中で最も有名なのが沙本毘古王。この人は同母妹で垂仁天皇妃の沙本毘売命に垂仁天皇暗殺を頼み、失敗して二人で自殺する。その後沙本毘売命の遺言?で、垂仁天皇に彦坐命の孫に当たる4姉妹が妃に迎えられている。4姉妹の他に迦具夜比売命かぐや姫のモデルと言われる)もいるよ。

 

岐阜の伊波乃西神社も含めて、すべて式内社であるという。丹波国も彦坐命の勢力下らしい。古代に大変な勢力を誇った一族なんじゃないかねー? 天皇にガンガン子女を入内させているなんて、なかなかな一族じゃなかろうか。上記の式内社以外でも彦坐命とその子孫に関連があるとされる社がいくつかあった。

 

一説によると、治田神社は雄略8(463)年に創建されたという。

雄略天皇は中国の元号の昇明2(478)年に皇帝へ上表文を送った倭王武だと言われている。実在したと言われる最古の天皇でもある。宋の順帝宛てた上記の上奏文には「倭国内を統一した」という内容が含まれている。雄略天皇の時代に盛んに討伐が行われていたようなので、彦坐命の子孫が戦功で近江国の土地を下賜された時期もこの辺りなのかな?

開化天皇自体が実在怪しまれているが、次代の崇神天皇は実在が有力視されている(最初の天皇ではないかと言われている)。崇神天皇の兄弟にあたる彦坐命とその一族も実在しているのかな? 崇神天皇は3世紀後半~4世紀前半(250~350)に在位したと言われ、その頃には大和盆地に初期の前方後円墳たちと纏向古墳が大和盆地に出来、初期の大和政権が出来たと言われている。なので、日本建国の初期メンバーに彦坐命一家がいて、その子孫が治田神社の関係者なのかもしれない。わくわくするね!

ちなみに日本書紀の記述と西暦を当てはめていくと、崇神天皇の在位は崇神天皇元年(紀元前97年)~崇神天皇68(紀元前30)年、次代の垂仁天皇の在位は垂仁天皇元年(紀元前29年)~垂仁天皇99年(紀元70)年とされている。崇神天皇は120歳、垂仁天皇は140歳で崩御していることになっており、この辺の天皇は超長命(奈良時代の庶民の寿命は30歳と言われている)。中国や朝鮮の古い文献・碑文と日本書紀天皇の業績年表が一致してくるのが5世紀頃らしい。

 

土塁が盛られている。

祠はたくさんあったが、石碑は1基しかなかった。郷社なのに珍しい。

ここの地元の名士の碑のようだ(明治生まれで桑原村議会→稲荷山町議会でずっと議員やってきて地域の発展に寄与したので、昭和33(1958)年に稲荷山町議会で建てたようだ。桑原村は昭和30(1955)年に稲荷山町と合併し稲荷山桑原町に、合併半年ほどで稲荷山町と名称変更、稲荷山町は石碑を建てた翌年の昭和34(1959)年に合併のため消滅し更埴市が発足している)。


寄進された灯籠。寄進した年は分からず、風雨にさらされたのか、文字が読めない。古いのかな?

社殿。いかにも昭和の、彫刻とか装飾は必要ないよねって感じの。

長野縣町村誌によれば、

  • 郷社で、祭神は健御名方命・八坂斗女命と保食神
  • 昔は治田山に鎮座していたが、現在地へ遷座している
  • 治田連は開化天皇皇子の彦坐命の末裔というが、筑前国御笠郡治田宿治田神社の天穂日命という説もある
  • 天文年間(1532~1555)に再建されている
  • 元禄15(1703)年にも再建されている
  • 修復は元文5(1740)年、宝暦8(1758)年に行われている
  • 明和8(1771)年、境内の西方にあった槻の老木が倒れたため、祠などを損壊したが、再建された
  • 寛政元(1789)年、祠殿を造営
  • 文化12(1815)年、拝殿を再建
  • また祠等は壊れちゃったりしたので、文久元(1861)年に本殿や拝殿を再建した
  • 明治6(1873)年、郷社になった
  • 当初は治田連が管理していたが、やがて桑原氏に代わったので、この辺りを桑原郷と改めた
  • 治田神社は桑原郷の産土神でもある
  • 時期は不明だが下宮ができたため、村も桑原村・稲荷山村に分かれた
  • 上宮(当社)は桑原村の産土神、下宮は稲荷山村の産土神である
  • 近隣の人々からは一の宮と呼ばれて崇敬を集めた

とあった。

 

筑前国御笠郡治田宿治田神社というのが分からなかった。あるのかなー? 天穂日命は「アマテラスとスサノオの誓約」という出来事があり、その時生まれた五男三女神のうちの1柱らしい。五男は天照大御神の子で、三女は素戔嗚尊の子だという。天穂日命天照大御神の次男という。この人は天照大御神の命で葦原中つ国へ侵略しに出かけたのに、葦原中つ国の主・大国主命に心服しちゃったという神様である。故に他の神様が葦原中つ国の平定に成功すると、天穂日命大国主命に仕えるようにと言われ出雲大社の祭祀と出雲国造となったそうだ。天穂日命の子孫は出雲大社宮司家の他、最古の相撲の試合で勝った野見宿禰菅原道真大江千里和泉式部赤染衛門大江広元等の大江一族→毛利氏といるみたい。

 

永享の乱(1438年)は関東地方で起きた内乱である。鎌倉公方関東管領との戦争で関東管領が勝ったようだ。その頃から治田連に代わって桑原氏が当地を治めたとされる。桑原氏は佐野山城を築いた一族。永享12(1440)年の結城合戦には信濃守護の小笠原氏に従って参加したとされている。保元元(1156)年に起きた保元の乱を描いた保元物語などに桑原氏は諏訪武士として現れているそうで、どうやら諏訪氏の庶流らしい。時代が下って、諏訪から移住してきたのかなー?

どちらにしろ、桑原氏がこの辺りを治めるようになってから治田神社の御祭神に健御名方命・八坂斗女命も祀るようになったらしい。もし桑原氏が諏訪から移住してきたら自分たちの氏神様を祀っているわけだし、変じゃないのかも? 神社を乗っ取った感もあるよ。

神社的には「甲斐の武田信玄信濃に侵攻してきたので、戦火を逃れるため武田信玄が信仰している諏訪神を祀る神社として社名を諏訪大明神に改めた」ともしている。結果的に諏訪の神様を祀っておいて良かったね、という話かー。

近隣からは「一ノ宮」と呼ばれていたらしい。でも千曲市内には武水別神社という大きな神社がある。武水別神社を差し置いて、何故一の宮とか呼ばれているんだろうと思った。

  • 治田神社上宮を一ノ宮
  • 治田神社下宮を二ノ宮
  • 長谷神社(長野市長谷寺近くの長谷神社下社)を三ノ宮
    長谷神社も式内社である。 長谷神社は上社・下社と分かれており、上社は長谷寺境内にある。恐らく上社が式内社で、下社はそこまで古くないのかもしれない。下社はかつて諏訪大明神と称していたそうだ。上社の御祭神は八聖神。下社は長谷郷の産土神とされた。天保7(1836)年に長谷神社下社と改称している。
  • 御林の諏訪社(たぶん長野市篠ノ井の中郷神社)を四ノ宮
    長野縣町村誌によれば、中郷神社は村上天皇の子・為平親王の神殿とも云われる。 隣接して為平親王陵と称する古墳がある=中郷神社前方後円墳だが、長野縣町村誌の塩崎村編纂者すら為平親王陵ではなく別の高貴な人物の墓だろうと書いてあった。 為平親王はこの地を支配した村上氏の祖であるという。 この近辺というと村上源氏が有名で戦国時代は領主様だったのだが、平安時代末期に豪族・二柳氏とその分家の夏目氏はwiki(夏目氏の項目)によれば清和源氏だそうな。系図をちょっと遡ると源為邦という人物が河内源氏の庶流である頼清流村上氏より養子に入ってきたそうで、源為邦は為平親王の子・源(村上)憲定の娘婿となり村上氏を名乗ったとも言われるが、説としては弱いものらしい。ただし、源憲定の弟の源頼定の子孫に夏目氏初代の夏目国平のパパさんと同名の国忠という人物がいるし、これは養子キテル?などとも思ったりする。そうすると夏目氏は為平親王の子孫ということに。源頼定枕草子にも登場し、イケメンの代表と称されている。それ故か、女性スキャンダルを起しまくっている。夏目氏は神社がある四之宮の隣、石川村を領地としている
  • 石川布制神社(長野市篠ノ井石川の布制神社)を五ノ宮
    長野市篠ノ井には「布施神社」が四社ある。 そのうちの1つが石川布制神社だが、この神社は江戸期に「諏訪大明神宮」と称していたそうだ。布制神社は延喜式内社の古社であり同名社のうち三社が「ウチです」と主張しているようだ。しかし式内社としては布施五明にある布制神社が紹介されていることが多い。そして布制神社の主祭神大彦命。彦坐命の伯父?に当たる。古代に四道将軍に任じられた日本建国に関わる人。その大彦命の子孫として最も有名な氏族が阿倍氏である。政府高官の他、阿倍比羅夫など軍人も多く日本各地に氏族が散っていったそうだ。古代の篠ノ井周辺を掌握していた豪族は大彦命後裔の布施氏だったという。古代の将軍・阿倍比羅夫阿部一族のうち「引田臣」という一族を率い、その引田氏と対立したのが「布勢臣(布施氏)」である。ちなみに竹取物語に出てくる阿倍御主人は布勢臣の出身者で、阿倍氏氏長者になった時に阿倍姓となった。石川布制神社は石川廃寺の跡地に建てられたと言われ、神社付近から基礎などが発掘されているそうだ。

つまり諏訪大明神関係の五宮ということのようだ。なんでそう呼ばれたのかの経緯は分からなかった。

 

天明2(1782)年に諏訪大明神から治田神社と名前が戻されているが、この年から天明の大飢饉が始まっており、それに関係して戻したのだろうか。この地区も飢饉の影響なかったはずないし、飢饉になったのは元の御祭神が怒っているとか思ったのかな?

 

誰も居なかった。静かな神社。

さっそくお参りですよ。扁額は妙に綺麗だった。

古社のはずなのに、そんな雰囲気ないのは社殿が新しいからかな?

摂社。特に案内はなかった。デカいのはなんだろう? 帰宅後調べたところ、杵築社というらしい。出雲大社の別名である。健御名方命の父親・大国主命が御祭神。

小さな祠達を従えているようにも見える。祠が載っている土台がなんとなく昭和っぽいので、もしかしたら大きめの社の周りに集めようとあちこちから遷座してきたのかもしれない。祠も綺麗なものから少しくたびれたものまで、年代がバラバラっぽい。

杵築社は以前から鎮座していたのかなー? 基礎が違う。

 

神社の裏手。

境内は木々も多いんだが、意外なこと?に幹が太い「いかにも」な木が少ないのだ。

鳥居の傍にあった太い木以外は若そう。江戸時代に本殿・拝殿・祠等が結構な勢いで壊れていたけど、ほとんどの原因は「老木が倒れた」なのかな? 壊れすぎじゃね?と思ったんだよ。

 

★★★☆☆

古社の威厳が薄い感じ。何故か竹取物語に関わる事柄が多い理由は子供が「かぐや姫の劇をやる」というので、話の内容をお復習いしたせいである。

 

 

<治田神社>

創建年 不明

 

 

 

中村神社

中村神社。ここは古く、延喜式内社とされている。

ちなみに信濃国埴科郡にあった延喜式内社の「中村神社」とされる神社は二つある。論社はここと現在の松代町にある神社。どちらがどうなのかよく分からない(多分、地元民以外は関心低いんだろうし)。

明治時代の長野縣町村誌にも、どちらの神社とも「延喜式内社と伝わります!」と高らかに書かれている。が、それ以外の部分、御祭神などは全く違う。以下は長野縣町村誌の記述から。


「中村神社(長野市松代町西条)」

御祭神 天兒屋根命(天児屋命春日神

元は旧西条村南側にある高遠山(現在の上田市真田町傍陽)の中腹、宮ノ平にあった。当時の平地は沼地で住めるような環境ではなかったらしいが、やがて水が引いたために現在地へ移転したらしい。

永禄年間(1558~1570)に兵火のため建物から古記録や宝物などすべて灰になった。現在の社殿は永禄11(1568)年再建(棟札が残っており、そこには領主の西条氏と思われる名前なども書かれていたという)。棟札には「西条大国大明神社」とあり、以前はこの名前で呼ばれていたようだ。

旧社地は寛保2(1742)年(戌の満水が起こったため)崩壊し、現在は跡形もないと伝わる。

 

「中村神社(千曲市中)」

御祭神 健御名方命

太古の千曲川氾濫により村が流されたために、川の被害が少ない陸地で更級郡内の現在地に移転した。この地は「埴科郡」→「更級郡」→「埴科郡」と属する郡が変わっていった地区だった。後に諏訪大明神社と名称を変え、明治11(1878)年に中村諏訪神社という名前となることが許された。

 

個人的な印象だと、長野市の中村神社の方が古くからありそうな気がする。

旧西条村は松代町と旧真田町上田市を結ぶ街道上にあり、寺社仏閣を多く抱えている村。領主の清野氏は鎌倉幕府末期の元弘年間(1331~1334)あたりには旧清野村を治めたと言われているので、それ以前から人が住んでいるはずだろうし…。古代には英多郡に属しており、村落名はずっと変えてませんとのこと。

対する千曲市中は、そもそも村落名が「中村」だしなあ…。「時期は不明だが大昔に千曲川が氾濫し、村が流された。その後、千曲川の流路跡を徐々に開墾していき中村と称する村落を形成していったが、後に中村・向八幡村・小船山村に分裂。明治4(1872)年に再びひとつの村として合併し向八幡村となった」とあったので、交通の要衝だったわけでもなく大きな事件もなく静かに開発された村だったらしい。「古代は埴科郡小谷郷(大穴郷?)に属していたんじゃないかなあ?」という暢気なことも書かれていたよ。村が流されちゃってるから仕方ないよね。

長野市の方が古くからあるぽいし、千曲市の方はなんか来歴が怪しい。そう思う人が多かったのか、式内社一覧などでも長野市の方だけ載せていることがほとんど。

 

鳥居は以前、この位置にあったらしい。

今ある鳥居もさほど新しいものでもないような感じ。

延喜式内社を名乗るぐらい、幹の太い木が何本も境内にある。欅かな? 分からん。

こちらは銀杏のようだ。

書いてあったからね。

お参りをした。

社殿に装飾はない。なんだかとても近代的な雰囲気よ…。

式内社でないにしろ、境内の様子からそれなりに古い神社であることが確実なのでお賽銭はずんだよ。会社の状況は相変わらず良くないのでねー(にも関わらず東信にある事業所の社員募集していたわ)。

摂社の祠はたくさんあったが、神社の由緒書などは一切ない。

 

こういうのがあった。

この方は、中村神社の神主家に嫡男として生まれた人。幼い頃から画才に恵まれて地元の絵師に師事し、その後群馬の高名な画家に教えを乞い、上京し絵の修行をしたそうで。地元に戻って画塾を開いて住民に絵を教えて慕われた先生の記念碑だった。なので神社の話とはちょっと関わりないもの。

 

少し前に近所の保育園の園児が遊びに来ていたらしい。手入れは隅々までされており、地元で大切にされている神社のようだ。ご利益あるかな!!

 

神社の隣に蔵がある古い屋敷もあったが、神主家ではない様子。代々続く開業医かなあ…? 屋敷の中に何かの顕彰碑があって気になったが、さすがに敷地内に侵入出来なかったわ。

 

★★☆☆☆

私と入れ替わるように、赤ちゃん連れの親子が遊びに来ていた。居心地がいい。

 

 

 

<中村神社>

創建年 不明