お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

小坂神社

ここのところ本当に疲れていたらしく、ものもらいが出来た。仕方ないのでメガネに変えた。視野が欠けるので転ぶ。また、ものもらいは「ストレス」「睡眠不足」「疲労」が原因で免疫力が落ち、常在菌が暴れ出すことで瞼など目の周りが腫れてしまうらしい。何でも無い場所で転んでしまうのと、「疲労」「ストレス」という文言で精神的に嫌になってしまった。世の中のメガネかけている人々はどうして転ばないんだろう。

信濃国高井郡の式内社6社のひとつ、小坂神社である。ここは論社がなく、確定している。

 

境内の鳥居は他にも立派なものがあって。

 

昭和11(1936)年奉納とある。この道を真っ直ぐ行き、突き当たりを右に回り込むと冒頭の鳥居がある。参道がまっすぐじゃない…。そして、2つめの鳥居(冒頭の写真の鳥居)は山側に表がある。当然、拝殿も本殿も山に相対している。

 

ちょっと構造としては変だなと思うが、ひょっとすると当地の豪族だった井上氏の寺に鳥居が向かっているのかもしれない。

寺は浄運寺といい、井上氏の祖神である八幡神も合祀している小坂神社の神宮寺だったかも? と思った。

 

それなら安養寺もあるじゃん! と思ってみたが。

長野縣町村誌の「井上村」項には、

【小坂神社】高角身命、八幡神。天文年間、井上氏が崇拝し8石(田3石・畑5石)の寄進をしている。

【浄運寺】浄土宗知恩院末派なり。貞應元(1222)年9月、開山。不乱坊という僧が開基。井上氏の代々の祈願所。徳川氏代々独礼の格。

とある。独礼は単独で拝謁出来る格という意味だそうな。そもそも徳川家の人間と会える層というだけでも上級層なのに、浄運寺は上級層の中でも頭ひとつ抜け出している格。そして井上氏関連の寺社ということで関わりも深そう。

 

浄運寺さんは浄土宗開祖・法然の高弟であった角張成阿により創建された古刹(wikiでは建保2(1212)年創建とある)

 →徳川家康は熱心な浄土宗信者

  →江戸時代初め、徳川家の寄進を受ける

  →徳川家康・徳川家光の位牌を置くことを許可される

   →葵のご紋(徳川家家紋)を寺紋とすることを許される

という感じなのだろうか。

江戸時代を通じて「葵のご紋」は不可侵なものなので、紋を見せられたらひれ伏すしかないものだったようだ。井上氏の祈祷寺ということで元はおそらく神宮寺という位置づけであるとは思うが、浄運寺が小坂神社以上の権威を持ってしまったために神社側が遠慮してしまい、鳥居の表側を寺に向けることになったのかなー? なんか複雑そう。

【安養寺】曹洞宗。(近隣の)綿内村にある如法寺の末寺。天文15(1546)年に僧の英文が創建。

安養寺は一般的な寺院っぽいわ。

 

境内は太い木がたくさんだった。

境内には樹齢300~600年の欅は20本以上あるそうで。それでもここ100年程の間で腐ったり暴雨で倒れた木々が10本ほどあるという。今でも鬱蒼とした場所なのにもっと木があったのかー。

 

 

境内の周りには土塁のようなものもあった。

境内の中は手入れが行き届いている。大事にされていることが分かる。

「小坂神社 八幡宮 由緒」と書かれた案内板があった。

  • 10世紀の延喜式に載っている古社
  • 祭神(高角身命)は古代にこの辺りを開拓した一族の祖神か勧請神と考えられる
  • 11世紀後半、この地に清和源氏(井上氏)が入国し、神社後方に屋敷を構えた
  • その時に源氏の氏神である八幡神も一緒に祀られることになった
  • 高井郡の式内社6社のうち、確定しているのは小坂神社のみである
  • 何故なら、鎌倉時代の文献に地名「小坂」があるからだ

 

祭神である高角身命とは、検索したら「賀茂建角身命であると考えられている」と出てきた。神武東征のとき、八咫烏みたいに先導役やってた人だそうで。下鴨神社の御祭神でもある。その子孫が京からこちらに来て開拓したのかな。でも昔のことすぎて実際がどうかは不明みたい。北信濃の開拓神は諏訪系の神様が多かった。高井郡の開拓神(高杜神)も健御名方命の子供だし。

ここには古い銅製の鰐口(拝殿入り口、賽銭箱の辺りに吊り下げられて、ひもを揺らしてじゃらんじゃらん鳴らす奴のこと)があるという。昭和初めまで小坂神社にあったという(戦時中に取られてしまわないように隠されていたのだろう)。現在は秋のお祭りで公開されているそうだが、そこの銘文に「應永二十一年」「信州高井郡今里宝績寺」とあるという。

「信濃史料」には応永21(1414)年7月18日に焦仙という人が鰐口を高井郡今里にある宝績寺に寄進した記録があるそうだ。高井郡には今里という地名がなく、近隣の水内郡にはあるので本当は「水内郡今里(現・長野市川中島町今里)の宝績寺」だったのかもしれないと考えてみたものの。その場所は小坂神社から相当離れている。関係性が薄い気がする…。そして宝績寺があったということもない。

あとは神宮寺と思われる浄運寺の別名か? とも思ったが、違うらしい。

浄運寺の正式名称は「井上山無量壽院清淨運寺」である。発願者の井上氏は清和源氏なので清という文字がつく。そして城としての名前「松柏城」も持っている。元は城だったのかよ。

 

もう一カ所、現存しないが大日堂というお寺さんがあり、ここも井上氏ゆかりのお寺だ。近くに井上某さんのお墓もある。大日堂は平安中期の武将で井上氏の祖である源頼季の子・井上満実が創建した井上氏の祈願寺である。大日堂がいつの間にかなくなり、新たに(城機能も備えた?)浄運寺を作り、大日堂跡に長妙寺さんが山梨から引っ越してきた。という流れのようだ。長妙寺も武田氏の焼き討ちに遭い焼失したりで現在は須坂市の別の場所へ移転している。

現在の長妙寺にある案内板には次の様に書かれていた。

  • 浄土真宗の寺院
  • 応安2(1369)年、本願寺の善如上人に帰依した青木長門守正良が地元の甲斐国にて開山
  • 応永21(1414)年須坂市井上に移転
  • 慶長2(1597)年、この地(須坂市豊丘)に移転

鰐口が寄進された同年に長妙寺が出来たということ。もしかしたら長妙寺=宝績寺で落成記念に鰐口寄進したかもしれない、と妄想した。逆に寺号不明な大日堂のが宝績寺かもしれないしなあ。

青木長門守正良は南北朝時代の人物で、武田氏庶流の一条氏のそのまた庶流である。

本願寺の善如上人とは、本願寺第四代の門主で親鸞の玄孫に当たる。第三代の覚如が本願寺を成立させた、実質的な開祖とされる。この当時は浄土真宗教団規模も大きくなかったそうで、一生懸命布教活動をしていたらしい。善如も布教活動で東国とか来ていて知り合ったのかも。

 

大日堂の近くには井上氏の墓がある。

中世の豪族は屋敷内に墓(屋敷墓)を建てていたそうで、墓石の素材・様式から室町時代に遡るものであるとされる。誰の墓かまでは突き止められていないが、大日堂近辺からたくさん出土したものを一カ所に集めて祀っているそうだ。井上氏のお墓は浄運寺にはないので、長い間屋敷墓だったのかも。

井上氏の御本尊と位牌は浄運寺に安置されている。川中島の戦いで上杉軍として従軍した井上清政という人物が居り、率いた井上軍の損害が甚大だったとあったので。ほぼ壊滅状態になってしまったのかな。井上惣領家は上杉についていって、後に会津藩士となり存続したそうだ。

 

小坂神社は井上氏がいなくても浄運寺で上手くやってくれたせいか、存続していた。

途中、井上氏の氏神である八幡神も入り、江戸時代には八幡宮とも呼ばれていたようだ。

 

狛犬は目が血走っている。

昭和58(1983)年に作られたものらしい。この狛犬は2001年公開「羊のうた」という吸血鬼?が主人公の映画で出てくるそうだが。ぴったりじゃないか。映画のために赤く塗ったわけではなく、最初から赤かったそうだ。

昼間とはいえ、ちょっと気持ち悪かったです。

 

拝殿は比較的新しい感じ。本殿は江戸時代中期のものらしい。

 

手前に池の跡みたいなのがあった。奥は弁財天の祠かな?

年号が入っていない碑多く、この「御神木祈記念碑」も年号が入っていない。

 

例大祭の日に旗とか立てる土台? も名前は書いてあったが年代分からなかったよ。

「井上歴史の道総合案内図」という地図もあった。

この図の通り、浄運寺から井上城(大城・小城)に登れる。

大日堂跡から続く乗越峠は須坂市の下八町と長野市若穂の山新田を経由し保科あたりまで続いてる古道のようだ。上杉謙信が通ったということで謙信道とも称される。途中の山新田には上杉謙信陣屋跡というものもあるらしい。

凄いたくさん城あるよ。

 

 

★★★★☆

手入れはされているが、虫凄かった

 

<小坂神社>

創建年 不明

御祭神 高角身命、八幡神

躑躅ヶ崎館

非常に忙しく、人生が詰んできている。9月には十二国記の新刊が出るが泰麒の話も復習しなければならないし(新刊の表題作は全プレの冊子だったらしく、そうするとおそらく家にあるんじゃないかと思うんだけどもう覚えていない)、どうせなら他の国の作品も読みたいしなぁ(元宿屋経営の一家が家族会議で運営している国が結構好きで、海客として流れ着いたらその国住みたい)。絶対無理だけどサマソニの最終日も行きたい。まだ見ていない映画がHDDに眠り続けているのにネトフリでも何かしらの作品を見ている。筋トレもおろそかになってきている。ああ、もしかしたら近くに時間泥棒がいて私の時間を盗み続けているのでは? 恐ろしい。

 

山梨県の武田神社は武田信玄が御祭神の神社である。神社は大正8(1919)年に創建されたが、元々武田氏の居館だった躑躅ヶ崎館の跡地に建てられた。

甲斐国民にとって武田氏は思い入れがあり、江戸時代からずっと心の拠り所みたいになっていたらしい。明治5(1872)年、武田氏時代からの法律が廃止されたことがキッカケで一揆が起こる。政府は一揆を鎮圧したあと「武田信玄はクソ」というキャンペーンを張っていた。明治政府的には忠義を大事にしたいが武田信玄は父親を追放した親不孝者なので駄目、ということらしい。

しかし自由民権運動の高まりと共に(ご当地の偉人を貶すと暴動がまた起きるかもしれない)と弱気になってしまい、今度は「武田氏素晴らしい」キャンペーンをし始める。手始めに武田氏所縁の社寺に保存金を出し、躑躅ヶ崎館跡地の公園整備をした。そして親不孝者の武田信玄ではないと地元の郷土史家達が論文などを書き名誉回復をし始め、それを後押しした(のではないかな)。

大正4(1915)年、大正天皇即位のお祝いで武田信玄は従三位を追贈された。武田氏の神社を創ろうとお金を集め、大正8(1919)年社殿が完成。武田氏のライバルであった上杉氏を祀る上杉神社をバチバチに意識しており、武田信玄が勤皇だったという事跡を郷土史家たちが頑張って探したが、結局望んだ社格(別格官幣社)にはなれず県社で落ち着いたようだ。

ちなみに当時別格官幣社になると、国からの待遇が変わったらしい。寄進という補助金がもらえたのかも。

 

躑躅ヶ崎館は武田信玄に追放された父親・武田信虎により築かれたという。それまでは川田館に代々住んでいたが、wikiによると洪水の被害によく遭っていたから移転することにしたらしい。

武田信虎はやり手で甲斐国を統一し、没落しそうだった武田氏の威勢も取り戻した。なので心機一転新しい城下町を造ろうとか考えたのかもしれない。武田氏自体は鎌倉の頃はもう甲斐源氏の宗家として山梨に住んでいたと思ったが、時代の移り変わりで分裂したり弱体化したり後継者で揉めたり内乱があったりで、ようやく武田信虎の代で後継者問題や内乱が鎮圧されて国内統一されたようだ。

子どもの信玄の方が有名だし、父と息子どっちが悪いかなんて正直どっちでもいいんだけど、なんかヤリ手感がすごいある人だと思ったよ。息子もお父さんなんかやろうと思えば殺せたのに追放で留めてしまったし(個人的には将来のことを考えたら殺しといた方がお得だと思う)。お父さんはお父さんで、ヨソの国(駿河国)でのんびり過ごして甲斐国を奪おうとしないし。人質だったとしても駿河国主が甲斐を奪うために利用する何かにされたかもしれないのに。

密約があったとしても、現代ですら約束なんてアテにならないものを信じることないし。父と息子がお互いに敵対しない・邪魔をしないという絶対的な信頼があったとしか思えない人生で、だいぶ気持ちが悪い。身内ほど信用出来ないじゃん。

そもそも追放も「なぜ追放することになったのか」がよく分からないようだ。結果的に親は子の邪魔しなかった。というのが本当のところだったのかなあ? 私は武田家の方はリアリストみたいな印象があって、利益がないと行動しないみたいな人達だという偏見を持っている。他人を当てにするよりお金の方が信頼出来るみたいな? 「人は城、人は石垣~」の有名なキャッチフレーズもあって男らしさを感じつつも(なんかブラック企業が好みそうな言い回しだよな)と思う部分もある。共感出来つつも何か胡散臭さを感じるというか。恐らく豊かではない甲斐国からヨソへ侵略しないと食っていけないのも非常に分かるんだけどねー。こればっかりは気持ちの問題だからなんとも。

 

そんな感じの戦国時代における武田家の中興の祖である武田信虎が本拠地を移転させ、新たに甲府(甲斐国の府中)として城下町を形成した。中心部は躑躅ヶ崎館で、一番奥まった高台にある。大変に雅な名前だな、さすがは名門・甲斐源氏と思ったが単に当時の地名だったという。なんだよ。躑躅ヶ崎館を中心に家臣の居住地が広がる。扇状地みたいな形の城下町。

躑躅ヶ崎館の裏手には要害山城という詰めの城があるそうで。館から更に山へ向かうと積翠寺というお寺さんがある。ここから要害山城への登山道が始まっている。積翠寺は奈良時代に行基が創建と伝わる古刹である。お城が出来る前からあったお寺さんなので、何かしらお城機能があったような風な? 躑躅ヶ崎館築城の年に隣の国の今川軍が攻めてきたとかで、身重の武田信虎夫人が要害山城に避難してお城の中で武田信玄を産んだとか、麓の積翠寺で産んだとか、色々言っている。

そんな物騒な時代の施設なので、今は神社になっているとはいえ物々しい雰囲気である。

武田のお城に石垣なんかないと思う。神社造成時に作ったのかもしれない。

だけど、とても綺麗に組まれている。

主郭土塁とあり、説明文の内容から石垣の件は察して欲しいという所かしら。

今回は子供も連れていったのだが、大して関心はなさそうだった。親の自己満足に無理矢理付き合わされて少し嫌だったかもしれない。

狛犬も胸を張り、なんだか偉そうだった。

如何にも「ここはお城だったんですよ。ボク昔からいます」みたいな表情の石垣ではあるが、騙されませんよ…入り口にあった説明板を読んでも騙される人はいそう。本当に上手く作っている。

鳥居。立派。

こちらの狛犬も堂々としており偉そう。

参道も広く、自然と背筋が伸びる緊張感がある。

これでもか、とばかりに家紋の武田菱が散りばめられている。

愛を感じる。

館の井戸だそう。仰々しく書いてるのもまた愛らしい。館内にある井戸のひとつ。

昭和3(1928)年の御大典記念で作られた玉垣かと思ったが、すぐ横に御創建七十五年記念とあるので意外と新しい物らしい。創建年の大正8(1919)年に75を足すと1994年である。平成6年。上皇が天皇として即位してから6年も経っている。しかし内容的には平成6年前後即位記念と神社の節目で作られたものだと思う。平成の世ならばそこまで天皇万歳してないしな、バブルも弾けて契機の悪い時代だわ。

ちなみにこの年にセガサターンと初代プレステ、吉沢亮と赤楚衛二、大谷翔平、瀬戸大也、萩野公介、姫野一樹、ゆづ、ももち、桃田賢人、そして佳子様といった方々が生まれた輝かしい1994年である。そりゃ祝いたくもなるさ、と思います。とんでもない年だわ。

神社の元の姿を教えてくれる案内板もあった。発掘調査はしてないようで、「だいたいこんな感じ」とふんわりしたことを書いてある。

神社の境内がすべて躑躅ヶ崎館というわけでもなく、つまり本丸部分のみ神社として改変したということらしい。よくあることで二の丸・三の丸に当たる場所は別にあったりする。

この先にあるってことよね。
神社境内には武田氏に関係する資料を展示する宝物館があり、何か見たことある感じの旗(風林火山って書いてあった)とかあったよ。あー中井貴一のやつ! ってなった。
そして一緒に行った家族に「古いね」って馬鹿にされたよ。再放送で見たんだよ!! その他の武田信玄演じた人は知らないし。

宝物館を出た後、この土地で手つかずっぽい方向へ向かう。

深い堀がある。

搦手?なのかあんまり手入れしてない。

深い堀を渡ると何かの史跡があった。

人もいなかった。
なんだか分からない場所だしね。

案内板があった。
これによると、「大手」と表記がある。神社部分が「主郭部」とある。この遺跡っぽいは主郭部への玄関のようだ。

これが石塁かな?

三日月堀跡?

名前もついている。「武田氏館跡 大手門東史跡公園」というそうだ。

この高い奴は土塁。堤防みたい。

土塁から望む、石塁と主郭部へ向かう橋。往時は土橋がかかっていたようだ。
躑躅ヶ崎館で一番かっこいいと思ったのが、この大手口だったんだけど。誰もいやしねえ。良いところなのにもったいない。さすが戦国大名の本拠地すごいわと同行の家族も感心していたんですがね。

土塁の向こう側は堀があった。土塁も堀も一部復元したらしい。これがごく一部でしかないんだから、武田信虎ももうちょっと評価してあげてほしいと思うの。あと、武田家が所有していたという金山はどのくらいの金が取れて、どのくらいの富があって、いくらくらいあればこの程度のお城が作れるのだろうか。気になる。

甲斐国内にはいくつか金山があり、そのうち一番有名なのが黒川金山という山だそうだ。1500年頃より金の採掘が始まり、ピークは信虎・信玄の時代。武田氏滅亡後は徳川氏が金山を掌握し、江戸期も採掘が続けられている。wikiよれば慶長・元和年間の甲斐国全体での産出量が100貫(約375kg)で2026年8月12日現在1g=24821円、375kgだと930万くらいかしら。

思ったより少ない気がした。今のレートで考えるから駄目なのか。それでも人件費とか施設維持費とか引くと手取りはどのくらいになるのかしらね。やっぱりあちこち侵略を考えているぐらいだから、金だけ取れてもなあという感じかー。金を運用するの、難しそう。

この「武田氏館跡 大手門東史跡公園」の近くには石造りの大きな建造物があった。

竜華池という溜め池で、武田神社造営と同時期の大正6(1917)年から大正8(1919)年までかかって作られた大きな池。公園からは石積みしか見えない。相川という川をダムで堰き止めて作ったそうだ。相川は躑躅ヶ崎館の堀をおそらく兼ねていた川だろう。農業用水として使われているらしい。

再び武田神社へ。

こちら側には結局誰も来なかった。みんなお城に興味ないんだね…。

大手門の土塁は、公園の土塁よりずっと高い。ここだけは武田氏統治時代のものだと思う。ワイルドな土塁である。

武田神社の本殿を過ぎ、反対側にも何か残っているようだった。

公園内の案内板↓によれば、武田氏滅亡後から甲府城築城までの期間は別の大名が支配し、ここを拡張させていたそうだ。

能楽堂。

公園の案内板によると「天文20(1551)年造営」とあった。天文20年なら武田信玄の時代のようだ。

なんと。こっちも人が居ない。

土塁越しに富士山を眺めるというものが、雅なのか武骨なのか分からない。

土塁はやっぱりワイルドなので、雅じゃないのかなー?

武田信玄が造営した西郭はかなり崩れている。ここは嫡男の義信が今川義元の娘と結婚したので新居として作ったとのこと。発掘調査が2011年に行われた。この場所も500年前に作られて以降大きな修復の手が入っていないようだ。なので、非常に野性味の強い場所となってしまっている。
武田義信は信玄に対して謀反を起こした罪で廃嫡され、数年後に病死した。

年季の入った看板だが、いつのだろうか。下の配置図は現在武田神社になっている部分か。

古めかしい説明板を過ぎたら、こっち側は整備されていた。でも、崩れそうなことに変わりが無いようだ。

こちらに人が居ないのは工事中だからか。入れない場所が多い。

西郭の出口だろうか。

門に巨石がゴロゴロ。信玄は息子に期待していて立派な屋敷を作ったんだねー。

変な癖ある虎口。

そして大きなお堀である。お城って感じする。

お地蔵さんいた。

主郭部と西郭を分ける堀も見える。土橋がかかっていたと思うが多分工事してた。


あの赤い橋が神社の参道である。なんとなく一周回ってきていたらしい。



★★★★★
神社部分が普通すぎたけど、周りが良かった。特に西郭。




<躑躅ヶ崎館>

築城主 武田信虎
築城年 永正16(1519)年


 

 

鞍骨城

一応この場所は二本松峠という名前になっているらしい。谷っぽいのに。

ここは旧清野村と旧倉科村の境に当たるらしい。

でも坂山峠と表示がある謎の杭も落ちていたりする。どちらも同じ峠のことをいっているそうだ。倉科坂というのは旧清野村と旧倉科村を結ぶ道の名称。

村の境界なのでお地蔵さんがいらっしゃった。様子がおかしいけども。ちょっと不安になる感じだわ。丁重にお祈りした。

お地蔵さんの向こうに鞍骨城があるようだ。

旧清野村から天城城を経由して鞍骨城へ向かう道はメジャーらしくて、ここは人間の踏み跡がずっと続いている。ちなみに私は旧倉科村から2時間かけて歩いてきた。多分、旧清野村からだと30分程度なんだろう。軽い気持ちでこんなところまで歩いてきて、元の場所まで戻ると何時になるのか。昼飯抜きでパンかじりながら歩いて何をしているのか。色々な考えが巡ったが、とりあえず首なし地蔵の呪いを食らったせいと一旦考えることを止めてしまった。

 

分かりやすい道だった。

鞍部を辿っていくと少しずつ高く、日当たりもよくなっていった。

細い道がずっと続いている。先は見えない。

と思っていたら、急な出た堀切。

高さある。

登ってみたよ。

わーいつの間にか鞍骨城だったんだー。

上は郭だった。

本郭なのかな? と思ったけど違うらしい。何の標識もない。

この辺り一帯の領主だった清野氏の居城だし、小さな城であるはずない。

踏み跡が続いていた。

鉄塔だ。

また堀切りだが。今回は二重になっている。さっきと同じくらいの高さはありそう。

登り切ったら、また郭あった。

さっきの郭より広い。

土塁もあった。やはりここが本郭でないようだ。踏み跡が続く。

また先へ行く。

再び何か見えてきた。

また堀切である。

今まで見た物より規模が小さい気がする。

小規模のものがたくさんある。

土塁かしら?

石積みもあった!

これがあるということは本郭も近いと思った。

ちょっと高い場所もあるし、いよいよか。

高いところ登ってみたら、見晴らしも良くなってきた。わー。でもまだ先があるみたいだ。

石もゴロゴロしてきた。ようやくゴールなのか。大きなお城だった。

ゴールの証し、ご立派な石積みも見える。コレを見ると、鷲尾城とここは仲間だなって分かるよー。

斜面を強引に登っていくと郭があった。
見晴らしもいいが、急な矢印に戸惑う。

今まで標識らしいものは皆無だったのに。本郭だって察せられる場所に←がある。ひょっとしたら何か罠みたいなものがあるのかも?

みんな石積みに夢中になっちゃって本郭に登ることを忘れるな。という警告みたいなことかも。石積みの雰囲気は鷲尾城の方が上かなと思う。

おそらく本郭を囲むように石積みがあった雰囲気はある。でも崩れているのかな。技術の差(鷲尾城の石積み技術が廃れ始めた時期とか?)なのか地形の差(急勾配すぎて上手く積めない?)なのか。
斜面は積んであった石なのか、ごろごろしている。さっき見かけた小さな石積みの周りもそうだったが、やっぱり経年劣化だとかで崩れた気がするんだよね。

ちなみに本郭までの道は細い。

自然に還りたくないと抵抗する石積み達もいる。

この斜面びっしり石で覆われていたら…良かったのにな。

石積みも横から見ると少し不安定そうにも見える。是非とも踏ん張って欲しい。

入り口はここ。

やっと本郭に到着ですよ。

広さ的は今まであった郭と変わらない。土塁もある。

眺望は圧倒的だ。四方がよく見える。


説明板はないようだ。
鞍骨城を築いた清野氏は村上氏の一族で、全盛期はこの城の周り一帯を治めていたという。村上一族の中でも家格が高い人達。武田氏の信州進出で家名を残すために村上氏と共に新潟へ落ち延びていった人達・武田氏に臣従した人達、の二つに分かれていったという。これだけ広いお城なので、相当な権力あったんだろうなと感じるよー。
長野縣町村誌によれば、永正年間(1504~1621)に清野勝照という人が造ったとされる。wikiによると清野信秀のことらしい。さらっとした生涯しか載っていなかったが、主君を行ったり来たりして家の安泰を図ってきた戦国の豪族にありがちな生涯を送った人物らしい。子孫は徳川家に従い旗本として生き残ったようだ。

奥まった場所にあるのかと思ったのに絶景だった。

山道を歩き過ぎて方向感覚が狂ったのかもしれない(来た道は辿れると思う)。

広いのに斜面が多い。足の限界も近いよ。

多分登ってきた方の山。遠い。時間的にも余裕がなくなってきたので(遠くに見える山まで戻るとすると1時間以上かかりそう)、引き返すことにした。

元来た道は上手く辿れた。人間の足跡は私の分しかなかったのでね!

午前中に見た景色を巡ることは少し安心するわ。

鷲尾城まで戻った。

ここまで戻れると安心だ。この先も急斜面だが。足が…登山口から登り始めて4時間以上たつわ。

また石積みが堪能出来たので、このまま頭の中を無にし下山した。無にしないと足が痛くて歩けないよー。

無事に麓まで降りてきた。柱が労ってくれたよ。

帰り道になり急に気付いたけど階段あった。

無事に麓到着。今回は5時間コースだった。少しぐらい筋肉に変換したかなー? ムキムキになれますように。


★★★★★
一旦下山して車で清野地区から登れば良かったんだ。でも城自体は楽しかった。






<鞍骨城>
築城年 永正年間?
築城主 清野勝照?


























 

 

 

 











 

 

 

天城城

鉄塔にほっとした。人がいない山奥を歩くスリルが楽しいとはいえ、正直な所自分がどこを歩いているか分からなくなってきているので。

「ここで死んだら何時間くらいで家族は行方不明届を出すのかな?」とか普段は暢気に考えているけど、今回はやたら獣の足跡が多いので「冬場だから死体の腐るスピードもきっと遅いし、食べ物も少ない時期だし、襲われたら様々な獣に骨の髄までしゃぶられて原形留めないかもな?」「熊いるかな」などと動物のことばかり考えてしまう。ここまで動物に対して考える機会がなかったかも。

人間の足跡か動物か、分からない程度に温かくなってきた。天気が良い。

ここの足跡は賑やかだ。何かあるのかと思ったら。

どうも水が出る場所だったらしい。冬なので当然凍っているし、なんなら雪でも食えばいだろうと思った。ここに集まる必要が無い。

土を起こした跡まで。マーキング? 水があるから動物達の社交場になっているのかね? 猪同士とか、同じ種族なら出会いの場なのかなー? と微笑ましく思えるかもしれないが。リスと狐など分かり合えそうにない組み合わせだってあるかもしれないのに。だいたい、狐なんかはずっとここで獲物が来るのを待ち構えてそう(狩りするなら効率が良さそう)だと思う。私ならやりそう。

実際は「水飲み場での狩りは違反」みたいなルールが全動物に課されているのかな! ってぐらいの足跡がある。ちょっと気持ち悪い。暗黙のルールを山の生き物たちが種を超えて守っているとか、胸が熱いわ。もし山の掟があるんだとしたら作ったのは神様だろうし、山の仲間達が忠実にルールを守っているとしたら神の存在を信じよう。

という感じで、自分の中で熱い気持ちが沸き起こった。

 

山の生き物たちは種類毎にそれなりにコースを決めて移動しているそうだ。例えば、熊なら熊コース。鹿なら鹿コース。それぞれの餌を採る場所・水を飲む場所が決まっているのでルートもそれぞれ変わる。できるだけ障害物のない歩きやすいルートが採用されるため、熊コースと鹿コースのルートが重なり合う場合もあるらしい。

偶然にも色々な動物の移動ルートが重なった地点がここだったということのようだ。昔イグノーベル賞を取った「粘菌が最短ルートを選ぶ」研究みたいに、動物達も最短ルートを取って通行しまくっていたら獣道になったみたいなことかね。ルールを決めた神などいなかったのか。なんだ。

そして動物たちも選んだ最短ルート上に鉄塔を作り電線を通す。全ての生き物が良い道としている安心感。

安心感と引き換えにスリルがなくなってくる。

やっぱり、死ぬか生きるかのスリルは欲しいなあ。

どの辺まで来たか不明だけど、人里からは相当離れたようだ。どこからも生活音というか、車が走るような音も時を知らせるサイレンみたいなのも聞こえない。

民家も見えず見晴らしが悪い。

けっこう歩いたと思うよ? 何にも見えてこないし、「何かある」雰囲気もない。どうしたらいいんだ。引き返したい気持ちもあるし、ここまで来たから勿体ないから先に進みたい気持ちもある。
葛藤しながらここまで来たんだ。

意地でも進んでやる。

そしたらいいことがあった。

堀でしょうか。

なんかよく分からないけど、多分人工物だと思うんだよね!

自信は無い!

初めての看板。どうやら「あんずの里 ハイキングコース」という名称の道だったらしい。登山道入り口にはなかったので道に迷った可能性もある。獣道だったしな。ハイキングなんて牧歌的な道でもない。

堀・土塁はすぐに姿を消してしまい、あれは本当に人工物だったのかと疑わしいほど何もなくなった。この先に城があるはず、と思うがそれらしき雰囲気はない。

なんか分かれ道っぽい?

人間の踏み跡もある、こっちに行ってみることにした。

急になんかあった。堀である。

もう少し先に進む。

少し進んだら何かあった。

穴だ。

坂山古墳(天城城)だった。

なんと。パワースポットだった。

古墳の内部はすでに露出しており、石積みしか残っていない。派手に盗掘したようだ。

ここが本郭らしいが、狭い。

帯郭のようなものもある。

下に降りてみた。こちら側に麓までの登山道があるようだ。踏み跡が続いている。

下から見た本郭はこんもりしている。坂山古墳は円墳だったのか。

戻る。

長野縣町村誌「土口村」の項では、土塁などがあるが誰の城か不明だそうだ。地元民の話だと昔ここ大穴郷の領主・大佛貞直の城であり、更級郡山田の領主月影判官に攻められて落城。その後はどうなったか分からないという。

大佛貞直という人は、鎌倉時代末期の武将の北条貞直のことらしい。この人は鎌倉の戦いで死んでいる。「土口村」の項には、

  • 元弘3(1333)年の鎌倉幕府滅亡で北条高時とともに大佛貞直も戦死
  • 月影判官は村上氏の一族で、幕府滅亡に乗じ大佛氏の領地を攻略し始める
  • 足利氏の時代になり、村上氏も武家に復した

とある。更級郡山田という地名から、月影判官というのは山田氏の誰かじゃないかなと思う。検索してみると、山田信兼という人が出てきた。この人は荒砥城を築城したとも言われる、山田氏の中興の祖である。室町時代に生きていたそうで、この人のことで間違いなさそう。

領地を守るお城にしては非常に貧弱だと思う。

鎌倉時代後期のお城としてもイマイチな気がしないでもない。

本当にちょっとした砦。

城域はここまでだろうか。

二本松峠という名前の堀がある。ここは長野市と千曲市を行き来する生活道路として使われていたようだ。

 

★☆☆☆☆

この先にあるお城の支城ということになっているお城なので、古墳の標識しかないよ

 

<天城城>

築城主 大佛(北条)氏?

築城年 不明

 

 

いい加減溜まっているアニメを見た。最終回だけ録画されていなかった。泣いた。守護団の歴代当主はなんやかんやで全員やっぱり気持ち悪いな、と思っただけで終わっちゃったじゃん。来世編の予告?みたいな形で終わったようだが。

撮りだめしたものを消費していなかったので子供にも「お前いい加減コードギアスとかいうの見ろよ何年前のだよ」と叱られてしまったが、一気に見たいじゃん? 君たちがいないときにさあ。私も一応大人だから血染めのユフィとか令和キッズに見せたくないんだよ。そして思うところがありエヴァ(TVシリーズ)を見始めてしまった。コードギアスに手をつけるの当分先になりそう。エヴァは旧劇まで頑張って見ようと思う。

鷲尾城

久しぶりに山に行った。何ヶ月ぶりだろう。もう熊も死に絶えたかなー? 最近話を聞かないし! だけど少し緊張しながら山の麓まで行った。

鷲尾城は大日堂から登る。

賑やかな場所だった。

いろいろな石碑があるのは、ここが古くから人間の住む村だかららしい。その証拠に万葉集でここが詠われたという記念の歌碑があるようだ。どれ?

歌碑の内容は以下の通り。

人皆の 言は絶ゆとも 埴科の 石井の手児が 言な絶えそね

意味は「他の皆から無視されても、埴科の石井の手児からの言葉は絶対欲しい」というそうだ。手児とは手児奈という大昔の千葉県市川市真間に住んでいた伝説の美女のことを指しているそうで、とにかく美人だったために彼女を巡って争いばかりなので彼女は悲観して自殺した人。そんな感じの美人がここにも住んでいて、例え世界中の人が敵だとしても彼女とはずっといちゃつきたい的な歌のようだ。

で、「埴科の石井」というのはここです。ということだそうだ。旧埴科郡倉科村には確かに「石井」という地名が残されている。長野縣町村誌の「倉科村」の項には、「埴科石井」がある。そこには「仁和3(887)年7月一カ月間ほど続いた長雨によりに矢ノ口山が崩落し、石井地籍が埋まってしまった」とあった。

仁和3年といえば仁和地震があった年。

仁和地震は平安時代に起きた巨大地震で、南海トラフが原因とされている。甚大な被害をもたらし被害範囲は北海道を除くほぼ日本全域とされる。近畿地方の被害が特に深刻で、津波による多くの溺死者、一ヶ月も続いた余震で長年語り継がれた悪夢の出来事だったそうだが、何故か都から遠く離れた信濃国の被害もセットで伝わっている。この地震の影響で八ヶ岳が崩落し、千曲川にダム湖が出来てしまった。このダム湖が決壊し下流の六郡が流されてしまったそうだ。ここは千曲川に近く、当然流された地域のひとつだ。

 

矢ノ口山というのは矢ノ口古墳群がある山で、鷲尾城とは近所の山だけどちょっと離れている。旧倉科村は三方向を山に囲まれているが、ぐるりと取り囲む山々には古墳が点在し廃寺跡、古代の遺跡も豊富。かなり栄えていたのかも。遠く千葉県で鳴らした伝説の美女の名前を持ち出してくるぐらいだから、それなりの知識がある人がまあまあ住んでいて、その中のひとりが詠んだ歌が都に運ばれていったんだから都とも繋がりがあるちょっと都会な集落だったはず。

この地域の遺跡(本誓寺遺跡)で当時の建築部材が出土し、当時の一般住宅(竪穴式住居)よりも立派な柱だったのでどうやら「有力寺院」「郡衙跡」のどちらかの可能性があるというところまで分かったらしい。ただし、仁和大地震とその後の大洪水によりこの辺りは壊滅状態になってしまったことも分かった。

 

藤原寺という倉科にあった天台宗の寺が荒廃し、善光寺を訪れていた親鸞が再興し本誓寺と寺号を改め弟子に運営を任せたと言われている。本誓寺は山の向こう側の長野市に移転したそうだ。藤原寺の起源は分からないが、倉科荘は大洪水で荒廃したあと荘園として復興していったようだ。荘園は文治2(1186)年時点で九条城興寺領となっている。九条城興寺は藤原道長の孫・藤原信長ゆかりの寺だが、平安時代末期には藤原氏から離れ、色々あって最終的には比叡山の管轄に置かれた。最初の領主だった藤原氏ゆかりの寺なんじゃないかな? 九条城興寺が色々あった中には、以仁王挙兵の一因だったり年貢の納入先で揉めた挙げ句青沼合戦(からの中先代の乱)を引き起こしたらしき話もwikiの記述が匂わせている。

 

石井という地名は近年まで残されていたようで。現在は倉科神社と改称されているが、ここは明治44(1911)年に村内各社が合祀される前は石井神社だった。石井神社の御祭神は健御名方命と八坂斗女命。ただし、現在の倉科神社の主祭神は大国主命のようで、これは(おそらく)薬師山公園辺りにあったんじゃないかなと思う旧倉科神社の御祭神と同じだ。まあ、旧倉科神社は健御名方命も事代主命も祀られていたので乗っ取られたというわけでもないが。

 

石碑群には西行法師の歌碑もあるという。どれだか分からないが。

この西行法師の歌というのが「信濃なる阿可しの松能あり奈賀良 那どくら志奈の里登いうら無」というものらしいが、この歌が西行法師の作という確証がないそうだ(出典が見えない)。ただし、小野お通(生没年不明)という人物宛てに松代藩の藩主になったばかりの真田信之が送った書状に「西行がこの歌を歌った場所」と書かれている歌が初出らしい。その当時には存在していたようだが、真田信之が創作した可能性もあるのでは? と思った。

 

他には庚申塔とか祠、猿田彦神とある石仏、何かの顕彰碑など雑多にある。

村内にあった石碑を持ってきたのかね? 

船着き石というのもあるし、詳しい説明板もないので謎だらけ。

 

ここから先の道を上る。

石段の先に小さなお堂があった。大日堂という。

真田信之の次女まさ姫という人は飯山藩世嗣の佐久間勝宗に嫁いでいたが、勝宗が若くして亡くなってしまい子も無かったようなので、実家に戻ってきたようだ。倉科村300石をお父さんにもらいお金にも困らず、お父さんと一緒に暮らし、お父さんを看取って長寿を全うして亡くなったようだ。未亡人とはいえ暮らしに困らないのは良い。そのまさ姫が建てたお寺にあった大日如来を明治8(1875)年ころから安置しているそうだ。

崖と崖の間にある狭い平場に無理矢理建てている感じ。申し訳程度にベンチも置いてあるが、足場が悪い。

景色はまあいいかなー?

小さいお稲荷さんの祠もあった。この横へ抜ける道が登山道であるらしい。

行ってみると。

猪除けなのかフェンスの入り口があった。人の出入りがあまりないのかもしれない。入り口のドアが硬かった。頑張って開けて、頑張って閉めた。帰る時に開けられるのか不安だよ。

巨石がゴロゴロしていた。

落ち葉と雪で最初分からなかったけど、どうやら参道の石段があったようなのだ。

歩いていてそんな印象を受けただけなので、実際はどうだったか分からない。原形は留めていないと思う。急坂だった。

不意に大善寺跡が出てきた。

手前の鷲尾城・倉科将軍塚の標識で見落とすところだった。

真田家の家紋の六文銭がつけられている。ここはまさ姫が建てたお寺なので。

長野縣町村誌には「創建年不明、明治6年廃寺となる」とあったが、ちくま検定という地元の千曲市が作成しているサイトだと、

・まさ姫は清涼院(倉科地区にある寺院)の西に屋敷を構えた

・藩士の小山武衛に命じて大善寺を建てた

・明治6(1873)年の廃仏毀釈により廃寺

・明治8(1875)年に小山文三郎が大善寺の後継としてお堂を一宇建て、大善寺の本尊であった大日如来を安置した

とある。小山武衛の子孫が小山文三郎なんだろうな。グーグルマップの情報だと、1673年見樹院が建立、1742年大雨により流出、とあるようだ。延宝元(1673)年はこの人の没年に当たる。どうもまさ姫(見樹院)という人は信心深かったのかあちこちに寺を作ったり再興したりやっている。ここにあった大善寺が最後に建てたお寺だったのかも。

1742年は寛保2年で「戌の満水」があった年である。大雨というか、大洪水の影響を受けたんじゃないのかな。この大洪水で松代藩の財政は一気に悪化し、大善寺自体も再建されなかったという話もあるし、そうかもしれない。だって153年前の明治6年に廃寺となったわりには参道がほぼないんだもん。

お寺の跡地はすごく綺麗だった。

何かあっただろうというのがよく分かる。基礎の石とか残っていないが、この一角だけtとても綺麗に整地されていた。

先の道もなんとなく分かる感じ。ここもそれなりの往来があるのかも。

大善寺跡の前だけ大変だった。あとは普通の山道なのか。

標高はまだ高くなさそう。

まだ虎ロープは使わぬ!!

手作りの案内がある。この地域は丸太を加工して作っている。こういうのも地域性があって面白いな。

加工していない丸太がゴロゴロと。

お城らしきものは全然見えてこない。

久しぶりにちゃんと歩いたので疲れてきた。運動不足だ。

息が上がってきたなーと思っていたところに現れた、石の山が。

ここは「石垣」というより「石積」の方がしっくりくる。平たい石を重ねている。

なので段数は多いが低い、ちょっと日本っぽくない。などという印象がある。日本で一番古いお城の石垣というのは岐阜にある六角氏の観音寺城だそうだが、それに比べても違和感ある。


観音寺城の石垣は弘治2(1556)年頃で、その辺によくある野面積みの石垣だった。こちらは煉瓦みたいな積み方、名称は小口積みというタイプらしい。何か見覚えがあるような? と思った。どうやら古墳でこのような積み方があるらしい。遺体を納める石室の石積の代表的な積み方のひとつだ。
古墳の石室も、自然石をアーチ型に積む(野面積み)・加工した平たい石を積む(小口積み)・ピラミッドみたいに加工した四角い石を積む(切石積み)などある。

 

古代には石垣を備えたお城もあったそうで、白村江の戦いで敗れた日本が大陸からの侵攻を恐れて作ったお城なんかも石垣が多用されているらしい。福岡県の大野城とか。古代山城は百済人の技術で建てられたという。本土決戦に備えたお城なので西日本にあるが、信濃にも百済系技術者が多数来ていることも知っている。白村江の戦い(663年)当時の大和朝廷の勢力範囲は新潟・福島あたりであったかと思うが、一応長野県も最前線に近い国だし軍馬も古代から生産していたしな。

石積ありで知られる山城は「霞城」「鞍骨城」「鷲尾城」「雁田城」などで長野県の北側に位置している。また、これらのお城には近くに古墳がある。「霞城」の近くは大室古墳群、「雁田城」の近くは岩松院古墳群、「鞍骨城」「鷲尾城(鷲尾城は鞍骨城の支城扱い)」の近くには埴科古墳群。ちなみに埴科古墳群は長野県で一番大きい古墳(森将軍塚古墳)と三番目に大きい古墳(倉科将軍塚古墳)を有する。二番目は川柳将軍塚古墳である(近くの城は夏目城)。なので、古代から人が住んでいる地域でもある。

長野県北部に点在する石積みの山城は古代山城なんじゃない!? ってワクワクしたんだけどどうだろうか。雁田城も来歴が古い(1184年頃にはあった?)ようだし、霞城も1100年代築城と伝わる。ちなみに夏目城には石垣がなかったと思う。この城は都落ちした中流貴族という余所者のお城だからかな? 他のお城はみんな地元の人が作っている。

古代山城の石を積む技術は平安時代以降には廃れてしまい、戦国時代に入ってからお城に石垣を作る技術が出来たという。その間、例えば1100年代とかには石を積むなんて技術は存在しなかったとされる。でも石工はフリーメイソンの話に代表されるように、特殊な技能であるから信濃の一部でひっそり継承されていたが鎌倉時代に入りついに消えてしまったとか…考えると楽しいですわ。

 

ここの石積みは登る前に想像していたよりも広範囲だった。

風雨に耐えきれずに壊れた箇所もある。

石積みの上に鷲尾城の標柱が刺さってる?ようだ。ひとしきり石積みを見たので、本郭に登ってみる。

本郭に到着。説明板があった。大したこと書いてない。

特徴としては小口積みの件の他、

・山城なのに近世城郭のような石垣で築かれている
・たぶん倉科氏が作ったんだと思う
とあった。

長野縣町村誌では、鷲尾城主を「倉科源三郎」と紹介している。この人は村上氏の家臣だったらしい。倉科地区は鎌倉時代に九条城興寺領だったが、その後は村上氏の所領となり、村上氏が駆逐されたあと武田領となっている。倉科氏は九条城興寺領倉科庄の地頭ではなかったかとされるらしいが、どうやら鎌倉幕府の御家人だとか土豪レベルではなかったようだ。村の代表者クラスとかいうのかな? 小さな部族の長老みたいなポジション?

小さな部族の長老が作った城にしては手が込んでいる気もするのよね。あの石積みにかける情熱は権力者じゃないと無理そうな気もするが、倉科氏以外に別の人が利用するため改修したような様子もなく。

眺望は非常によいから使い道たくさんあると思うんだ。
そんな下界に向けて「ばか」「あほ」「しね」って叫んでおいたよ。

本郭も広かった。ただ、登山道には他の郭や平場が見えなかった感じ。帰宅後調べたら、どうも登ってきた道ではない、西側の尾根にも帯郭等があったようだ。

土塁もあった。

こちらにも石積みが。

土塁も石がごろごろ。積んであったのが崩れたのか、自然のままなのかは知らないが。もし土塁も石積みだったらもうちょい高い壁を築いていたのかな? 名も無き土豪未満の城にしちゃ凄いと思う。

多分郭と思われる平場があった。

郭と本郭の間。石積みが残っている。石でぐるっと取り囲んでいたのか。

ここは史跡に指定されていないけど、指定した方が良いのでは…?

私の中では古代山城にしておきたい。楽しいから。

せっかくなので、倉科将軍塚古墳も見に行くことにした。

堀切りがあった。

人の足跡などひとつもないが、獣の足跡がたくさん。小さめのものが多いので、さほど気にならないが。登山道ではなく獣道なのね。

往来が大変多い。

今まで見かけなかった堀切がある。深い。

こちらが大手道だったのかね。反対側は本当に石垣しかなくて急斜面だった。登るの大変だったよ。

獣道は倉科将軍塚古墳まで続いているはず。

行ってみよう。

堀は終わり、少し平らになった。

何かあるようで、何もなかった。少し離れているようだ。獣たちの足跡は豊富で皆が古墳に向かっているようだった。倉科将軍塚古墳に一体何があるのか?

 

変な地形が出てきた。

獣たちと一緒に下りてみる。

小さな堀切が幾筋かあった。

獣なのに全く同じ箇所を通るのって自然の法則みたいなのあるのかな。かと思えばあさっての方向へ向かう足跡もあったりしっちゃかめっちゃかな場所もあったりする。獣に理由を聞けば教えてくれるのかな。

堀切を抜けると、よくある尾根道に戻った。しばらく進むと。

遠くに看板らしきものが見えてきた。

倉科将軍塚古墳だった。

鷲尾城からはさほど離れていない。

正直なところ木々が生え過ぎて古墳には見えない。グーグルアースとかで上空から見れば古墳だと分かるような形をしているのだろうか。実際グーグルアースで遺跡探している人達いるもんね。

さっき見た看板は倉科将軍塚古墳の説明が書かれていた。古いものらしく、今はなき「更埴市教育委員会」とあった。倉科将軍塚古墳は長野県史跡に指定されており、指定年月日は昭和48(1973)年3月12日。その頃建てられた看板なのだろう。

内容は、

・古墳時代前期の様式である前方後円墳、5世紀ごろ築造

・県内の前方後円墳のうち最も高所にある

・丘尾切断方式、東方に前方部がある

・主体部の規模は未確認だが、後円部に竪穴式石室があると思う

・長野県内では三番目に大きい

・重要かつ貴重

とあった。

 

丘尾切断方式とは、古墳の造営方法のひとつ。丘を人為的に削り必要な形に造成する方法らしい。なので、円部分は丸くなるように・方形部分は四角くなるように土砂を削り、なるべく地形を有効活用することで効率的に古墳を作る方法。確かに土砂盛るよりも削って行った方が大変じゃないわ。

この説明板の内容が古そうなのだが、こういう古墳って盗掘されているのが普通じゃないかな…? どこかで石室が開口してるのでは? と思った。本格的な調査は行われていなさそう。規模第1位の森将軍塚古墳はあんなに綺麗に整備されているのに。

場所が場所だけに難しいのかな。

お墓に登る気が無かったので、古墳脇の登山道を歩いた。

丘尾切断方式というのがよく分かる道だった。

円部分だったらしい。前方後円墳は丸い部分=埋葬・方形部分=祭祀所という位置づけらしく、丸い方に副葬品のお宝がある。倉科将軍塚古墳は中期の古墳だそうで、円墳と方墳が同じ大きさぐらいのものらしい。

円部分と方形部分が見えるあたり。前方後円墳の形になるまで土砂を削ってすてる。

本当は斜面を急にして盗掘など出来ぬよう細工をするらしい。しかし長い年月を経てただの斜面になってしまっている。私でも簡単に登れそう。登らないけど!

再び現れた堀切。古墳を削ったのか。方形部分なので郭としてそのまま利用ができるし便利だよね。

ここもまあまあ深い。

ここは大きなもの1つだった。

また少し先へ行くと。

堀切またあった。

鷲尾城はここまでだったようだ。石積部分の本郭より古墳部分の方が広い。

なんか楽しくなっちゃって、このまま先に進んだ。獣道もまだあるしね。

何かあるかもしれないし。

古墳よりも先の道は人の手が入っていない世界だった。

さすがに心細くなり、奇声を発して歩くようにした。昼間でも獣出てくるから。

鷲尾城本郭で長々と大声大会しなくて良かったわ。さすがに大声大会延長戦があるとは思わなかったもん。

言葉にならない人外の叫び声を上げつつ歩くと自分を見失いそうになる。幸いにも人や動物が現れない。もしここで言葉の分かるヒトが現れたら異常者の徘徊かとオシッコ漏らさせてしまうかもしれない。

読める字が出てきた。

ここは薬師山で、いつの間にか登頂に成功していたらしい。そしてまっすぐ進むと鞍骨城があるそうだ。鷲尾城は鞍骨城の支城、そう遠くない場所にあるのではないか。

あまり深く考えずに、更に進んでみることにした。

そして足跡も増えていく。何故なのか。やはり皆城が好きなのか。

歩いてきたが、思った以上に何もない。そのうち登山道が鉄塔管理道と重なってきた。しかし、人間の足跡はまだない。

 

 

★★★★★

石積は本当に見て良かったと思う、あと名前がかっこいい。

 

 

<鷲尾城>

築城年 不明

築城主 倉科源三郎?

 

 

 

 

 

先月終わりに配信開始のTAKE THATドキュメンタリーだけど、現在7周目に突入した。週1で1,2回は見ているのかねー? 第一話の冒頭、1994年マンチェスターコンサートの楽屋でゲイリーとロビーがふざけてBack for goodを歌っている場面でちょっと泣きそうになり、その次のロビーが「ハグしてステージに上がる」と言い真っ直ぐゲイリーの所へ向かい抱き合うとか、いま本当にこの人報われて(こういう表現があっているか微妙だけど)良かったなと思うわ。

デビューのためレコード会社に売り込みしてたときに「デブなしの4人ならうちでデビューさせる」なんて言われたこともあったらしいし、ゲイリーに対して「デブ」は禁句だったんだろうな…。

ただそのデブがいないと成り立たない、その辺もアイドルグループとしては常識外のことなんだろうし。デブが作詞作曲からプロデュースまでしているなんて普通は思わないか。で、当の本人も見た目にコンプレックス抱えているから拗らせて、音楽の才能で輝くしかない才能が無いと思われたら立つ瀬がないとアイドル時代考えていたらしく、血反吐を吐きながら作曲をしていたために音楽の話は非常にナーバスになっていたらしいことまではなんとなく分かった。

それで音楽関係のアイデアを持ってきたロビーを拒絶したから、ロビーもおくすりとお酒に浸り、反転アンチとなり長年に渡ってゲイリーに執着する羽目になったのかもしれないなあと思った。

今は普通にいちゃつけるようになって良かったなあ。

 

そして影響されてワンダイレクションの動画にまで手を出してしまったよ。ハリーかわいい。

熊野皇大神社

年が明けた。

せめて正月ぐらいは読書しようと思い、いつも年末に本を借りてくる。今年は「ポイズンドーター・ホーリーマザー」「禁足地巡礼」「君たちはどう生きるか」を借りた。どれもこれも暗い。去年は「白ゆき姫殺人事件」「地面師たち」「イギリス・アイルランド留学」だった。元旦に読む湊かなえは読後感の悪さで何故かスッキリする。来年の元旦も生きてたら湊かなえ読もうと決意した。

群馬と長野の県境にある。日本三大熊野神社のひとつとされるそうだ。

勝新のまらそん侍でお馴染み「安政遠足」のゴール地点もここ。境内の真ん中が国境となっており、この「決勝点」の場所も群馬県側にある。

江戸時代には安中藩の管轄地であったようだ。

元は長野県側に置かれた神社だが新田義貞(1301?~1338)の寄進により群馬県側にも境内が広がったということらしい。

長野県側の部分は明治時代には「峠町」と称する地区だった。村ではなく町と称したところがこの辺りの繁栄を感じる。ただし町の面積は小さい。東西5町(0.55km)・南北60町(6.55km)で細長いのは神社の境内と門前町以外は山だからである。恐らく山の部分は熊野皇大神社の修験場だと思う。

隣接する軽井沢村(軽井沢宿)の大きさは東西1里17町(5.78km)・南北2里5町(8.4km)なので、比べても異様に小さい。峠町の居住スペースは1k㎡もないのではないかと思う。

日本三大熊野と称するだけあって、格式は高い。峠町の部分は寺社領であって猥雑な宿場町と一緒にされたくないというプライドも感じる(明治5(1872)年に軽井沢村と峠町は合併するが、明治11(1878)年に再び分かれた)。

wikiによると軽井沢宿は中山道で最も栄えた宿場で、本陣と脇本陣が合わせて5軒、旅籠が最盛期で100軒近く、飯盛女も数百人いたとかいう歓楽街だったようだ。中山道では、群馬県の坂本宿を出て碓氷峠を越え長野県に入ると軽井沢宿・沓掛宿・追分宿と3つの宿場町を経由していくが、この3宿の売りが飯盛女で当時どうやら全国的に有名だったらしい。軽井沢宿は現在の旧軽井沢エリアに相当するが、そんな歓楽街だった面影が全くないリゾート地なのに。この日通った旧軽では神戸ナンバーの(多分)ケンメリとすれ違いギョッとしたぐらいの、お金持ちが闊歩する非日常エリアなのよ…。

今はほぼ一体化している感じで、旧軽井沢の突き当たりが熊野皇大神社みたいな印象。ショー記念礼拝堂から車で5分だし。群馬県側から登って来る人はいないんじゃないかな? 後で調べたら、熊野皇大神社から東京方面への中山道は江戸時代のまま残されており徒歩道。車では不可能だ。廃道になってる明治天皇御巡幸道もこの辺なのかな。

 

神社はすごく賑わっていた。

鳥居の近くにお手水舎があり、清めてきた。

よく分からん聖徳太子の碑。

とても変わった狛犬がいる。

室町時代の作品のようだ。長年の風雨と苔により原形を留めていないのではないか。蛙に見えた。

 

そんな狛犬の近くに由緒が書かれた古い看板があった。それによると、

とあった。

「あずまはや」が語源となり、あずま(現在の関東地方)というエリアが出来たという。日本武尊は静岡県と神奈川県の県境にある足柄峠でも同じように「あずまはや」と嘆いているそうで、この足柄峠は古代では東国との境だったようだ。同じように「あずまはや」と言ったから碓氷峠も東国との境として見做されていたらしい。

つまり、この神社は関東地方発祥の地のひとつということなのか。

 

入り口は一カ所のみ。

両脇に変な車輪のオブジェあると思ったら、風車だという。見えないわ!

説明書きには「峠の石の風車」とあるが、よく読めば「神社の石段を奉納した佐藤一族が記念に佐藤家の家紋「源氏車」を刻んだ石も奉納した」ということなので、車輪で間違っていなかった。源氏車は藤原秀郷傍流である佐藤氏が主に使用したそうなので奥州藤原氏の後裔が寄進したのかな! とちょっとワクワクした。

拝殿。真ん中の建物の中心が県境であり、建物内部で「長野県側のお社と賽銭箱」「群馬県側のお社と賽銭箱」がそれぞれ置かれている。規模が大きく賑わっている(手広く商売している)のは長野県側の神社だった。本殿のお賽銭箱ですら2~3倍の大きさだ。
どちらが主なのか、成り立ちも考えると長野県側の神社がメインだと思うが、江戸時代も群馬の衆・長野の衆でちょくちょく喧嘩していたようだし現在では二つの神社は同格ということで。両方にお参りすることになっているようだ。

拝殿の両隣にも社殿があった。

↑群馬側。

↑長野側。
群馬県出身の新田氏が群馬側の土地も寄進したせいで揉め事が増え、長野と群馬で「うちの神社」と取り合って揉めていたのかなという感じ。山奥だし現在は行き止まり線のどん詰まりにあるのに参拝客がかなりいる、幹線道路沿いだった昔はもっと参拝客が多かったかもしれない。こういうドル箱神社を「うちのもの」と取り合いするのも分かる気がするなあ。寄進した新田氏は祈願以外のことは何も考えてなかったんだろうし、金を稼げる神社に成長するとも思わなかったんだろうが、罪なヤツだ。

さすが。摂社がずらり。源頼朝所縁の社もあるし。

軍事訓練の一環として巻き狩りをしようとしたけど天気が悪かったから晴れるように祈願したそうだ。

奥の石造りの五重塔の方が新しいようで。

斜めになっているが江戸時代の物。倒れそうじゃない。

群馬県側の境内から先に道があるようだが立ち入り禁止になっている。

日本武尊が「あずまはや」と騒いだのがここらしい。

群馬県側は「安政遠足」の幟で賑やかしている。源頼朝とか日本武尊より安永遠足推しのようだ。毎年「安政遠足侍マラソン」という大会を開いているそうで、今年は51回目だと。この大会は「仮装をしても走れる健康な人」が参加条件で、基本仮装するらしい。今年は1500人が走ったという。記事の写真では白血球さん・赤血球さんから、ロケット団のムサシ、ミャクミャク様など、みんな完走前提で動きやすい格好をしている様子が見て取れる。

 

長野県側に戻る。

こちらは御神木のシナノキがあった。シナノキは信濃国の由来になったとされる植物だ。御神木は樹齢1000年ぐらいというが、それにしては若々しい木だった。

普段住んでるが、こんな木見かけないけどな。気がつかないだけで山に行けばたくさん生えているのかもしれない。広葉樹で、この木から繊維を取って昔はロープを編んだり普段着用の布を織ったりしたようだ。繊維としては丈夫だが、木材としては耐久性が劣る。確かに古代の信濃国は麻布をはじめとした布の一大産地で、税として布を納めていたって聞いたことがある。シナノキの繊維から取った布(しな布というそうだ)も納めていたのかもね。

しな布は日本三大古代布(他の2つは沖縄の芭蕉布と静岡の葛布)のひとつで、縄文時代から存在している織物だそうだ。縄文人も着ていた苧麻、赤麻などの麻の仲間から作る布が日本三大古布に数えられていないのは、一般人に普及しすぎていたからじゃないかという。芭蕉布なんか今でも驚くべきお値段だしね…この三種類の布は手間暇もかかるし特別な布だったのかも。

御神木のシナノキの幹には穴が開いており、そこに光が射し込むとハート型に見えるそうだ。パワースポットだそうだ。最近売り出し中なのか、御神木の周りには人だかりでだった。私も穴を探したが、思ったより小さい穴だった。

御神木の奥にもまだお社がある。

奥に見える祠は打ち棄てられているようにも見えるが、そうではなく。お稲荷さんと十二社だった。

十二社はその名前の通り、十二柱の神様を祀った神社。熊野信仰に深く関わっている。熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に祀られる神様が全部で十二柱いて、その神々を勧請した祠だった。扱いが雑だと思ってしまった。

で何故か「どこでもドア」があって(急にある上に何の紹介もない。なにこれ)、他の神様のいるエリアに着く。

奥のお参りされているお社が星乃道神社だ。御神体はロードスターの原形。いつも仕事で行けない軽井沢ミーティングの関係者によりこちらにお祀りされているそうだ。まあどうせ休みも取れないよな、と思って参加申し込みもしてないんだけど(事前申し込みしなければエリアにも入れない)、いつかはあの壮大なイベントに参加したいんだよなー。NAだけでも全体の20~30%いるそうで、それだけでもむちゃくちゃ興味あるんだが。

 

更に奥へ進むと鐘があった。ここから修験道の道場エリアになるのかと思う。

先ほどまでは人もたくさんいたが、鐘を越えてしまうと誰も居なくなった。奥宮まで行ってみることにした。

 

獣道である。

喧噪がどんどん遠ざかっていくが、多分熊は出ないだろう。寒かったので蛇も出ないと思った。

案外簡単に奥宮まで行けたぞ。

鐘を鳴らして下山した。

改めて周りを見ると気持ちの良い緑が広がっている。その辺の山より華やかな気がするのは軽井沢だからなのか。

時間がそれほど経ってない獣の跡もある。

茸も生えてるし!

下山途中で真田社という神社があった。真田幸村が初陣の時に必勝祈願した場所なんだという。他のお社と違い道場エリアにあるので、ひょっとしたらここで修行したのかもしれないな。

怪しい洞とか。

栗とか。

なんかの実があったり。

そうこうしているうちに、人里に下りてくることが出来た。

結局どこでもドアがなんなのか分からず、どこでもドアの周りをウロついたけど分からず仕舞い。あとで調べたらSNS用の映えスポット用として置いただけだそうだ。

 

肌寒くなってきており、さっきまでたくさんいたはずの人間がまばらになっていた。御神木の周りも人が居ない。

自分の御朱印帳を持ってこなかったということもあるが、熊野皇大神社の御朱印帳が大変格好良かったので購入し、御朱印を書いてもらうことにした。待っている間、またしてもウロウロした。

犬を連れている人がやけに多かったが、犬用の施設もあるからだったらしい。今はどこの寺社仏閣も犬連れが当たり前になってしまったが、一昔前は動物を境内に入れることが禁止されていた。ペット霊園が誕生したあたりから神社も犬連れOKの場所が増えたのかなー? こうやって常識が変わっていくのかな、と年寄りじみたことを考えた。

明治天皇も参拝したようだ。やはり、明治の御巡幸道がこの近くにあるんだな。

長野県側の熊野皇大神社・群馬県側の熊野神社双方の御朱印をいただき、神社を後にした。

 

 

★★★★★

歴史ある古い神社なのに映えを意識したり犬OKだったり、私もこういう柔軟な考え方をする人間になりたい。ちなみに熊野皇大神社のHPはドラクエ風だった。宮司の趣味なのか…突き抜けてていいね。

 

 

<熊野皇大神社・熊野神社>

創建年 景行天皇40(110)年

 

 

 

 

 

 

少し前にネトフリ解約したのに、今月下旬にTAKE THATの新作ドキュメンタリーが配信されることを解約直後に知った。マジか。また金払うかー。

大宮神社

もう山もオンシーズンになっているはずだが、熊害で生きて戻れる気がしないので登ってない。つまらん、そして鍛えたい痩せたい。

 

大宮神社。旧森村の(おそらく)村社だったであろう立派な神社だった。

境内の木々を見ただけでも古い神社のように思えるが、昔は「大宮神社」という社号の神社はなかったようだ。以前は違う名前だったのかな。

 

この時期、参拝者が増え始める岡地天満宮が近くにあるようだ。受験生が鉛筆借りに来るで有名。

 

こんな立派な欅並木があるんだから、由緒ある神社だったと思うんだけどなー。

鳥居の扁額も「大宮神社」。こちらは一の鳥居のようで、奥にも鳥居がある。

参道の石灯籠もある。

こちらも何基かあるようだ。

こちらは一部文字が消えて見えなくなってきているが、多分文政3(1820)年だと思われる。200年以上前の灯籠だ。わりと華奢な造りだな。

参道の途中に何かの建物があった。宝物庫? 

平和神社って書いてあった。摂社かな。

入り口の石柱には「大正十四年建設」「大婚二十五年記念」と彫られていた。大正天皇皇后の銀婚式(結婚二十五周年)の記念に建てられた神社のようだ。明治天皇が大婚二十五年祝典を執り行ったことで銀婚式・金婚式のお祝いが一般にも広がり、こうして大正天皇・皇后の銀婚式を各地でお祝いしていたのかもしれない。

二ノ鳥居が見えた。扁額は大宮社のようだ。

こちらの灯籠はさき見た200年前の灯籠よりガッシリしている。こちらは天保14(1843)年。少し時代が下った。

こちらの灯籠は文化2(1805)年に寄進されたもののようだ。最初に見た物より古い。

 

二ノ鳥居をくぐり、ついに本殿へ。

この先は灯籠の他、狛犬もいる。

ちょっとデザインが前より違う気がする。こちらの灯籠には「戦捷祈願」「昭和十三年」とあった。モダンな感じするわ。

こっちの狛犬たちも戦捷祈願とか皇紀二千六百年記念とかなのか。

やはり「昭和十三年」と彫られている。昭和13(1938)年はいわゆる支那事変の最中で中国と戦っていた時期のようだ。まだ第2次世界大戦は始まっていない。

こんな祠もあり、こちらには「昭和四十四年」と彫られていた。小人のおうちみたいななんとも言えないかわいらしさ。

 

御神木という木もあった。

この大木は何度か雷落ちてしまい、無残なことになってしまっている。でも枯れていない。

木の案内板にはいくつか重要なことが書かれていた。

  • この欅は三社合祀される前から存在し、この辺りでも稀な巨木である
  • 樹齢は900年以上

大宮神社は三社合祀されているようだ。

調べると、旧森村の村社だった「大穴神社」「阿賀多神社」「古清水神社」の三社を合祀し「旧阿賀多神社」の境内に改めて建てたものが大宮神社だという。

長野縣町村誌によれば、

とあった。

三社とも御祭神は様々だった。被っている健御名方命が大宮神社での主祭神なのか(元の阿賀多神社では主祭神だな)、本殿の前には御柱が立っていた。

三社を合祀したとあるが、おそらくそれぞれの神社に居たであろう摂社がない。神様達は皆社殿に祀られてしまったのだろうか。

拝殿の裏には、本殿と他に二社あった。この二社が合祀された「大穴神社」「古清水神社」なのかな?

拝殿でのお参りの際に5円玉を3枚入れてしまったのです。三社合祀っていうからさ。

 

天満宮。

祠跡?

大正10(1921)年の石柱。多分電灯が点くやつ。

小さな祠や本殿の背後にあった2つの社殿も実際は何の神様か分からなかった。とはいえ江戸時代からの寄進も多く、社殿が大きく管理も行き届いている。

 


★★★★☆

お参りに来たことは良かったと思っているけど、ヨソから来てごめんとも思った。

 

 

<大宮神社>

創建年 明治時代?