分岐点から砥石城まで15分だという。ぱっと見、緩やかな雰囲気だったので走った。テンションも上がっていたので。
そうしたら意味ありげな石列を見つけた。道に沿って置いてあるわけでもなさそう、規則的にも見えるけど正体が分からず、そのまま先へ。
先にも似たような石列が。
これは一枚の岩盤の先っちょだけ出ているだけみたいな? 出てきた先端部分が浸食されて石列に見えただけのような気がする。
この山から砥石が産出されたので、山や城の名前に「砥石」が入っていると言われる。この石列も砥石を切り出すための跡とかだったりして(それにしては変な場所にあるし、不自然な切り出し方だなと思うけど)。
自然の驚異。ここまで走ったんだけど、ついに私も年貢を納める時が来たようだ。
長い階段である。階段は走れない。膝に来る。
どこまでも続いている…やはり、この城は随分手が入っている。さすが真田家が世に出てくるキッカケとなった城だわ、全国区になったから地元も気合いが入っているようだ。お城は走るもんじゃないって言われた気もする。
ずーっと階段だ。飽きてきた。
階段もそうだけど、景色も良くなくて変わらない。
先も見えないしさ…。などと思っていたら。
岩を削った階段が現れた。さすがに飽きてきただろうかと趣向を変えてくれたようだが。いや、階段に飽きているんだよね…。
少しは標高も高くなってきているだろうか? 下界がどうなっているか分からないが、高そうには見える。
階段もぐんぐん高度を上げているしさ。
ようやく空が見えてきた。感覚的に「やっと」と思った。尾根を走ったせいもある。長かったよ。
下には道っぽいものも見えているが、あれは今まで来た道か? さっきから階段ばかりなのに…古い登山道かもしれないし、山を手入れする人達の作業道かもしれない。どこかで分岐点あれば通ってみたい。
ちなみに地図には登山道はひとつしかないような感じだった。
階段から外れると古い登山道かもしれないが、ちょっと嫌な感じもする。立派なものを造ったのだから、わざわざ古い道へ回る人もいないかもしれないし。
平成28(2016)年なので、まだ10年たっていない。逆に言うと古い登山道が廃止?されて10年近くたっているので危険かもしれない。
長い階段の先にようやくゴールを見いだした。
ゴール!!
砥石城きたよ。古い標識と新しいものが混在している。
この城は元々、真田氏が築いたと言われる。海野平の戦いで負けて主を失い、村上氏が重要拠点として改築した。天文年間に楽厳寺雅方、依田新左衛門、布下政朝らに改修を命じたとされる。楽厳寺雅方は楽厳寺というお寺さんの僧侶だったと言われ、望月氏の家来からスタートし村上氏→武田氏の家臣となった人。楽厳寺は釈尊寺(布引観音)の末寺とされる。
なので、この人の「楽厳寺城」は布引観音の近くにある。楽厳寺ってお寺さんを城塞化したんだろうなって思った。
すぐ近くにある堀ノ内城は布下政朝の居城で、楽厳寺さんと布下さんはご近所・望月家の家臣から武田氏の家臣までずっと一緒、という間柄。仲良かったんだろうね。
茂沢城主・依田新左衛門という人も望月氏に近い人物で、この3人とも望月信雅の家臣であったらしい。望月信雅は天文17(1548)年に真田幸綱の仲介で武田氏に臣従し望月家の家督を継ぐことになった人物。
楽厳寺雅方、依田新左衛門、布下政朝の3名のうち、望月家家臣の家格が高かったのが依田新左衛門さんじゃないかな? 武田信玄が望月信雅宛に発行した所領安堵状は真田幸綱(武田家の使者)から依田新左衛門に託されているので。
依田家は信濃源氏の流れを汲む名家で、旧丸子町に依田城を築いて一帯を支配した一族である。源平合戦の頃に木曽義仲の家臣となり、源頼朝に敗れて勢力を失ったらしい。依田庄に残った一部が飯沼氏を名乗ったようだ。後に鎌倉幕府得宗家の家臣となり、依田庄地頭職を取り戻していた。鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代から室町時代には幕府の要職に何名か名前を連ねている。この頃には幕府要職についちゃう在府の依田氏と地元に残った在地の依田氏と分かれてしまう。在地の依田氏は当時力のあった小笠原氏系の大井氏(佐久が本拠地)の家来になる。そして佐久郡に進出した依田氏系は大地主になったり、松平さんのおうちの家臣になって上級武士で存続していた。
依田新左衛門さんについては、最終的に本貫地である旧丸子町の依田庄にお城を設けることに成功したので、良かったんじゃないかなと思う。その後の動きについては不明。楽厳寺雅方、布下政朝も同じようにいつの間にか消えてしまった。
ベンチめっちゃ置いてある。
この場所だけ平場があるという雰囲気。あとは細い尾根で周りに段郭などもない様子。
見晴らしも良く、上田市街地全部監視下に入るようだ。いいところじゃないか。
ここ本郭にあった説明板によると。
この場所が説明板の文章中にある「砥石城」で、メインは「本城」と呼ばれる部分らしいわ。真田氏本城も、真ん中に「真田氏本城」それを取り囲むように支城をぐるりと配置していたな。初期真田家特有の築城術とかなのかね?
説明板によると、この場所は
- 幅9mの堀切がある
- 本郭は幅20mの方形
だそうだ。やはり眺望がよいとのことで、米山城も合わせて見張り台の役割だったらしい。
本郭の周りは切岸となっているようだ。見た感じも危ない。
天気が良いと富士山まで見えるようだ。ここでも見えるのかよ。それは重要拠点にしちゃうの分かるよ。
ただし今日は見えない。
本城との連絡通路。こちらには9mの堀切があるはず。
降りてみる。虎ロープあった。
看板あった。
堀じゃなかった。
急。梯子かけるのかあ。
9mの堀切はこの先か?
振り返って見たが、やはり「切岸」の看板があるあたりが9mという堀切だったようだ。
本城方面へ。
心なしか、道幅が米山城ー砥石城の区間より広い気がする。物見兵が走りやすいようにでしょうか?
ここから麓の陽泰寺に行けるらしい。
陽泰寺から登ってくる道が大手らしい。
陽泰寺は海野氏の菩提寺だそう。お寺さんのこと調べてみたら、以前珍しい蛇が見つかったという記事が現れた。古刹だし蛇がいてもおかしくないと思うけどさ、蛇怖い。享禄年間(1528~1532)に海野小太郎、龍州玄白が開基となっている。が、海野氏自体は平安末期の「保元物語」に出てくる海野親子から始まり、天文10(1541)年の海野平の戦いで滅亡している。あと海野氏の菩提寺は興善寺が有名。海野小太郎は海野氏嫡男が名乗る通称みたいです(なので誰だか分からない)。菩提寺としては時代的に合わない気がするけど、写真見た感じは非常に立派だった。蛇が出ないなら拝観したい。
陽泰寺がある伊勢山地区が城下町だったようなので、お寺が出来る前は館があったとかかもしれない。
本城方面。郭が目立つ。本城はすぐ近くにあるかもしれない。
ですが午後から用事があるため(この時13時くらいだった)、帰宅します。
さようなら(近々また来ます)。
砥石城が見えてきた。
堀切に到着。
登っていく。
誰も居なかった。
ここも離脱。
時間が勿体ないのでばーっと走った。
石を削って階段にした所。
帰る途中の方が、注意喚起が色々見つかるのね…やっぱり走って帰る人が多いのかな!?
分岐点に到着。
泥濘にはたくさんの足跡が残されていた。
あっという間に櫓門まで来ちゃったよ。
特産の天狗石。砥石城の本郭にあった「富士山見えるよ」って書いてあったヤツにも使われていたな。
どうやら天狗石というのは六角柱状で産出される自然石のことらしい。具体的には柱状節理というものの一部らしい。溶岩が冷やされると五角柱・六角柱の岩が出来るそうで。じゃあどこかに火山があったってことか。柱状節理自体は珍しいものではないそうだ。
ただ規模が大きくなってくると「景勝地」として有名になっちゃうらしい。東尋坊は「柱状節理世界三大絶勝」という世界でも指折りの柱状節理が楽しめる場所になっていたり…。ひょっとしたら天狗石の産出地も火サスの世界観が楽しめるような断崖絶壁の景勝地かもしれないな。
★★★★☆
マニアとかが1度は登りたい城なのか相当人が来ている様子で、荒らされてはいないけど野生感に欠けるというか。
<砥石城>
築城主 真田氏? 村上氏?
築城年 不明