お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

妻科神社

最近は交通事故現場に出くわさないなー事故に遭わないよう念の為、交通事故の動画でも定期的に見ておこうかーとかやっていたんだけど、自転車で転んだ。変な転び方をしたので、両膝・両手・利き手の筋・顔を負傷した。しかも病院に行く途中だった。血まみれで病院に行くと騒ぎになるので、途中の店で絆創膏とか買い込んだわ。クソ。

 

妻科神社、↑こんな感じの「街中にある神社」だけど、実は式内社善光寺三社という由緒ある神社だそうだ。

主祭神は「八坂斗女命」、相殿神として「健御名方命」「彦神別命」。

近隣の学校や商店の幟がたくさん立っている。幟もボロボロのものがなく、新しそうだ。非常に賑やかな神社だよ。

妻科神社という名前の通り、妻を祀っている。主祭神は八坂斗女命で、健御名方命の妻である。よくある諏訪系の神社は健御名方神を祀っているので妻の方が主祭神とは珍しい。

善光寺三社とは妻科神社・武井神社・湯福神社の事を指し、全て諏訪系の神社であるようだ。善光寺周辺の町ごとに氏子が分かれているらしい。この3つの神社には序列がないが、三社の氏子達は同時に城山県社こと「健御名方富命彦神別神社」の氏子にもなっているそうだ。この神社は健御名方神を祀っている。城山県社が三社の上位格にあたる神社なのかもしれない。

「健御名方富命彦神別神社」も式内社であるが、延喜式に載っている神社の所在は現在不明となっている。論社は三社ある。

  1. 健御名方富命彦神別神社 長野市・城山公園の近く「城山県社」
  2. 健御名方富命彦神別神社 長野市信州新町「水内大社」
  3. 健御名方富命彦神別神社 飯山市「五束神社」

この中で一番近くにあるのが、城山公園の近くにある「健御名方富命彦神別神社」。この神社は明治11(1878)年に現在地へ移転するまで善光寺境内にあり「年神堂八幡宮」と称していたらしい。持統天皇5年(691年)に持統天皇信濃国に水内神を祀らせた「水内社」を創建したという記録があるようで。「年神堂八幡宮」は延文元(1356)年成立の書物に「年神堂八幡宮持統天皇が祀らせた水内神である」という記述があるとwikiに載っていた。

2.の神社は信州新町の「水内」地籍にある。

3.がある飯山盆地は大昔「水内海」という名前の湖があったと言い伝えられているそうだ。

それぞれに根拠があるものの、3つの論社のうち一番可能性が高いとされるのが城山公園の「健御名方富命彦神別神社」である。善光寺はこの辺の中心地だし、本来の式内社があそこにあってもおかしくないし、妻科神社から善光寺なんて歩いてすぐだしな。

 

ちなみに、武井神社・湯福神社は式内社ではない。

  • 武井神社 諏訪大社下社の神職だった武井(武居)氏が祀った為、武井神社と称する。武居とは健御名方命が諏訪にやってくる前からいた神だったと言われ、洩矢神と共に健御名方神と戦うが敗れてしまい、従うようになったとされる。元々諏訪大社下社の大祝は金刺氏だったが、諏訪大社上社との抗争の末敗れて他国に逃亡。その後は武居氏が大祝家を継いだ。昔は武居明神などと呼ばれていたそうだ。主祭神は健御名方命、後に八坂斗女命と彦神命も合祀された。
  • 湯福神社 善光寺開祖の本田善光の墓がある(大正時代に宝塚と呼ばれる石室から人骨が発見された)。湯福神社の「ゆふく」とは「いふき(息吹)」が訛ったものとして説明されているらしい。御祭神は健御名方命例大祭には湯立神事が行われる。境内には樹齢600~900年の欅3本がある。武井神社とセットで紹介されることが多い。

長野市誌には、この二社を諏訪大社下社と模したんじゃないかな? という記述があった。面白いので善光寺三社と城山県社の配置も見ていたら、見事に善光寺を囲んでいた。善光寺を中心にした御柱じゃないかー。

善光寺三社と城山県社は持ち回りで御柱をやっているらしい。7年に1度四社のうちどこかが御柱やってる感じ。

 

昔は善光寺も別の場所にあって、現在の仲見世の辺りだったらしい。

城山県社はもと本堂の北側にあった年神堂を移転したもので、善光寺大本願歴代上人様のお墓や徳川家の廟がある。善光寺の移転前も本堂の北側に年神堂があったそうで。善光寺の守護として置かれていたようだ。鬼門除けなのか。

諏訪信仰っぽいね! って指摘する人も多いようで、検索したら論じるトンデモっぽい感じのがいっぱい出てきて嬉しくなった。

 

妻科神社は他に論社もなく、式内社として確固たる地位を築いている。見た目は雑だけど。

雨だったが、少し人の出入りがあるようだ。

境内はこんな感じだった。

妻科神社の扁額。揮毫したのが陸軍大将・大迫尚道という人だ。大迫氏は梶原景時の子孫を称している。
調べて見ると、この人は幕末生まれの旧薩摩藩士。士官学校在学中に起こった西南戦争に追討軍として従軍、専門科は砲で参謀本部所属→ドイツ留学→駐在武官日清戦争日露戦争(旅順攻囲戦に参加)というエリートだった。最終的に陸軍大将まで出世したのが大正4(1915)年、大正8(1919)年に予備役に回ったようだ。大正24(1924)年退役。扁額は大正4年~8年の間に書かれたようだが、経歴上で妻科神社との関わりはなさそう。

この人は日蓮正宗新興宗教(たぶん国柱会?)の大日本救世団という団体設立に関わっている。団体設立は大正8(1919)年5月31日ということだが、設立式で講演した人がしゃべっていたら天啓を受けてヨガの団体を作っちゃったという話も伝わっていてカオスだよ。こういう思想団体設立が軍人・ジャーナリスト・文化人の間で流行っていたらしい。信奉する団体とは教義が違う、自身に余り関わりのない田舎の神社の扁額を揮毫するかな?と思うし、どういう経緯で話を大迫尚道さんに持っていたのか興味あるよ。

境内は拝殿・本殿ともよくある感じで、普通。周りも普通な感じ。

百度参りの石にも諏訪系の証、梶の葉紋が。

妻科神社は明治6(1873)年当時郷社だったが、昭和6(1931)年に県社に昇格した。その記念に建てられたであろう常夜灯。

境内いろいろ↓

天神社と石仏達。

地区の育成会五〇周年記念の豊後梅。

筆塚。元は近くにあった「中央院」という修験道のお寺にあったものらしい。明暦元(1655)年にできたという中央院は江戸時代まで存続し、寺子屋を開いて地元の子供達に読み書きを教えていたが、明治に入り明治3(1870)年に出された神仏分離令により明治11(1878)年についに廃寺となった。廃された中央院は地蔵の首を折られたり、破壊の跡も見られたそうで。

明治8(1875)年に寺子屋で学んだ塾生達が中心となり、筆塚を建立したようだ。

石碑・石塔。常夜灯の類いはたくさんあった。すべてが妻科神社由来のものではないのかもしれない。中央院の碑など関わるものは子孫が大切に保管していると説明板に書かれていた。

この辺りはひょっとしたら中央院関係の石仏なのかもしれない。
そうすると、ちょっと摂社少ないのかな? とも思ってしまう。式内社というには一緒に祭られている神様の数が少ない印象。

 

幹の太い御神木みたいな木はけっこうあった。

雷が落ちたそうだ。中が空洞だった。



比較的新しい、こういう記念碑↑は目立つ。

そのせいで、式内社っぽい雰囲気じゃなくなっているのかもしれない。

境内の説明板には善光寺との関係を示すものがあった反面、式内社であると書かれたものは入り口の標柱だけだった。妻科神社が善光寺より古いかどうかは分からない。ひょっとしたら善光寺より新しいかもしれない。
善光寺を守る形で諏訪の神様を配置したかもしれないしね…。

 

★★★★☆

式内社としての格式?みたいなのが感じられないが、地区で大事にされているという雰囲気があった

 

 

<妻科神社>

創建年 不明

御祭神 八坂斗女命

 

 

 

善光寺、開祖が本田善光という民間人とされているが。現在は「百済王善光」という百済から亡命してきた王族の人説が有力になっているらしい。確かに、古代の一民間人にお寺を建てる能力がなさそうだしな。百済王善光は人質として来日したが、白村江の戦いで帰国出来なくなり、最終的に難波の誉田(ほんだ)という場所に住んだので、ほんだ善光と名乗ったとも言われる。古い時代の善光寺縁起には本田善光の名前は出てこないそうだ。百済系の人々とお寺を建てた信濃国の豪族が所縁のある「百済王善光」に因んで善光寺としたのではないかという説があるらしい。