お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

治田神社(上宮)

ちょっとした山に登りたいと思いつつ。今年は熊害多いよなーコロナ明けで狂ったように行事やるなー等々、雑務や子供の行事で時間潰されまくった。11月も子供の行事で忙殺される。物忘れが酷く記憶がぽろぽろとこぼれ落ちてしまい、年を取った実感わいてきてるわー。少し長めに寝たら治るんだろうか。

 

そんなこんなで隙間時間で人里近い神社を巡っているだけの人になってしまった。熊が怖いしね!

治田神社は古く、延喜式内社だという。

上宮と下宮があって、まずは上宮に行ってみた。下宮には以前行ったことがあったけど、上宮は初めてだった。
下宮に比べると小さく、田舎の鎮守社という雰囲気。

境内の説明板には、

御祭神

 

由緒

・治田山(篠山)に創建される

彦坐命の子孫である熊田氏は「治田連」の姓を賜り、近江国から当地へ移住した

先住民達と共に当地を開拓し、治田山(篠山)に祖先神である彦坐命を祀り、この地を治めた

・延長5(927)年、延喜式内社治田神社となる

延長5年完成の「延喜式神社名帳」に記載された

・治田山(篠山)から現在地に遷座する

永享の乱(1438年)以降、地元の豪族・桑原幸光により遷座

同時に健御名方命と八坂刀売命を勧請合祀し、「諏訪大明神」と称する

天明2(1782)年、名前が戻る

元の名前に戻すため、寺社奉行に申請し京都の吉田家の認可を受けた

・明治6(1873)年、郷社となる

それまでの村社から郷社に昇格した

一の宮と称され、人々から篤く信仰された

・昭和46(1971)年、火災により社殿焼失

昭和49(1974)年に、氏子の浄財により再建された

 

治田山という名より篠山の方がメジャーらしい。治田神社の背後の山らしいが。

 

どれかなー? 一番高く見える山かな?

長野市千曲市の境界になっている山だそうで、小坂山を越えていくとあるらしい。登山道はあるようで、わりと登る人も多い山のようだ。

 

開化天皇の第2皇子(wikiだと第3皇子)という彦坐命(日子坐命)の子孫が山に祖神を祀ったというのが最初だそうで。この彦坐命という人の業績について古事記によると、崇神天皇10(紀元前88?)年に「四道将軍」と呼ばれる4人の将軍が日本を平定するために各地へ派遣されており、そのうちの一人らしい(日本書記では、彦坐命ではなく、子の丹波道主命とされている)。

彦坐命の業績は日本書紀にほとんど載っていないが、古事記には系譜が詳細に残されている人物だという。それは多分、彦坐命の子達が天皇暗殺を企てたとか、彦坐命の子孫の一人に神功皇后がいるし、景行天皇の母方の曾祖父にも当たる人がいるとか、子孫に重要人物が多いからだと思った。

 

まず成務天皇の時代に彦坐命の三世孫である大陀牟夜別が淡海国(近江国)の国造に任命される。栗太郡内に治田郷(読み方はハッタらしい)がある。七世紀頃はこちらに子孫が居住していたとか。

彦坐命の四世孫が(北蝦夷?の討伐による)戦功により近江国浅井郡に土地を貰い移住し、その子孫である熊田氏や宮平氏という人達が「治田連」という姓を賜ったらしい。

 

また、岐阜県岐阜市に彦坐命(日子坐命)の墓がある(これは明治時代に宮内庁が認定した陵墓)。その隣に式内社の伊波乃西神社がある。元は彦坐命の墓に伊波乃西神社があったそうで、明治8(1875)年に彦坐命陵墓と認定されたため立ち入り禁止となってしまったためにやむなく現在地に遷座したそうだ。

 

彦坐命を祀る神社は他にもある。

三重県「賀毛神社」

  御祭神 彦坐命、相殿神は子孫の鴨県主治田連命

 近江国から移住してきた治田連の子孫が祀ったものが始まり。鴨県主は山城国から移住してきた、同じく治田連の子孫。

 

京都府「竹野神社(斎宮いつきのみや)」の摂社である「斎宮神社」

  御祭神 彦坐命、竹野媛命(開化天皇妃)、建豊波豆良和気命

竹野神社は開化天皇妃だった竹野媛命が晩年創建したと言われる。御祭神は天照大御神。摂社の斎宮神社には彦坐命も祀られているが、彦坐王の母は竹野媛命ではないという複雑さ。もう一柱の建豊波豆良和気命も開化天皇の子だが、母は竹野媛命ではない。彦坐命と建豊波豆良和気命は異母兄弟で、二人とも庶子。竹野媛命自身の子(第一皇子)もいたようだがこちらは何故祀られていないんだ…? とはいえ、竹野媛命は父が丹波県主という丹波の豪族で、彦坐命の息子とされる丹波道主命は竹野媛命の孫という説もある。

竹野媛命の子は比古由牟須美命(彦湯産隅命)という人。 比古由牟須美命→大筒木垂根王迦具夜比売命垂仁天皇妃)と繋がり、名前の通り迦具夜比売命竹取物語かぐや姫のモデルと言われている。ちなみに求婚した5人の貴公子も3人が実在・残りもモデルだろうと言われる実在の人物がいる。5人が生きた時代が奈良時代初期なので、竹取物語の舞台は奈良時代とも言われているし、竹取物語「竹」も祖である竹野媛命から連想されたとか…個人的には竹野媛命と彦坐命が夫婦で、その子が比古由牟須美命(彦湯産隅命)だったりしてね、と思っている。彦って字が付いてるし。

 

滋賀県「佐波加刀神社」

  御祭神 彦坐王と7人の子(大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遅比売王、室毘古王)

7人の子は2人の妃(山代之荏名津比売、沙本之大闇見戸売)から生まれた。2人の妃はそれぞれ山代(京都府南部)、大和(奈良県の大和盆地北側)に拠点を持つ一族出身。この中で最も有名なのが沙本毘古王。この人は同母妹で垂仁天皇妃の沙本毘売命に垂仁天皇暗殺を頼み、失敗して二人で自殺する。その後沙本毘売命の遺言?で、垂仁天皇に彦坐命の孫に当たる4姉妹が妃に迎えられている。4姉妹の他に迦具夜比売命かぐや姫のモデルと言われる)もいるよ。

 

岐阜の伊波乃西神社も含めて、すべて式内社であるという。丹波国も彦坐命の勢力下らしい。古代に大変な勢力を誇った一族なんじゃないかねー? 天皇にガンガン子女を入内させているなんて、なかなかな一族じゃなかろうか。上記の式内社以外でも彦坐命とその子孫に関連があるとされる社がいくつかあった。

 

一説によると、治田神社は雄略8(463)年に創建されたという。

雄略天皇は中国の元号の昇明2(478)年に皇帝へ上表文を送った倭王武だと言われている。実在したと言われる最古の天皇でもある。宋の順帝宛てた上記の上奏文には「倭国内を統一した」という内容が含まれている。雄略天皇の時代に盛んに討伐が行われていたようなので、彦坐命の子孫が戦功で近江国の土地を下賜された時期もこの辺りなのかな?

開化天皇自体が実在怪しまれているが、次代の崇神天皇は実在が有力視されている(最初の天皇ではないかと言われている)。崇神天皇の兄弟にあたる彦坐命とその一族も実在しているのかな? 崇神天皇は3世紀後半~4世紀前半(250~350)に在位したと言われ、その頃には大和盆地に初期の前方後円墳たちと纏向古墳が大和盆地に出来、初期の大和政権が出来たと言われている。なので、日本建国の初期メンバーに彦坐命一家がいて、その子孫が治田神社の関係者なのかもしれない。わくわくするね!

ちなみに日本書紀の記述と西暦を当てはめていくと、崇神天皇の在位は崇神天皇元年(紀元前97年)~崇神天皇68(紀元前30)年、次代の垂仁天皇の在位は垂仁天皇元年(紀元前29年)~垂仁天皇99年(紀元70)年とされている。崇神天皇は120歳、垂仁天皇は140歳で崩御していることになっており、この辺の天皇は超長命(奈良時代の庶民の寿命は30歳と言われている)。中国や朝鮮の古い文献・碑文と日本書紀天皇の業績年表が一致してくるのが5世紀頃らしい。

 

土塁が盛られている。

祠はたくさんあったが、石碑は1基しかなかった。郷社なのに珍しい。

ここの地元の名士の碑のようだ(明治生まれで桑原村議会→稲荷山町議会でずっと議員やってきて地域の発展に寄与したので、昭和33(1958)年に稲荷山町議会で建てたようだ。桑原村は昭和30(1955)年に稲荷山町と合併し稲荷山桑原町に、合併半年ほどで稲荷山町と名称変更、稲荷山町は石碑を建てた翌年の昭和34(1959)年に合併のため消滅し更埴市が発足している)。


寄進された灯籠。寄進した年は分からず、風雨にさらされたのか、文字が読めない。古いのかな?

社殿。いかにも昭和の、彫刻とか装飾は必要ないよねって感じの。

長野縣町村誌によれば、

  • 郷社で、祭神は健御名方命・八坂斗女命と保食神
  • 昔は治田山に鎮座していたが、現在地へ遷座している
  • 治田連は開化天皇皇子の彦坐命の末裔というが、筑前国御笠郡治田宿治田神社の天穂日命という説もある
  • 天文年間(1532~1555)に再建されている
  • 元禄15(1703)年にも再建されている
  • 修復は元文5(1740)年、宝暦8(1758)年に行われている
  • 明和8(1771)年、境内の西方にあった槻の老木が倒れたため、祠などを損壊したが、再建された
  • 寛政元(1789)年、祠殿を造営
  • 文化12(1815)年、拝殿を再建
  • また祠等は壊れちゃったりしたので、文久元(1861)年に本殿や拝殿を再建した
  • 明治6(1873)年、郷社になった
  • 当初は治田連が管理していたが、やがて桑原氏に代わったので、この辺りを桑原郷と改めた
  • 治田神社は桑原郷の産土神でもある
  • 時期は不明だが下宮ができたため、村も桑原村・稲荷山村に分かれた
  • 上宮(当社)は桑原村の産土神、下宮は稲荷山村の産土神である
  • 近隣の人々からは一の宮と呼ばれて崇敬を集めた

とあった。

 

筑前国御笠郡治田宿治田神社というのが分からなかった。あるのかなー? 天穂日命は「アマテラスとスサノオの誓約」という出来事があり、その時生まれた五男三女神のうちの1柱らしい。五男は天照大御神の子で、三女は素戔嗚尊の子だという。天穂日命天照大御神の次男という。この人は天照大御神の命で葦原中つ国へ侵略しに出かけたのに、葦原中つ国の主・大国主命に心服しちゃったという神様である。故に他の神様が葦原中つ国の平定に成功すると、天穂日命大国主命に仕えるようにと言われ出雲大社の祭祀と出雲国造となったそうだ。天穂日命の子孫は出雲大社宮司家の他、最古の相撲の試合で勝った野見宿禰菅原道真大江千里和泉式部赤染衛門大江広元等の大江一族→毛利氏といるみたい。

 

永享の乱(1438年)は関東地方で起きた内乱である。鎌倉公方関東管領との戦争で関東管領が勝ったようだ。その頃から治田連に代わって桑原氏が当地を治めたとされる。桑原氏は佐野山城を築いた一族。永享12(1440)年の結城合戦には信濃守護の小笠原氏に従って参加したとされている。保元元(1156)年に起きた保元の乱を描いた保元物語などに桑原氏は諏訪武士として現れているそうで、どうやら諏訪氏の庶流らしい。時代が下って、諏訪から移住してきたのかなー?

どちらにしろ、桑原氏がこの辺りを治めるようになってから治田神社の御祭神に健御名方命・八坂斗女命も祀るようになったらしい。もし桑原氏が諏訪から移住してきたら自分たちの氏神様を祀っているわけだし、変じゃないのかも? 神社を乗っ取った感もあるよ。

神社的には「甲斐の武田信玄信濃に侵攻してきたので、戦火を逃れるため武田信玄が信仰している諏訪神を祀る神社として社名を諏訪大明神に改めた」ともしている。結果的に諏訪の神様を祀っておいて良かったね、という話かー。

近隣からは「一ノ宮」と呼ばれていたらしい。でも千曲市内には武水別神社という大きな神社がある。武水別神社を差し置いて、何故一の宮とか呼ばれているんだろうと思った。

  • 治田神社上宮を一ノ宮
  • 治田神社下宮を二ノ宮
  • 長谷神社(長野市長谷寺近くの長谷神社下社)を三ノ宮
    長谷神社も式内社である。 長谷神社は上社・下社と分かれており、上社は長谷寺境内にある。恐らく上社が式内社で、下社はそこまで古くないのかもしれない。下社はかつて諏訪大明神と称していたそうだ。上社の御祭神は八聖神。下社は長谷郷の産土神とされた。天保7(1836)年に長谷神社下社と改称している。
  • 御林の諏訪社(たぶん長野市篠ノ井の中郷神社)を四ノ宮
    長野縣町村誌によれば、中郷神社は村上天皇の子・為平親王の神殿とも云われる。 隣接して為平親王陵と称する古墳がある=中郷神社前方後円墳だが、長野縣町村誌の塩崎村編纂者すら為平親王陵ではなく別の高貴な人物の墓だろうと書いてあった。 為平親王はこの地を支配した村上氏の祖であるという。 この近辺というと村上源氏が有名で戦国時代は領主様だったのだが、平安時代末期に豪族・二柳氏とその分家の夏目氏はwiki(夏目氏の項目)によれば清和源氏だそうな。系図をちょっと遡ると源為邦という人物が河内源氏の庶流である頼清流村上氏より養子に入ってきたそうで、源為邦は為平親王の子・源(村上)憲定の娘婿となり村上氏を名乗ったとも言われるが、説としては弱いものらしい。ただし、源憲定の弟の源頼定の子孫に夏目氏初代の夏目国平のパパさんと同名の国忠という人物がいるし、これは養子キテル?などとも思ったりする。そうすると夏目氏は為平親王の子孫ということに。源頼定枕草子にも登場し、イケメンの代表と称されている。それ故か、女性スキャンダルを起しまくっている。夏目氏は神社がある四之宮の隣、石川村を領地としている
  • 石川布制神社(長野市篠ノ井石川の布制神社)を五ノ宮
    長野市篠ノ井には「布施神社」が四社ある。 そのうちの1つが石川布制神社だが、この神社は江戸期に「諏訪大明神宮」と称していたそうだ。布制神社は延喜式内社の古社であり同名社のうち三社が「ウチです」と主張しているようだ。しかし式内社としては布施五明にある布制神社が紹介されていることが多い。そして布制神社の主祭神大彦命。彦坐命の伯父?に当たる。古代に四道将軍に任じられた日本建国に関わる人。その大彦命の子孫として最も有名な氏族が阿倍氏である。政府高官の他、阿倍比羅夫など軍人も多く日本各地に氏族が散っていったそうだ。古代の篠ノ井周辺を掌握していた豪族は大彦命後裔の布施氏だったという。古代の将軍・阿倍比羅夫阿部一族のうち「引田臣」という一族を率い、その引田氏と対立したのが「布勢臣(布施氏)」である。ちなみに竹取物語に出てくる阿倍御主人は布勢臣の出身者で、阿倍氏氏長者になった時に阿倍姓となった。石川布制神社は石川廃寺の跡地に建てられたと言われ、神社付近から基礎などが発掘されているそうだ。

つまり諏訪大明神関係の五宮ということのようだ。なんでそう呼ばれたのかの経緯は分からなかった。

 

天明2(1782)年に諏訪大明神から治田神社と名前が戻されているが、この年から天明の大飢饉が始まっており、それに関係して戻したのだろうか。この地区も飢饉の影響なかったはずないし、飢饉になったのは元の御祭神が怒っているとか思ったのかな?

 

誰も居なかった。静かな神社。

さっそくお参りですよ。扁額は妙に綺麗だった。

古社のはずなのに、そんな雰囲気ないのは社殿が新しいからかな?

摂社。特に案内はなかった。デカいのはなんだろう? 帰宅後調べたところ、杵築社というらしい。出雲大社の別名である。健御名方命の父親・大国主命が御祭神。

小さな祠達を従えているようにも見える。祠が載っている土台がなんとなく昭和っぽいので、もしかしたら大きめの社の周りに集めようとあちこちから遷座してきたのかもしれない。祠も綺麗なものから少しくたびれたものまで、年代がバラバラっぽい。

杵築社は以前から鎮座していたのかなー? 基礎が違う。

 

神社の裏手。

境内は木々も多いんだが、意外なこと?に幹が太い「いかにも」な木が少ないのだ。

鳥居の傍にあった太い木以外は若そう。江戸時代に本殿・拝殿・祠等が結構な勢いで壊れていたけど、ほとんどの原因は「老木が倒れた」なのかな? 壊れすぎじゃね?と思ったんだよ。

 

★★★☆☆

古社の威厳が薄い感じ。何故か竹取物語に関わる事柄が多い理由は子供が「かぐや姫の劇をやる」というので、話の内容をお復習いしたせいである。

 

 

<治田神社>

創建年 不明