お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

皇足穂命神社諏訪社合殿

長い名前の神社で、「すめたるほのみことじんじゃ すわしゃ あいどの」と読むようだ。皇足穂命神社と諏訪社が合併したということかな。


延喜式に白玉足穂命神社という神社の記載があるが、その論社のひとつである。他は長野市にある吉田神社と飯縄神社と皇足穂命神社(信州新町)。

飯縄神社は全国の飯縄社の総社であり、飯縄山山頂に270年ごろ大戸道尊という神様を祀ったことが起源と言われている。wikiによると大戸道尊は神代七代の神様たちのうち、第5代のオオトノヂ男神)・オオトノベ(女神)のオオトノヂのことだという。オオトノヂ飯縄権現と称し祀った山岳信仰の神様。飯縄山山頂の社を奥宮、麓に里宮がある相当古い神社である。

 

白玉足穂命神社という名前の神社が存在せず、正直4つの論社どれも違う可能性あるよなーと思う。本当の神社は消滅しちゃっているかもしれない。白玉足穂命も皇足穂命も神名(人名?)だろうし。

皇足穂命神社諏訪社合殿のうち、皇足穂命神社の御祭神は、

となっている。

 

ちなみに吉田神社の御祭神は天照大御神豊受大御神、飯縄神社の御祭神は飯縄権現保食神信州新町の皇足穂命神社は瓊瓊杵尊。見事にバラバラ。

世間的には「白玉足穂命神社=飯縄神社」ではないかと言われているようで、明治6(1873)年に飯縄神社の奥宮・里宮共に皇足穂命神社という神号を得ている。飯縄信仰も相当古いしね。

 

ただ、他の神社もそれなりに古かったり由緒あったりするようだ。

吉田神社の辺りには古い時代の御牧が置かれて昔から人が住んでおり、文政2(1819)年に皇足穂命神社という社号をもらっている村社である。移転しており、元の社地は現在地から1kmほど離れた所。

 

吉田の大銀杏が御神木だったと言われている。お引っ越しした際に近隣の神社も全て連れてきたそうで、摂社はかなり多い。古い名前が分からない(どうせ吉田神社とか大神宮辺りじゃないかな?)が、引っ越しエピソードを考えてもこの辺りで最も御神徳が大きい神様だったのかなと思う。

 

中条村も古い時代から人が住んでいる。旧中条村(旧栄村)は中条村日高村・住良木村が合併して出来た村で、住良木は皇という字に変換出来る。神社がある辺りは「宮」という地名で、皇足穂命神社諏訪社合殿は周辺の村々の産土神、郷社という格である。安永2(1773)年に神号を受けた。神号を受けた順序は中条→吉田→飯縄なので、名前だけでいうと一番古いのが中条にある皇足穂命神社。安永2(1773)年以前は諏訪大明神と呼ばれていたらしいが、更にその前は皇足穂宮と呼ばれていたと伝わる。

 

信州新町里穂刈にも「皇足穂命神社」があるが、元は皇足山に瓊瓊杵尊を祀った神社だそうだ。江戸時代には名前を変えており、穂刈神留神社と呼ばれていた。明治26(1893)年に旧称である皇足穂命神社に改称。山が御神体という意味では飯縄神社並みに古そうだ。

 

ということで、どれも古そうだなと決め手に欠けるというか確定しないらしい。昔に戻る技術があれば、こういう話もすぐ分かっちゃうのになー。早くタイムマシン開発してほしい。

 

皇足穂命神社諏訪社合殿の駐車場。

田んぼが広がる。民家は点在している。

玉垣も立派よ。

「郷社」の上の部分、何か書いてありそうな気もするが分からないや(他人のブログの写真を漁ってみたが、どうやら「延喜式内」と書いてありそうな気がする)。

鳥居と社殿。

奥に見える拝殿は1つだが、その先の本殿で「皇足穂命神社」(東宮)「諏訪社」(西宮)とそれぞれ分かれているという。二社の本殿も覆屋で見えないのでよく分からん。

皇足穂命神社本殿は舞良戸式両開き扉、諏訪社本殿は両開き板戸とあるが、大体似た感じの様式のようだ。長野市文化財サイトの画像見ると朱くベンガラが塗ってあるっぽい。そのサイトの説明には「寛文5(1665)年火災のため焼失し、寛文10(1670)年再建したと伝わる。皇足穂命神社本殿に続き、諏訪社も再建されたと考えられ、両宮とも寛文頃の特徴をよく残してある」と書いてあった。ただし当時は諏訪社の方が格上だったらしく、皇足穂命神社は本殿のみ、諏訪社は祝詞殿兼拝殿なども付随してあり、どこかのタイミングで皇足穂命神社<諏訪社と立場が逆転していたようだ。

 

皇足穂命神社の御祭神は倉稲魂命という農業の神様というか、お稲荷さん。そこに気長足姫命と誉田別命も合祀されている。

接点のない神様だが、神功皇后(気長足姫命)の三韓征伐の際、神功皇后信濃国一ノ宮である諏訪大社を訪れ、その時にたまたま出仕していた神官が諏訪大社の御神木を移して祀った(西宮・諏訪社の起源)という伝説が残っているからだという。それで神功皇后(気長足姫命)と子の応神天皇誉田別命)も祀ったというが、神功皇后って熊襲征伐(九州)からの三韓征伐なイメージが強くて、諏訪まで来るような暇があったかちょっと気になる。あと約25kmほど離れた治田神社の御祭神の子孫が神功皇后にあたるので、ひょっとしたら何かしらの縁もあったかもしれないが…昔の伝承って謎なのあるよねえ、早くタイムマシン開発して!

 

諏訪社は健御名方命事代主命。これは神功皇后応神天皇が皇足穂命神社に祀られた経緯で分かるように、皇足穂命神社より後に出来た、相殿神のような立場だった。

天文2(1533)年、地元の豪族・春日氏(この一族は越後国春日山から来たので春日氏と称していたという。周辺の村々を代々治めていた。元は坂城の村上氏配下だったが、天文22年に村上氏が武田氏に敗れたため武田氏に従っている)が社殿を修復したとある。この時期に諏訪社の立場を上にしてしまったかもしれない。治田神社方式で「甲斐の武田軍が侵攻してきた→神社が燃やされないように信玄が信仰している諏訪大明神のお宮にしよう」ということで戦国時代から諏訪社メインになったのかもしれない。江戸時代には「諏訪大明神」と呼ばれる。

 

鳥居の前は広場になっており、筆塚とかあった。

顕彰碑は字読めない。

何か面白い配置になっている。祠が鳥居の外とは。

杉だッ!!

拝殿。諏訪社を示す梶の葉の紋が見える。

お参りをしました。

諏訪社の祝詞殿兼拝殿は弘化4(1847)年の善光寺地震で崩れ、安政4(1857)年再建された。

善光寺地震では中条村周辺も、五十里という地区で山が崩れて土尻川が堰き止められ、五十里より上流側の村々が水没した記録がある。

善光寺地震の報告書のひとつで、松代藩士が残した「むしくら日記」という書籍がある。この書籍のタイトルの「むしくら」とは中条村のシンボルのお山である虫倉山周辺の被害が大きかったし、震源地は虫倉山かなー?とちょっと思ったから、という理由だそうで。拝殿の再建まで10年かかっている、生活再建も相当な時間がかかっていたかもしれない。

 

御神木?と何かの碑がある。「皇紀二千六百年境内拡張記念碑」とあった。昭和15(1940)年の皇紀2600年記念行事の一環で境内を整備していたらしい。狛犬や鳥居もこの時に造られたのかな?

境内、獣の足跡とても多かった。周りに民家も点在しているのにね…猪かしら?

今年、存在感を増した熊か?

社殿の奥にも何か鳥居がある。ちょっと不気味。
子安荒神社。

なんか怪しいが、行ってみよう。

鳥居の入り口にある古ぼけた案内板には、どうやら子安荒神社の由来が書いてあるようだが?

  • 御祭神 奥津日子命・奥津比売命
  • ご利益 かまどの神・安産の神
  • 戦国時代の坂城城主、村上義清の奥方、加治の方(文章の内容から正室の小笠原長棟の娘と思われる)が難産となり村山子安荒神長野市)に祈願したところ、男子が生まれた。この男子(源吾)が後の村上国清である。
  • 跡継ぎの男子が生まれたことに喜び、城主(義清)が村山子安荒神を篤く信仰した
  • 中条平の先人がそんな村山子安荒神を勧請したと伝わる

 

この子安荒神は中条平に住むすべての人を見守り、子のない人には健児を与えるとされる。また、村山子安荒神様だけでは片参りになるとも言われる。

 

村山子安荒神というのは、恐らく長野市篠ノ井布施村山という地区にある三宝寺(荒神堂)のこと。このお寺さんには三宝荒神と子安大荒神の二体の仏像が御本尊となっている。三宝荒神行基の作と伝わる、村上義清の念持仏だった。奥さんの出産時に熱心に祈っていたところ、息子が生まれた。そして息子の夜泣きが酷いので困っていたところ、ある夜急に静かになった。息子を見たら知らん女が授乳し、あやしていたというので驚き、「あの女性は三宝荒神だ」ともう一体仏様を造らせた。それが子安大荒神村上義清が戦争に負け、新潟へ落ち延びるときに仏様を川中島にあった蓮香寺に預けていった。その後、やはり蓮香寺も戦火を逃れて疎開することとなり、篠ノ井山布施という山の中に10年いた。疎開から戻ることになったが、10年間に三宝荒神・子安大荒神の人気が爆発してしまい、荒神さまを現地に残して欲しいという要望が多数来てしまう。荒神堂を建て、蓮香寺は川中島の元あった場所に移転したという。

子安大荒神は旧国宝→国重要文化財の指定を受けている。胎内から村上義清直筆の日付入り書き置きが見つかったからかな?

 

三宝荒神は日本特有の仏様。聖徳太子の言葉「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」の三宝を守る仏様として発展したという。火と竈の神様でもある。源頼義が康平6(1063)年に前九年の役を勝利した記念に鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)と大宮八幡宮(東京都杉並区)を建立した時、三宝荒神も一緒に祀ったらしく。それを考えると平安時代後期には知られた神様だったかもしれない。とはいえ行基はその仏像を作ってないと思います。

 

こちらも覆い屋で保護されていた。入り口が絶妙に暗かっただけで、鳥居を潜ってしまえば普通の神社だったよ。

東宮・西宮の覆い屋。覗くこともできそうな気がするが、ちょっと出来ないよねえ。

 

御大典で杉を植えたのか。5年前かと思う。杉は植えないでほしい。

 

 

★★★★☆

地域を見守る親しみある神社という感じだった。

 

 

<皇足穂命神社諏訪社合殿>

創建年 不明

 

 

 

 

 

やだ長船派に好きな声優さん集結してる

福島も報酬で来るしがんばろー(今やっと1万ちょい集めたぐらい、先長過ぎ)