お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

笹焼神社

ついに青崩峠のトンネルが開通した! というニュースを見てしまい喜ぶ。

そういえば稲荷山のトンネルはいつから通行可なんだろう(こっちは貫通したのが2018年)と思い切って工事現場まで行ってみた。絶賛工事中だった。バイパスに繋がるトンネル前後の道だってそう距離はないんだけど…水田跡の発掘調査やったりしてたせいかな?

 

その近くにある笹焼神社。変わった名前だ。

案内板によると、だいたいこんな感じ?

  • 「笹焼」という字地にあるから笹焼神社
  • 郡(地区名)の産土神
  • 古代は笹など生い茂る薮を焼き払って農地としたため、開拓神ではないかとも言われている
  • 御祭神は瀬織津姫
  • 瀬織津姫命は、明治41(1908)年に書かれた由緒書によれば、天照大御神の御分霊であるという
  • 寛政6(1794)年、和田宇右衛門により社殿が建てられた
  • 当時の春季祭は八幡宮(武水別神社のことだと思う)と同日であったが、現在は別日に行われている
  • 火災に遭ったため、明治17(1884)年現在地に移転
  • 以前は別の場所にあり、神楽が矢崎山にある天神社に奉納されていた
  • 同名の神社は少なく、善光寺7社のひとつ「左喜焼神社(現 柳原神社)」の神様は笹焼明神と呼ばれた
  • 修那羅山の石仏群の中には「ささやき明神」と彫られた石仏が安置されている

 

難解(とっちらかっている)な文章だが、武水別神社(八幡宮)の分社を匂わせる内容だと思った。

 

武水別神社の御祭神は

となっている。御祭神が違う。

 

笹焼神社の御祭神、瀬織津姫命は古事記日本書紀に出てこない神様だそうだが、案内文の通り天照大御神に関係した神様。伊勢神宮内宮にある荒祭宮に祀られている天照坐皇大御神荒御魂の別名とされている。

荒祭宮は別宮であり、主祭神に準じた神様なので当然内宮の境内社の中では序列第1位。字面的にも天照大御神と同一人物な感じなのに分けている理由は不明。色々な説があるようだが、和御魂(正宮)と荒御魂(別宮)を分けてお祭りするほうがより丁重であると言われているらしい。この二つは神道における「神様の二面性」を示し、和御魂は穏やか・平和な、荒御魂は猛々しい神威を示す、という感じ。

 

瀬織津姫は祓戸四神の1柱ともされる。

祓戸四神は、

  1. 瀬織津姫(穢れを川へ洗い流す)
  2. 速開都姫(川の河口で待ち構えており、流れてきた穢れを飲み込む)
  3. 気吹戸主(速開都姫が飲んだ穢れを根の国へ流す)
  4. 速佐須良姫(根の国に持ち込まれた穢れを持ってウロウロするうちに穢れが消える)

というリレー方式で、この世の穢れを異世界へ放り込んで消すお仕事をしている。

案内板の文章から妄想すると、武水別神社で出たゴミをここで燃やしたりして浄化させる神社なのかねー?

ちなみに、文章中に出てくる「左喜焼神社(現 柳原神社)」は善光寺で出た注連縄などを燃やしたので「笹焼神社」「笹焼大明神」とも呼ばれたそうだが、祀られている神様は健御名方命と少名彦命で旧称は諏訪大明神だったようだ。

 

矢崎山というのは、笹焼神社すぐ近くの小高い丘?のことらしい。

階段を登ると、頂上付近には祠があるそうだ。尾根伝いに隣の霊諍山へ行けるのでそこまで登っていく人が多いようだ(まあ、矢崎山だけだと10分くらいで終わりそう)。霊諍山は石仏がたくさんあることで有名らしい。

 

霊諍山は麓に古刹があるし修験道関係かなと思ったものの、その歴史は思いの外新しかった。

明治18(1885)年に旧八幡村在住の北川原権兵衛さんという人が母親の病気平癒の祈願のため、修行に入ったことで始まったらしい。明治24(1891)年には北川原さんが神様と交信できるようになったので里に下り、人々の願いを神様に取り次ぐことで信者をどんどん増やしていった。山に祀られた石仏は信者が神様への感謝として寄進されたもの。石仏が増えていったため、親類で修験者の和田辰五郎さんに頼んで社殿に住んで貰い、管理をお願いした。和田さんは修那羅山で修行した人なので、案内文の修那羅山の石仏群の話と繋がるし、石仏にも共通点が多いという。修那羅山も霊諍山も、猫の石仏が有名だそうな。明治の中頃は養蚕が盛んであり、蚕の敵であるネズミを捕らえる猫を神格化した仏がよく祀られたそうだ。

そういえば、案内文にも和田姓の人がいる。ここ旧八幡村の名主が中原という地区に屋敷を構える和田氏で、お寺さんなどたくさん建立したり、善光寺や武水別神社にも多く寄進している一族(和田氏は酒蔵を経営しておりそのHPを見ると、明治時代には教科書で見たことある名前の人達が何人も訪れているという記述があったよ、凄い)。笹焼神社の社殿も名主さん一族の寄進だと思われる。和田辰五郎も師匠の死後、修那羅山から生家がある中原に戻ったというので、やっぱり名主一族の人だろう。

 

矢崎山山頂の祠はいくつかあるようだ。

案内文中には「天神社」としかないが、長野縣町村誌によれば矢崎山には伊勢社が祀られているという。ひょっとしたら元々は矢崎山の伊勢社と笹焼神社はセットだったのかもしれない。奥宮と里宮みたいな関係の? 正宮と別宮? 笹焼神社に奉納する神楽なのに、わざわざ矢崎山で舞ってるっていうしねー。矢崎山の伊勢社も笹焼神社も、創建年不詳となっている。雰囲気的に相当古そう。

 

鳥居の傍らの標柱。

郡区建立。何を建立したか(対になるものがあるのかどうか、鳥居を建立したことを指しているのか)色々分からず。年月もなかった。

「郡」という地名は、古代この地に更級郡の郡衙が置かれたと言われ、その名残りの地名であるらしい。案内文にもあった「開拓神ではないかとも言われる」は大袈裟でもないかもね?

武水別神社も一番最初は郡地区にあったと言われ、旧地には「元八幡神社」が存在する。現在の武水別神社も笹焼神社からは離れているが、旧八幡村内にある。

 

笹焼神社から直線距離で300m程度。ご近所じゃないの。それで武水別神社と繋がりがあるんだね。

 

 

笹焼神社拝殿。

周りには巨木がいっぱい。

こんな立派な木があるのに、特に天然記念物などには指定されていない。この欅も樹齢300年以上と言われている。

子供の遊び場にはなっていないようで、踏み荒らされていないクローバー、草まみれになった遊具があった。ここじゃなくても遊ぶところはたくさんありそうだわー。

お詣りに来る人は多いようで、参道は踏み跡が多かった。

明治17(1884)年の社殿。華麗な装飾ではない。

明治時代の学校っぽい屋根だった。社殿が建てられた時期は民衆の武装蜂起だの政治家が襲われるだの、自由民権運動が激化した時代でわりと暗かったのかな?

社殿の周りには祠が並んでいた。

微妙な高さの草が生えており、あまり近寄らなかった。蛇はいないだろうが、変な虫はいそう。

天明2(1782)年。天明の大飢饉が発生した年。

古い祠だけではなく、新しい物もあった。

昭和48(1973)年奉納の子安様。

こちらも新しめ。


★★★☆☆
古く由緒ありげだが、分からん神社だった。今度は矢崎山登りたい!

 

 

<笹焼神社>

創建年不明