お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

高田城

新潟に行ったよ。ここで車ぶつけた。悲しい。

 

高田城にも行った。

ここと隣接して高田駐屯地がある。高田城に向かう道中、私の車が自衛隊のトラックに前後挟まれたので、

「このまま駐屯地に入ったらどうする!? どうなっちゃうの???」

とワクワクして、そのまま駐屯地まで行っちゃおうかまで考えたが。

「普通に取り囲まれて普通に捕まるよ、止めてよね」

なんて冷たく返されてしまった。悲しい。観閲行進の気分になったからもういいや。

 

桜祭の季節だった。この日はまだ桜はまだ咲いていなかった。

もう三の丸あたりだった場所らしい。

明治41(1908)年に陸軍建築部が作成した図とある。この年は第13師団が高田に駐屯した年である。日露戦争中だった明治38(1905)年、旧日本帝国軍が従来の師団をすべて派遣しちゃったので、日本本土を守る軍団がいなくなっちゃった! という不思議な理由で新たに四個の師団を創設した。結構な総力戦だったけど、戦争に勝って良かったね、と思いました…負けると悲惨だよ。明治39(1906)年に四つの師団のうち、第13師団が信越地方に置かれると決まった際に、旧高田町が熱心に誘致活動をしたそうで。現在の高田駐屯地の前身に当たる第13師団司令部が出来た。

後に第13師団も主戦場の大陸へ投入され、日露戦争勝利へ導く活動をした。大正期には満州に移転するが2年後にはまた高田に戻された。この満州移転時期の師団長がイケメン軍人で有名な秋山好古だった。いいな。その後、関東大震災の救援部隊などを経て、大正14(1925)年に財政難を理由に廃止。

第13師団廃止後は施設を一般企業が使っていたらしい。

 

現在の高田駐屯地は昭和25(1950)年警察予備隊発足後に駐屯を始めたもので、旧高田駐屯地より規模を縮小しているようだ。

現在の高田駐屯地には東部方面隊下の第1施設団第5施設群、第12旅団下の第2普通下連隊などがいるようだ。主に人助けをする部隊という感じなのかな? ちなみに大昔に第12旅団本部の相馬が原駐屯地を見に行ったけど、当時も厳重だったよ。

この「第12旅団」は機動力が売りの旅団で、輸送用ヘリとか空中機動力に特化しているらしい。群馬~新潟の山岳地帯をカバーする部隊だからとかwikiに書いてあった。その分、火力は弱めのようだ(個人的には重火力好きなのでちょっと残念)。

 

図は高田駐屯地を作るために測量した図と駐屯地を置いた後の地形を重ねたものらしい。土塁や堀などはすべて埋め立てられてしまっているようだ。

今は堀など全くない。

↑高田図書館

若そうな木々ばかり。第13師団の時代にはなかった木なのかも?

高田城は桜が有名だけど、それは旧日本軍の第13師団が高田に置かれた記念に桜を植えていったからだという。

 

この辺りから当時のままのお城を楽しめるらしい。

高田城址公園のメインの場所だ。

お城の建物は残っておらず、唯一お城らしい物が三重櫓である。

お堀も綺麗よ。

木造の橋。極楽橋という名前。今の橋も復元されたもの。

お城は徳川家康の六男・松平忠輝という人の居城として築城された。幕府の命で全国の諸大名に金を出させて作らせた、とても大きな城だったらしい。忠輝さんの奥さんは伊達政宗の娘・五郎八姫だったので、築城の現場総監督は伊達政宗が務めた。

この辺りから本丸だが規模感すごい。

焼き物も置かれていた。

なんの為に置かれているのだろう…? 蓮を入れている?

極楽橋は、高田城を築城した際に二の丸と本丸を繋ぐ木橋として架けられた。明治41(1908)年に高田に来た陸軍第13師団により堀を埋め立てられて木橋も姿を消した。この橋は平成14(2002)年に復元されたものだという。埋め立てられた堀も同時に発掘調査したそうだが、橋の形を当時のまま復元することは難しく、目に見える場所だけは木や石で出来ているが見えない部分は鉄筋コンクリート造りと書かれている。耐震性の問題なども考えれば妥当よね。
堀の発掘調査では橋脚部分の木材が見つかったらしい。関東大震災の時に現れた旧相模川橋脚の例を考えても、大昔の木材が残っているなんて、わりと有りがちなのかもしれない。旧相模川橋脚なんて1198年に架けられたって言われているしな…江戸時代初めの極楽橋なんて旧相模川橋脚と比べたら赤ちゃんだよ。

 

さてここからは第13師団もほとんど手を着けていないという本丸部分である。

土塁もそのまま。

この土塁、二重になってるし。

近代城郭のわりには天守閣も石垣もなし。なので築城スピードが速く数ヶ月で完成したようだ。

寛文5(1666)年の寛文高田地震、宝暦元(1751)年宝暦高田地震、弘化4(1847)年の善光寺地震や享和2(1802)年の火災といった災害で、どんどんお城の規模が小さくなっていったようだ。

築城した松平忠輝時代は高田藩75万石→廃藩置県の榊原家15万石で、石高がおかしい。元は北陸・東北の押さえとして重要な地位のお城だったのに、時代が下るにつれお城や高田藩の意義が変わってしまったという。

お城が出来た後に起こった様々な出来事により高田藩のイメージが悪化し、ここは基本的に「懲罰人事用」の藩に成り下がってしまったそうだ。藩の格式と実際の財政のバランスが歪んじゃって直されないんだわ。なのでお城がどんどん小さくなっていっちゃったんだ。高田藩の実際の石高はとんでもなく低いらしい。

厳重ですね、と思ったけどちょっと不自然な感じもする。

どうやら本城御門(南門)の辺りにいるようだ。ここは枡形になっていたようだが、土塁の一部が現在なくなっている。二重になっていると思っていた部分、あの隙間に南門があったってことなの…?

ここに門?

これも新しいのか古いのか判別できないや。

 

高田城の現在の広さは、東西215m・南北228m。以前は鬼門除けや内枡形門などあり複雑な配置であったと案内板に書かれていた。本丸には御殿が配置されていたそうだが、土塁などがあった当時は御殿もかなり狭かったのではないかと思われる、とある。

第13師団司令部は本丸跡に置かれたとある。

 

江戸時代における高田城の面積は三の丸まで含めて約19万坪。大政奉還で明治4(1871)年に廃城後は陸軍の所有になる。しかし明治23(1890)年に政府は軍事費を捻出するために高田城の売却を決め、旧高田藩主家の榊原家に払い下げを行った。日清戦争直前の、朝鮮を巡って日本が清と対立している時期。明治40(1907)年に旧高田町が第13師団誘致のために榊原家から城や池を買い取り、土地を陸軍に納めたという。

現在の本丸跡地には上越教育大付属中学校があり、近隣の高校と合わせて学生だらけだったわ。高田城域と思われる区域内には、高田高校、高田農業高校、上越総合技術高校、そして堀の向こう側に高田北城高校がある。

 

現在の本丸。

↑本丸跡周辺

城のシンボル三重櫓。これも復元されたもので、元は明治3(1870)年の火災で焼失した。平成5(1993)年に外見など人目に触れる部分は往時に似せて造ったそうだ。三重櫓が天守閣代わりだったようだ。

明治3(1870)年の火災では三重櫓の他、本丸御殿も焼失し、翌年には廃藩置県を迎えたのでどれもこれも再建されなかったみたい。

この辺もどこまでが江戸時代なのか不明よ。

この城に石垣が見当たらなく天守もない理由のひとつは、この場所が湿地帯であったからだという。排水設備が城の至る所にあったようだ。ただし、少しぐらいは石垣造ったんじゃね? という説もあったりする。江戸だって広大な湿地帯だったのにガンガン埋め立てて石垣や天守を備えた巨大な城を造ったんだから、やれば出来たんじゃない? とも思う。昔のことだから分からないっていうのが正直なところなのだろうか。最初に「ここにデカい城造るわ」って決めた初代高田藩主がすごくせっかちで、工期を短くするために石垣や天守閣を造らなかったのかも? って説を推したいです。

近代の城って適した広大な土地が見つからなくなってきているせいか、変な場所に建ってるようなの多いなと感じる。

 

松平忠輝の家紋・葵紋と榊原家の家紋・源氏車紋がついている。

これだけ見るとかっこいいよね。でも左遷人事用の藩って考えちゃうと、三重櫓にすら哀愁を感じる。だってコレ、天守閣の代わりだったんでしょ…?

三重櫓まで登って気付いたが、狭間があった。これも最近のものっぽいな。

先ほど見た復元図には、ここも土塁があったはず。第13師団時代に削ってしまったのだろうか。また、堀を渡る橋もなかった。

車も通れそうな幅だし、物資搬入用として造ったんだろうねって感じだった。

土塁の向こう側は上越教育大付属中学の敷地内だと書いてあった。

三重櫓の復元を示す基礎の碑↓

 

三重櫓の下の土塁(切り通し部分)。

ここの景色はとても良く。夜桜見物のメインとなる場所と思われる。

この堀は第13師団時代も水源として残されていたのかな? 橋があるぐらいだから埋め立てられなかったと思った。

堀の先には博物館とか文化施設がいくつかあった。本丸の内堀と外堀(西堀)の間。

小林古径邸という国の登録有形文化財で、旧高田町出身の画家・小林古径さんの住んだ東京のおうちを移築してきたものだそう。

素敵な家だった。

 

お花見でもいいし、軽いピクニックでも良さそうね。

ええー鳶に襲われるんだ…。

この奥にある博物館で御城印をもらってきた。

博物館と外堀に当たる西堀の間には道路があった。

ただ、これも土塁っぽい感じなのここにあって。道路は掘を埋め立てて造ったのかもしれない? とも思う。

参道? 昭和14(1939)年の銘が刻まれていた。

西堀は蓮で覆われていた。こんな時期なので葉も花もない。
この蓮は明治維新で没落した高田藩財政再建や士族の収入獲得のために始まった蓮根栽培が元だとwikiに書いてあった。蓮根栽培で少しは収入あったかどうかだけど、昭和37(1962)年に終わってしまい、その後は「蓮が綺麗」ということで観光資源に変わり大事にされているらしい。

この赤い橋もいいよ。

さっき渡った内堀の橋方面に行けるみたいな門があった。これは第13師団司令部って感じがする。

この辺りも土塁が少し残されていた。

二の丸の土塁だそうだ。案内板には、

  • 慶長19(1614)年に高田城が築城された。石垣のない平城だった
  • なぜ石垣がなかったかについては、いくつか説がある
    • この地域には石材が足りなかった
    • 大坂冬の陣」直前で世情不安だったために工事を急いだ
  • 石垣がない代わりに関川の流路を利用した大規模な堀を造り、内側に土塁を積むことで城の防御とした

とあった。明治以降に高田城が廃城となり、陸軍第13師団が入った時に手狭だった用地を広げようと土塁を削り堀を埋めたので、本丸以外に残された土塁はここだけだと書いてあった。

本丸のところには「御殿用地は狭かったと思われる」と書かれていたな。そもそもが狭い土地を頑張って広げたとあるが、現在でもなんとなく城跡としては狭い気がする。

二の丸の土塁の周りは公園となっていた。

 

子供が遊んでいたりしていたよ。

本丸周辺の土塁と比べると少し迫力に欠ける気がする。昔は本丸同様の大きさだったかもしれないけど。

二の丸の近くに神社があった。

お城弁財天というらしい。

そんなに古いものでないらしく、高田信用金庫の創立者・和田憲太郎や高田市長・川合直次が相談して、昭和6(1931)年に開眼式を行ったというようなことが書かれていた。

川合直次さんは長年に渡り、議員をしてきた人らしい。中頸城郡会議員→新潟県会議員→衆議院議員→高田市長→衆議院議員という流れ。昭和13(1938)年に亡くなっている。昭和6(1931)年当時は高田市長だった。

和田憲太郎さんは地元の名士だったようで、大正13(1924)年頃には高田で開く予定の展覧会用の展示物を借りるため、大隅侯爵家・徳川侯爵家などに出向いているというのを見た。

 

色々あって、弁財天はお城の守り神として置かれたらしい。

弁財天は水の神様なので、蓮の増産も願ったりしていたのかも?

 

井戸らしきものもあったよ。

 

★★★☆☆

桜の名所で有名だが、わりと城跡って桜植えがちよね。

 

<高田城>

築城年 慶長19(1614)年

築城主 松平忠輝