壊された車を買い換えた。ギャルっぽい車になった。家族の許可が下りたら今度こそインプレッサSTIのハッチバック買うんだー。
納車したので、ウキウキ気分でちょっと出かけた。岡城、団地の真ん中にぽつんと残っているというので、あんまり期待していなかったが。
こんな奴だった↓
縁日みたいな大きい幟があるので、神社があるのかもしれない。ぱっと見て、形は古墳なのかと思ってしまった。
現在地は岡城公園の入り口。岡城公園は元・二の丸の土塁部分であるらしい。
↓堀跡はこんな様子で異常に広い。水田跡地でもあるようだ。
これ↓も井戸跡かなんかかねー? お堀の跡地に井戸なんかあるわけないんだけど井戸っぽい。
史跡になっているのは公園の部分のみで、他は住宅地になっている。
入り口付近には案内看板があった。
↑お城の全体像はこんな感じ。
また、お城の紹介として、
- 武田信玄の家臣 馬場信房により築城
- 天文年間末の出来事
- 武田氏独特の三日月堀がある、甲州流築城の初期かつ大規模な平城
- 天文22(1553)に村上義清の居城、葛尾城を落とす
- 永禄3(1560)年に海津城を築く
- 天文22年~永禄3年の間、武田氏の前線基地であった
- 規模は東西460m、南北365m
- 面積は約75000㎡(東京ドーム1.6倍)
- 三日月堀は3カ所、内堀・外堀もあった
↑右側には三日月堀があったようだが、今はただの民家に。
とにかく、公園に入ってみることにした。
緩い坂道を登る。
左手側は古い団地があった。人もまぁまぁ住んでいる。
団地がある場所が本丸跡と書いてあったが、どうやらココ↑は二の丸のようだ。
登り切ると、なんかその辺によくある雰囲気の小さな公園だった。草も刈ったばかりのようだし、きちんと手入れされている小綺麗な印象。
遊具やベンチがあったけど、誰もいない。
堀跡を上から見ると。
堀、広いわねー。
現在は秋、実りの季節にも関わらず何もなし。休耕田? 放棄はしていない様子にも見えるが、数年前から田んぼとして使われていないようも見える。
神社の幟がある。社殿は見えない。どこにあるのかしらね? こんもりした丘みたいになっているけど、この上かしら? 裏側に回り込めそうな道があるので行ってみた。
井戸発見か。
今でも使えるのだろうか、と思い近づいたらただの水道くさい。なんだよう。
↑ここも二の丸。思った以上に大きなお城のようだ。
しかも、入り口で見た建物より更にレトロ感が増した。調べたら、入居者はもう募集していないようだ。もの凄く家賃が安そうだな。
巣箱も置いてあった。
上の丘っぽいのに登れそうなので、行ってみた。
ここは物見櫓なんかを置いた場所なのだろうか。
人工的な地形の香りがプンプンするよ。この規模のお城作るのに、どのくらいの工期だったんだろう? 6年で放棄のお城ということを考えると、以外と短期間で出来上がるのかもねー。
↑航空写真で見た感じだと、矢印の辺りが丸馬出しだったみたい。ちょっと形が残ってた。
本丸方面もこんな感じに。団地群を兵舎などの建物と見立てれば、中々のお城かもと雰囲気出てきた。
そして神社を探すが。
祠しかなかった。
拍子抜けした。しかも、この祠がどういったものなのかは未だ分からず…。この辺一帯の産土神としてどこからか勧請したものなのかね? それにしては素っ気なさ過ぎるわ。まあ、古そうと言えば古そうだがね。
この祠のすぐ脇に「岡村城の由来」という石碑があった。岡城=岡村城。
石碑には「1971年」と彫られており、おそらく入り口の看板より古くからあったような感じ。昔はここを「岡村城」と読んでいたのかしらね。ちなみに地区名は1971年当時も「岡」であるようだが、古くは小県郡岡村と呼ばれたみたい。
- 今から1190年あまり前、桓武天皇の末裔の権之左衛門尉、平清氏が弘仁2(811)年、信濃守として当地に赴任し城を造る
- 後に、地名から名乗りを「岡村権之左衛門尉平清氏」と改め、城も岡村城と名前を変えた
- 清氏、京都の命により甲斐に行くが、天長10(833)年自害
- その後は藤之木氏の支配となり、戦国期に入ると(支配者だった)浦野氏が武田に下る
- 武田の支配下となると、馬場信房が城を守って村上義清と戦う
- 上田原の戦い、川中島の戦いを経て、永禄11(1568)年の長沼城完成までの間、武田軍の居城であった
いくつかの苗字サイトを当たってみたところ、どれも「岡村氏=小県郡岡村(現・上田市岡)発祥の桓武平氏」と書いてあり、桓武平氏であることは間違いないらしい。
桓武天皇崩御が延暦25(806)年。平氏の賜姓は天長2(825年)が初めて。桓武天皇孫ぐらいの世代じゃないかと思い、該当しそうな名前の人物を頑張って探してみたけど見つからず…悔しい。石碑の年代が間違っているのかしら?
岡村(平)清氏という人は信濃守として京都から赴任しお城を造り、20年ぐらい統治したあと流刑になり甲斐国へ流され、そこで自殺して亡くなったということらしい。妙に詳しく書かれている。絶対どこかに元ネタあるはずだ、と躍起になり探したのよ。徒労に終わった。
あるサイトには「岡村氏=桓武平氏維茂流」とあった。平維茂は鬼女紅葉伝説で有名な方だそう。
と、この場所に所縁があるような感じ。この人の子孫は京に残った者・新潟で栄えた者の二系統があるらしい。今昔物語の中でもバリバリの武闘派のようだけど、この人甲斐へ流されたかどうか不明。
こちらも収穫なしよ。何なのか、岡村清氏。
岡村氏→藤之木氏→浦野氏と支配者が代わった後、武田氏がやってきて浦野氏降伏→館を接収、改造という流れのようだ。
しばらくウロウロした後、本丸方面に向かうことにした。
人は住んでいるらしく、プロパンガスのボンベが見えたりする。
建物群を少し抜け、道に出る。
この団地は結構規模が大きそうだ。ここを左折すると二の丸井戸があったみたい。まだこの辺は二の丸なのか…。
何かしら土塁のようなモノが続いている?
それっぽいものを探して歩いた結果。
本丸の井戸を発見↓
一応、まだ使われていたりするのだろうか? 二の丸~本丸までまあまあの広さ。どのくらい人間収容されるかなー? 200~300人ぐらいイケるかもー。
どうみても土塁のようにしか見えない怪しげなアップダウンを抜けた。土塁上に住宅が並んでいた。
ここも怪しい地形だわ。
出入り口があったようだ。
雰囲気はあるねえ。
境界を表している? 道祖神。
本丸~二の丸の平坦な部分は団地造成して消しちゃったけど、それ以外の部分はさほどいじっていないのかもしれない。放棄されたお城の地形そのままを生かす(壊すことが面倒臭かったのかもしれないけども)形で田畑・住宅になっている様子。
ただ、本丸の出入り口を過ぎたら何もなくなってきた。キリの良さそうなところで引き返す。
ビオトープとは何か。
↓実はこんなものを見つけたので、事前に地図代わりに写真撮っておいた。
ビオトープとは美しい水辺にかかる桟橋の風景を楽しむ的な奴か?
コレもあとで調べて見たら。
- 生物の生息場所という意味のドイツ生まれの概念
あとは難しくてもう分からんかった。
お城の方へ別のルートで戻ることにした。
長閑な風景を見つつのんびり歩いていると。
やだー土塁じゃない。
つまり今歩いている道は堀跡なのか?
土塁のようなものも一部遺されているようで、連続していなかった。
あーまた現れたよ土塁。
そうこうしているうちに、最初に見た二の丸と土塁、物見台跡が見える場所まで戻ってきていた。
↑この場所から道なりに進み、見るお城が非常にかっこよかった。
公園付近は濃厚に遺跡が残っているせいか、非常にイメージが湧きやすい。
↑浦野川
↑近くにはこんな旗が。なんで菱形の家紋じゃないんだろ? と思った。
★★★★★
ここは行って良かった。とても面白かった。
<岡城>
築城主 岡村氏
築城年 不明
構造 平城