10年ぶりに1人で飲みに行った。好物の馬刺しの店だよ。盛り合わせとかホルモン煮込みとかもあって、しこたま飲み食いしたよ。盛り合わせには、死ぬ前にもう一度食べたいと常々思っていたタテガミがあった。やったー。
何故か写真が上記のものしか残ってなかった。お酒は長野県内のものがほとんどで、焼酎の種類が少なく(もぐらが飲みたかった)、代わりに日本酒がっつり飲んでやったぜ。「美味い」以上の感想が出てこない。翌日、口内炎になった。食べ過ぎた。
塩田城だよ。ここは紫陽花で有名な場所らしい。
確かに紫陽花らしき植物が物凄く生えている。まだ咲いていないので観光客は皆無。
ローカル天気予報だったか、ここの紫陽花が見頃です! っていう小ネタを何年か前に見たような記憶がある。
周辺地図↓(※「現在地」とある場所は塩田城ではない)
wikiによると、
- 長野県における中世城郭最大級
- 昭和42(1967)年~昭和52(1977)年にかけて、発掘調査が何度か行われた
- 鎌倉幕府第六代連署(執権に次ぐ要職で、現代風にいうと副総理の偉い人)北条義政が建治3(1277)年より当地に居住し、居城とした
- 元弘3(1333)年、塩田北条氏は鎌倉にて滅亡(鎌倉幕府も滅亡)
- その後の支配者は、村上氏→武田氏→村上氏→武田氏→真田氏→廃城
とあった。
財力ある一族が作ったので規模がでかいです。ということみたい。
ちなみに、塩田城に辿り着く前にうっかり前山寺に入り込んでしまった。
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そして、この先行き止まりとなる(神戸川渓谷へ下る徒歩道らしきものもあったが、通行止めだった。凄く荒れているようだった)。
お城の入り口にも谷へ下りる通行止めの道があった。ココに出てくるのかな? こちら側だと荒れている風が感じられなかった。
山の奥へと道が伸びる。
非常に蒸しており息苦しく、またやたらと虫がいる。
ぽつんとお墓があった。
祠っぽいが、先ほどのお墓の近くにあったので…こちらもお墓かな?
窪地がところどころある。近くの集落から山の方までずっと、段郭がたくさん遺っているらしい。この辺も発掘されたのだろうか。
そして急に、植林されてる感じの場所に出た。
図にあった「発掘地点」だそうな。
説明板があった。
- 昭和54(1979)年以前から何度も発掘調査が行われ、「虎の口跡」「空堀跡」などその特徴を確認してきた
- 昭和50(1975)年から昭和52(1977)年度にわたり、3回の大規模調査が行われた
- 調査地点は麓集落から数えて14段目の段郭
- 建物跡や土器・陶器・磁器・金属製品(小銭や刃物類、釘等)・石製品(硯や石臼等)・木製品(塗物、曲物、箸みたいなもの、将棋の駒、人形、建築部材等)が見つかる
発掘地点は自然に還りつつある。
そして更に奥へ。こういうフェンスがどうも苦手。
扉を開けて進む。軽トラ幅の轍が遺っている。鉄塔とかの施設でもあるのだろうか?
そして長野の山とは思えない感じの大きなシダ植物が現れ始めた。
フシギハナの葉っぱみたいだわ。デカい。調べて見たがオシダという植物かしらね?
初めて見た気がするけど、長野県内の山間地にはよくある植物だそう。ブナ林帯で、笹が生育しづらい岩がゴロゴロしている場所にいるらしい。
確かに笹薮がない。
そうかと思えば竹が生育中だし。ちなみに、笹は寒冷地でも育つが竹は育たない(北海道には竹が生えていないそうだ)。
オシダ?は見た感じ亜熱帯風なんだけど、寒冷地のシダ植物だって。ここの湿気がすごいこともあって、アマゾンの植物だとしか思えなかったわ。
分かれ道に来た。
右側は「虎の口を経て国時の墓」とあり轍がない。
左側は三島社へ向かう、轍有りの道。
まずは轍の残る三島社行きの道を通った。
遠くにお社が見えた。
この辺は下草がさほど生えていないようで、郭の様子が分かった。
家帰ってから知ったが、三島社の裏手に畝状の竪堀が五本あったそうだ。分からなかったわ。まあ雑草が繁っていて歩くのも難儀そう。
三島社は大山祇神を祀る神社だそうだ。山の神様だー。
お参りをする。
三島社からも道?があるようだ。怖いから行かない。
三島社の総本社である伊豆国の三嶋大社で源頼朝が篤く信仰したそうで、当然鎌倉幕府も崇敬されている。お城の守り神としてこちらに勧請されたのかな?
お城の石碑から三島社までが「御前」と呼ばれる区域で、城の中心部だそうな。
「御前」だけでもとにかく広い。きょろきょろすれば、至る所に郭らしき平場が見える。
先ほどの分岐点に戻った。
進んでみる。
例のシダ植物が増えてきた。お城入り口のフェンス辺りで「暑い、虫が多い」とイライラしていたのに、すっかり慣れてしまった。マスクは息苦しいので止めちゃったけど。
お城の中枢部である「御前」からは離れてしまったはずだけど、人工的な地形が続いている。
ちょうど左側に三島社が見えた。杉林を突っ切っても来られそうな気がした。
ここはよく見ると。
石積みしてあった。
崩れているけどさ。そういえば、入り口の図には三島社の上辺りから石垣がしこたま描かれていたな…。
どうやら石垣エリアに着いたらしい。
往時は凄かったんだと思うよ。土塁はいっぱい残ってる。
この場所はお城の本郭に向かう最終防衛ラインなのか分からないけど、すんごい迂回させられている。見通しも良くない。大きいシダ植物ばかり目に入り、とても気になる場所だった。
そして急に奥に平場が見えた。この辺りの石垣は崩れずほぼ原形を留めている。
鎌倉時代に作られたものじゃないのかなー?
鎌倉時代にも石積みの技術があり、福岡の石築地というのが有名らしい。これは元寇の時に博多湾に整備された石塁だそうだ。モンゴルの2度目の襲来から国を守ろうとしたらしい。
石築地とはこういうの↓
ちょうど、塩田北条氏の祖がここに移住する前後(家祖の北条義政は執権の北条時宗を支える立場で、第1回目の元寇(文永の役)辺りまでは政治の中心にいたようだ)に福岡の石築地が造られている。似たような感じに作ってみたのかな?
重要な場所なのか、説明板があったよ。
- 塩田城跡「虎の口」
- 塩田城跡は弘法山の北斜面にあり、塩田平を一望できる位置にある
- 南北約700m、東西約80mにわたり20以上の段郭がある(「御前」のことらしい)
- その北側には南北約700m、東西約200mの規模の集落があり、これはかつての侍屋敷の名残り
- 現在「塩田城跡」という石碑が置かれている場所を境とし、南の弘法山に段郭(御前)、北側に集落(侍屋敷跡)がある
- また石碑は空堀跡(長さ約180m、幅約20m)に置かれている
- 「虎の口」は坂城の村上氏統治時代のものとされている
- ここから更に登るといくつか小さい郭があり、北条時国と伝わる墓がある郭に到達する、その辺りが城跡の最高部
- 「虎の口」は昭和43(1968)年、44(1969)年、45(1970)年と3回調査した
- 戦国時代以前の石垣、城郭内最大の井戸などが発見されている
この説明板はお城入り口の図なんかよりずっと新しいようで、平成28(2016)年におかれたものだった。
ここにも見事な石塁が。
どれが戦国時代以前(室町時代ってこと?)の石垣なんだろう?
そして「虎の口」って虎口のことなのかな? って思ったけどむしろ城の最奥部に近いし、井戸もあるし、ちょっと違うのかな? 「虎の口」という言葉は極めて危険な場所とか事柄を意味するみたい。転じて重要な場所ってことなのかも?
この場所はまあまあ広いという感じ。井戸と最奥部の墓を死守します的な場所?
そういえば、道中あまり案内表示やピンクテープもなく、自分で何も考えていなかったのに、迷わず来られたわ。行き来する人が多くて道が明瞭なのかなー?
井戸あったー。
井戸の上にも郭らしき平場が見えるような。
まだ先があるので行ってみる。
なんか雑な感じがする。
でも道は分かるよ。
やっと案内表示を見つけた、非常に時代を感じるヤツだ。
道のまわりは急斜面で歩ける場所が決まっている様子。
落ちても怪我しなさそう。
やっとピンクテープ見つけた!
ただし、人が入って山を管理している風はない。自然のままにされてそう。
さほど時間かからずに、次の目的地に到着したようだ。
最奥はさっきの「虎の口」より広いみたい。
お墓。
北条国時と子の俊時のものだそうだが、この2人は元弘3(1333)年元弘の乱における鎌倉での合戦で戦死しちゃったそうだ。だから、ここにお墓があるのは間違っていると思う…。実際のところも供養塔であり、故人がここに眠っている訳ではないらしい。
山の中なのに妙に日当たりが良く、とても明るい。龍の巣内にある歴代ラピュタ王の墓みたいな感じだった。塩田城域の一等地だと思われる。
やっぱり、ここまでお参り?に来る人が多いようで、お墓にワンカップなどお酒が何本も供えてあったよ。私もお参りしました。
お墓の上も何か広そうな場所があるよ。
ただ、この先はとにかく荒れているようだ。弘法山に行けるらしいが、とにかく険しいとか。
さきほどのお墓みたいに明るくない。建物が建てられそうな程度広い。
ちなみに、ここでオンボロデジカメが壊れた。お墓の呪いが発動か。
弘法山の頂上まで塩田城の土塁やら砦やらが残っているらしい。山全体が要塞なのかな。「弘法山」という名前の通り修験道の修行の場でもあったみたい。
↑この図にも弘法山には石仏だらけのアレとして描かれている。
眼下にはお墓。
そして弘法山頂上方面。弘法山まで迷わず到達できる自信がないどころか、無事に下山できる気がしない。
ビビりながら下山します。
こんな表示があった。ちょっと道は分からなかった。
「虎の口」到着。
石垣を抜けた。更に下る。
ほぼ麓についたところで、突然デジカメが復活。
お墓に許してもらえたのだろうか…。静かに帰ろう。
無事にフェンスも通り抜けた。良かった。
「塩田城跡」の石碑も通り過ぎ、侍屋敷跡と言われる集落方面。
休耕地が広がる(田植え前なだけかなー?)。デカいお屋敷建てられる平地がたくさんある。
空堀跡の遊歩道(奥)と車道↓
遊歩道をせっかくなので歩いてみる。デジカメもまだ生きているし(お墓もこれぐらいなら呪ってこないかもしれない)。竪堀跡を探してみたい。
でもデジカメさんには休憩してもらうことにした。
入り口の図↑には龍光院に向かう道のようだったが、案内看板は塩田の館という施設を目指す表示となっていた。
塩田の館は塩田城の発掘調査の成果を展示している施設らしい。
山の中のよくある道に見える。
途中、水が溜まっている箇所があった。
祠。移設されたものか、なんとなく新しいような気がする。道中安全祈願。
なんとなく竪堀を探しているものの、それらしきものが分からず(夏草でもう見えないよ)。
ちょっと舗装(石畳)され始めた。
道は山裾に沿うように曲がる。
完全に畑の畦道化した。
井戸らしきものを発見。ただの井戸ではなかったようで、説明板があった。
- 大昔、偉いお坊さんが旅の途中にふと見つけた泉に映る中秋の名月を見て「月餅のようだ」と呟いた
- 故郷の中国を思い出したのか
- 月餅は中国のお菓子で、丸い物は幸運を呼ぶと大変喜ばれている
- 里の人々はこの泉を「月餅」と呼び、大切に守っている
- 干魃の時でも泉は枯れないと伝わる
坊さん、単にお腹空いていたのでは? という微妙なエピソードだわ。
やっぱり井戸に見えてしまうしねえ。
ただ、中国から来た偉いお坊さんが泉を通りかかって呟いた話は生々しい印象を受けた。坊さんは実在してそう。
月餅の先は細長く何処までも続く階段とぶつかった。
右も左も、大人1人だけが通れる程の幅の階段。
両側は1m程度の生け垣で、ちょっとした圧迫感がある。
まさかこれが竪堀ではないよね?
ちょっと登ってみたら鐘撞き堂が見えた。龍光院の参道らしい。
後で調べたところ、龍光院は塩田北条氏の菩提寺だそうで初代の北条義政さんを供養するため2代目が建てたお寺。初代のお墓があるそうな。細長い参道の先っぽい。つまりこれはお墓参り用の道として造られたんか?
元来た道へ引き返した。
竪堀がありそうな場所なら↑ここ? と思ったけどもう草ボウボウで!
★★★★☆
弘法山まで登るなら、一日潰す覚悟で来た方が良さそう
<塩田城>
築城年 建治3(1277)年以降
築城主 北条義政