皇足穂命神社諏訪社合殿の近くにある。この辺りは古くから「宮」と呼ばれる地区だったそうで、遺跡もその名前が付けられている。
ここは縄文時代中期~晩期の集落跡。この地域(西山地方=戸隠・中条・小川・鬼無里・信州新町あたり、善光寺平の西側にある山間部。ローカルな言い方。ちなみに西山地方は年間1mmずつ隆起しており、逆に善光寺平は年1mmずつ沈降しているという関係)では珍しい時代の遺跡だそうだ。
縄文時代中期は日本の人口が26万人まで増えた頃で、特に関東地方+岐阜・長野・山梨に人が多く住んでいた(日本人の96%が東日本に住んでいたとか)。26万人でも当時の狩猟社会では養える限度の人口だったそうで、縄文時代終わりになると8万人まで減る。中期までは温暖な気候だったが、後期に気候変動で寒くなってきて縄文時代当時の主食だった木の実が採れなくなってしまったかららしい。後期には現在の関東地方に人口が集中していたが、どんどん減って晩期には東北6県が他の地域より少し人口多いかな? ぐらいの状況になってしまったようだ。
つまりこの遺跡は縄文時代の栄枯盛衰を表しているヤツだわ。人が増えすぎて新しい集落を作って、今度は食物が採れなくなって集落が消滅しちゃったってことだねえ。
弥生時代には大陸から稲作技術が持ち込まれ(造船技術自体は縄文時代からあって、縄文土器風の遺物がエクアドルで見つかる→縄文人が南米に移住した可能性が高い→アメリカ先住民の祖先は縄文人説が昔あった)、西日本を中心に人口が増えていった。東日本はさほど人口が増えなかったようだ。理由は「寒かったから」。気候が稲作に適さなかったらしい。西日本を中心として弥生時代60万人→奈良時代600万人になった。米パワー凄い。
縄文時代の集落の特徴として、
- 中央に墓がある
- 墓を中心にして倉庫を置く
- 倉庫を取り囲むように住居を並べる
という墓を中心とした同心円上に建物があるという環状集落である。この他にゴミ捨て場(使われなくなった住居跡がゴミ捨て場と化すようだ)とか祭祀場とか、ストーンサークル作ったり、何かと円状に形成していく癖があったみたい。
ここも典型的な環状集落として、墓を中心に住居が取り囲んでいる感じなんだろうと思う。
お墓からは男性の人骨2体が発掘されている。うち1体は当時の成人の通過儀礼だった抜歯をしているそうだ。抜歯自体も、「大人なのにされていない」「抜歯で抜いた歯に違いがある(犬歯を抜く・前歯を抜く・上下の歯)」で様々なパターンがあり、東日本より西日本で多く行われていた儀礼とも言う。抜歯も結局「なんで歯を抜くのか」という疑問だとか、抜いた歯の差異(身分差や集落外から来たことを表すという説もあるようだ)とか、分からない事が多く。狩猟採集民族に多く残る通過儀礼だそうなので、今も残る狩猟民族の人達に理由聞くしかないよねー。
集落の大きさは発掘している部分がわずかなので不明。東西500m、南北300mと推定される。発掘調査は昭和48(1973)年夏に旧中条村教育委員会がメインで行われたという。
墓と住居跡の他に、玉を作る工房跡も見つかったという。糸魚川や白馬を流れる姫川流域で産出された翡翠を加工している途中のまま残されていたそうだ。集落の人々が段々と亡くなり、最後の一人が黙々と石材加工をしていたがついに力尽きて…という風に集落が終焉したのかなー? 切ないなー。
住居跡は6。墓跡は4。それぞれ番号は振られている。この遺跡の発掘調査報告書によれば、5・3・6→1・4→2という順番で新しくなっているそうで。お墓も4→2→3→1という順序。
他に集石跡(竈跡?)と土壙跡(穴が掘られた跡というザックリした意味のもの)があり、集石跡は縄文時代後期の半ば~終わり頃、土壙跡は縄文中期以降(近世のものかもしれない)という結論で、この辺りが川の氾濫、地滑りで地盤が弱い地域ということもあり、「きちんとしたことが分からないです」で終わっていた。
お墓に埋葬されていた男性二人も保存状態が悪くて、何か特別すごい発見があったという訳でもなかったらしい。それでもこの地域では珍しい遺跡なので公園整備されている。
当時のおうちも再現されていた。
竪穴建物は平安時代までは一般人の民家として普通に使われていた建物で、田舎だった東日本では平安時代中期頃に掘立柱建物という住居が普及しはじめたので竪穴建物は姿を消したそうだ。
掘立柱建物とは↓
【🌲】「茅葺き民家」のある里山風景
— 神戸観光局【公式】 (@feelkobe_jp) April 16, 2020
都会の便利さと豊かな自然を楽しむ街、神戸。北区や西区には約800棟もの茅葺き民家が残り、豊かな里山風景が今も大切に受け継がれています🌾🚜
写真の「箱木家住宅」は室町時代前半に建てられたと推定され、現存する日本最古の民家のひとつとされています✨ pic.twitter.com/VWhZhgrVC3
縄文時代から平安時代まで少なくとも1200年間くらいはこういう家に住んでいた訳だし、懐かしさを感じる。
じゃあ住めよって言われても抵抗あるが。
屋敷の裏にはドングリの木もある。縄文時代の主食はドングリだったと思うが、現在ドングリなんてスーパーで売ってないし口にすることもない。米の方が美味しいからというか、それ以上にドングリが物凄く不味いんだろうなー。アクが強いそうで、調理するのは大変そうだ。
宮遺跡公園で整備されている部分、半分以上はただの公園で広い。ところどころ窪みがある(遺跡部分)が、立ち入らないでくれって標識もないし、公園整備される前はどうやら畑だったらしい。弥生時代に入って定住者がいなくなり、後から来た?人達が耕作地として利用していたこともあり、遺跡として全体的に状態がイマイチだからかな。
ただ、古い神社(皇足穂命神社諏訪社合殿)もあるし、民家が現在でもあるので住みやすい場所だったようだ。
ちなみにこの御屋敷とどんぐり林は河岸段丘上ということで、高台にある。どんぐり林の向こうは崖で下は土尻川が流れている。川の向こうは旧中条村中心部で小学校から高校、役場がある地区となる。
中心部に近いせいか公園は大変丁寧に整備されており、竪穴建物も綺麗だし今日この日が有意義だったな! と思えるほど満足してしまった。
★★★★★
子供も過ごしやすいし、大人もぼーっと出来る公園だった。