お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

布下氏館

ふと思い立って明神池まで車を走らせた。ただ到着した時間が13時近くだったため、まずはレストランに入ろうと思ったが、この日はすべて休みだった。もうお腹が空いて耐えられなかった。

とりあえず源清麿と外山城を見て帰ろう? という軽い気分で来ちゃったんだけど、外山城は徒歩40分だし(車で行けば大丈夫だろうけどそこまで下調べせずに来た)、もうお腹空いちゃったから。明神池だけ見て、麓に戻った。

 

麓から鹿曲川を渡った先に道の駅みまきがある。そこまで行きカフェでご飯食べた。道の駅みまきには温泉もあるけど、その敷地の大部分が介護施設関連でカフェも社会福祉法人が運営する就労支援施設でもあるようだ。そのせいか安くて美味くて、十分生き返った心地した。

 

道の駅みまきに隣接して「布下氏館跡」があるようだ。館はどこにあったか完全には特定されていないという。

お城は布引岩の上ぐらいにあるそうだ。堀ノ内城(または該城)という名前で諏訪刑部左衛門頼方(頼角)という武将のお城だったとかも言われている。

早々と放棄されたのか、布下氏館から直接登る道はないようだ。長野縣町村誌にも登る道は存在していない。布下氏館から見える場所にあるが崖の上。行くとなれば結構な大回りしないと駄目みたいだ。崖の上にある大久保地区からしか行けないようだ。

あの矢印の場所まで、山伝いに行くしかない。とても面倒そうだし移動距離も倍になってしまうかもしれない。

 

それでもグーグルマップでなんとなく探してみた。やはり道らしきものは分からなかった。元々無かったのかもしれない。あっても、こんな崖登るのは大変だったと思うよ。

 

長野縣町村誌の「布下村」では大久保村に属す布岩の巌上にあったと書いてあった。永正元(1504)年に大久保の釈尊寺に棟札を奉納した布下大和守がいたという。同じ棟札には天文17(1548)年に楽巌寺雅方のお城が武田軍に落とされたが、一緒に布下氏のお城も落とされたと書かれていたようだ。その後は二人で仲良く村上軍に参加して砥石城にいたそうだ。天文22(1553)年の上田原の戦いで村上軍が敗れ、二人は武田軍に参加。ただ、川中島合戦の際に布下さんを内通者として処分しているそうだ。この時一緒に死んだのが、楽巌寺・依・和田といった人達。苗字から思うに、ご近所の皆さんだったんじゃないかね?

天正18(1590)年の木次原の戦いで依田能登(相木雅朝)・伴野刑部(伴野貞長)と松平康国(依田康国)が戦った際で松平方として布下氏の名前があったらしい。

その後は不明。

 

「大久保村」の項には同じように布岩の約303m上にあるといい、北側は千曲川の崖があるが南側は平坦で望月牧に続いているとある。諏訪氏の居城「古城」と書いてあるが布下氏の名前は出てこない。

ただ、お城は広大だったようだ。

  • 城戸口には大きな三日月堀
  • ここから50間(約90m)先まで道は狭いが食い違いなどあり、左右に大塁と堀がある
  • 途中から道幅が6尺(約1.8m)になり、広い所になると57間(約100m)ほどになる
  • 巨石で壁があり、道は屈折して狭まり、食い違いがある
  • 5町(約545m)進むと本郭に至り、東18間(約32m)・西2間(約3.6m)の堀がある
  • 本郭は一段高くなっており、東西20間(約36m)×南北35間(約64m)の広さ
  • 郭はいくつかある
  • 溜め池は四カ所

といった具合で、籠城も出来そうだよ。

 

むしろお隣の楽巌寺さんの楽巌寺城の方が小さそうに思えてしまう。

 

楽巌寺さんと布下さんはほぼ同じ行動を取っているが、お城が隣り合ってるからという理由らしい。堀ノ内城は高台から眼下の千曲川周辺を見下ろすことができ、城という機能が十分にあると思うが、楽巌寺城は釈尊寺を守るような位置にあった。

 

釈尊寺こと布引観音は布引山の山中にある比叡山延暦寺の末寺で行基開祖の御本尊は聖徳太子が作ったという縁起が残る古い寺である。楽巌寺城は元々「楽巌寺」という釈尊寺に付属していた寺を改修して城にしたという説を聞いたことがある(確か楽巌寺城主は元僧侶だった)。他にも花成寺・一宝院・真福寺・神輿寺・慈現場という寺があり、すべて天文年間の兵火で燃えてしまったらしい。永禄元(1556)年に望月城主の望月氏釈尊寺だけ再興している。布下氏も楽巌寺氏も望月氏の家来だったので、釈尊寺も望月氏と関わりが深かったのかもしれない。

 

布下氏館跡はグーグルマップで見つけたが、「何もない場所」というクチコミが付けられていた。

本当に何もない。

放棄された耕作地もあれば、整備された田畑もある。農作業をしている人もいた。

長野縣町村誌には「字狐屋敷」にあったとされる。

現在の場所だと、BBC長野物流センターってところっぽい。

ひょっとしたら結構大きな御屋敷で、河岸段丘上に広がっていたのかもしれないし。

農閑期だからか人が居ない。集落自体が館跡がある河岸段丘の下にあるみたい。

奥の方に石段が見える。後世のものかと思う。

集落に続く怪しい道を発見した。

結構急な感じで続いているし、道沿いにある家は壊れている。
これは誰も通ってない道じゃないか? という気もするが…でも段丘上の畑に出るのは便利だしなぁ…? ちなみにココは完全な徒歩道だが、畑の中には舗装路もあったよ。

明治の古地図には川(用水路?)が流れており、水田利用可の良い感じな場所であるよ。

ここにも石積みあるよ。
ちなみにこの怪しい畦道は古い道の名残りらしく、古地図には隣村へ向かっていた。

隣の島河原村は小さな村だが、中山道と北国街道を結ぶ街道の入り口・千曲川の渡しという交通の要衝であり、この村から蓼科や望月へ向かう道が古くからあったようだ。望月の入り口付近はお城結構あったよ(当初行こうと思っていた外山城も街道監視みたいな場所にあるし)。
もう一本古い道がある。
 

この道と石積みが残る道は布下氏館跡を挟むように、平行に走っている。どちらかというと、グーグルマップで示した道がメインストリートっぽい。布下氏館もまた街道監視用の館だったようだ。

でも詰めの城がめっちゃ遠いところにあるのは変だよなぁ。

 

布下氏館跡周辺。すごく広い屋敷だったんじゃないかな?

 

 

 

★★★★☆

痕跡ゼロだけど温泉あるよ

 

 

<布下氏館>

築城年 不明

築城主 布下氏?