9月の半ばから10月終わり頃まで、あんまり記憶がないレベルで大変だった。自分の体調不良もあり、身内の入院などで病院に寝泊まりしたりで、暇つぶしに買ったクロスワードパズル誌を2日で解き終わり。現金当たれ!! とハガキたくさん送ったよ。良いことありますように☆という気持ちではなく、「良いことなければ人間なんぞやってらんないわ」という切実な気分。だから懸賞は当たると思う。
この日もトラブルがあり、やってらんねーわ! と、上田市と松本市を結ぶ古い街道を歩いた。保福寺道というが、元々は律令時代の東山道である。古代からある街道で趣が違う。
道の途中にはこういうものもあり↓
戦国時代の合戦で亡くなった大勢の兵の菩提を弔うお寺もある。
石碑の内容によると、天文17(1548)年の上田原合戦で武田軍と村上軍が争い、兵数は両軍合わせて17000人が参戦し、双方合わせて4千~6千人死んだようだ。観音寺では毎年八月に上田原合戦の戦没者の法要を営んでおり、また無名兵士たちのお墓もあるそうだ。
集落のメインストリートは「止まれ標識」のところまでっぽい。
グーグルマップの表記では、保福寺街道は「止まれ標識」で右へ曲がる。旧中之条村から上田市街地へ千曲川を渡るルート、現長野県道65号線のようだ。
個人的には、この道をまっすぐ行くのが旧道かと思った。
この道が旧保福寺街道かなっていう根拠はあるよ。
集落内にあった地図、保福寺街道が何故か途中から白く潰されている? 「止まれ標識」地点で交差している黒い道を斜めに横断する形で先へ向かっている風なのね。なんでこれ白塗りされているんだろう? 理由に興味ある。そもそもこの「上田原資料館」ってなんなのか? グーグルマップのストビューでも2012年時点で廃館みたいな佇まいだった。
今回見に行くのも、その白塗りされた道沿いにある「上田飛行場半地下工場跡」なので、そっちに行く。
上田飛行場というのは、ざっくり言うと長野県上田千曲高校から東側一帯の場所にあったようだ↓
千曲川と長野県道77号線の間にある、碁盤の目のように整備された土地が元は上田飛行場だったようだ。飛行場跡の碑は長野県上田千曲高校にあるそうだ。県道65号線(保福寺街道)沿いかつ橋の近くの上田千曲高校に上田飛行場の旧正門があったとか。
上田飛行場は全国で二番目に出来た市営の飛行場。上田千曲高校の碑文によると。
昭和4(1929)年の世界恐慌から昭和5(1930)年の昭和恐慌で世の中はびっくりするぐらい不景気になった。とりわけ農村部への影響が深刻で、絹糸やら米やら農産物の価格が大暴落した。上田も例外ではなく困窮した。この「中之条地区」は千曲川の氾濫が起こりやすく荒れた土地であったが、地方部にばらまかれた政府のお金(失業救済農山漁村臨時対策低利資金)で荒れた土地を水田にする失業対策事業を計画した。工事を進めていったが上手くいかず「ここを開墾するの諦めよう」と飛行場建設に方針転換した。同年に飛行場が完成。そして昭和8(1933)年に陸軍へ献納、上田陸軍飛行場となる。昭和12(1937)年に熊谷陸軍飛行学校上田分教場となり、その後は特攻隊の訓練場となる。終戦2日前まで特攻隊を送り出していた。終戦で飛行場は接収されてしまう。昭和21(1946)年から女学校、耕地、住宅地の建設が始まる。昭和5年に荒れた土地を開墾するという目的の事業が終戦と同時に達成されるとか皮肉だわ。そして今日では飛行場の原形は全く留めてないです。
という感じの内容が書かれている。
以前から気になっていたが、長野の山の中にこんな↓よく分からない慰霊碑があるのは、軍の飛行場があったからだったのか。
いや、別所まで妻子連れて無理心中とか…最後に家族で温泉入りたかったのかなって思ってたけど、近くに住んでいた人達だったのね。
ここは飛行場があるので、飛行機関連の工場もいくつかあった。
そのうちのひとつが「上田飛行場半地下工場」だった。他には「仁古田飛行機製造地下工場」なんてのもあって、こっちもいずれ見たいなって思っている。ただ、「半地下」とは何か。どういう状態を指しているのだろう?
この説明板には、上田飛行場周辺に航空機工場を移す計画があったことが書かれていた。
- 昭和20(1945)年5月に名古屋の三菱重工航空機工場が空襲で全滅
- 日本軍は本土決戦に備えて航空機工場を上田市周辺に集結させることを決め、同年6月に仁古田・東塩田・川辺にエンジン部品組み立て、飛行機製造の半地下工場を建設する
- 軍内では「ウ工事」と呼ばれる
- 大きな工場を作る予定が、着工後すぐに終戦となり建設中のものはそのまま放棄された
つまり、ちょっと作り始めただけで止めちゃってたみたい。文中の「ウ工事」とは上田飛行場の頭文字を取った言い方かな? 松代大本営は「マ工事」だったはず。ここの工事も重要な計画だっただろう。
でも残された部分は僅か。
このコンクリ部分くらい。
30年位前に作った感じのするコンクリだよ。重要な計画に相応しい、戦時中とは思えないほど良い物使っているんじゃないかな? 現代は人材不足倒産とかでこういうコンクリ造りのもの作る職人さん達も減っているとかいうけど、戦時中の方が腕のいい職人さんたちいっぱいいたのかな? どこで職人さんの技術は廃れてしまったのだろう。私がガッツリ継承するから高賃金で雇って欲しいな。
ここではガレージみたいなものを作る予定だったようだ。戦時中だから英語使えずに半地下なんていう変な名称にしたのかー?
半地下工場の説明板がなければ見過ごされてしまうほど細やかなものだった。
★☆☆☆☆
本当に何もない場所。
<上田飛行場半地下工場建設跡>
昭和20(1945)年着工