お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

手子塚城

色々立て込んでしまい、グズグズになっていたところ。「飲みに行ってこい」と強引に話をまとめられた。飲みに行く前、朝から資格の講習受けていて頭が疲れていたんだけどさ。

馬刺しと酒は最高。生きてて良かった。

 

千曲川のすぐそばに「手子塚城」があった。現在は神社(諏訪社)となっている。北信五岳道路の起点や立ヶ花橋(昔は立ヶ花の渡し)のすぐそばで、交通の要衝である場所。現在は国道117号線とその旧道の間にある。

入り口はこんな感じ↑

城の前の道路はこんな感じ↓

ちなみに、ガードレールの向こうはJR飯山線

 

最初、川が流れているのかと思った。列車が随分と低い位置で走っている。ひょっとして堀跡に線路を敷いたのかしら? 堀跡だとすれば、かなり深い空堀である。

 

入り口には「村社 諏訪社」の石柱の他、何かが刻まれた石碑もあった。

 

内容は、

 鈴木鶴治翁明治十二年于鳥居町中村亀
 次郎君長子也幼穎悟有至孝之誉出嗣長野
 市鈴木家推挙市会議員農会長等幾多名誉
 職有令名矣翁天資温厚篤宝富神仏尊崇之
 年為郷土氏神諏訪社昇格記念寄進狛犬
 社標寄付多額基本財産依之至極社殿設備
 荘厳焉氏子一同感謝之情不能禁茲胥謀欲
 建碑以仰翁敬神崇祖之高風不朽翁功徳請
 文於余余乃叔之如此矣

 昭和十九年五月 芳賀○(剛?)太郎撰文題額併書

だった。

明治12(1879)年生まれの鈴木鶴治さんはここ、鳥居村の中村亀治郎の長男で、デキが良かったから鈴木家の養子となり、(長野)市議員・農会長などの多くの名誉職を歴任した。性格は温厚、神仏を篤く敬っていたので、郷土の氏神である諏訪社が昇格した記念に狛犬や社標など多額の財産を寄付し、立派な社殿が出来た。氏子一同皆感謝し、鈴木鶴治さんの功徳を顕彰する。という感じの碑文かなー?

 

大正4(1915)年の人事興信録の情報では、

鈴木鶴治さんは、明治19(1886)年11月に鈴木勝之助さんという長野市在住の人の養子となり、明治29(1896)年5月に鈴木家当主となる。金融界に身を投じて長野実業銀行の取締役、第六十三銀行監査役、長野新聞監査役として知られる。

とあり、昭和3(1928)年版には上記の情報の他に、

 長野県多額納税者、六十三銀行・信濃電気・信濃製糸の各社監査役

という情報が付け足されていた。

お金持ってる人が地元に還元しているって話だな? 17歳で家督を継いで、色々と立派な仕事をしてきたエリートさんのようだ。大恐慌が起こった昭和4(1929)年にはどうなっているのか分からないところがちょっと怖い所。この人が関わっている企業が昭和4年に大変な目に遭っている。

 

長野実業銀行は明治36(1903)年から昭和3(1928)年まで存在していた長野市の銀行。銀行って合併や吸収を重ねたり、他県に移転だとか、ゴチャゴチャでよく分からない感じだけど、最終的には現在の八十二銀行に吸収されていったようだ。

具体的には

長野実業銀行(1903~1928)→信濃銀行(1928~1942、但し業績悪化で1930年に破綻、事業停止。1941年に長野市で整理再起案が決定された)→上田殖産銀行(1942~1943、信濃銀行が改称)→八十二銀行

という変遷。

 

明治11(1878)年に創立した国立銀行が前身の第六十三銀行。元は松代町に本店を置いていたが、経営難だったが明治24(1891)年の松代大火でトドメをさされたらしくて明治26(1893)年に稲荷山銀行と合併する。明治30(1897)年私立銀行として第六十三銀行となった。

現在はもう一つあったナンバー銀行と合併し、八十二銀行となる。

稲荷山銀行と合併したときに頭取となったのが飯島正治(1861~1922)さんという人で、この人は後に小坂家と戦う。また、信濃電気や長野新聞とも関わりが深い。

もしかしたら、鈴木さんは第六十三銀行の頭取だった飯島さんから薫陶を受けた優秀な部下かなんかだったのかもしれない。

1929年当時、県内最大の銀行だった信濃銀行が破綻に追い込まれた影響で、昭和6(1931)年に同じくナンバー銀行の第十九銀行(1877年創立)と合併して、現在の八十二銀行となる。

 

長野新聞は「初代」「2代目」の2種類があり、「初代」は紆余曲折を経て信濃毎日新聞に吸収されている。鈴木さんが関わっているのは2代目らしい。

初代の長野新聞は明治11(1978)年~明治13(1980)年

長野新報(1873、隔月刊)→官許長野毎週新聞(1874~1876、週刊)→長野新聞(1876~1879、隔日刊)→長野日日新聞(1880、日祝除く日刊)→信濃日報(1880~1881、日祝除く日刊)・信濃毎日新報(1880~1881)→信濃日報と信濃毎日新報が合併し、信濃毎日新聞(1881~1945)→信濃毎日共同新聞(1945)→信濃毎日新聞(1945~)

という感じ。明治14年から基本的に名前が変わらない(1945年に一瞬名前が変わっているが、終戦前後の政府命令によるもので全国紙と共同で発行させた為らしい)。

信濃毎日新報は明治13(1880)年に創刊された後発の新聞社であり、老舗の信濃日報とはライバル関係にあった。1年あまりで両社は社会情勢の変化で共倒れた。なんか自由民権運動というのが盛り上がっちゃってて、1881年に出来た政党のうち、

信濃日報=立憲改進党(イギリスの影響で漸進的な立憲主義、二院制)

信濃毎日新報=自由党(フランスの影響で急進的な自由主義一院制

という党の政治思想を支持する立場を取ったらしく、党の支持層も違うので新聞の購読者もそれぞれ違ってくる。その為、結局2社とも経営が行き詰まり、長野の政治家である小坂善之助が介入し、2社を合併させて出来たのが信濃毎日新聞だそうな(この件がキッカケで小坂家は政治の傍ら実業家にもなったようだ)。

 

「2代目」は、信濃毎日新聞に対抗する形で創刊された。創刊年は明治32(1899)年で廃刊年は昭和12(1937)年。

社長の小坂さんとその出身地域とで政治関係で対立していた人達が立ち上げたらしい。なので、信濃毎日新聞とも対立していた。

明治時代には拮抗していたが、大正時代に入ると社長が代替わりした信毎の紙面拡充などの事業拡大路線についていけず、昭和12(1937)年廃刊。

対立していた側が祭り上げたのが、第六十三銀行と関わりの深い飯島正治さん。元々は同じ長野一区という選挙区の有力なメンバーで構成される信濃実業同志会という団体のメンバーだったが、小坂家(上水内郡)ばかりずるいウチからも議員出したいということで更級郡の人々が担いだ人が飯島さんであり、同時に信濃実業同志会も小坂派・反小坂派に分裂した。飯島家も小坂家と同じく代々続いた旧家である。

小坂家と飯島家は帝国議会議員の椅子を何度か争っており、ライバル関係にあった。明治31(1989)年に2回行われた衆議院の総選挙では飯島家は小坂家に2回とも選挙で勝った。敗れた小坂さんは一度経営権を手放していた信濃毎日新聞の社長に返り咲いた。そこで更級郡にも新聞欲しいと創刊されたのが長野新聞である。最後の社長は県会議員・衆院議員・稲荷山町長も務めたことがある人物で、更級郡出身者の政治家や第六十三銀行関係者の社長が多いようだった。

 

信濃電気は明治36(1903)年から昭和12(1937)年に存在した電力会社で、本社は須坂市にあったそうだ。

長野市にあった長野電灯とはライバル関係にあり、2社とも東北信への電力供給をしていたが、昭和5(1930)年に長野電灯の子会社となってしまう。昭和12(1937)年、長野電灯に吸収合併され信濃電気は消滅。

長野電灯は明治30(1897)年、小坂善之助を中心として設立されて消滅まで小坂家が社長職を受け継いできた会社である。また、信濃電気も設立に飯島正治さんが関わっている。

長野電灯も色々あって、最終的には現在の中部電力の一部になった。

県内1番目開業の長野電灯は裾花川に水力発電所を設けており、善光寺周辺から始まり長野市に電力を供給して行った。県内6番目に開業の信濃電気は米子川に水力発電所を設けていた。信濃電気は須坂市から始まり、北側の地域へ供給範囲を急拡大した。西側の長野市方面にも供給しようかなと考えたらしく、長野市に元々あった長野電灯と喧嘩になり明治43(1910)年に長野県知事を調停者として棲み分ける契約が成立した。その為、東の上田地域へ勢力拡大を目論見、県内5番目設立の上田電灯を吸収合併した。水力発電所をいくつも開設増強したり、勢力下に電気鉄道がいくつか開業したり、その後もどんどん供給範囲を広げて北は飯山市・東は東御市までと大きく成長した。しかし昭和4(1930)年の昭和恐慌により一気に経営悪化し、長野電灯に吸収された。

この信濃電気は信越化学工業の前身会社(信越窒素肥料)も運営していた。新しく造った工場に供給すれば電気も将来に渡って安定的に売れる(そして電気代を高くぶんどってやろう)、という理由らしい。実際、一番の大口取引先はこの工場だったようだ。いや信越化学ってすんごい優良企業じゃんなんなんだよすげーな、と思った。ただし信濃電気が合併する直前、操業したばかりの信越窒素肥料の業績は非常に悪くて合併の一因にもなっていた。

現在の信越化学はチッソのグループ企業だが、元の信越窒素肥料はチッソの前身会社・日本窒素肥料信濃電気との合弁会社だった。信濃電気が電力と原材料の供給担当、日本窒素肥料が工場設立に関する工事や設置後の操業を担当したそうだ。

信濃電気は長野電灯と合併が決まった。合併が決定した時、資本金の額では信濃電気>長野電灯なのに、経営状況は信濃電気<長野電灯という捻れ方をしていたようだ。少し信濃電気の業績を安定させてから昭和12(1937)年両社は合併、長野電気という新会社を設立した。しかし戦争中の昭和16(1941)年に施行された配電統制令と昭和17(1942)年に電力供給管理の目的で設立された日本発送電という国策会社が出来て消滅した。配電統制令に基づき9つの配電会社が出来た。長野電気はこのうち中部配電という電力会社の下に置かれた。戦後、電気事業再編令により中部配電は中部電力となる。

 

信濃製糸は大正9年に松本で創立された会社である。名前の通り、製糸業の会社。小口大一という人物が社長を務めていた。

この人は諏訪にあった小口組という会社を経営していた一族から独立した人。彼は小口商事という会社を興し、独立の際にもらった彦根の製糸工場を経営しながら、土地を転がしたり、また新しく製糸工場を建てたりしていた。

その中のひとつが信濃製糸である。

小口商事は1929年に経営破綻した。何かの記事で経営破綻の理由を「大正バブル期だった1918~19年度を中心に約120万円を投じた工場などへの設備投資したこと」を挙げていた。記事中には信濃製糸の名前も挙げられており、たまたま大きく資金投入していた時期で重なってしまったのかもしれない。

資金を過剰投資したわけでもないが、たまたま大正バブル(1915~1920)が1920年3月に弾けてしまったことにある。第一次世界大戦のために好景気(大正バブル)で設備投資したところ、1920年には焼け野原だった欧州が完全に市場復帰したため、日本からの輸出品が過剰生産となり株価が暴落してしまったらしい。生糸は日本の主力輸出品だったために影響をモロに受けた。生糸の値段は半分以下に。1921年には銀行が次々倒産し、1922年に関東大震災。金の輸出解禁(金本位制)が云々(よく分からん)で揉めていたので円相場がぐちゃぐちゃ。やっと持ち直し初めて金の輸出解禁を発表した1929年11月だが、その年の10月にウォール街大暴落が起きた。タイミングが悪く1930年の金輸出解禁日では円高となる。輸出は激減し、その代わり日本から海外に金が大量に流出していった。生糸は農家の主力生産品でもあったので、農家の収入が半分以下に。もう一つの主力生産品は米だったが、たまたま昭和5年豊作年となってしまって米の価格も落ちた。そもそも国民の所得がバブル崩壊直前の3割減となったので購入額も減ってたかも?

小口組は大正14(1925)年の輸出向け生糸生産会社全国4位を誇った。しかし昭和恐慌のため昭和7年小口組は倒産した。諏訪・岡谷は製糸業で栄えた地域であり、全国生産の25%程度を担っていたのに、恐慌でほとんど倒産してしまった。

日本から金が流出しすぎたので、1932年には金輸出を禁止した。そのため、円が暴落し円安となる。景気は良くなった。日本の景気が良くなったために諸外国はこれに対抗し、ニューディール政策など各国でブロック経済を構築。経済圏の中は内需が拡大し景気も良くなるが、ブロック毎に経済格差が発生。日本は満州国を含んだ日満ブロックを構築した、らしい。

 

何か昔は更級郡と上水内郡で争っていたんだなーと思った。大恐慌の前は稲荷山って相当栄えていた町だったらしいので…今だと長野市千曲市が戦っている感じ? 凄い狭い世界だよ! 昭和19年だと、上記関係者が多数没落した後だろうと思う。裕福で華やかな時代を懐かしむ気持ちもあって、こんな記念碑を建ててみたのだろうか。お金がないと精神もしんどくなっちゃうもんね。

 

 

撰文の芳賀○太郎さんは「芳賀剛太郎」さんかな? と思った。同名の人がおり、慶応3(1867)年から昭和22(1947)年に生きていた人。漢詩の大家らしく、漢和辞典を編纂したりしている。石碑が建てられた昭和19年にはご存命。

 

入り口にも変な草むらあったよ。深そう。

 

怪しい。何かありそう(どうやら、埋められた堀の一部らしい)。

五輪塔?が見える。相当古そうだけど、よく分からない。

鎌倉時代から室町時代にかけて中国から禅宗が伝わると同時期に今日の墓石に近い形の角柱型が建てられるようになったらしく。こういう五輪塔はそれ以前に建てられた墓だと考えられる。五輪塔=墓は平安時代から鎌倉時代にかけて(禅宗室町幕府に庇護されたために、その頃は角柱の墓になっていたと思われる。庶民も戦国時代から角柱の墓を建てていたらしい)。

この城、意外と古い城なのかもしれない。

長野縣町村誌「蟹澤村」の項を見ると、大昔から蟹沢村と称していたが天変地異(河川氾濫とか?)や兵乱で村人が出ていったりで昔の話が伝わらないというような内容が書かれていた。手子塚城のことも来歴不明となっていた。

 

五輪塔群の上に見える部分が土塁のようだ。

 

説明板があった。

  • 東西75間(約135m)、南北65間(約117m)
  • 面積は507坪(約1673平方メートル)
  • 西側、南側、北側の3面は3段。東側は川に面しており、急斜面となっている
  • 北側には土塁とV字型の堀切が残っている
  • 西南には空堀があったと思われる(これがJR飯山線の線路のことかな?)
  • 築城者・築城年代は不明
  • 大倉城(2kmほど離れている)の出城であると伝わる

 

北側から3段の段郭と¬形の土塁→V字の堀切→本郭、という感じのようだ。

説明板がある場所も段の様子がよく分かる感じ。

 

↓急斜面という東側はこんな感じのようだ。

 

この道と、国道117号線の旧道は昔からあるようで。蟹澤村中心部に向かう↑ストビューにある道と、立ヶ花の渡しからのびている117号旧道の部分が手子塚城の裏手でぶつかっている。1車線幅だが、昔のメインストリートだった道らしい。

 

文中の「大倉城」は、長沼島津氏の詰城だという。この場所は飯山方面・新潟方面・中野方面・善光寺方面の街道が交わる交通の要衝にあるそうだ。

そんなに離れていないようだ。

 

ふと振り返ると、無数の五輪塔の他に祠まであった。なんだろうな…?

祠がある部分まで土塁らしい。

 

この先に本郭がある。

本郭は現在、神社になっている。入り口の標柱や記念碑の内容にも記載されていた諏訪社。こちらの神社は江戸時代に建てられたらしい。

段が見える。一気に城らしくなってきた。

何か柱?のような細長いモノが仕舞われている倉庫?

古そうな倉庫である。

瓦屋根に漆喰まで塗られて…防火対策バッチリだが、何を仕舞っているのだろうか。

 

この細長い倉庫を抜けると。

諏訪社の鳥居が見えてくる。

本郭近くになると、周りからは随分高くなっている。

何か書かれていたと思われるが、現在は完全に字が消えている。

本郭のある段が見える。

諏訪社の鳥居。

鳥居周りも広い郭が広がっている。

本郭は更に高い。

到着。

 

狛犬、昭和4年奉納。

 

社殿はもう少し高くなっており、石積みもあった。石積みは後世のものだと思われる。明治時代編纂の長野縣町村誌に載せられた絵図には石積みが書かれていた。

 

長野縣町村誌によると、

  • 健御名方神を祀る
  • 地元に伝わる話では、文治年間(1185~1190)に小笠原長清が信仰し土地を寄進した
  • 川中島合戦で兵火にかかる、上杉景虎上杉謙信かな? それとも三郎景虎様の方?)が再建した
  • 承応4(1655)年(改元して明暦元年)に、松平忠倶(当時の飯山藩主)が何らかの理由で神社の土地を没収した(村内の他の神社も松平忠倶により没収されている)
  • 弘化の地震善光寺地震)で瞬く間に建物が崩れた
  • 嘉永年間に再建

とあった。

この他、諏訪社は江戸時代に隣の古宮地籍(今は果樹園が広がっている)から移転してきたそうだ。

 

また、「(手子塚)古城址」の項目には

  • 文化の初め、社殿を再建
  • てっぺんにあった老松を伐採したとき、6尺余りの平らな石が発見された。石室の蓋石だった。謂れは謎
  • この他にも、折れた刀や槍、鏃など色々な物が出土している

とあった。

 

文化年間(1804~1818)までには、古宮から現在地に神社が移転していたらしい。

そして、手子塚城は古墳だったらしい…古墳の上にお城建てちゃうことは往々にしてあるようだ(高台になっているから、かなー?)。古墳の石室の中には炭っぽい塊が数個あっただけ、と書かれていた。壊れた武器が多々出てくるような激戦地だったので、仮に副葬品があったとしても、度々の兵火で炭化しちゃうよね!

この古墳については、その後何か調査された様子は無かった。今、社殿が建っている位置に石室の蓋が発見されたのかな? そもそも古墳として認識されているかどうかも不明。

 

手子塚城の周りには古代から中世の遺跡が大量にあった。膳棚遺跡・手子塚遺跡・坊溜・峯の畑遺跡・南曽峯遺跡・南曽峯古墳とか。旧蟹澤村内だけでもたくさんある。なんやかんやで古墳時代から人は住んでいる(ただし村人さんは移住と離散を繰り返す)ということなのかもしれない。

 

長野縣町村誌の内容だと、お城の来歴は不明ながらも当地は鎌倉時代初期から何かしらあったことがうかがえる。

記事中の小笠原長清源頼朝御家人。治承4(1180)年の富士川の戦いから源頼朝の家来になっており、甲斐源氏で、母親は和田義盛の妹、奥さんは上総広常の娘、富士の巻狩りにも参加しちゃってる、という割と御家人ど真ん中的な人じゃないの?と思いました。格式には御門葉(鎌倉将軍家の親族)だそうな。承久の乱では東山道から京へ上る東山道軍の将軍を、同じく甲斐源氏武田信光と共に務めたそうだ。

小笠原長清の父の加賀美遠光が信濃守に任じられたのは文治元(1185)年で、小笠原長清も後に補任された。この3年後ぐらいに独立したようで御家人となる(加賀美氏は弟が継いだようだ)。

 

旧蟹澤村内の神社はすべて創建年不明とされているが、由緒は残されている社がいくつかある。それら由緒の登場人物から推測すると一番古い神社がここ諏訪社のようだ。

 

社殿の裏手は崖だったよ。

自然に帰ろうとしている(多分)トイレ。

 

社殿の周り。

そのまま南側から下りる。

土塁っぽい。

南側も段郭みたいなのがあった。

鳥居の所まで下りてきた。

そのまま階段を下りたよ。お城とお堀?(JR飯山線)の間にある道。

この道路も段郭を改変したものかもしれない。

彼岸花が咲いていた。子供が喜んで摘もうとしたので慌てて止めた。綺麗だけどね…。そういえば、彼岸花が田んぼの近くでよく咲いている理由は「飢饉の時食べるため」という話を聞いたけど、コレ食べられるのだろうか…(調べたら毒抜きが出来るようだ。人間は凄い、有毒植物も無害化したり何でもやっちゃう)。

そうこうしているうちに、入り口についた。

 

 

★★★★☆

お散歩にちょうどいいお城だった。穏やかな場所だった。

 

 

<手子塚城>

築城年 不明

築城主 不明