お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

長野県発祥の地

明治4(1871)年、長野県が発生したようだ。

  1. 明治元(1868)年、江戸幕府消滅のため信濃国内の旗本領・幕府領がまとめて伊那県となる(県庁は飯島町の飯島陣屋に置かれた)
  2. 明治3(1870)年、伊那県のうち東北信地域の旧旗本領・幕府領が中野県として分かれる(県庁は中野市の中野陣屋に置かれた)
  3. 明治3(1870)年暮れに明治政府の増税に怒った民衆が一揆を起こし、中野県庁を焼いたり色々する
  4. 明治4(1871)年、中野市内で県庁を建て直すことを断念し移転を決意、善光寺領を併合して長野県が発生

という経緯で長野県が発生したようだ。

どさくさ紛れで善光寺領をゲットしたため、善光寺に縁の深い西方寺というお寺さんを間借りして庁舎とした。

西方寺は正治元(1199)年に法然善光寺詣りに来たときに創建したとか、大同2(807)年に空海が創建した宝乗寺という寺を浄土宗に改宗して西方寺になったとか、伝わるようだ。

この辺りの地籍が「善光寺領長野村」と言ったらしい。長野村でも善光寺門前町にかかる部分とそうではない部分に分かれていたらしく、善光寺が大きくなるにつれ門前町にかかる部分以外のわずかな農村部について長野村という呼ばれ方になってしまい、人々は「長野村」という村名すら忘れてしまったとか。ただし公的な台帳では長野村とその村域がきちんと掲載され続けて明治を迎える。

明治4(1871)年の長野県発生時ついでに飲み込んだ善光寺領長野村の名前を改めて周知し、県庁舎がある地区名を取り「長野県」と称したのが最初らしく、とても小さな村名から発生している。色々と失敗しちゃった中野県や善光寺県という特定の寺の名前を冠した県名を称する訳にはいかなかったんだろうねえ。

明治7(1874)年、間借りしていた西方寺近くに長野県庁舎が完成した。

明治11(1874)年、明治天皇行幸されたようだ。「明治天皇行幸之処」碑がある県道37号と国道406号の交差点部分から赤煉瓦館がある辺りの長方形の敷地が旧県庁舎の置かれたところらしい。「明治天皇行幸之処」碑は昭和12(1937)年に建てられたとか。碑には長野県庁跡とも書いてあったらしい。

 

現在の信州大学教育学部の敷地は旧県庁・旧師範学校・旧付属国民学校だった場所みたい。昔の県庁狭かったんだな。

 

明治天皇の碑に関しては、明治天皇聖蹟保存会というものが昭和5(1930)年に発足し「明治天皇行幸で訪れた建物や場所を残そう」という運動があったそうで。昭和8(1933)年から昭和23(1948)年まで377件指定された。うち長野県は22件、全国で二番目に多い。旧県庁の裏手にあった松本裁判所長野支庁跡にも碑があったそうだ。

 

昔の人って石碑好きよね。

 

ただ、県庁跡だったという石碑はあまりなかった。

教育学部の正門付近にある石碑ぐらい? これらも教育者を顕彰するものばかりだった。

皆さん幕末生まれ。

教育学部内。初めて入った。

 

長野県庁は明治7(1874)年竣工、明治41(1908)年焼失。

↑これが旧長野県庁の建物群のうち燃え残った書庫である。明治7(1874)年に最初の庁舎が落成の後も他の建物を増やしていき、明治28(1895)年に完成した書籍庫である。現在は国の登録有形文化財に指定されている。

この建物は現役で使われているそうだ。
平成26(2014)年の地震で内部が少し崩れてしまって書庫としては使えなくなった(それでも119年間書庫だったわけでしょ…)が、修復し多目的会館で利用出来るという。

外観は、入り口の庇がない事以外は変わってないそうな。

石垣も明治時代に積んだんだろうな。石加工してある。旧県庁時代の建物配置は謎だけど、書庫の位置は校舎より高い。赤煉瓦館周辺以外は造成されちゃってて、雰囲気が変わってしまった。

ちなみに旧長野県庁があった時代、隣の敷地に長野県師範学校があった。県庁が燃えて1ヶ月も経たないうちに師範学校もよく分からん(校舎が燃えれば休校するから恋人に会える、というサイコパスな)理由で放火され焼失。師範学校は同じ敷地に再建されている。

書庫入り口。

何がなくなっているか、分かりやすい。

ちょっと傷んでいるがコレ直しにくいかもねえ。鉄扉の向こうにも扉があるっぽい。

煉瓦も火災の熱風を浴びたりしているのかねー?

この窓も、鉄扉の中にガラス窓がいるんだろう。

 

 

★★★☆☆
この建物、なかなか見つからなかったのよ…。ひっそりしすぎ。

<旧長野県庁書籍庫>
竣工年 明治28(1895)年