お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

治田神社(下宮)

治田神社の下宮は意外と近い場所にあった。ひとつの村だったのが、規模が大きくなった為に分裂したという経緯だからかなー? 歩いても20分かからないようだ。1km程度しか離れていない。

溜池がある。桜の木が並んでいるので、春はお花見で賑わうのかもしれない。

池は並んで2つある。2つ合わせて治田池とも呼ぶらしい。どっちがどっちか分からないが、慶安元(1648)年に上田藩直轄工事で造成した池を上池または女池、明和2(1765)年に地元民が作った池を下池または男池と呼ぶそうだ。

 

ここは姥捨山冠着山)の遙拝所にもなっているらしく、石碑がいくつもあった。明治22(1889)年に「冠着山=姥捨山」と確定されたものの、昔は別の山だったなどとハッキリしない。ちなみにこの運動を起こした人は更級村初代村長だそうだ。

 

明治8(1875)年から編纂が始まった長野縣町村誌には、冠着嶽(羽尾村)・冠着山(上山田村)・姥捨山八幡村)という3つの山を紹介している。

まず、現在の冠着山は頂上付近で旧羽尾村と旧上山田村に分かれている。

八幡村にあるという姥捨山の記事には、

とあり、冠着山と姥捨山は別とはっきり書いてあった。麻績村の項には姥捨山という山の記載はなく、挙げられている山も八幡村が記載している姥捨山の特徴に一致しない。また「八幡村」名勝の項目にも姥捨山の記載があり、それによると、

  • 山については山の項に、寺(姥捨山長楽寺)については寺の項に記載してるが、山の中腹に「姥石」という巨石がある
  • 観音堂、観月堂があり、東には鏡台山があり観月の名勝地として古来より名高い

とのことで、どうやら長楽寺や姨捨棚田がある付近を指しているようだ。姨捨SAから西へ行けば麻績村だしね…。ただ、山っていうほどの場所でも無く、普通に民家が点在する見晴らしの良い高台の地区である。

姨捨地区と冠着山はまあまあ離れた場所にあるが、同じ山地の中にあって繋がっている。

 

旧更級村は羽尾村・若宮村・須坂村の3つの村からなり、初代村長は羽尾村から出た。元々の羽尾村は冠着山に対して執着心があったようで、明治16(1883)年に冠着山が村有林として下付されたあと、その経営を若宮、羽尾、須坂、上徳間、内川、千本柳の6つの村で行うことになったが、羽尾村は山の単独所有権を主張し、翌年には他の5つの村と訴訟に発展した。明治18(1885)年に6つの村の共同権が確定したものの、争いは泥沼化して明治20(1887)年に戸倉村の県会議員の調停により、ようやく沈静化したという。で、明治22(1889)年に旧羽尾村出身の更級村長による中央の関係機関へのロビー活動により「冠着山=姥捨山」となり、姥捨山の業績まで奪おうとした感じ。個人的には酷いと思います…。とはいえ、今も「姨捨」といえばJR姨捨駅・高速道路の姨捨SAや「田毎の月」の棚田がある地区のことをいうので、姨捨のすべてを奪われなかったので良かったと思う。

 

初代更級村長は「冠着山=姨捨山」事業に対して並々ならぬ熱意があったらしく、遙拝所の説明板には、

  • 冠着山山頂冠着宮奥宮、更級村中心の郷嶺山に冠着山里宮を建立
  • 遙拝所碑を、稲荷山の荒町・麻績の上町ガッタリ・坂城の刈谷原の3カ所に設置
  • 稲荷山宿の料亭、松葉屋の店先にも遙拝所碑を設置

とあった。少々皮肉っぽく「後年、この遙拝所碑は、(治田神社に隣接する)治田公園に移設されました。(初代更級村長塚田)雅丈の思惑とは異なる場所で、現在も冠着宮を遙拝しています」と締められていた。初代更級村長、やっぱりちょっと強引だったと思われていたかなー?

石碑は明治27(1894)年に稲荷山に建てられたもののようだ。説明板にあるように冠着山に向かっている訳でもなく、全く関係ない。

月見れば 衣手さむし さらしなや 姨捨山の みねの秋風 鎌倉右大臣(金槐和歌集 二八四)

信濃なる 富士とは言わむ 冠着の 峯に一夜は 月を見むとぞ 西行法師

という冠着山・姨捨山ゆかりの句が彫られている。西行法師の句は「伝・西行法師の歌」という扱いになっている(西行が詠んだという根拠がないらしい)。

 

「菅公廟」とあり、菅原道真を祀る。奥には平場があるものの建物はなく、取り壊されてしまったのかな?

このちんまりした祠が道真公霊廟かもしれないけど。

 

招魂殿もあった。

明治40年代(1907~1912)に更級郡で戦没者を慰霊するために建立されたが、太平洋戦争の終戦で1度取り壊された後に昭和30年代(1955~1964)に再び建立されたという。日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)、太平洋戦争(1941~1945)で殉死した英霊千十余りの柱を祀っているという。

治田公園内には「建物があったかもしれない」という雰囲気を醸し出す区画が多々あり、不思議な感じがする。

歌碑。読めなかった。

 

枯れた彼岸花。近年は彼岸花を見かけることが少なくなったな。子供の頃はあちこちに咲いていた気がする。

 

隣接する治田神社下宮に行く。

本来の参道ではないが、綺麗だった。

鳥居は池に向かって建っていた。鳥居の近くにも句碑があり、源三宜という人が安政5(1858)年に詠んだという。大層な名前だが誰だか分からん。

 

更級や 治田の神に ぬさむけて 里やすかれと 祈りつるかな

千曲川が度々氾濫し、稲荷山と杭瀬下新田との境界が分からなくなってしまい境界争いがしょっちゅう起こるため、安政5(1858)年に幕府から寺社奉行吟味役という役人の調査団が派遣された。そのメンバーの一人、高木源六郎源三宜が詠んだ歌の句碑。この人は静岡県静岡市の紺屋町陣屋の出張所である山梨県の「石川陣屋」で、文久2(1862)年に代官を務めていたらしい。

安政5(1858)年当時の肩書きは「御勘定評定所留役」だったようだ。この職種は勘定所(幕府の財政や民政を担当、時と場合によっては外交も担当するみたい)で勘定という役職の人が評定所(江戸時代の最高裁判所)へ出向しているという意味。就くには筆算の試験に合格する必要があるとwikiに書いてあった。世襲もあるが、才覚があれば下の身分からでも登用されるそうで、勘定所のトップである勘定奉行は叩き上げの実力者も数多くいたそうだ。

勘定職の人達が評定所へ出向し書記官にあたる評定所留役となり、裁判の審理を担当していたという。評定所のトップは、町奉行寺社奉行勘定奉行の三奉行と老中1名だったが、3つの奉行所だけで扱えない重要案件を裁く場であり、判決を決めるのは評定所留役に任じられた役人だったそうだ。法令や過去の判例を熟知している評定所留役は訴えの事実関係とその整理、関係者への聞き取りや容疑者取り調べ、書類作成をする役人。判決は三奉行や老中が下すものの、実際に捜査を担当した留役の意見が判決に大きく影響するという。今でいう特捜部みたいなもんかしらね? エリートじゃないの。

そんなエリートの句碑を建てようと思ったのだろうか。謂れが分からないものの、碑は新しそうに見えた。最近建てたように思える。

 

ここが↓

 

こんな感じで見えるらしい。

 

ちょうど本殿の前では地元の方が掃除をしていた。落ち葉がすごかった。相変わらずだが「転職成功しますように☆」と祈りを捧げた。

ここは桑原村から分離した治田村→稲荷山村の産土神である。桑原村は桑原宿という宿場があった栄えた村であったが、稲荷山村はそれ以上に栄えた地区である。明治8(1875)年に稲荷山町に昇格する更に栄えた地区であった。天正10(1582)年に稲荷山城が築かれ、その城下町として整備された稲荷山は昭和恐慌で没落する以前は北信濃の経済の中心地だったそうだ。


長野縣町村誌の「稲荷山町」治田神社の項には、

御祭神 治田太神・倉稲魂神事代主神

とある。勧請年月は不明なものの、白鳳5(665? 676?)年に再建→寿永2(1183)年焼失→永享8(1436)年焼失→天正11(1583)年修復→寛政2年造営と古い年号が並ぶ。昔から「元町」と呼ばれるこの場所にあったと言われる、と書いてあった。村落が大きくなると治田神社が分霊され、村落内に祠が点在するようになったそうだ。

天文年間、武田晴信が侵攻してきたために神社の焼失を恐れた氏子が隣村の桑原村にある治田神社を「一ノ諏訪明神」と改称し兵火を逃れたというので、この治田神社も合わせて上下諏訪明神(二社)とした。天正10(1582)年に治田村から稲荷山村に改称し、元和5(1619)年に2村(稲荷山村・桑原村)に分裂した。桑原村には上諏訪明神が属した。治田神社自体は位置変わってない。

と、「元々、治田神社はウチの村内にありました」と主張している。そのせいか、稲荷山の治田神社は縣社と格が高い。桑原村の記事には「治田神社はいくどか遷座している」としか書かれておらず、上宮が元だよと匂わせているものの、ふんわりした書き方とも思えた。遷座っていったら普通は移動したって意味だしさ…。

ちなみに、桑原村の記事は他にも「古い話は不明だが更級郡治田荘更級里桑原郷と称し、桑原村だった」としか書かれておらず、とにかく桑原を推している。二つの村は仲悪かったんかね…?

 

稲荷山の治田神社下宮はハッキリと「うちが最初なんで」と主張している。上宮と下宮とか、遷座っていう単語に惑わされて、旧桑原村の方が古いのかと勘違いしていたかもしれない。

じゃあなんであちらが上宮なのか? という疑問は上宮が出来た時期は向こうの方が栄えていたとか、兵火を逃れるアイデアを桑原村が思いついたからって起源が理由じゃないしれない、と思った。

 

上宮には健御名方命を祀り、下宮は兄の事代主命を祀っている。古地図だと、治田神社下宮を境に桑原村と稲荷山村が分かれているようだ。

長野縣町村誌の記事には、治田神社下宮の摂社についても紹介されていた。

ちなみに高市社は稲荷山町の守護神として中心部に祀られていたが、明治9(1876)年に今の地に移した、とあった。まあ、治田神社は事代主命も合祀されているしね、ちょうど良かったのかも。

 

事代主命は出雲の国譲り神話で、お父様の大国主命が「(国を譲る話については)うちの長男に聞いてくれ」と丸投げされ、海釣りをしている最中に国譲りを迫られたので「分かった」と答えて「天の逆手」を行い自殺しちゃった神様。「天の逆手」とは裏拍手(逆拍手)だと一般的に考えられているようだ。伊勢物語第96段「天の逆手」は内容は会う約束を破った女を男が深く呪うという内容の話。

事代主命は国譲りを迫った皇孫に対して呪いをかけて死んでいった神様らしい。「天の逆手」自体は呪いである説が通説となっているものの、本来は天の栄手であって天皇家の繁栄を願う祈りであるとかいう人もいる。

事代主命の娘・媛蹈鞴五十鈴媛は初代天皇神武天皇の皇后に立てられており、第2代天皇綏靖天皇を産んでいる。綏靖天皇妃も事代主命の娘である五十鈴依媛命で、第3代天皇安寧天皇を産み、安寧天皇の皇后は事代主命の子孫である渟名底仲媛。これでは、天皇家を呪う=自分の子孫を呪う、となってしまう。呪うに呪えない。可哀想だ。

この神様は釣りが趣味という設定で、釣り好き→豊漁の神様→商売繁盛の神様と進化していき、現在は七福神のえびす様と結びついてテンション高めで明るい感じになっている。大国主命も大黒様になっちゃったしな。

兵火回避のために健御名方命のお兄様、事代主命を祀っていたら大商都に発展したということか。これはとんでもないご利益ありそうだわ。

 

熊田社の熊田大神については、治田大神こと彦坐王の子孫である熊田氏のことだろうなと思う。

 

一際立派なお社が北野天満宮(北野社)。もしかしたら以前は、菅公廟と彫られた大きな石碑の向こうの空き地にあったお社かもしれないと思った。

他のお社も高市社が多く、祠のどれかが熊田社なのかもしれない。

祠の前には鳥居があったような跡もある。

 

何故か高市社らしき石碑が埋まっている。どうしたんだ。

 

もう一度鳥居をくぐった。お百度参りのやつある。

本来の参道である。

 

参道を歩いていたら、マダムに呼び止められた。マダムが言うには「友達が治田神社の池を週2ぐらいでランニングしている。今日ランニングしているはずなので会いに来てみた」とのこと。走っている人はいなかったが、そういえば私が駐車場で車を番長止めしてしまい、後からきたおばさんが迷惑そうな感じになってたな、って思い出した。ちょっと気まずいので「知らないし地元民じゃないですー」と去ろうとしたが、マダムは何故か私に色々聞いてくる。マダムはこの神社に初めて来たそうで、神社の話を知りたがった。いや私は地元民じゃないんだって。ご友人の連絡先は知らないのだろうか? ご友人には出会えたのだろうか? その後は分からない。

神馬が奉納されていた。さすが古い神社。

他にも石碑や神社の略年表など掲示物もあった。

茶道のお稽古のとき、よく部屋にかけられている掛け軸の言葉。碧巌録という中国の仏教書に載っている禅語で、「毎日が良い日だ」って意味かなー? 毎日がエブリデイみたいなノリを感じるが、心構えの話だと思います。

 

狛犬はなんかカワイイというか。

古い手水舎に使われていた瓦だそう。諏訪大社の紋である梶の紋を使用している。

現在の手水舎はこんな感じだった。

親しみやすいというか、まあ普通な感じ。

鳥居。この鳥居がある道は元町地区のメインストリートだと思われる。この先へ行くと旧桑原村になる。

この石標も新しい感じ。

 

玉垣には奉納者名がずらっと。

鳥居近くには宮司さんや大人物のお名前が。

倉石忠雄さんは地元出身の政治家(玉垣にも法務大臣の肩書きがある)。戦後国会議員になった人で同期は田中角栄鈴木善幸中曽根康弘等だって。明治33(1900)年生まれ、昭和61(1986)年没。

児玉幸多さんも地元出身で学者。学習院大学の名誉教授で昭和天皇上皇陛下に講義し、今上陛下はゼミの教え子と皇族と深い繋がりがあるので儀式に参加したりもしていた。明治42(1909)年誕生、平成19(2007)年没。

その他の人々も地元の名士だったり、神社に多大な貢献をしているんだろう。

 

玉垣倉石忠雄さんが法務大臣だった昭和54(1979)年11月から昭和55(1980)年7月の期間に竣工したのだろうか。

 

千曲市内だと合格鉛筆を貸し出してくれる(合格したら戻す)という岡地天満宮(毎年ローカルニュースでやってる)が有名なのかなって思っていたけど、ここも賑わうらしい。

ずらーっと人名が並んでるー!

 

 

★★★★☆

賑々しい雰囲気で、近所の人達がよく来ているようだ。

 

<治田神社 下宮>

創建年 不明