新海三社神社に来た。
神社の説明板には、
- 興波岐命(佐久地方開拓の祖神)、健御名方命(興波岐命の父神)、事代主命(興波岐命の伯父神)と誉田別命(八幡神)の四神を祀る
- 佐久地方の総社
- 古来より人々の崇敬を集めており、武家からも源氏・足利氏・田口氏・武田氏・徳川氏・大給氏より寄進を受けている
- 源頼朝は源氏の祖神である誉田別命も祀るよう命じ、甲斐源氏である武田氏も戦勝祈願文を奉じている
- 三重塔は嘉祥2(849)年建立、東本殿は室町時代に再建、それぞれ国の重要文化財
とあった。
図を見ると、左側の2つの社(西本社と中本社)と右側の1つの社(東本社)が分かれているように思えた。重文の建造物は東本社とその裏手にある三重塔。
西本社と中本社の間には御魂代石という磐座的な石があるようだ。拝殿も西本社と中本社側にあるし、元々はこの二つの社がメインだったのか? と思ったら。
祀られている神様はそれぞれ、
だったので、主祭神と思われる興波岐命がいらっしゃる東本社が主殿のようだ…これはちょっと罠だわ。
ちなみに、御魂代石というのは私の想像と違い、石造物で彫り物がしてるらしい。しかも室町時代を示す年月日が入っている。
興波岐命は諏訪の健御名方命の子で、佐久地方を開拓した神様だそうだ。田口を本拠地とした集団のリーダーで、古墳時代から祀られているとあった。図にも「西御陵」「中御陵」「東御陵」って場所があった。身分の高い人の墓みたいじゃない? この他にも古墳が残っているようだ。
この辺りを区画整備したときに移動してきたんじゃないかな? と思われる道祖神たち。
拝殿↑
本来の参道↑
なかなか雰囲気よい。
まだ七五三の季節じゃないと思うのに、幟がたくさんあるよ。
古い祠が有り、このすぐ近くに注連縄を張った大きな石があった。御休石という名前で、神様がお出かけになる神事?があるときに使われる石らしい。なんか詳細見たけどよく分からなかったよ。見た感じが磐座で、御魂代石(石塔)よりもソレっぽい。まあ分類上間違いなく磐座なんだろうけどさ…。
怪しい跡地もあった。
神宮寺跡だそうな。
お寺は廃止ではなく移転だそうで、現存している。
神宮寺跡、建物の基礎とか石段なんかそのまま自然に還りつつあり、私の好きな雰囲気となっている。
神宮寺跡のすぐ横には東本社だった。
興波岐命を新開神(にいさくのかみ)とも呼ばれ、その名からこの神社も「佐久神社」とか呼ぶらしいし、もしかしたら地名の「さく」もこの神様の名前から来ているのかしら?
東本社からちょっと離れた所に中本社・西本社。あの二つは仲良く隣り合っている。
もうひとつの重文は東本社の裏、ひっそりといた。真正面からは見えないよ。
東本社も三重塔もほぼ同じ時代に造られているらしい。三重塔は上宮寺のものだったが明治元年の廃仏毀釈の際に「お寺さんのじゃなくて、ウチの宝物庫」と申請したために破壊されず残されたそうだ。
↑神楽殿と拝殿
↑中本社・西本社
東本社と趣が違う。朱色だし。江戸時代に建てられたのかしら?
源頼朝が誉田別命を合祀した際に社殿を再興したらしいので、それ以前から存在していたらしい。その後も改築と再建を繰り返して、元禄12(1699)年から2年かけて現在の社殿を造ったようだ。
ちなみに拝殿は中本社に向かって造られており、中本社の祭神は健御名方命だった。
この配置だと本当の主祭神って健御名方命じゃないの…? と不安になってしまうよ。なんとかしてほしい(大昔は健御名方命が主祭神だったが、東本社が国重文になったので主祭神を変えました説が捨てられない)。
元は三重塔の前にはお堂があって、それが明治に入り廃される→東本社になる建物が神楽殿前から移転する→古い社だったので重要文化財に、という流れらしいです。だから東本社はボッチらしい。あの場所、冷静に考えればお寺の境内にあたるはずだしなー。
ただ「興波岐命は本来の御祭神ではないのか」というわけではなく。神楽殿の前にあり移転したお社には大昔から此処にいた地主神(健御名方命の子とされる)が祀られていたらしい。その神様が最終的に「興波岐命という神号である」となったらしい(時代が下っても神様の名前が出てこなかったとか)。
とにかく変わった神社だなと思った。
↑拝殿
↑御神木
★★★★★
古墳もたくさんあるし、杉林が綺麗だった
<新海三社神社>
創建年 不明