お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

富山城

「ご飯が美味い」「景観がいい」「観光地ではない」という富山が世界に見つかってしまったらしい。私自身は大きな港が好きなので、こういう場所好き。

北陸だと伏木港が一番大きい。伏木港は昔行ったことがあるけどなんか刺さらなかった。富山新港が好き。

富山湾にある3つの港(伏木港、富山港、富山新港)を総称して伏木富山港と総称している。国際拠点港湾(港湾法における上から二番目に格式高い港)に指定されており、ロシア・中国・韓国あたりを行き来する船が多いようだ。日本海側に限定すれば取扱高は新潟港についで伏木富山港となるようだ。ロシア関係だけなら伏木富山港が国内1位。

令和6年全国開港別貿易額表によると日本国内で一番貿易額が高いのは「成田国際空港(368,334億円)」と「東京港(246,202億円)」。またこの表によれば、36位「新潟(9,007億円)」・47位「伏木(4,292億円)」となっている。

貿易収支とか経済の話はあまり興味がないのだが船には関心が高く、今回も「海王丸に入りたい」と提案した。却下された。子供が興味ないって言うのでね…。

巡視船だ!!! (これも子供が関心示さず)

あと、背後の橋(新湊大橋というそうだ)を走りたいとも言ったが、これは話し合う中で断念した。どこに出るのか分からないからだ。迷子になっちゃうよ。

 

富山城の入り口。

公園になっており、石垣が残る。入り口はここ。

ちなみに城の下は地下駐車場だった。

富山城は明治維新で廃城となり建物を払い下げたり移築、本丸御殿は県庁に、堀など町造りの邪魔になりそうな部分は埋め立てられる、ということになり。石垣なんかも壊されたりしたらしい。

今ある門も、明治初めに別の場所に移築された千歳御殿という御屋敷の門だったものを平成になり当地に復元したものだという。

千歳御門は、嘉永2(1849)年に建てられた藩主隠居用の御屋敷・千歳御殿にあった建物の門。富山城内の建築物で唯一現存しているもの。

明治5(1872)年に豪農に払い下げられ、平成17(2005)年に所有者から富山市へ寄贈された。平成18(2006)年から平成20(2008)年にかけて門を移築している。前述の通り城内にある隠居用の御屋敷の門だったため、元あった門ではない。この門の形式は三間薬医門といい、東大赤門(旧加賀藩主前田家上屋敷御守殿門)と同じ形式だという。富山藩は加賀藩支藩であるので、同じ形式の門を作ったのだろうか? 私は富山=薬のイメージなので、それに因んだものかと思ったよ。また水戸黄門の影響で、富山の薬売りの正体は爆薬で建物を破壊したりするムキムキ忍者(飛猿)だと思っている。

千歳御門に限らず城跡公園内の建物は往時のものとして復元されたわけではないようだ。地下駐車場の入り口もそうだし、他の建物もそう。最近流行りの「史実に基づいた復元」ではない。大阪城とか熊本城に近い復元の仕方なのかな? すごいなと思うことには変わりないし些末な話だからどっちでもいいんだけど。さすがに城には天守閣がないと駄目だって言い張る人はとりあえず殴っておこうかとは思うよ。

富山城も周囲の景観にマッチしており、とても雰囲気が良かった。駐車場が地下にあることも良いんだと思う。

千歳御門も知らなければ「昔からあった門」としか思えない。さすがニューヨークタイムズに紹介される街だけあるよ。建築とかかじっていたら「あれ?」って思うんだろうか。

内部は普通に公園で、建物は現存していない。

こういう庭園も後世のものだと思う。

 

天文12(1543)年に神保長職が命じて築城した、という説が有力のようだ。この人は越中国守護代・神保氏の当主であった。永正17(1521)年に越中守護の畠山氏と越後守護代の長尾氏の連合軍に敗れ、享禄4(1531)年の享禄の錯乱という内乱で負け、没落していく神保家を一生懸命再興しようとしている人だったらしい。

この当時の越中国越中国守護の畠山氏が滅亡しており、神保氏・椎名氏という二家で実質統治されていたそうだ。しかしながらどちらも大きな影響力を持っていたわけでもなく、隣の加賀国の影響で一向一揆衆の力が増していったようだ。神保氏は一向一揆の方々と協力して(そして武田氏の支援も受け)椎名氏を追い出すことに決めたそうで、越中大乱という大きな戦争になった。この戦争のために富山城を作ったとされている。

永禄3(1560)年に仲裁しにきた上杉謙信越中出兵に負けて、その後も懲りずに椎名氏を攻撃し続けたがそのたびに上杉謙信が仲裁という加勢に来て負け続けていた(度々上杉に援軍をお願いしている理由は、当時長尾氏から養子を迎えていたためとされる)。3回か4回かそれ以上か、懲りずに同じ事を繰り返している。トムとジェリーかと思ったぐらい。武田氏と上杉氏の代理戦争とも言われているようだ。

色々あり状況が変わったので上杉家と共闘する場面もあったが、神保長職は反上杉の立場であったようだ。度重なる国内の内乱・神保家の内紛で家は更に没落してしまった。嫡子の神保長住織田信長に仕えるため京に上っており、当主は神保長城となっていたらしい。天正4(1576)年までは神保長職と長城も存命していた。同年、将軍・足利義昭の第3次信長包囲網に参加した上杉謙信の北陸侵攻で敵と見做され、神保氏は滅亡している。

天正6(1678)年に上杉謙信が急死すると、信長に仕えていた神保長住が援軍を受け、椎名小四郎長尾景直、長尾氏の庶流出身で椎名氏の名跡を継いだ)と河田長親(上杉家臣で、上杉氏から離反した椎名氏を追放し居城と領地を受け継いだ)を破り富山城に入城する。この時、補佐役として佐々成政という信長の家臣が越中国平定に参加していたが、天正9(1581)年には神保氏の上司となっていたようだ。

 

しかし天正10(1582)年春に元家臣の小島職鎮と唐人親広がクーデターを起こして、神保氏から富山城を奪う事件が発生。神保長住が失脚し織田家中から追放される。結果、佐々成政越中国守護となり富山城を居城とした。同年に本能寺の変が起き、織田家羽柴秀吉方と柴田勝家方と二分された。佐々成政は上司である柴田勝家についた。

天正11(1583)年に羽柴秀吉柴田勝家が戦う(賤ヶ岳の戦い)。前年にようやく越中国を掌握したものの内部・外部(特に上杉氏)からの急襲が怖くて佐々成政が動けず、援軍もろくに出せなかった上に柴田さん負ける。佐々成政は降伏した。越中国をそのまま任されたが「柴田勝家が滅亡したのは佐々成政のせい」という噂も流れたそうだ、かわいそう。

天正12(1584)年に羽柴秀吉徳川家康が戦う(小牧・長久手の戦い)。佐々成政は徳川方についたが、また負けた。天正13(1585)年、反抗的ということで羽柴秀吉が富山城を軍勢10万で包囲した。結果、佐々成政は富山城を壊され越中国の所領を失い妻子と大阪に移住を命じられた。かわいそう。その後も謎の火事で家を燃やされたり(嫌がらせ)、朝鮮出兵の武功で国主に返り咲くも国政の責任を取らされ切腹した。この人の娘が狩野尚信に嫁いで狩野探幽を生んでいるので、この点は凄いなと思う。

 

富山城のあった新川郡以外の越中国前田利長が受け継いだ。新川郡は(多分)羽柴秀吉→土方雄久(前田利長の従兄弟、布市藩)→徳川家康→土方雄久と支配が移る。

土方雄久の家は織田の元家臣で、本人は織田信雄の家来だった。小牧・長久手の戦いのキッカケを作った人である。天正15(1587)年に犬山城主となるが、天正18(1590)年の「小田原の役」戦後の論功行賞で関東八州を徳川家康に、家康の旧領だった5カ国を織田信雄に与える話を織田信雄が蹴ってしまったことから失脚し、土方雄久は豊臣家に使えることとなった。天正19(1591)年に越中国新川郡を与えられた。

慶長4(1599)年に徳川家康の暗殺を計画したという理由で失脚、慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いやるから前田利長を東軍に勧誘しろと徳川家康に命じられ、徳川家家臣となる。慶長5(1600)年に再び越中国新川郡の領主となる。

慶長13(1608)に新川郡が前田氏所領となる。土方雄久の布市藩1万石と前田家の散在する1万石超の所領を交換しようと持ちかけて幕府の許可も得て交換したという。土方雄久はタバコの吸いすぎで56歳で亡くなったようだ。

 

前田家は越中国を手に入れ、徳川家が天下取ったので前田利長が富山城の再建を始めた。慶長10(1605)年、弟の前田利常を後継者とし隠居して富山城に隠居した。この時、新川郡19万石の領主ともなるが、前田利常(13)だと藩の経営がロクにできないので実質的に藩運営をしていたようだ。慶長14(1609)年の火事で富山城を失う。近くに高岡城を作って引っ越し。戻れないまま慶長19(1614)年に前田利長が死去。

 

寛永16(1639)年、加賀藩主の前田利常が次男の利次に10万石を与えて分家させた(富山藩)。当時は加賀藩領内にあった富山城に移り、いずれ富山藩内に城を作って居城とする予定がお金なくて断念する。万治2(1659)年、加賀藩との領地交換で富山城周辺が富山藩領となり、正式に富山城を居城とする。万治4(1661)年に幕府の許可を得て富山城及び城下町の修復・開発する。

以後、明治維新まで富山藩が存続した。

 

石垣は多分、昔からある物。

城っぽい物は昭和28(1953)年に着工した富山産業大博覧会の会場である。特に、元あった建物を復元させたものではなく、城っぽい感じで建てた物だという。戦後の焼け野原からの復興を記念して作った模擬天守なので、古くからあるらしい石垣とかとは調和取れていない。地元では通称「富山城」で知られている。

明治時代は建築物も植木なんかも払い下げられて現存するものはあまりないらしい。

千歳御殿という富山城に隣接した御殿もあったが、こちらも解体され遊郭に生まれ変わって現在も歓楽街らしい。

 

明治から昭和にかけて火事が度々起こっており毎回焼失している。そして太平洋戦争で空襲があり街が焼かれ、戦後は富山城に進駐軍が住んだ。現・富山城は平成15(2003)年から耐震補強工事を始め、翌平成16(2004)年に完了する。同年に国の登録有形文化財に指定された。

 

富山城址公園の再整備は平成26(2014)年に完了した。しかし近年流行りの史実に基づいた復元ではないが、入り口の門といい元あったものや昔の風景に興味ない感じが潔くていいなと思った。街並みは綺麗だったし、過ごしやすければいいかっていう雰囲気。

この時期は令和6(2024)年に発生した能登半島地震で壊れた石垣他、公園内の修復作業が盛んに行われていた。

唯一、この辺りは城の雰囲気あった。

富山城に唯一残るお堀。他は埋め立てられてしまったという。

ここで鷺の大量死があったそうで、富山市が死因を調査したところ松の木の伐採時期が駄目だったことが分かった。死んだ鷺は令和7年7月29日時点で107羽と発表されている。近年、鷺の糞害や鳴き声がうるさいので問題となっていたようで、城内の松を6本切った。そうしたら住処にしていた鷺の子育て期間とぶつかってしまい、家を失い路頭に迷った鷺一家が多くおり、ご飯が食べられずに餓死したそうだ。確かに松林にデカい鳥がいっぱいいたなーとは思ったが、100羽以上住んでいることに驚いた。だって松林、そんなに大きくないもん。

昔と現在を重ね合わせたもの。富山藩10万石の居城としてはきちんと格のある規模だったらしい。あんまり面影残ってないのかもね。

「富山城」は現在博物館になっている。中は富山城に関する物が展示されていた。あまり中は広くなかった。

一番上の階から富山市街地が見えた。

 


★★☆☆☆

静かで良かった

 

<富山城>
築城年 天文12(1543)年?

築城主 神保長職

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



相変わらず、昔よく聞いていたアイドルグループの動画をyoutubeで漁っては見ている。最近はBSBまで見始めてしまい、BSBもデビューしたころは酷かったんだなって思った。ハウィーDとニック・カーターがリードボーカルだったよ。
いろんなのを見ているせいで、非常に暗い曲に行き着いてしまい、夜中に心に刺さって泣いたりしていたわw

 

終わった人間関係についての曲である。
この人が流行った理由がなんとなく分かったよ…そしてアメリカで売れないのも。一見生意気で快楽的なのに、内面に広がる闇。こういう人好き。アメリカじゃ受けないだろうな(アメリカ人は短絡的だしアメリカ国内にしか関心ない感じするし)。

 

  1. たまたま見つけたTAKE THATが何かのイベント(ロイヤルアルバートホールのステージじゃないかな?)で珍しく凄い迫力で歌っているゲイリー・バーロウと横で挙動不審になっているロビー・ウィリアムズの動画を見つけてしまう
  2. 妙に気になってしまい、色々調べて見ると、1994年11月23日(この日は第1回MTVユーロアワードの前日だった、TAKE THATは最優秀グループ賞を受賞した)にメンバーとオフを過ごしていたロビー・ウィリアムズがオーバードーズを起こし黒い胆汁をまき散らしたようで、それがキッカケでロビーを切ることになる
  3. 問題の動画の冒頭に「先週、MTVユーロアワードで最優秀グループ賞を受賞した」と紹介されていたので、やらかした直後だったようだ
  4. 多分、ゲイリー・バーロウめっちゃ怒っているし、歌っている途中でもロビー・ウィリアムズがちらちらゲイリーを見ている様子?

 

前述のPVは目つきがおかしいが、ネブワースのコンサートで歌っている動画も良かったんだけど、歌っているとどんどん目つきが虚ろになっている。曲の内容も重たい。最後に「僕たちの愛ははっきり言って死んでる」って言ってるし。

この曲は、「皆と疎遠にならず、共に生きていく話を聞きたい」とか「ラブソングを歌ってくれ、連絡欲しい」とか「嫌いになりたくない」とか「あなたが別れようというたび僕は留まりたくなった」とか「一緒に居てすごく楽しかった、ありがとう」とか「あなたが僕を見るたび、笑うたびにとても空しい気分になった」とか曲の終わりに近づくほど重たくなっていく。

2008年に曲の本来の意味を公表した(それまで大げんか中だったから言えなかったのかな? 90年半ばの決裂した後からずーっと悪口言ってた)。で、最後のフレーズを「僕たちの愛ははっきり言って生きてる」に変更した。何故なら再び友人関係になったから。

 

その時に一緒に作った仲直りの曲に、「手紙を書いたんだけど酷い言葉ばかりになっちゃってね」ってフレーズが有り、それがこの曲なのか? 「アルバートホールは僕の涙で溢れそうだった」みたいなフレーズもあって、それが私が見つけた動画の内容なのか?

いろいろ考えてしまったら悲しくなってしまい、「誰も悪くない、あなた方が若いから仕方ない」みたいな年寄り的な感傷に浸ってしまった。そして夜中No Regretsを聞いて泣くご乱心状態となる。

 

数日後に冷静になった。

やっぱり才能がある人達って高次元すぎて、ついていけない。作品を通して言いたいことを言うスタイルは一般人できない。元に戻って良かったねって気持ちと、4月に見た映画は私がもっと良い感じに作り直したいと思ったことと、一体本当はどういう関係なの?(ビジネス仲良しなのでは?)という疑問と、様々な感情が入り乱れ、まだしばらく動画を漁りそうである。

全体の流れを見ると世界でも稀な良い話なんだけどねー。