お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

鎌原城

鎌原城に行ったよ。ここは鎌原観音堂の近く。

 

というか、鎌原観音堂近くの嬬恋村郷土資料館(ここの展示物はほぼ鎌原観音堂や付近の遺物関係のはず)の駐車場あたりから側道に入っていく。

 

細い道を進んでいくと急にキャベツ畑が現れる。川と細長い丘陵に挟まれた耕作地が旧鎌原城の敷地のようだ。

 

進入した道路は細かったが、城域はかなり広いようだ。鎌原城址のほぼ中央に道があるのでひょっとしたら相当改変しているのかもしれない。

ちなみにこの日は標高が700m~1400mという嬬恋村ですら気温が30℃近くあり暑かったです(下界の気温など考えることすら恐ろしい)。6月から9月の平均気温は15℃~20℃だそうだ。外出自体が危険行為な一日。後で調べたら、お城に出かけた9時頃で既に28℃だった。

鎌原城址駐車場周辺だけ見てきましたよ…ここは三の丸あたりなのかな?

草刈りが終わったばかりという様子。

本丸・二の丸はこの道の向こうである。多分遠い。

駐車場も奥の方には土塁でしっかり囲まれていた。

駐車場に設置された案内板には、来歴が書かれていた。

  • 鎌原城は南北約400m・幅約150mの広さ
  • (我々が入ってきた鎌原観音堂からの道がある)南側から三の丸、二の丸、本丸、東郭、笹郭の5郭に分かれる
  • この辺りには「上城」「下城」「丸」「陣場」などの城に関係した地名が残る
  • 郭を仕切る堀切は現在、道や畑で不明瞭となっている
  • 虎口(大手)は三の丸の南堀切の中央部にあり、食い違い構造であったと思われる
  • 吾妻郡への武田氏侵攻の際、鎌原城主は早々と武田氏に下り、鎌原城は吾妻郡侵攻における拠点となった
  • 永禄年間での上杉氏と武田氏の争いで、鎌原城は激しい争奪戦が繰り広げられた
  • 鎌原城は応永4(1397)年築城と伝わる
  • 廃城年は元和元(1615)年、一国一城令による

城主は鎌原氏とされる。こちらについては、

  • 滋野氏→海野氏の一族(真田氏と同族)
  • 平安時代末期より現在の嬬恋村を支配した豪族・下屋氏の末裔
  • 嬬恋村を開拓した下屋幸房の子孫・下屋幸兼が鎌原に屋敷を構え、「鎌原氏」と称したことが始まり
  • 天和元(1681)年に当時沼田藩真田氏家老であった鎌原重継が記した書類によれば、「鎌原氏の先祖は三原(現・嬬恋村)を支配し、頼朝の頃には鎌倉に勤め、その後は上杉氏に仕え、次いで信玄に仕えて、武田氏滅亡の後は徳川幕府に属して代々沼田の真田氏に仕えた」と書かれている
  • 真田氏の沼田藩は天和元(1681)年に改易廃藩され、鎌原氏は大笹関所の関守となった。明治元(1868)年に関所が廃止されるまで関守を務めた

 

天和元年に沼田藩が廃藩されたのは、

  1. 明暦4(1658)年に真田本家の当主が急死し、家督争いが起きる
  2. 負けた真田信直が沼田領主となり、これにより沼田領は松代藩から正式に独立し沼田藩となった
  3. 信直は表高3万石だった沼田藩の石高を14万石4000石と幕府に過大申告し、領民は重税を課せられた
  4. 幕府から命じられた両国橋架け替え用の材木調達に失敗し、その責任を取らされて改易→廃藩→一家離散

という流れらしい。本家に対抗し、見栄張っちゃった結果の没落。鎌原氏は海野氏の影響下にあった一族であったようで、吾妻鏡の仁治2年3月25日に海野幸氏武田信光上野国三原庄(嬬恋村三原)と信濃国長倉保(軽井沢町長倉)の境界争いをし、海野幸氏が勝訴している(これはよく分からなかったが、海野氏の支配が上野国にも及んでいたということらしい。海野氏が勝ったので、三原庄支配も海野氏が関わっているということらしい)。

鎌原氏はこの辺りでも名族だったということだが、戦国期になると周辺の豪族と争うようになり、真田氏の庇護を受けるようになる。具体的には、真田氏から養子をもらって家督を継がせるということ。真田家の祖と言われる真田頼昌の子が鎌原氏の家督を継いでいる。この人物は真田幸隆の兄弟と言われている。

沼田藩が改易された当時の家老だった鎌原重継の祖母は真田昌幸の娘であり、真田家の血筋を相当引いている。そのためか、子孫は最終的に松代藩士となって真田姓を名乗った者もいる。

 

鎌原氏が後に関守となる「大笹関所」↓

鎌原城に来る途中、確かにあった。嬬恋村全体が綺麗だし、こういった過去の遺跡も保存状態が非常に良く手入れされている雰囲気あるよ。

畑の向こうに堀切が見える。

駐車場から森の中に入る道があった。入ってみた。

ここには土塁がたくさん残されていた。

お墓があった。これが縄張り図にもあった「鎌原家のお墓」らしい。お墓の周りには石仏が3体、祠もあるし、なんか色々あって賑やかだった。

真田の分家みたいなもんだからか、六文銭の家紋が入ったこんな石碑まである。

祠には「頼朝廟」という文字が彫られていた。この祠は平成5年に設置されたもので、


建久4年の源頼朝公の浅間野の狩りから800年、勲功により「鎌」の字を賜ったと伝わる故事に因り、鎌原命名を記念して再び建立

平成5年1994秋

鎌原郷 鎌原館

とあった。平成5年以前にも似たような頼朝廟があったのだろうか。建久4年の狩りと言えば、曽我兄弟の仇討ちがあった富士の巻き狩り。鎌原氏の主君?の海野幸氏や彼と境界争いをした武田信光も参加している。

鎌原の「鎌」の字って、頼朝さんからもらってたのか(もしかして鎌倉の「鎌」をもらったとか?)。そりゃ名家よね。

本来の「群馬に来た目的」はここではないので怒ってしまった怒ってしまったよ。暑いしねー。

ちなみに真田の本拠地である旧真田町(現上田市)と嬬恋村は道一本(国道144号・145号)で来られる。

もちろん、嬬恋村を抜けて岩櫃城(鎌原氏を城将としていたらしい)を経由し沼田市に着ける。国道145号の終点は沼田市。真田氏が整備した真田道という軍用道路が元だという。走りやすかったよー。はとバスも3台くらいすれ違ったよ。

 

 

★★★★☆

遺構は大部分が不明瞭かもしれないが、きちんと整備されていて良かった…暑くなかったらなぁ

 

 

鎌原城

築城年 応永4(1397)年

築城主 鎌原氏