お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

鎌原虚空蔵堂

矢島城のすぐ近くに立派なお堂があった。虚空蔵堂だそうだ。

味わい深い文字の石標。

縁起があった。昭和55(1980)年製のくせに読みづらい文章だわ、と思った。読めない字が多数ある。

  • 御本尊は虚空蔵菩薩(恵心僧都作)
  • 曽我祐成が仇討ちした後、その妻である虎御前は出家し貞蓮尼と名乗る
  • 諸国の霊場を巡り、当国善光寺へ参詣の折に太郎山の麓にお寺を創建した。それが虎立山祐成寺という
  • 祐成寺の傍らにお堂を建て、虚空蔵菩薩を安置した
  • 天保15年再建する

建久4(1193)年の曽我兄弟の仇討ち、兄の方が曽我祐成。奥さんは大磯の遊女だった虎御前という人。遊女というと今では聞こえが悪いが、この当時は卑賤な身分ではないらしい。貴族を相手にすることも多く、教養がないと出来ない仕事だったようだ。なので鎌倉時代半ばまでは上流階級の人々でもごく普通に妻にしているし、家系図にも妻・母の職業として「遊女」と当たり前のように書かれている。鎌倉初期の遊女は歌ったり踊ったりして生計を立てていたらしい。

鎌倉時代初期の結婚は平安時代から続く妻問婚なので、母系制であった当時の夫婦の力関係は妻>夫、そのため売春業は成立しなかったそうだ。娼婦のルーツは巫女さんだとされるが、鎌倉時代の半ば頃に多くの寺社が経営破綻してしまい、所属していた巫女さんたちが食べるために旅をしながら歌って踊って春を売り始めた結果娼婦という職業が生まれたとwikiに書かれていた。

 

建久4年、源頼朝が開催した富士の巻き狩りという名前の大規模軍事演習のどさくさで仇討ちをしちゃったとき、曽我祐成は22歳で虎御前は19歳だと言われる。

仇討ちを考えていた曽我兄は妻を持つ気はなかったけど、虎御前は自営業で稼いでいるからいいかと妻になってもらったという。美談ぽく書かれているが、なんか酷い話だなと思った。結婚2年後に仇討ち決行。もちろん仇討ちの話は決行直前に奥さんに話した。奥さんとても困っただろうな…虎御前は吾妻鏡にも登場するので実在したとされる。

建久4年の仇討ち現場で曽我兄は死んだが、事件の尋問で犯人の妻だからという理由で虎御前も呼ばれたそうだ。しかし無罪放免とされている。その後は兄弟の菩提を弔うため尼になり、諸国の霊場を巡ったそうで。源頼朝と縁が深い善光寺には曽我兄弟の遺骨を納めたという。

お堂の説明板には善光寺の帰り道こちらに立ち寄り、曽我兄の名前をつけた祐成寺を建てたとあった。建立時期は建久年間(1190~1199)と言われる。曽我の仇討ちが1193年、曽我物語では善光寺参詣が兄弟の一周忌を営んでから諸国の霊場を巡り、善光寺に参拝し、その後は佐久郡落合村にしばらく住んでから小県郡常磐城村に移住、という変遷を辿っている。建立は建久年間でも終わりの方だろうか。

自身で稼いでいるとはいえ、お金がよく続くなあ…と思いました。大冒険しているじゃないか。まあスポンサーがいたんだろうな。

 

祐成寺跡は北林城に隣接した山の斜面だったようだ。

↑ここらしい。かなり広い場所。

応永年間(1394~1428)には鎌倉の光明寺から俊厳という僧を招いたりしている。交通の便が悪いと言うことで永享5(1433)年、市街地に移転し、寺号も「呈蓮寺」に改称している。

 

 

虎御前は祐成寺の近くに堂を建て、仏像を安置したという。私でも名前を知っている恵心僧都作の仏像(本物なら平安時代の作品)。二回再建している? ような文章。虚空蔵菩薩は知恵の菩薩として信仰されている。

この御本尊、虚空蔵菩薩像は虎御前が諸国を巡るときにずっと持っていたものらしい。高さ約30cmなのでさほど大きくない。

 

改修が都度あるようで、石段は新しい物と古い物が共存していた。

巨木が出迎えていた。欅らしい。

藪田石材店かな? 比較的新しいものも転がっている。

 

境内はこんな感じ。由緒あるお堂の雰囲気なのに、何故か情報量は異常に少ない。グーグルマップにさえ存在を消されている有様。地元ではちゃんと祭日もやっているようだが。

狛犬は亡くなった方の奉納されたと思われる。戦争関係かと思ったが…昭和28(1953)年の日付もあったので、ちょっと分からなくなった。

だが、(多分)同じ人物が寄進しているこっち↑は昭和17(1942)年だった。無念さを感じる。

 

お堂は天保15(1844)年に再建されたとあった。幕末。

水を溜める場所? みたいなのもあったが近くには川もある。

お堂の裏手は山である。虚空蔵山という名前で、頂上には牛伏城がある。

お堂の脇から登山道がある。

お堂の周りには石仏がたくさんあった。

石仏っぽいのが遠くにあったよ。

お不動様。

鎌倉の光明寺は浄土宗のお寺さんで、祐成寺の後継に当たる呈蓮寺も同じく浄土宗。なので南無阿弥陀仏って書かれているのかしら?

板碑っぽい。文字がほとんど読めない。

板碑は鎌倉時代から室町時代初めに流行したもので、戦国時代に入ると見られなくなる。供養塔の一種。ひょっとしたら、境内の石碑達の中で最も古いものかもしれない。

 

牛伏城方面への道にも祠があった。

いい雰囲気のお堂よね。

入り口の欅の下にも石灯籠があり、文化3(1806)年の銘があった。

そんなに古い物とは思えない! 台座はもっと古そう。

川のそばだからか、とにかく蚊が凄かった。

 

境内の外だが、新しめの祠もあった。

 

 

★★★☆☆

蚊が凄かった…。

 

 

<鎌原虚空蔵堂>

創建年 建久年間(1190~1199)?

開基 虎御前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コレが欲しくてひたすらゲームやってたわ。3日で1振り目きて、お話聞いていたら満足しちゃってモチベダウン、2振り目はまだ…時間あるし頑張ろう。現在貝は18万、あと12万集めないと!!