新年早々、また車に当てられちゃったよ。
前回と違い反社絡みじゃなさそうだから張り切って取り立てようと思ったら、ただの貧乏な爺だった。当然任意保険も未加入だし、住んでいるのも臭突が伸びるスラム風の市営住宅。
事故の内容(雪道でノーマルタイヤの軽トラがスリップして突っ込んできた)からするとこちらの被害額は奇跡的に僅か。それでも腹は立つので「社会的に抹殺出来たらなー」と色々作戦を考えたが…ボロ長屋に住んでいる爺をこれ以上落とす有効な術が見つからない。既に落ちるところまで落ちていて、あと死ぬだけの無敵の人だった。私もなくす物がないような無敵の人だったら爺の住処に火を付けちゃうんだろうけどさー。世の中は理不尽。
あと、この手の話をすると「お祓い行きなよ」って言い出す人がいるんだけどさ。祟られたことがある経験上、まずこの程度じゃ済まないし普通に死にかけるよ! と声をかけたい(現実では話が長くなるからハイヨで終わらせちゃうけど-)。
その数日後。今度は車のタイヤがパンクした。ディーラーに連絡して修理をお願いしたところ、パンク箇所は側面だったので修理不可能を言い渡された。元々タイヤも古くて買い換え時だったので4本すべて交換にした。タイヤもちょうど4本だけストックがあったそうで、1日ですべて済んだ。飛び込みだったので代車もなく、ラッキーだなと思った。洗車もしてもらった車を引き取り帰宅。爺に付けられた傷を何気なく見ると、おかしな事に傷がない。跡形も無く消えている…!?
当てられた家族に「傷がないんだけど」と確認したが、本人は「確かに当てられて、ドアミラーが折れてしまってプラプラしている状態だった。たまたま近くにあったディーラー(これはタイヤ取り替えたトコとは別)で見てもらったけど、ドアミラー全損で交換だねって言われて6万の見積もりもらってきたでしょ」とのこと。しかし、ドアミラーは電動格納するしデフロスター入れれば温まってくれる。「気付いたらドアミラーは直っていたけど、最初は確かにプラプラになっていたんだよ…いつの間にか直ってたんだよ…」なんて本人は悲しげに呟いていたが、とにかく爺にぶつかる以前に戻っている状況である。ちなみにドアミラーがプラプラになっている状態は私まったく見ていないです。
やっぱり私はものっすごく運が良い。死にかけたこともあるが生きている(その遠因になった腫瘍も存在を確認されて、容態が落ち着いてからの手術となり日にちも決まっていたのに、突然消えて医者に手術出来ませんと宣告された)し、タイヤも新品にしなかったらうちの車も凍った道で滑っていただろう。
私が新興宗教の教祖になったら大儲けできるんじゃないかな!! ウキウキが止まりません。買い物帰り、玄関まで荷物を運んでいた時に急に思い立って「俺が運ぶのは荷物だけじゃない。幸運を運ぶ」と子供に言ったらガン無視された。それでもウキウキしちゃう。今乗ってる車、心の底から大事にしようと思う。
爺は絶対許さない。
中世、窪寺氏という一族が支配していたらしい。鎌倉時代に窪寺村へ移住し「窪寺氏」を称したみたい。滋野氏の傍流だそうな。
善光寺警護の奉行人を務めていた窪寺左衛門入道光阿さんは文永2(1265)年に善光寺側から「税の横取りなど職務を越えた行為があった」と訴えられ、鎌倉幕府内で評議の末クビになっている。これが窪寺氏の初出らしい。なんとも不名誉な。
その後も窪寺氏はこの地を代々領地として守ってきたが、寛正年間(1460~1466)頃にはお隣の小市村の領主・小田切さんの配下に成り下がってしまったとか。
弘治元(1555)年窪寺さん最後の当主の幸忠さんが死に、窪寺氏は滅亡したらしい。小市村領主の小田切さんも弘治2(1556)年に武田信玄に敗れて滅亡、小市も窪寺も武田の領地となったという。
近くには窪寺氏さんの館跡もあるよ。
ここは耕作地になっている。石垣なんかはあったけど、廃城以降のものだろうなと思う。
非常に見晴らしの良い場所で、犀川や川中島一帯が広く見渡せる。城を置くには非常に良い場所だねー。
冬場なので、放棄地なのか休耕なのか分からないが、手入れされている様に見える。周りの畑には働いている人の姿もある。
どこが出入り口か分からないが、恐らく堀跡らしきココ↑を行くよ!
この様子では堀以外の何も見つけることが出来ず。
堀跡ですらこんな感じに↓
まあ、まだ通り抜け出来るがね!
また畑。
よく分からん。
変な藪を通らなくても横から進入出来ていた。
上から見るとこんな感じ↓
恐らく、ただの畑にいるような気がする。本体はまだ先のような気がするんだよね。
上がってきた堀。
ここもただの畑にしか見えず。この先の藪の中なんじゃないかな?
しかし畑より先に続く堀は、もはや見えない。
藪に覆われ、何も見えない。自然に還っているわ。
蛇とか居ない時期とはいえ、この中に入って行く気分にはならない(この前に窪寺観音に参拝してたんだけど、デカそうな生き物の物音に脅された。蛇は居ないけど猪は出るかも)。安茂里でも古い家が建ち並ぶこの辺りは旧道含めて檄セマだし、今日も窪寺観音の手前の坂で危うく車壊すところだったしさ。なんかイイコトなかったわ。
他に登れる場所はないのだろうか。
分からん。きっとこの畑も城の一部なのかもしれない!
見晴らしは良かったよ!
畑を抜けていく(藪へ進む)ことは諦めました。人の目が気になりますー。
すぐそばに正覚院というお寺さんがあり、そこから道があるか見に行ってみた。
正覚院は善光寺七寺に挙げられる場合(善光寺の近くにあった正覚院と合併した経緯がある)がある。もっと古い時代からお寺があるそうなので、ひょっとしたらここから窪寺城への道があるんじゃないかと。
結果、道はなかった。
このお寺は算額で有名で、長野県内で2番目に古い安永10(1781)年のものが奉納されている。気になる算額の内容は…画像で見たけど全く分からない。頭良くなりたい。
「月林寺跡地」という看板が山門のそばにあった。天安2(858)年、慈覚大師(794~864)が開山した、この辺りでは極めて大きなお寺だったとか。
慈覚大師(円仁)は第3代天台座主に就任した高僧。最後の遣唐使船に乗り留学した。wikiによれば、留学は物凄く大変だったらしい。行きは2回失敗、3回目で難破しながら辛くも唐に上陸。帰りも唐が滅亡しそうで船がなく新羅の商人の船に乗って帰ったらしい。留学中の約10年間は不法滞在して捕まったり、あちこちの山へ巡礼に行ったり、仏典を集めまくった日々を日記に書いていた。そして生きて帰国し、この人の日記は「日本人が書いた旅行記」として後世に残されている。また、日本のあちこちにお寺を建てたらしく、その数700近くあるという。布教しまくっていたんだねー。
とにかくこのお寺さんは古い。文献に初めて登場したのが吾妻鏡の文治2(1186)年三月の項で、朝廷から送りつけられた「源頼朝領地で年貢未納の荘園等の名簿」の中に月林寺の名前があった。
その後は衰退しちゃったので元和年間(1615~1624)に善光寺近くの正覚院から僧を出して再興した。その時に月林寺から正覚院に寺号が改まった。月林寺時代より平安時代初期の観音像があったみたいで、この木造観音像も県内2番目に古いものらしい。ここ2番目多いな。
観音像の他にも千手観音・薬師如来などもあったらしいが、今はないようだ。寺号より窪寺観音のほうが通じる気がする(私自身も窪寺観音って言われた方が分かる)。
山門をくぐって参道を行くと最初に見えてくるお堂(月光殿)には聖観音が祀られている。玉垣は大正7(1918)年の銘があった。
こちらには平安時代初期の観音像が有り、この観音像が何の観音像なのか(十一面観音っぽかったが違うのかな)ハッキリしないらしい。なので「伝観音像」として指定されている。前身の月林寺が衰退したせいなのか曖昧だわ。そして、その観音像は月光殿に祀られているわけではないようだ。
↓ここの左側にあったらしい。
正覚院と月光殿の間の墓地にあったらしい。出入り口がサッシの白いコンクリ造りのお堂があったが、あれがそうらしい…。予備知識なければ分からないと思う。
境内にはこんな供養塔たちも。
そして、高台にもお堂がある。
急な階段だよ。左側が上り。
途中の手すりがおかしくなっている! 手すり自体はびくともしなかったよ!
高台のお堂は円通殿という名前。千手観音が祀られている。
ここも見晴らしが良い。
句碑?
お堂の裏は林道だか道になっている。どこまで通じているのか分からない。
こんな感じの古そうな道もあった。
小さな祠もある。天満宮と三島社だった。
少し道を上がってみた。
時々、新幹線の走るグォーという低い音が聞こえてくる。
道はどんどん上にあがっていくが、窪寺城方面ではないのでUターンした。
円通殿の横から、また古そうな道があった。石仏が並んでおり、おそらく階段下にあった西国霊場とかの仏様だと思われる。
でも放置気味なのか倒れたり歪んだり埋まったり。まぁ、行ってみるかーと下りていった。
ガシャンドガッ。というとんでもなくデカい音がした。慌てた大きな獣がいたらしいが、姿が見えない。熊さんではなさそう(さすがに冬眠中じゃなかろうか)、猪かしら…こわーい。
霊場巡りは諦めました。
階段は急だし、せっかくだから裏手の道を下ることにした。
車の行き来はあるのか(山の方は畑があるようだ)、轍が残る。
墓地に出た。
山門に戻った。
★☆☆☆☆
人里そばの山の方が獣遭遇率高い気がする、餌が豊富なのかな?
<窪寺城>
築城年 不明
築城主 窪寺氏