先々月(駐車場で荷物を積んでいたら、隣に停まっていた車にバックしてきた車がぶつかった)と先月(自宅で「外がやけにうるさいな?」とカーテンを開けたら窓下にボンネットが潰れた車&警察官が20人位いた)と身近で交通事故があった。まだ今年は何も起こってないけどやだなー。
まずは、鬼無里まで遠征した。鬼無里までの道のりは最高でしたよ。新旧トンネルが入り交じった訳分かんない世界。おどろおどろしくてボロボロのトンネルもあれば、ピカピカの真新しい感じのトンネルもあった。ランダムに色んな姿のトンネルやってくるんでとても楽しかったですわ。どんなやつ来るんだろうという期待感。トンネルが7、洞門が2あった。
一番良かったのが裾花大橋だった。同時期に造られたダムもあり、景勝地にしたかったような橋だよ。モータリゼーションという言葉が大人気だった時期のものじゃないかな? あの時代の建造物って高揚感あるよなー。
明治19(1886)年開通という最初の鬼無里街道も、ダム湖の底に沈んだり、代わりのトンネルが出来て旧道は自然に還っているみたい。私のイメージは「鬼無里遠い」だったのに、新しい道は思ったより距離が近いと感じたよ。
帰ってから、鬼無里へ行く道かっこいい。っていう話をしたら、身内に「意味分かんない」とドン引きされた。
鬼無里にはまだ雪が残っており子供には喜ばれた。
ふと見ると、立派なお寺さんが見えた。用事が済んだら行ってみようと、地元の人にお寺さんのことを伺ったところ「あれは松巖寺である」と返ってきた。
鬼無里は鬼女紅葉伝説で有名な山間の村で、この松巖寺には紅葉の墓があるそうだ。
元々、この場所には紅葉の守護仏だった地蔵尊を祀っていたそうで。
説明板には、
- 安和2(969)年、戸隠山で鬼女紅葉を滅ぼした平維茂は、紅葉の守護仏地蔵尊を祀るために堂宇を建てた
- 「釜岩紅葉大禅定尼」の法名を贈り、紅葉の供養をした
- 鬼立山地蔵院である
- 元和元(1615)年、松巌芳祝禅師を迎えて松巖寺と改称した
- また、京へ向かう木曽義仲が地蔵院に参拝したときに文殊菩薩を安置したと伝わる
- この文殊菩薩は、寛永2(1625)年に聖観音を本尊とした観音堂を建立した際に脇本尊として安置した
安曇野の青原寺から松巌芳祝禅師を招いて新しくお寺を創ったそうだ。どういう関係なのかな? と思い調べてみた。松巌芳祝は戸隠にある、紅葉と平維茂の菩提寺・大昌寺の住職も務めていたそうで。この縁で招かれたのかな?
大昌寺の前身は永正年間(1504~1521)に福平城主の溝口氏の開基した真言宗密蔵寺と伝わるそうで、一度荒廃したあとに青原寺の7世住職だった松巌芳祝が再興したものだという。松巌芳祝はやり手だったようで、上記3つのお寺の他、竜門寺と明松寺の計5ヶ寺の住職を務めていたそうだ。大昌寺は再建した際に幕府から寺領を寄進・安堵されて現在の寺号に変更していた。
土地の名前の由来にもなった鬼女紅葉は元は京都の人。
- 伴氏の娘・紅葉という美しい娘がいた
- 長じて、源経基という人に見初められて側室になる
- 妊娠中の紅葉は源経基の正室を呪い殺そうとした
- バレて信濃国戸隠へ追放
- 追放先の戸隠・鬼無里の現地民に憐れに思われ、住まい提供などの世話をした
- 紅葉は大層喜び、お礼に病人の面倒や裁縫・読み書きの教授など現地民と親しく交流した
- 男の子を産み、この子を源経基に見せたいなと考え兵を募り上京することにした
- 世話になった現地民に迷惑をかけたくないので嘘をついて村を去る
- 山奥の山賊を雇って縁のない村を襲いながら金を貯めた
- その荒稼ぎの噂が京まで届いて、朝廷から追討軍を派遣されてしまう
- 将軍は平維茂という人で、山賊は呆気なく敗れる
- 紅葉は妖術を用いたが、別所の北向観音から宝剣と加護を得た平維茂に宝剣で刺された(なんと宝剣を弓につがえて放つ、という荒技で)
- 享年33歳
可哀想な話である。義理堅い人のような気もする。鬼無里では「紅葉は素敵な人」と伝わっているらしい。村を荒らさず恵みをもたらしたしね! まぁ1日でも早く大金を得たいなら、もう強盗しかないのかなとも思うけどねー犯罪だけどさー。
この伝説は能の演目になったり色々な書物に書かれたりと、大昔から有名らしい。
ここは聖観音を御本尊とした観音堂。寛永2(1625)年に、地蔵院跡に建てられた。脇侍として、木曽義仲が上洛するときに寄進していったという文珠菩薩も置かれたと案内板に書かれていたけど、その文珠菩薩はここにいないらしい。ここから5km離れた土倉文珠堂という別の場所に安置されているという。
土倉文珠堂は寛政7(1795)年に創建されたようだ。長野市文化財データベースによると、この観音堂の中はたくさんの観音像があるようだ。案内板にも、
この他にも算額が奉納されたりしているようだ。
↑馬頭観音の石仏群
文珠菩薩は手狭になってしまい、木曽義仲ゆかりの地である土倉にお堂(土倉文珠堂)を造ってお引っ越ししたのかね。
↑こんな看板まであったんだよ。
鬼女紅葉の時代よりもっと前に、この田舎村に都を作ろうとしたことがあったらしい。それが「鬼無里」のもうひとつの由来だそうだ。
- 天武天皇13(685)年、当時の飛鳥京から信濃国水無瀬へ都を移すために三野王、小錦下釆女臣筑羅ら調査チームが送り込まれる
- 調査チームは館を建設し、西京・東京といった京都っぽい地名をつけたり、賀茂神社や春日神社を勧請した
- 水無瀬に以前から住んでいた鬼達が「住む場所を追われるのでは?」と危惧し、調査の妨害を決意
- 夜、鬼達は水無瀬に山を運び、入れぬよう塞いでしまった
- 天武天皇は怒り、阿倍比羅夫を遣わして鬼を退治させた
- 鬼は見事退治され、いなくなった=鬼無里と呼ばれるようになる
- 一夜山は今も存在している
後に「飛鳥浄御原宮」と名付けられる飛鳥岡本宮に新たな宮殿を建てたものの、満足できなくて、ずっと新しい都を建設する土地を探していたらしい。天武天皇5(676)年に遷都計画を立て、天武天皇11(682)年には三野王らに土地を調査させ、天武天皇13(684)年都の建設予定地を決めた。後の藤原京であるそうな。天武天皇は複都制を考えており、天武天皇12(683)年難波京を置いた。もう一つ東にも…と考えたらしく、信濃国へ人を派遣し視察させたがそちらは不調に終わったのか、朱鳥元(686)年、天武天皇崩御でそのまま開発されることもなく今に至る。
天武天皇はなんで本拠の奈良から離れた、辺鄙な場所に都を? という感想ですよ。
観音堂の中では、誰かが走り回る音が聞こえていて「座敷童!?」と騒ぐ(お寺のお子さんが入り込んで走っていただけ、と後に判明)。正体不明だったときは本当に神の仕業かと思っていたよー。
★★★☆☆
うちの子供は外で走り回り、転んで着替えが足りなくなった
<松巖寺>
創建年 元和元(1615)年