お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

穂高神社

年に何度か行く安曇野。今年初めて行ったよ。なんかこの日はどこもかしこも空いていたわ。

用事も空いていたために早く終わってしまい、穂高神社に寄った。

式年遷宮が去年あったはずなので、古い建物が残っていないかなー? と思ったけど分からなかった。調べて見ると、去年は小遷宮で、神様を仮殿にお移しして本殿をお掃除したり修理する年だったそうだ。なので、新しく建物を造ったわけではないそうな。大遷宮は2029年の予定らしい。賑やかに小遷宮のお祭りを行ったようで、鳥居も新調されていた。

穂高神社は創建年不明の古い神社で、式内社・信州国三の宮という格式を持っている。ここは里宮で、奥宮は上高地にあり、更に嶺宮が奥穂高岳山頂にあるらしい。

↑嶺宮。とんでもない…。

 

御祭神は当地を治めた安曇氏の祖である穂高見命、穂高見命の父であり海の神様の綿津見命天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊の3柱。穂高見命から見て瓊瓊杵尊は甥に当たるようだ。3柱の社は一直線に並んでいて、真ん中に穂高見命の社殿がある。

その他に、天照大御神や安曇氏で最も高名な阿曇比羅夫、ものぐさ太郎のモデルだと言われる信濃中将も祀られている。

古代の安曇族は海の民で、この神社では船のお祭りを行っている。本殿中央の穂高見命の社殿は穂高造という独特で日本唯一ココだけの形式で建てられている。穂高見命の社殿では海に関するもの(勝男木という、釣り竿か船の帆柱を表す木)を添えているらしい。

西日本中心に活動していた海の民が東日本へ勢力を広げて、信濃国が北限に当たるみたい。そして海なし県の信濃で大きな足跡を残している為か、安曇族と信濃国の関係をやたら重視され研究が進められている。

享保14(1729)年の銘があるお手水。

昭和24年製の神馬の像。古代より祈願の為に馬を奉納する習わしがあるそうで、昔は馬が高価&世話が大変ということで、馬の像や絵馬を奉納するように変わっていったらしい。延喜式には「晴れを願うときには白馬を奉納する」などという記述があり、もしかしたら晴れを願ったものかもしれない(単に白馬が綺麗だから、かもしれない)。

 

拝殿は前回の大遷宮が行われた2009年に新築された。まだピカピカだよ!

皇室とも関わりがあり(皇室の祖神も祀られているしな)、玉串の奉納があったようだ。

「船」がお祭りで重要な役割を果たすためか、交通安全でも有名。車用・子供用・連れ合い用…と交通安全のお守りを買い漁る!

 

摂社。この中でも一際大きいお社が阿曇比羅夫の社殿。

舒明天皇の時代に百済へ国使として派遣された人で、舒明天皇崩御により帰国。百済の王族と深く関係する高官だった。斉明天皇6(660)年、唐・新羅連合軍により百済が滅亡した。日本は百済を支援することにし、662年に日本に人質として送られていた王子の扶余豊璋を立て軍を送った。その百済国再興軍の将軍として阿曇比羅夫が水軍を率い、海を渡った。

百済の生き残り王族の鬼室福信(扶余豊璋から見ると、祖父の甥にあたる人物)が反乱軍を率いていたので合流し、日本の支援を受けた扶余豊璋が無事に百済国王になった。が、百済の高官でもあった鬼室福信の方が権力が上だったらしくて百済の掌握が上手くいかず、663年に扶余豊璋は鬼室福信を殺す。結果、すぐに百済国が弱体化して再度、唐と新羅の軍に攻め込まれた。日本は援軍を送ったが大敗した(白村江の戦い)。白村江の戦いで阿曇比羅夫が戦死したとされ、その命日といわれる9月27日に御船祭(例大祭)が毎年行われているそうな。

安曇氏の中で最も活躍した人なので、「立身出世」の神様らしく。デカデカと「祈願 延命長寿 立身出世」の立て札があった。

 

相殿神として、信濃中将という人も祀られている。ものぐさ太郎だ。

すべてにおいてやる気のない太郎が、彼を持て余した村人達に夫役を押しつけられ都へ行ったら物凄く働いた。帰郷の際、嫁になるような美女を見つけ強奪しようとするが、本人が風呂に入らず汚すぎて美女も抵抗しまくって失敗する。その時美女が逃げるために謎かけした言葉をヒントに家を突き止め、進入した太郎は床下に潜んでいた。当の美女が昼間変な奴に追いかけられた話を愚痴っていたために太郎に気付かれ、太郎に騒がれた為に屋敷の者達も何事かとバタバタし始めたので仕方なく太郎を匿うことに。太郎と話してみると意外と教養があったため、太郎に綺麗な服を着せて結婚した。その後、太郎を洗って綺麗にしたらイケメンになった。歌の才能もあるので、評判が帝にまで届いて只者ではなさそうな太郎の出自を調べることにした。実は仁明天皇の第2皇子の二位の中将が信濃へ流されて儲けた子と判明、信濃中将の地位と領地を与えて、信濃へ帰した。太郎は立派な御屋敷に多くの家来に囲まれ、多くの子にも恵まれて120歳まで生きた。そして「おたかの大明神」という神様に(奥さんの美女は「あさいの権現」という神様に)なったというお話。

仁明天皇の第2皇子は宗康親王という人で、天長5(828)年生まれ。領地は大和国播磨国美濃国にあった。嘉祥3(850)年出家。出家した時点で22歳。wiki見る限り子供はいなさそう。そして、信濃国に流された記録もない。ものぐさ太郎がこの人の子である可能性は非常に低いとのこと。他の皇子で似たような経歴の人居たけど信濃国には縁が無く、関係ないらしい。

そして穂高神社にものぐさ太郎が祀られている理由は、太郎が穂高神社を建てた、という伝承があるらしいから。

 

一旦戻って、御朱印をいただきにいった。

古い神社なので、清めの川が流れているし。

狛犬はムキムキだった。

 

御朱印を配布している社務所の周りには、石碑がいっぱいだった。

郷土の偉人達らしい。

 

ステンレスの道祖神

 

阿曇比羅夫の像。

新潟の糸魚川方面に向かう「千国街道」に置かれていた道祖神達。「過疎化した山里では管理できない」という理由で道沿いの大町市からこちらに移されたものだそうだ。安曇野市内にある道祖神たちとは違う材質(砂岩)だという。

 

早いもので梅が咲いている。今年の花粉は酷いそうだ。

 

御手洗川というらしい。橋は「神橋」と呼ばれる、明治16(1883)年建立のもの。穂高神社の参道でもあるが、千国街道の一部でもあるそうだ。だからさっきの道祖神穂高神社に移されたのね。

 

川が物凄く綺麗。水質良さそう。

 

 

句碑。

 

ものぐさ太郎のレリーフ。場面は、面倒くさがり過ぎて地頭に感心されているところ(右)・故郷に凱旋したところ(左)。

 

泉小太郎の像。犀川はまあまあ近くを流れる。造った人が旧穂高町の出身。泉小太郎の父が綿津見命・小太郎は穂高見命の化身であると説明されていたよ。

 

 

文章がよく分からなかったが、

 

昭和37年、天皇陛下へ恒例となっている山葵を献上した時に庭に生えていた松の枝も添えた。天皇陛下は「これは白松である」と我々にご教示してくださった、おめでたい松です。

昭和6年に中国・紫禁城から持ち帰った種が育ったものです。

 

ということらしい。松は説明板の後ろにある木ではなく、すぐ隣の土塀の奥にあるものを指しているみたい。中国では「長寿を象徴するおめでたい木」だそうだ。日本には自生せず、中国から持ち帰ったものがほとんどで庭木としては流通しておらず、あまり見かけない木だそうだ。松って感じがせず、ひょろひょろした木だった。

 

★★★★☆

子供はおみくじを引きたがり、小吉だと「アタリが出るまでやる」とか言い出して、色々めんどうくさい。

 

 

穂高神社

創建年 不明

御祭神 穂高見命・綿津見命瓊瓊杵尊

 

 

 

 

 

食べに行く予定のレストランが定休日だったので、ファミレスに行くことに。お昼時というのにそこそこ空いていた。

子供が選んだ席のすぐそばで、ここ3年くらい世界で流行っている感じの話をサシで話している(1人が一方的に話している)人達がいた。私もその話題に興味があり、どうカネに結びつけていくのか気になったから聞き耳を立てていた。相手もさすがで。ものの数分たたず私と目が合い(こいつ聞いているな)とバレて、相手が声のトーンを落としやがった。

絶対テレビじゃ報道しないけど実は…など漏れ聞こえてくる一部からして、やはり私の好きなアレだという確信を持てた。宴もたけなわとなり、黙って聞いていた人が「いやー啓けました」とか言い出して、次のセッションの予約について話し始めた。お金の話もする。アレひょっとして有料セッションを受けていた? それは聞き耳立てちゃいけなかったねw 個人的にはこういうの有料動画配信が8割、残りはこだわりのオーガニックカフェで開く勉強会と思っていたけど…ファミレスは盲点だったかもしれない。キャバクラの面接がファミレスで行われるって聞くけど、人に聞かれたくない類いの話をする敷居の低い場所として便利なのかもしれないわ。

しかし、有料セッションにこぎ着けるまでの過程を知ることが出来なくて残念だった。