お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

弥彦神社

久しぶりに新潟行ったよ。

新潟には「新鮮な魚を見る・食べる」というスローガンで来たので、あんまり観光していない。泊まったホテルにほど近い弥彦神社には行った。

競輪場がある。日本唯一の村営競技場だそうだ。5月末まで改修中とのことだが、GⅠやGⅡのレースも開催されるような競技場だった。

2021年の競輪の売り上げは約9650億円で、宝くじより多い。近年イメージが良くなっている競馬(去年末のプレミアムウィークのCMで、私行きたくなったもん)など公営競技収益は軒並み前年比で伸びているが、中でも競輪は128%で最も売り上げを伸ばした。競輪の今年度上半期速報値では5270億円で、今年度の年間売り上げが1兆円超えるかも!? とニュースになっていたみたい。ちなみにパチンコは売り上げが減っているとはいえ、約14兆円の市場規模。

 

弥彦神社は私一人だけで参拝してきた。もう皆、疲れちゃったんだってさ。

花粉症酷かったんだけど、境内に入ったら良くなった気がする。これがおやひこさまの御神徳か。

しばらく行くと、石柱が見えた。

国幣中社である他、式内社名神大社)、越後国一宮といった社格も持っている。ちなみに「越後国一宮」は3つあるそうな。

  1. 天津神社(糸魚川市
  2. 居多神社(上越市
  3. 弥彦神社弥彦村

で、弥彦神社以外の2社の格は「小社」である。一宮は神社の規模とは関係ない。都から赴任した国司は任国内の神社参拝を義務づけられており、国司が参拝する1番目の神社を「一宮」と呼んだ事が起源らしい。

国司は「この順番通りに神社を参拝すること」と決められていなかったようで、一宮はふわっとした格でもある。延喜式神名帳にも「一宮」などの記載は無い。なので、勝手に「うちは一宮ですよ?」などと名乗りだした神社もあったかもしれないし、国の合併でどちらを新「一宮」とするかで揉めた神社さんもあったらしい。

 

個人的には、

  1. 都に近い神社から参拝した国司がいた
  2. 古代は上越市国府があったので国府近くの神社から参拝した国司がいた
  3. 越後国内で一番ご利益があるとされる名神大社から参拝した国司がいた

という理由で一宮が3つあるんじゃないかと思っている…一宮とされた神社はいつまでもその称号を名乗っていいそうだ。

一宮は11世紀から12世紀にかけて成立したとされる。平安時代中期から後期の時代に当たる。ちょうど律令制の崩壊・荘園公領制が成立した時期と重なる。地方有力者が武装して土地争いする世情不安な時代。お寺や神社も同じように収入安定させるため荘園開発(寺社領)していたそうで、領地増やすために「一宮」とか自称し出して有力者に(収入下さいと)アピールしていたのかもー? とか妄想しちゃった。戦国時代も色んな色んな武将が神社に戦勝祈願してたくさん寄進してくるしな。

 

百度参りの石標があった。数え石はついていなかった。慶応2(1866)年建立。

百度参りは元々「百日詣」だったが、そんな長い期間かけてられない急を要する祈願ということで、「100回お参りする」ことに変化していったそうだ。鎌倉時代初め頃には成立していた民間信仰の一種らしい。今日は誰も行っていないようで、石標の周りに石はなかった。

 

そろそろ見えてきた。私が来た真っ直ぐな道が参道と思いきや、違ったらしい。

本来の参道はこちら。

手水舎のところで90度曲がっている。

 

こんな感じで参道が曲がっている神社は怨霊封じだという都市伝説があるみたいだ。本当かなー?

 

二の鳥居を潜る。

杉が増えてきた。

神馬舎。

大正遷宮記念とあった。

実は弥彦神社本殿、明治45(1912)年に焼失してしまい、大正5(1916)年に現在地で再建されたという。神社のサイトには昔の境内鳥瞰図があったが、その当時は参道が拝殿に向かって真っ直ぐ伸びている様子だった。一の鳥居、二の鳥居ともに大正時代建立。
旧本殿は現在の宝物殿の手前にあったようだ。

↑二の鳥居の手前、右側に広場があった。元はこちらに本殿があったとか。つまり、一の鳥居から真っ直ぐ来ると本殿に突き当たる感じよ。

 

「宝物殿」と彫られた石碑の辺りが旧本殿。

 

古い神社の社叢にしては、木が若いようにも思える。この辺も燃えたのかなー?

 

随神門にきた。昭和15(1940)年の皇紀2600年記念で建立。長野でも皇紀2600年記念の建造物いろいろあるけど、新潟でも様々な物が建てられていたのか。

随神門の近くにはまた鳥居があり、その奥には摂社が並んでいる。
近くの案内板には祀られている神様のお名前が書かれていた。

 

越後一宮弥彦神社

摂社、末社

  • 竹呉神社 御祭神(第1嗣)天五田根命
  • 船山神社 御祭神(第2嗣)天忍人命
  • 草薙神社 御祭神(第3嗣)天戸国命
  • 今山神社 御祭神(第4嗣)建筒草命
  • 勝神社 御祭神(第5嗣)建田背命
  • 乙子神社 御祭神(第6嗣)建諸隅命
  • 二十二所社 御祭神 近隣の著名二十二カ所の大神を祀る
  • 八所神社 御祭神 京都以東の著名八カ所の大神を祀る
  • 十柱神社 御祭神 大巳貴神をはじめ大地、水、山、海、土など国土の安全をお守りする十柱の大神を祀る

 

まずは本殿へ。

随神門の前には小川が流れていた。

狛犬。シュッとしている。狛犬も本殿再建年に造られた。随神門の位置には再建当時、三の鳥居が建っていたようだ。皇紀1600年記念で随神門に立て替えられた。

 

本殿。

元の本殿跡に立て直さなかった理由は分かる。本殿の先に見える山が弥彦山だからだ。この神社の御神体弥彦山

 

弥彦山の頂には奥宮があるよ。ロープウェーか道路(冬季閉鎖)で行ける。この日はロープウェーも点検中で動いてなかった。道路もまだ閉鎖中。今日は辿り着けない。

 

弥彦山御神体主祭神天香山命天照大御神の曾孫に当たる神様。天孫降臨の時に地上へ降り立ったそうだ。天孫こと瓊瓊杵尊の甥に当たる。瓊瓊杵尊の孫である神武天皇の東征にも従い、平定後は勅命を受け越の国を開拓しにきた。新潟県の開拓の神様。

摂社に祀られる神様のうち、「第○嗣」と紹介されている神々は天香山命の子孫で、彼の跡を継いだ神様たち。

関係性は↓

  • 第1嗣 天五田根命=天村雲命、天香山の子
  • 第2嗣 天忍人命、天五田根命の子
  • 第3嗣 天戸国命、天忍人命の子
  • 第4嗣 建筒草命、天五田根命の孫(天五田根命ー天忍男命ー建額赤命ー建筒草命)
  • 第5嗣 建田背命、建筒草命の子
  • 第6嗣 建諸隅命、建田背命の子

 

天香山命の子孫は熱田神宮住吉大社といった大きな神社の社家になった一族が多いようだ。

本殿以下、火災の後に立て直したので大正5(1916)年のものだが、すべて国の登録有形文化財に指定されている。

せっかくなので御朱印もいただいたよ!

いただいたあと、摂社にもお参りした。

摂社の入り口。

摂社一覧。
門を潜ると、摂社は似たような規模で一列に並んでいた。

先客がおり、威勢良く拍手を4回打っていた。4回…?
動揺してしまったが、4回はやっぱり不安になるので私は2回打った。4回打つことで有名なのは出雲大社だが、それ以外に4回のところがあるのか。私は普通の「二礼二拍手一礼」でお参りしておいたよ…。

後で調べてみると、弥彦神社は「二礼四拍手一礼」が正式だそうで。「二礼二拍手一礼」でも大丈夫だよ!! と注意書きも載っていたので安堵した。
ちなみに、4回打つ神社は出雲大社弥彦神社の他に宇佐神宮もそうだという。宇佐神宮へ参拝することがあれば気を付けよう…。四拍手、出雲大社の場合は「四方の神様を讃えている」から「出雲(大和に負けた敗者)の死を表している」まで色んな説があったけど、公式だと「例大祭は末広がりの8回打つが、例大祭以外では半分の4回で神様を讃える作法としている」とあった。伊勢神宮は拍手を8回打つ作法だそうな。出雲大社伊勢神宮も別格の社なので8回なのかな…?
ちなみに、弥彦神社宇佐神宮の4拍手の謂れは不明なものの「昔からそうしているから」というが理由のようだ。

「二礼二拍手一礼」というのはごく最近に出来たものらしく、昔はなかったらしい。神社本庁のサイトにも「長い時間の変遷を経て、現在は二拝二拍手一拝になっている」とあり、昔は違っていたことを示唆しているし。神社毎に参拝方法があったとかいう説も見た。

この参拝方法の原形は明治時代以降に出来たというのが通説で、それ以前は三礼三拍手一礼とか、特に決まりはなかったなどと言われているようだ。古代には神や貴人に対して拍手打つことがマナーだったのに、平安時代は廃れてしまったとか。色々で分からない世界だったよ。神社によっては「しっくりくるやり方で参拝してね」とか言っているし。

 

摂社もほぼ大正5年再建だったけど、唯一「十柱神社」のみ明治45年の大火にも耐えた神社。この神社だけは国の重要文化財に指定されている。

元は元禄7(1694)年に当時の長岡第三代藩主・牧野忠辰が弥彦神社境内に建てた五所宮。建立の理由は以下の通りだとか。

長岡藩初代藩主の牧野忠成は短気だったが、弟の牧野秀成は温厚で人望があり藩主を弟に代えようという勢力が藩内に出てきたので弟は殺されたという伝承があったそうだ。弟が死んだ年、藩主(兄)の嫡子が急死してしまいお家騒動になった。このお家騒動は弟が祟っているとされ、五所宮は弟の怨霊を鎮めるために建てられたといわれている。その他に不遇な死に方をした牧野保成、神戸赤左衛門、宮内卿女の4名と大己貴命を合祀したので、五所宮と称した。

  • 牧野保成 東三河地方の牛久保城主。
    長岡藩初代藩主・忠成の義理の曾祖父に当たる。徳川家康に敵対→敗死のため、江戸時代の公的資料には存在しないことになっているらしい。

    長岡藩主家は東三河地方の国人領主・牧野氏の分家で、牧野氏本家は今橋合戦で今川氏親に敗れ滅亡している(その後、本姓の田口氏に復帰し最終的には徳川家の旗本として存続)。長岡藩他、大名として牧野氏が残っているが全部分家筋と言われているようだ。今橋合戦の時点で牛久保牧野氏(長岡藩主家の祖)は分家だったようだ。

    牧野氏は今川氏の配下だった。今川氏は西三河松平氏への押さえとして牧野古白など東三河の国人衆に命じて永正2(1505)年、今橋城を築城させている。牧野氏の本拠が一色城から今橋城になる。一色城には古白の次男・成勝(長岡藩主家祖)が入ったとされる。

    当時の牧野氏は戸田氏(松平氏の配下)と争っていた。戸田氏は今川氏に「牧野氏が松平氏に内通している」と讒言して、牧野氏は今川軍に攻められて本家滅亡。牧野成勝は助けに来たらしいが、敗北を知り地元に帰っているとか。

    その後の牧野氏は古白の子の信成という人が当主となったようで、打倒戸田を掲げ、奪われた領地の回復を願い、今川義元に臣従していたらしい。大永年間(1521~1528)には信成が今橋(吉田)城主に返り咲く。信成は成勝の兄弟に当たるらしい。

    一色城から400m程離れた所に成勝と保成は信成の命により、享禄2(1529)年に牛久保城を造った。牧野古白という人は子だくさんだったようで、成勝の兄弟に当たる人達が牛久保城へやってきたらしい。同年、牧野氏本家が松平清康に滅ぼされる。

    本家が滅ぼされた後、牛久保城は同族の牧野成敏という人が松平清康に内通したために攻められることはなかった。成敏は成勝の兄弟、古白の甥、成勝・氏成兄弟の父、とか色々言われているがよく分からないらしい。とにかく、松平氏に最も早く帰属した牧野一族の人間として有名であるそうだ。東三河地方が松平氏の勢力下になると吉田(今橋)城の在番城主となった。松平清康が暗殺されると城主になったが、一年後には城は戸田氏に奪われた。牧野氏は再び今川氏の配下となる。

    その後は保成が本家扱いとなる。成勝は保成の弟・貞成を養子にしていたらしい。兄弟の実父は成種という人物で、成勝の兄弟らしい(成勝の甥に当たる)。保成は今川義元の庇護の元、吉田(今橋)城から戸田氏を追い出し順調に旧領を回復していったらしい。牛久保城は弟の貞成が城主となったが、貞成は反今川氏(親織田氏)なので地位を追われ、氏成の子・成定が牛久保城主となった。

    成定と保成は今川方だったが、弘治2(1556)年に貞成は追放され織田に接近する。永禄3(1560)年、今川義元敗死。

    一色城跡には大聖寺というお寺さんがあり、今川義元の墓(胴塚)があった。今川義元が死んだ場所はいくつか説があるものの、すべて一色城跡より60kmは離れた場所。なんでこんなところに墓が? wikiによると、居城まで遺体を運ぼうと試みたが腐ってきてしまい、諦めて大聖寺に葬ったようだ。牧野氏がいる牛久保は今川氏の大きな拠点だったらしい。

    松平元康は今川義元の死を機に独立を目指し、永禄4(1561)年まず最初に牛久保城を攻撃した。しかし城は落ちずに失敗。同年、貞成は松平元康に臣従(翌年、貞成死去)。今川氏が弱体化し、東三河国人領主がどんどん松平方となる。永禄6(1563)年、保成が敗死した。有力な家臣もダメージをだいぶ受けている。永禄7(1564)年時点では、保成の姉妹が息子の嫁と奥平氏のみ今川方だった。永禄8(1565)年には成定が衰弱し、また家臣達も意見が分かれ始めて話し合い、松平氏の配下になることが決まった。永禄9(1566)年、成定が家康に謁見する。同年成定死去。成定の子・康成が家督を継ぐが、保成の子が家督を巡って争いになる。家康の後援により退ける。康成の子孫が長岡藩主家となる。

    という経緯がある。wikiとか見ながら系図書いてみたけどよく分からん。内輪もめ凄い。保成の死に関しては謎な部分が多く牧野氏の秘密らしい。怖い。

  • 神戸赤左衛門 牧野氏家臣の神戸氏出身。何があったか不明。
  • 宮内卿女 名前の通り「宮内卿」という人物の娘と思われるが、宮内卿が誰なのか不明。当然、何があったかも不明。
  • 大己貴命 大国主命、国を造った神様

祀った経緯は不明だそうだ。牧野秀成さん以外の祟る理由がほぼ不明っていうのは下世話だけど気になって仕方ない! 牧野家は何をしたんだろう。こういう感じのドロドロ大好き! 公に出来ないほど酷いのかな。ワクワクするね。

明治になり信濃川の大河津分水工事が開始されるに伴い、工事の安全祈願のために弥彦大神と土・水・山・野・川など10柱の神様を新しい河川のほとりに祀ったが、その後に弥彦神社へ合祀された。弥彦大神は本殿にお返しし、他の9柱の神様と大己貴命が合祀されて十柱神社と名前が変わった。どうやら牧野氏に祟りを成したという4柱は廃祀されたらしい。祀られた建物だけ奪って神様達を追い出すとかちょっと酷いような…牧野氏もう藩主じゃないから祀らなくても大丈夫って事なの?

 

ちなみに現在祀られている神様は以下の通り

  1. 大己貴命(国を造った神)
  2. 大地主神(土地神)
  3. 弥都波能売神(水の女神)
  4. 大山祇神(山の神)
  5. 草野姫神(草や野の神で、大山祇神の妻)
  6. 速秋津日子神(港の神、速秋津比売神と対)
  7. 速秋津比売神(港の神、速秋津日子神と対)
  8. 埴山姫神(土の女神)
  9. 阿須波神(地面の神、足で立っている地面を守るというニッチな神様)
  10. 波比岐神(屋敷の内外を守る神)

 

大河津分水は去年2022年に通水100年を迎えている。3年に1度の頻度で洪水が起こっていた信濃川、江戸時代から国に治水工事を請願し続けたが、ようやく明治3(1870)年に第一期分水工事が始まった。しかしお抱えの外国人技師が「信濃川河口の新潟港に影響でる」という報告書を出したことで、新潟港関係者が工事中止を請願し明治8(1875)年中止。第一期工事の中止で祀られていた10柱の神を弥彦神社に移す。

明治29(1896)年に大水害が起き、被害総額は当時のお金で1231万円。明治30年頃の1円=現在の2万円と言われているので計算すると2462億円となる。分水路やっぱり欲しいよねって話になり、明治40(1907)年第二期工事開始。通水(完成)は大正11(1922)年。

 

後で知ったが、境内に「某神社」というお社もあるという。

 

便宜的に「某神社」と呼ばれている。

祭神不明。弥彦の神様との関係も不明。何もかも不明な神様。境内案内図にも載っていない。明治政府に提出した弥彦神社関連の文書にも「某神社」については記述がなく、弥彦神社の摂社でもないらしい。

wikiなどでは「昔からいる土地の神様」や「荒ぶる神」とされているが、円墳みたいな盛り土の上に祠があるということで、古墳じゃないかな…?

江戸時代に弥彦神社神職だった高橋光則さんが弥彦神社についてまとめた書物「櫻井古水鏡」には、

  • 名称不明、御祭神不明
  • 宝暦年間(1751~1764)に本殿補修用の木を某神社境内から切り出したら、切った木こり病死→木こりから伝染病発生→神職や地域住民も多数死ぬ
  • とても恐ろしい、このことだけは末代まで伝えて欲しい

と書かれているそうだ。

江戸時代から名前が不明なの怖い。ちゃんと祭祀はやっているそうだ。

ちなみに発掘とか何かしらの考古学的研究はされていない。何しろ、木を切ったり土を掘ったりすることも禁忌(いじったら死にますよ)とされているらしい。

知っていたらお参りしたのに…残念。

参道を戻る。

何かあるかなー? とウロウロ。

手前の建物が舞殿、奥が参集殿。
舞殿は弥彦の神様に舞を奉納するための舞台。
参集殿は舞を観賞するための建物。
どちらも本殿と同じ大正5(1916)年建築。本殿と同じように国の登録有形文化財指定を受けている。

参集殿の向こう、少し高くなったところに十柱神社が見える。

ただ、神社ではないので人は皆素通りしている。誰もいない。雰囲気はいいんだけどね。

社務所かなー?

この辺りは大昔の神社の様子が感じられるような、古めかしさがあった。

こういう岩とかが。

巨木もあるし。

また参道に出てくると人がいた。まったりした神社だが、昭和31(1956)年に変わった直後に二年詣り客が124名圧死する雑踏事故があったという。そういえば、誘ってくる友達いないからか元々パーソナルスペース広めで人混み苦手だからか、二年詣りって今まで一度も行ったことがないや…。

左側の米俵の方は「弥彦神社 初穂講 創立五十年記念」とあった。これは米所新潟の農家さんたちが参加する「初穂講」というものがあり、毎年豊作を祈念しお米を奉納している集まりの記念碑のようだ。


隣のは「重軽の石」といい、持ち上げた石の感覚で吉凶を占うものらしい。

石の謂れというのが↓

慶長年間、弘前藩第二代藩主の津軽氏が日本海を船で北上中、暴風雨に遭い、船が難破しかけた。津軽氏が越後一宮の弥彦の神様に「鳥居奉納するからお願い」と祈ったところ、暴風が止み無事に弘前へ戻ることが出来た。以降、毎年弥彦神社へ使者を使わしお礼を欠かさなかった。ある時、二つの火の玉が城の天守閣をグルグル回るという怪異が起きた。調べると、大人の頭ほどの石が飛び回っている。毎晩コレに悩まされていたところ、「そういえば、弥彦神社に鳥居を奉納していなかった」という事実に気付き、慌てて鳥居を奉納することになった。元和3(1617)年、無事に鳥居が完成し、一緒に火の玉2つも奉納した。

火の玉だった二つの石を、願い事を心で念じながら持つ。軽ければ成就、重ければ駄目ということらしい。

私は謂れなど知らずに、とりあえず石を持った。どちらも重かった。無意識に持ち上げていたので願い事なんか考えてなかったわ。神様もさぞかし困っただろう。どちらも重かったなら、なんかよく分からないけどアウトってことかなー?

 

鹿苑があった。

神様のお使いなのかなー? と思ったが。昔から居たわけでは無く、大正2(1913)年に出来たものだそう。こちらの鹿さんは春日大社から譲り受けた雌雄2頭から始まっている、本物の神様の使いでいらした。修学旅行で必ず行き餌を差し上げる、あの奈良公園の鹿さんの子孫ですよ。

牡鹿もまったりしている。平和な暮らしぶりらしい。こちらをぼんやり見つめてくるだけで、あまり興味なさそう。神に見放されそうなのかな、私?

あと、鶏もたくさんいた。
鶏舎もあった。こちらは昭和33(1958)年に日本固有の鶏を保存するために設けたと書かれていた。GW期間に日本鶏品評会が50年以上行われているらしい。色々やっているのね。鶏も絶滅危惧種に指定されているような品種もいたりで、なかなか力を入れているようだ。

折角なので子供を呼んできたが、第一声が「クッサ」、第二声が「戻っていい?」だった。なんという罰当たりな。


★★★★★

とても居心地の良い神社だった。

 

弥彦神社

創建年 不明

 

 

 

上越の水族館もリニューアル後は初めてだ。

鳥インフルのせいでペンギンはおうちに引きこもっていた。見られなかった。

(相変わらず)長野の植民地みたいになっていたわ。駐車場が長野ナンバーだらけ。

 

私は浜辺より港やドックが好きだけど、私以外の人間達は興味がなかったらしい。浜辺なんてただ暑いだけじゃん。

子供は何にも無い浜で波と戯れていたよ。

個人的には打ち上げられて、あちこちにいたフグみたいな魚が気になった。

海鳥もコイツら食べないらしく、カピカピに干上がっていた。標本みたいだった。

調べてみたら、コイツらはホシフグというそうだ。毒があり、食用不可。2022年から2023年にかけた冬のシーズンの日本海側の広い範囲でホシフグが大量に打ち上げられているらしい。北は秋田県・南は福岡県という感じ。理由は謎。2013-2014の冬にも同じく大量漂着したことがあったらしい。自然の摂理(ホシフグは増えすぎた…)的な理由か?

毒フグなので各自治体では「触るな、持ち帰るな、死ぬぞ」とアナウンスしている。普段は水深100~400mの場所に住んでおり、外洋を群れで泳ぐ魚だというが、たまに沿岸の定置網に大量に引っかかる厄介者だそうだ。

海水浴はただ暑いだけなので楽しくないし滅多に出かけないが、海は好きです。