お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

真々部氏館

毎年、1~2回は出かける安曇野市

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真々部氏館、この地図では分かりにくい。

グーグルマップさん↑とトリミングした上記の地図↓

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つまり、本来はココに真々部館があったみたいなの↓

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何もないわ。道路突き抜けてる。ちょうど「真々部氏館」の場所だけぽっかり空き地?(家も建っているが)になっているようで。空から見ると分かりやすくなっている。
 

真々部館の遺構はこれだけ↓

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往時、館を取り囲んでいた土塁の一部だそうな。

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大手道↑

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こんなお城跡だけど、安曇野市街地でこれまで見てきたお城跡のどれより気合いが入っている。デカい地図や説明板×2が設置され、安曇野市のいつもの標柱もあるよ。「真々部城と城下町」と表現が大きく出た! 一般人の頭の中にある城下町のイメージとは違うかもしれないが、我らの郷土が栄えた昔を誇りに思う、という堂々とした姿である。

 

説明板によれば、

  • 武田氏は上杉勢への備え等のため、信濃国安曇野に千国道(棒道=軍用道路)を整備
  • 安曇の南部に真々部の館を設置し、監視した
  • 千国道は穂高・大町を経て糸魚川に向かう古くからある街道
  • 真々部はこの「千国道」の他、「飛騨道(旧東山道支道・岐阜方面)」「善光寺道(旧東山道支道・長野方面)」「熊倉道(千国街道・松本方面)」「長尾道(旧三郷村方面)」「岩原道(旧堀金村方面)」などの主要道、「長尾の渡し(梓川を渡り松本へ向かう)」がある交通の要衝であり、物資の集積地となっていた
  • お寺も古くから集まり、土地柄か読み書き算盤が出来、周りの村々の情報を把握している人々がいた
  • 武田晴信が天文19(1550)年頃、物資の供給や宿場とするため真々部館と城下町を整備した
  • 真々部館は45間(約82m)四方の広さで、土塁と堀に囲まれていた
  • 二の丸は120間(約218m)四方あって、こちらも土塁と堀があった
  • 主の真々部氏は日岐丸山氏の一族で、仁科氏の配下

 

  • 城下町は、館を中心に道・堰・寺社・宅地・田畑を配置していた

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  • 7寺8小路、真々部下屋敷、真々部諏訪神社八幡宮、化粧屋敷、乾の馬場、辰巳の馬場、的場、駒垣渡(馬の牧場)、牛垣渡(牛の牧場)などがあった
  • 7寺=専念寺・金龍寺・真光寺・円通寺・常松寺・法国寺・真行寺
  • 7寺は色々な宗派であり、真々部内外の情報収集の他、お寺の檀家さんを相互監視される機能もあり、これらは武田氏の支配施策であったらしい
  • 8小路のうち、真々部氏館周りの東小路・西小路・南小路・北小路には真々部一族の他に甲斐からきた家来、真々部氏の領地から呼び寄せた家臣たちを住まわせた
  • 千国道周辺には百姓や甲斐などから移住した商人職人が住んだ
  • この千国道の周りでは市がよく開かれ、安曇野南部で最も賑わった
  • 真々部村の郷蔵(江戸時代の年貢米の保管庫)もこちらにあり、盗難や火災などないように村で厳重に管理されていた
  • 飢饉や不作で米がない時には「お助け米」として郷蔵から米が配布された
  • 現在郷蔵は平成6(1994)年に立て替えられ、お祭りの山車の収納庫になっている

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  • 真々部村の最初の学校は、明治6(1873)年専念寺に開校した真受学校であったが、翌年この広場に真々部学校を新築し移転した

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  • 教室4・座敷2・お勝手があり真々部学校開校時には63人が学んだ
  • 明治37(1904)年に真々部学校が廃校、(明治7(1874)年、真々部村は高家村に統合されており)生徒は本校の高家学校に通学する
  • 旧校舎は集会場などとして使用され、昭和30年に焼失

明治9年時点で、小海渡村・熊倉村・真々部村・中曽根村・飯田村を統合して出来た高家村には尋常小学が3校あった。真々部学校(生徒数113)、飯田学校(生徒数148)、熊倉学校(生徒数188)。真々部学校は一番生徒数が少なかったようだ。旧飯田村も旧熊倉村も、それぞれ川の渡し(飯田の渡し、熊倉の渡し)が村内にあった。真々部も同じく長尾前の渡しがあり、尋常小学が置かれた地区は交通の要衝だったりする。ちなみに3つの渡しとも塩の道(千国街道)の一部だが、一番古い熊倉の渡しが最大の渡し場で最も賑わったようだ。2番目に真々部の渡し、3番目は飯田の渡し。

 

飯田の渡しは松本~安曇野最短ルートであったものの、早々と廃止されてしまったようだ。明治9年には存在しない。現在では正確な位置も特定出来ない程忘れ去られてしまった。名称的に飯田砦の近くだったと思うが、飯田砦周辺には梓川SAがあり工場が建ち並んでいる。

長尾前の渡しは昭和6(1931)年梓橋がかけられ、ルートは今も健在。平成19(2007)年にアルプス大橋が開通されるまで国道指定されており、頻繁に渋滞していたようだ。

熊倉の渡しは昭和30年代まで使われていたようだが、現在廃止され橋も架けられていない。渡しの位置には記念碑だけが残された。熊倉だけ現在残念な感じになってしまったな…。最も賑わっていた故に開発出来なかったのかな。

 

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さて、土塁跡に登ってみる。

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安曇野市特製の標柱がここにある。

標柱には、

  • 戦国期天正年間末期、武田氏は大町・穂高と並ぶ軍事拠点として、真々部館と城下町を作った
  • 館の4周には小路がめぐり、小路内部が2の郭にあたる
  • 主の真々部氏は日岐丸山氏の一族で、仁科氏の配下である
  • ここは七寺八小路と呼ばれる都市が形成された
  • 市も開かれ、安曇野南部の中心地であった

と簡単に紹介されていた。

 

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現在土塁跡には祠が2つあった。向かって左の立派な方が「殿村三峯様」、右側が「秋葉様」。

 

殿村三峯様

埼玉県秩父三峯神社に毎年参詣し、御眷属拝借の牌とご守護3枚の御札を授かり、御札を門戸に張り付けて盗難除け等を祈願している

 

秋葉様

静岡の秋葉神社の火防の神を祀る。殿村秋葉講が造ったものだが、いつ頃建てられたか分からない。

 

三峯神社ヤマトタケル碓氷峠に向かう途中、イザナギイザナミを偲んで創建したという伝説がある古く大きな神社。3枚の御札とは、御祈祷神璽・火防之神璽・盗賊除神璽の札。また三峯神社の眷属のオオカミを一年間お借りすることが出来るようだ。御札は一年後返却しなければならず、拝借料は4000円。

秋葉神社も大きな神社で、こちらは火災予防の神様。

「殿村」とは真々部氏館があった(現在、金龍寺のある)場所を指す。

 

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すぐ近くには金龍寺。金龍寺のある場所が二の郭跡。

古いお寺で、鎌倉時代創建と言われるが、地図にもあるように元は別の場所にあった。

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金龍寺の東側、今は田んぼが広がるだろうか?

明治11(1878)年に再興されたそうだが、境内にはそれ以前に造られた石仏など大量に残されている。

このお寺さんには真々部氏のお墓も残されているそうで、特に中興の祖とされる真々部尾張守長雄さんとその妻子のお墓があるそうだ。真々部長雄さんの奥様は武田信玄のご息女と伝わる。

 

このお寺さんも中々な感じで、

開基・後鳥羽上皇(真々部氏の先祖である仁科氏が後鳥羽上皇を守る西面の武士だったという縁)

開山・晋明大済国師相国寺鹿苑寺の開山と同一=夢窓疎石のこと!?)

御本尊・後鳥羽上皇の御持仏で、行基作の聖観音(国宝級)

とされているらしい。キラキラな有名人だらけだよ!

 

宗家の仁科氏や武田氏が滅び、真々部氏も衰退。天正10(1582)年真珠院と称する。明治5年、官命により廃寺。

 

安曇野市平成23年製作の資料を見つけたが、その内容だと、

創建年不明

開山・一庵和尚(寺伝では下諏訪町の慈雲寺の天桂和尚、このお坊さんは武田信玄と懇意)

開基・真々部尾張

となっている。真々部の7寺のうち、最も寺領の石高が高い(3石)。

ちなみに、真々部さんのお墓には「丸に揚羽」の紋があるそうだ。平家じゃん。宗家の仁科氏は平姓なので、その流れなのかな? 安曇野市の資料だと、仁科氏の一族か丸山氏の一族か不明としながらも、丸山氏と真々部氏が繋がる系図を載せていた。丸山氏も仁科氏の傍流だし、どっちでもいいのか。

 

ほぼ唯一の遺構、土塁を見て回る。

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この土塁、それなりの巨木とかなりの巨木の切り株が残されていた。

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広場になっている二の郭跡。

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二の郭と大手道。

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★☆☆☆☆

多分、金龍寺さんの方が見応えあると思う

 

<真々部氏館>

築城年 天文年間(1532~1555)

築城主 真々部氏? 武田氏?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は130年前の米蔵を改装したというレストランへ。イタリアンだよ。

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カフェもやっている。

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今後、毎回ここがいいとか言い出しそうだわ。