お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

毛野館・毛野城

仕事で疲れた(毒気に当てられた)ので、浄化をしに景色の良い場所に行った。折角来たのに子供に振り回されてしまい、ソーセージ2本食べただけで終わった…今度は1人で来ようと心に決めた。

お子様連れ、お犬様連れの方々で賑わっていたよ!

 

ここから車で10分くらいの集落に、毛野館・毛野城という城館が残されているらしい。毛野と言えば群馬県と栃木県一部を示す古い文化圏の名前だが、全く関係なさそう。

現在、「諏方宮(諏訪社)」「勝教寺」がある区画が毛野館跡のようだ↓

 

勝教寺より諏訪社が高い位置にある。本郭は神社がある場所と思われる。

勝教寺は元々小さな庵のようなお寺さんだったようで、明治13年に寺号を受け改称した、と長野縣町村誌にはあったが明治時代の地図には現在地に「長命寺」という別の寺院が置かれていた(長命寺は文政12年に火災に遭うと書かれていた)。諏訪社は諏訪社でずっと存在し続けているようだ。

ちなみに、長野縣町村誌には毛野氏の居住地跡について記載があったものの、肝心の場所の記載がない(毛野氏館と毛野氏城があるので)。毛野氏についても事績不明。

 

毛野館と毛野城の位置関係は以下の通り。

 

わりと近くにある。毛野城跡は小高い丘にあった。

近くに車を置いて、ちょっと上ってみようかなってレベルの小高さ。ただ、周辺に車を置くスペースどころか、周辺の道は1車線幅で停めると迷惑になっちゃう。

↑中央の丘が毛野城だよ!

正直、城というには貧弱な感じ…。

 

別の位置から見る。大きな木が生えている微高地が毛野城。

すぐやられちゃいそうだよ。周りは宅地と田畑で囲まれているので、堀やら土塁やらはすべて消されちゃっているのかもしれない。

大きな木の下辺りに何か石碑っぽいモノが見えた。「毛野城跡」とか書いてあるのかな!? と思ったが、城主一族の子孫とされる家のお墓らしい。

戦国時代以前に帰農したのかもしれないなあ、と思った。

 

この辺りは永正年間には村上氏配下となっており、その後は村上氏→武田氏→織田氏(森氏)→上杉氏→飯山藩領という変遷で明治を迎えているようだ。

 

さて、毛野館は少し遺構が残されていた。

諏訪社の本殿。境内は広い。

西側には土塁が残されていた。

西側以外の場所は、崖。

西側には毛野城への逃げ道が存在していたはず。

 

こちらには毛野城跡を示す説明板があった。

内容は、

  • 天喜4(1056)年、藤原氏末裔の清水氏が奥州安部頼時の戦乱にあたり、鬼門除けにこの地に社殿を建立したと伝承されている
  • 拝殿の床下には畳2枚ほどの大杉の切り株が残され、境内に現存する杉も三水村で最も古い樹齢4~500年の杉
  • 広大な屋敷跡でもあり、当時は隣の寺院も屋敷の一部であったと思われる
  • 西側に土塁が残されている
  • 六百坪余りの水平地があり、相当な豪族の屋敷跡であったようだ

この文中に出てくる清水氏は、毛野城にあるお墓の持ち主のようだ。毛野城からはちょうど鬼門にあたる場所だ。

 

「奥州安部頼時の戦乱」というのは、陸奥国に半ば独立国を形成していた安部頼時を討伐するために朝廷が軍勢を差し向けた「前九年の役」のことを指しているようだ。

永承5(1050)年、藤原登任という人が陸奥守として現地に下向。翌永承6(1051)年、衣川(当時は朝廷と蝦夷の国境だった)より南へ進出しようとする安部氏となり、朝廷側が負けた。そこで、河内源氏の2代目棟梁である源頼義が派遣され、その翌年の永承7(1052)年に大赦が出され安部頼時が赦されることとなり、和睦する。

天喜4(1056)年は阿久利川事件があった年。阿久利川事件とは、源頼義陸奥守任期満了日直前に源頼義が襲われた謎の事件だという。安部氏と朝廷側が再び戦闘状態となる。天喜5(1057)年に安部頼時は戦死するが、その後も嫡子の安部貞任が戦死するまで戦乱が続いたようだ。安部頼時の娘婿が藤原経清であり、その子孫が奥州藤原氏源頼義の子孫が源頼朝前九年の役のせいで、源頼朝は奥州を征服したかったのかー。

 

毛野城主の清水氏は「前九年の役」頃に豪族やっていた一族なら、そりゃ資料にも残ってないような? と思うほどの昔の豪族だったということなのかな。

 

平安時代中期のお城ってあんまり高い場所に造る技術なさそうな気がする。大丈夫? って思っちゃった毛野城でも当時は最先端だったのかもしれないわ。



★★★☆☆
毛野館は良かった。

 

<毛野城・毛野館>

築城年 不明

築城主 清水氏?