信濃の国に歌われる久米路橋である。
以前見に行って「ちっちぇーな!」とガッカリしたので、個人的にはあまり好きではないが、県歌に出てくるぐらいだから皆好きなのかな?
元は跳ね橋だったそうで、多分犀川通船のために跳ね橋にしたのかなー? とは思った(跳ね橋といえば、幕末に完成して「皆で渡り初めだ!」と大勢の人間がドドド…と駆け込んできてそのまま崩落した大屋橋を思い出す)。
久米路橋(水内橋)自体は大昔から何度も掛け替えられている有名な橋。伝説では推古20(612)年に百済渡来人の土木技術者・路子工という人に作らせた約180もの橋のうちのひとつらしい。路子工はイラン系ペルシャ人で、中国を経て百済から日本へにやってきたらしい。
路子工は推古20(612)年に帰化した。身体中に白斑があったので「伝染病患者か!?」と思われて島に捨てられそうになったが、「病気ではありませんし、僕には技術があります、連れて行って」と言いなんとか難を逃れた。当時最先端の思想だった仏教の教えを用いた見事な庭園(須弥山石組)を造ったので、国のお抱え技術者となった。
日本史に記録された最初の技術者であり(当然、路子工の前にも庭師や土木技術者はいた)、とにかく以前とは比べものにならない高度な技術者を持っていたらしい。最初の仕事は造園だったのに、「長い橋を架けるのが得意」と橋メインの業績が残される。
橋の業績は、久米路橋の他には三河国八脛長橋(江戸時代に国内最長を誇った矢作橋のこと?)、木曽の梯(桟橋)、遠江国浜名橋、会津の闇川橋、兜岩の猿橋(山梨県にある猿橋)などがある。
矢作橋は慶長6(1601)年初代開通とされる(それ以前は橋が架けられなかったという)が、平安時代末期の源行家が矢作川に架かる橋を取り外して云々(平家物語巻6洲俣合戦)という文があったり、矢作橋で子供時代の豊臣秀吉のエピソードがあったりで、謎が多い。
福島県の闇川は渓谷で有名らしい。闇川橋より隣の古い鉄橋の方が人気あるらしい。
ここではどうやら闇川橋は「聖徳太子が百済人の路子麿に造らせた180の橋のうちのひとつ」ということになっているらしく。この橋の近くに祀られた橋姫神社も橋守として創建されたらしい。闇川橋のすぐ近くに福島県内最大の縄文時代の環濠集落(ムラ)跡があるという。
国道121号線が阿賀川を渡り始めるカーブ辺りの田んぼを発掘調査したら出てきたらしい。橋姫神社と闇川橋は↑この地図の左下にある。
この場所ではどうなのか分からないが、環濠集落の堀の上に橋を架けていたことが発掘調査で分かった例がいくつかあるようだ。推古天皇の時代に架けたという闇川橋もそういう感じなのかなー? ひょっとしたら推古天皇時代の大和朝廷北限が会津盆地で、蝦夷に最新の文明を見せつけてやる為に架けたんだろうとか、色々な妄想が広がりそうな橋だな!
また闇川橋は戦乱で度々落とされているらしく、このルートは古くからある道だったようだ。災害で通行止めになった鶴ヶ城城下町と日光を結ぶ会津西街道の代替道として整備された会津中街道のルート上でもある。国道121号線の旧道っぽい雰囲気も持っている。
久米路橋、猿橋、木曽の梯、浜名橋は古くから和歌に詠われる有名な橋たちである。
久米路橋は拾遺和歌集に選ばれた和歌「埋もれ木は中むしばむと言ふめれば久米路の橋は心して行け(詠み人知らず)」がある。ちなみに、昔は水内の橋と呼ばれており、久米路の橋(久米路橋)という名前になったのは明治に入ってからだという。結局、矢作橋みたいに古代からあったんだかなかったんだか…ということなのかもしれない。
そんな久米路橋を渡った先にあったトンネル(久米路隧道)↓の方が私の心を打ったよ。
堀跡も荒々しく、ワイルドだな。昭和6(1931)年生まれの現役隧道だそうだ。一部覆っており、補修の跡もあった。
現役の久米路橋も昭和8(1933)年に架けられたそうで、多分この二つはセットである。久米路橋は令和三年に登録有形文化財になった。久米路隧道も一緒に登録して欲しかったな。
あと、私の心に何故か残る「雉も鳴かずば撃たれまい」の生まれ故郷だった。
現在の久米路橋・久米路隧道は交通量は少ない(でも、国道19号不通時の代替道路として整備され続けている)。国道19号には新久米路トンネルがあり、小さな「←久米路峡」という案内板に惹かれなければ普通コッチまで来ない。
ここでは、大がかりな工事が行われているらしい。
。
犀川の流路にある変な出っ張り部分に、河川用のトンネルを2本も掘っている。この出っ張り、素人の私ですら「邪魔」と思ってしまうわ、なんであるんだろう(私がもし腐るほどカネ持ってたら、こんな出っ張りすべて爆破してなくし、川の流れを整えてあげたい)。ここに水路トンネル掘りたくなる気持ちがよく分かる。
久米路河川トンネルさん。平成4(1992)年竣工、長さ229m。
久米路第2トンネルさん(右側、開口部が四角い)。平成26(2014)年竣工、長さ199.5m。断面積は水路トンネルとしては国内最大級らしい(高さ12m、幅15m)。
2本のトンネルとも稼働中。まだどこか工事しているのかな?
砂利トラが当日も出入りしていた。
昭和58(1983)年の台風被害がキッカケで、昭和60(1985)年から「犀川久米路恒久治水対策事業(3点セット)」という大がかりな工事をやっているそうだ。この事業には東京電力(長野県内はほぼ中部電力の勢力下なので馴染みがない)も協力しているそうだ。東電が出ていたのは、久米路峡から下流側に東電所有の水内ダムがあるからだろう。
昭和58(1983)年の台風10号は中心気圧885hPaとかいう強い台風で、長野県内でも千曲川が決壊するわ、諏訪湖が溢れるわ、色々大変だったらしい。
久米路峡近くの信州新町の中心部が浸水したそうで、620棟もの家屋が浸水したという。犀川の水位が最高約431mまで上がったとかで、一階部分は水没状態、平屋だったら死んでるかもね。信州新町だけで被害額が32億900万円。町の住民は水内ダムがあるせいで町が水没したとダム設置者の東京電力と交渉を開始し、東電から5億円の解決金・3億8500万円の生活再建費用を引き出すことに成功。
一方長野県は、模型を使った実験を行いその結果から治水対策としてこの事業を行うことになったという。なので、事業に東電が協力することになったのかな。
信州新町だけではなく、どこも水害に対する備えとして河川改修・ダム設置など治水対策関連の事業が活発になったそうだ(そういえば、元々沼地みたいな場所だった長野市松代でも、この台風のせいで地中にでっかい排水溝とか埋める大きな工事やったとか数年前に聞いたわ。そのせいで令和元年の台風はまぁまぁの被害で済んだのかもしれない)。
事業名にある3点セットというのは、長野県が実施した実験結果と住民の意向で決まった以下の事業を指す。
- 久米路河川トンネル
- 杉山開削
- 久米路第2河川トンネル
「杉山開削」は少し上流で信州新町の中心部に近い杉山という場所を削ったことのようだ。
本当は久米路峡を削りたかったらしい。気持ち分かります。久米路峡を削る・爆破させることは景観破壊だとして住民に反対された。
平成26(2014)年、久米路第2河川トンネル開通により、すべての工事が完了となっている。
泉小太郎像。
ここの泉小太郎君は、かつて大きな湖だった安曇野を開拓した人として語られている。
- 安曇野は大きな湖で、犀龍(女の神様)と白龍(男の神様)が住んでいた。この2人の子供が泉小太郎である。
- 小太郎が生まれてすぐ、母の犀龍は自分が龍だということを恥じて、湖に隠れてしまう
- 成長した小太郎は母を探しながら、「こんな大きな湖の水を落としたら、肥沃な平野が生まれて貧しい人々の暮らしも豊かになるのにな」と思うようになった
- そして母の犀龍は小太郎と再会し、小太郎の願いを叶えようと龍の姿になり、小太郎を背に乗せ三日三晩荒れ狂って湖の水を越後の海に注ぐことが出来た
- 小太郎と母の龍が湖の水を流し降った川を「犀川」と呼ぶようになった
大昔の安曇野開拓と犀川の治山治水を語った話であるともされるようだ。
母親も(多分)父親も龍なら、小太郎も龍になるんじゃないかな? と思うこともあるが、泉小太郎君は人間という設定である。
平成3(1991)年の手形がいっぱいだよ。
★★☆☆☆
治水事業の完了を記念した公園がある、久米路峡の公園は寂れているし狭い。
信州新町のオシャレ洋館も見てきた。