山の上にある。すぐ横は千曲川。
木島神社=飯縄社。
千曲川にかかる橋は綱切橋といい、昔あった安田の渡しの後継にあたる橋だそうだ。wikiによれば、第4次川中島合戦で上杉謙信が越後に退却する際、安田の渡しで綱を切り追手から逃れた、という伝説があり、これが橋の名前の由来となっている。
昔、幅が広い川は両岸にロープを張って、それを手繰って船を渡したそう。そんな長い綱を用意出来るのがもう凄い。綱切橋は旧木島村安田地区と飯山町(飯山市中心部)を繋ぐ重要な橋だった。ので、飯山町住人も橋の袂にあるこの神社には石灯籠とか色々寄進している。
入り口の標柱は「木島神社」となっているが、その傍らにあった案内板には木島神社と飯縄神社という言い方が混在している。平成19年に建てられたものらしく、その頃には飯縄神社という名前に改められたのかもしれない。神社がある山の名前が飯縄山である。
ちなみに木島神社は郷社で、標柱は明治38年日露戦争に勝った記念で当時の上木島村と木島村が合同で建てている。そのため、標柱の裏に「征露紀念」と彫られていた。第2次世界大戦後に郷社の社格が廃止、また敗戦したために表の「郷社」と裏の「征」の字を埋めちゃったと書かれていた。裏側には「露紀念」という謎の文字が残っているということだ。シュール。
いや、征露紀念、ぼんやり残っているじゃん…。
階段を上がって行くと、登り切った鳥居の横に石があった。
安田地区出身の力士「玉の森」を顕彰する石碑らしい。石にはデカデカと「玉の森」の文字が。雷電為右衛門が生まれた頃活躍し、三段目まで昇進したと言われる、明和6(1769)年建立。という内容の小さな説明板。
雷電は明和4(1767)年生まれ。明和の初め頃活躍していたのかな。三段目が凄いのかどうなのか分からないが、当時の番付に名前が載ったことをとにかく記念してるんだと思う。「昇進したといわれている」という一文が気がかり(事実と異なっているのではないかと心配になったよ)。
そして、壊れている灯籠?
守られている灯籠。差がハッキリしている。
こちらの灯籠は「綱切の渡しの安全を祈願して、飯山の上船渡の世話人・船頭が文久3(1863)年、神社に奉納したもの」とあった。上船渡とは、安田の渡し(綱切りの渡し)のことらしい。
綱切橋もよく見える。
立地条件的に「ここはお城跡ではないか」と疑ったんですが。お城は峰続きの隣の「城山」にあったそうで、そもそも安田の渡しが綱切橋より下流にあったそうだ。立地はいいので何かしらあったのかもしれないけどね…。
二の鳥居かな?
何があったのか…何かが取り外されている。
閑院宮がお立ち寄りになった! という記念碑もある。
- 明治31(1898)年、通りすがりの閑院宮戴仁(閑院宮第六代当主)が立ち寄った
- 「景色が佳い」「社殿が古風で雅び」と誉めてくれた
- このお立ち寄りを記念し、明治38(1905)年に建立
- 閑院宮は四親王家のひとつで、宝永7(1710)年東山天皇の皇子・直仁親王に始まる
- 昭和22年臣籍降下
とあった。よっぽど嬉しかったんだろうな。
閑院宮は4つある世襲親王家(今上天皇との血縁の遠近を問わない、皇位を途絶えさせないために存在する親王家)のひとつ。閑院宮戴仁さんは皇族軍人として活躍した人で、明治31年時点で33歳の陸軍騎兵中佐やってるエリートだった。昭和20年に薨去、とあったので本人は皇籍を離脱していない。
ド素人の私ですらこの場所気になるぐらいだから、エリート軍人ならもっと気になっちゃうかも?
良い景色、休憩できる東屋も完備。
何故か埋まりかけていたが、大東亜戦争云々と彫られたものがあった。「大東亜」という言葉の初出が昭和15(1940)年7月らしいので、建てられてから80年前後しか経っていないのに。自然に埋まるものかね…埋めたにしても中途半端。
何のものか字が読めないので分からなかったが、対岸の飯山新町の氏子さんたちが土地を神社に寄進したということらしい。
ここから一直線にお社へ。
両側が土塁じみており、気になる…。
飯縄山という名前なので、修験者はいたかもしれないがねー。
そうこうしているうちに社殿に着いたよ。修復中なのか、冬季対策のビニールシートなのかは分からない。目の前は拝殿。
裏に回ると。
本殿。
やはりビニールシートが。摂社にもかけられているので雪対策なのかな。どれも全体を覆っているわけでは無く、入り口のみ塞いでいる。社殿自体は比較的新しいように見える。
本殿は木島神社という名前では無く、「飯縄宮」と書かれた額が掲げられていた。
木島神社は、
の三柱が祀られている。つまり美味しいご飯の神社ね!
創建年は不明だが、郷社という位の高い神社である。
交通の要衝で対岸の飯山新町からの崇敬が厚い、飯山城主や近くの武将が寄進している印象から、交通の神様(宗像三女神)とか武神(建御名方神)とかだと思っていた。そして飯縄宮という名前なのに。意外。
ただ、今まで見てきた色々な遺物から考えても有力な神社のようだ。
拝殿裏↓
摂社の中でも一際大きい社が、子安社だった。
「子安」って文字だけでテンション上がります(中学の頃からファンで、1月アニメも子安という名前見て録画予約しちゃった作品あるぐらいです)。
摂社の子安社はままあるが、こんな風に目立つ子安社はわりと珍しいかもしれない。ここ何年かでお参りした神社の中でも、目立つ子安は片手で数えられる程度だよ。嬉しい。
この先は墓地があるようだ。
鉄塔管理用道も兼ねている。
この道を辿っていけば岩井城というお城跡に着くはず(多分)。
私は今回(同行の家族に怒られるので)止めておいた。戻ります。
↑御神木?
お参りを終えました。
帰ります。
木島神社がある飯縄山の下には以前、長野電鉄木島線という鉄道が走っていたようだ。開通年は大正14(1925)年、廃線年は平成14(2002)年。
20年前から使われていないというトンネルが残っている。
封鎖もされずに…。飯縄山トンネルという名前のようだ。全長は85.5m。
ちなみに私以外の家族はこっちのトンネルを堪能したそうで。トンネル内はバカがいっぱい生えていて、取るのに苦労したとか言っていた。
冬とは言え、下草が刈り取られているように見える。何かに使われているのか? ただ、歩行者用として使われては居ない気がする(だってトンネル内にバカがいっぱい生えているみたいだし)。
木島神社参拝者用の駐車スペースとして生きながらえている気がするよ。
何かの跡? 架線の支柱かなー?
驚くべき事に、架線(と思われるもの)が残っている。トンネルの向こう側も閉塞していないようで、出口の光が見える。ただ、ネットで向こう側がどうなっているのか調べて見たところ、出られないっぽい(藪があるし、新しく出来た道路とを隔てるゴツいフェンスがあるようだ)。
↓この辺に出るような気がする。見た感じもうダメだわ。
架線供給用の電線はぶった切られている。内部は物置になっている様子。
田舎路線だから放置なのか、邪魔にならない部分は撤去もされずそのままになっているみたい。碍子とか電線とか、まだいるよ。なんとなく線路の跡も残っている。トンネルもがっしりして崩れそうにない。
トンネルのすぐそばには信濃安田駅という駅があったらしい。ちょっと嵩上げされている辺りが駅の跡地のようだ。駅設備はどうにも邪魔だったのか綺麗さっぱりなくなっている。
ちなみにこのトンネルの入り口、私の大嫌いな蛇が日光浴していたらしく。
戻ってきたら家族がおかしな立ち位置でいたので「何してるん?」と声をかけたものの、ゴニョゴニョしてよく分からず。車に乗り込み、トンネルを後にしてから「実は…蛇がいた」と言い出した。
「おい、蛇いたんか教えてくれよ!」「いや、トンネル見たそうだったし」という押し問答をしていたら、なんか足首が痛いような気がしてきた。
ずっとこちらの挙動を見ていたのに、蛇のこと教えてくれないなんて。大体こんな冬に出てくる蛇って生きてんの? と聞いたら「すんごい生々しい光り方してたから多分生きてる」とのこと。
何ソレ、ホント気付かなくて良かったわ。きも。
★★★★☆
旧郷社っていいよね、訳分かんないものがたくさん残っている。
<木島神社>
創建年 不明
今年は家の近所の他に、市内でも一番大きな神社にも初詣に行った。やはりうづらもちは美味しいよな。