ちょっと時間が出来、ドライブした。なんとなく山の中に入ってしまい、「山布施」という地名に見覚えがあったので行ってみた。見つけたのが「延喜式内社 郷社 布制神社」という古い神社。
ちなみに見覚えがあった理由がコレ↓
神社脇の小道から入っていくとあるらしい。500mで辿り着けるらしく、グーグル先生の計測では2~3分で行けそう。
どうしようかなー? 行っちゃおうかなー? とかなり考えたものの全く準備していないので諦める。まあ、いつでも来られるからな。
延喜式神名帳に載っている「布制神社」には3つの論社があるらしく、そのひとつであるという。他は「布制神社(布施五明)」「布制神社(篠ノ井石川)」、布施五明にある「布制神社」が一番デカそうだ。
こちらの布制神社には由緒とかの説明板がなく、とりあえず古そう。ということしか分からず。色んな布制神社があるけれども、それらも全部ひっくるめて布施氏という一族が関わっているらしい。須立ての城も、築城主は「布施頼重」か「布施頼直」か「布施直頼」と、とにかく布施一族の誰かとされている。そして、布制神社は布施一族のご先祖様を祀っているらしい。
布施氏の祖は孝元天皇の第一皇子・大彦命で、この人は北陸方面の平定のため遣わされた皇族将軍であるという。
布制神社についてぐぐってみたところ、
という内容がたくさん出てきた。
ところが、布施五明の「布制神社」由緒書きには
と書かれているようだ。
高橋朝臣国是之という人は、大彦命の孫にあたり料理の神様でもある磐鹿六鴈の子孫とされるらしい。磐鹿六鴈は上総国で鳥を捕まえようとして失敗し、代わりに得られた鰹と蛤で料理を作ったところ天皇陛下にお誉めの言葉をいただき、膳臣の姓を賜り料理番として仕えることとなったという。この膳臣氏が天武天皇の時代に高橋に改姓し、長らく料理を担当する一族となったそうだ。ちなみに御飯担当は阿曇氏という一族もおり、ライバル関係だったそうだ。そういえば阿曇一族も長野に移住していたな。
個人的には布施五明の方の「大彦命は当地で薨去だよ」という話より、「自称、大彦命・磐鹿六鴈の子孫の高橋一家入植」という話の方が有り得そうな気がするわ。布施御厨というのがあったらしいし、食材集めで料理人の一族が来てもおかしくないような?
↑この写真の中の説明板っぽいヤツ、完全に文字が薄れて何も読み取れなかったよ。
拝殿。本殿は神明造らしい。
ぐぐった布制神社(山布施)の由緒には続きがあり、
- 「信州宝鑑」には、光仁天皇(709~782)の時代に伊勢神宮の分霊を勧請とある
- 安和2(969)年、佐久の望月氏が移住
- 望月→布施と氏を改め布施郷の領主に
- 当神社は以降、神明宮と称する
- 文化7(1810)年、布制神社と改称
信州宝鑑=信濃宝鑑かしら? 著作権絡みなのかネットで読めなかったが、明治時代発行の神社仏閣ガイドブックだそう。
今まで出てきた内容をまとめると、
709年~782年頃、伊勢神宮を勧請
→安和2(969)年以降、領主が変わり神明宮と改称
→文化7(1810)年、布制神社に改称
という流れなのか。望月氏は別に大彦命の子孫じゃなさそうだしな。
近隣の小松原という地区に、弘化元(1278)年に領主「布施冠者八郎頼直」が再建しましたという棟札が残る小松原伊勢社(布施御厨皇大神宮)があるらしいよ。布施御厨って物凄く範囲が広いのかな?
古い神社にしては、摂社が少なめな気がした。
遊具があった。
お参りしたので帰りました。
元来た道をばーっと走っていると。
誰なのか。
どうやら、須立ての城を築城したかも? と言われている人らしい。須立ての城の説明板では、「布施直頼の子・正直は須立ての城から別の場所の上尾城に移り、そこを本拠とした」とあったので、布施直頼戦死した場所なのかなとか色々考えて進んでみたけど。
説明板の内容がざっくりしすぎて辿り着けず(一応、北へ向かって車を走らせてみたものの、途中で倒木っぽいのがそのまま放置されていた怪しい道になってきたので、引き返してみた。「終焉の地」はその枝が散らばってた道の先にあったと思われる)。
もしかしたら戦死したとかなのか? と思い調べたが、布施直頼は普通に畳の上で亡くなったようだ。では、布施八龍大権現という神社が布施氏の館跡だったりするのかな? 辿り着いてみたかったわ。
この布施直頼さんの死後、布施氏は家督争いで分裂したらしい。上尾城に移った子の正直が平林氏と名乗り、この系統が布施氏を統一し、色々あってこちらを去り、会津→米沢→お家騒動と頑張っていたらしい。
★★☆☆☆
個人的には、ここは延喜式に載ってた神社じゃ無いと思う
<布制神社>
創建年 不明