佐野山城はこんな感じの林道↑沿いにある。林道なのに舗装路? どうやら昔の主要な道だったらしい。
どこへ出る道か帰宅後調べた。途中で分岐点が有り、聖山(松本方面へ)と旧大岡村(信州新町方面へ)と、抜けられるようだ。便利な生活道路ということかなー?。
ここがよく見ないと分からない入り口。私は一度通り過ぎたよ!
砂防ダムがあった。佐野川だ。
これ古道なのかな? 川が近いだけあってぬかるんでいる。
ぐちゃぐちゃしているけど歩くのは苦でない感じ。足場がしっかりしている。
むしろ、砂防ダムを越えるときが一番滑った気がするよ…。
砂防ダムを越えると青いロープも消えてしまうが、踏み跡が明瞭で迷うこともなさそう。
橋だー!
佐野川の上流のはずなのに、水が綺麗じゃない。
汚いというか、何かの鉱物みたいなもので濁っているように見える。
帰宅後これも調べて見たところ。やはり鉄が採れるとのこと。旧日本軍が採掘したという話が伝わっているようだ。
この佐野川の水自体が強い酸性で生き物が住めない環境。天然の毒水でその種類は硫酸。山では褐鉄鉱の他、硫黄も採れるらしい。鉄も硫黄も戦争で活躍できる大事な資源。しかし平時には有害な毒水でしかなく、このせいで農作物が育たないなどの苦難の歴史があったらしい。
褐鉄鉱って製鉄材料としては非常に質が悪いモノだそうで、これを用いて製鉄をしなかった(砂鉄を使った)という話もあるし。逆に製鉄技術が伝わった初期(時期としては縄文時代?)は褐鉄鉱が採れる長野県内が一番技術進んでた、という話もあるらしい。
渡来人の一族(秦氏)が聖徳太子から恩賞で、佐野山城周辺の土地をもらって移住した過去もある。褒美になるような場所なんだから何かイイコトがあるはず。単純に考えたら資源かな!?
佐野山城、褐鉄鉱や硫黄(これも日本各地でたくさん採れるが、中国では採れないらしい。日宋貿易・日明貿易での中国向け重要輸出品のひとつで、つまりお金になる)を守るために作ったお城だったりして…?
橋を渡ると、すぐに広場が現れた。東屋もある。
不動滝の水が流れる小さな川がある。こちらは濁っていなかった。
不動滝のお水は多分飲めるね。佐野山城はこの不動滝の流れる崖の上を登っていく。
ゴツゴツした岩が多く、昔の文人墨客が好みそうな風景だ。
一応、名所となっており、案内板が立てられていた。
- 平安時代の歌人、西行法師が訪れている(撰集抄)
- 松尾芭蕉も訪れている(更科紀行)
- 正岡子規も来た(かけはしの記)
- 郷土の偉人である佐久間象山も来た
- ここは修験道の修行場、不動明王も祀られている
- 「いしのと(8/1のことで、あの世とこの世を隔てる石の扉が開き、先祖がこちらに戻ってくる日。お盆の幕開けであり、当日はおやきを作って食べる)」にはおやき片手に滝行しに来た
- 高雄山から生まれ、佐野山城の南側を流れる滝の沢から流れる14mの滝。ここからは見えないが、11mの2連滝もある
- NHKの大河ドラマ(風林火山)で重要なシーンで使われた凄い滝です
という説明が書かれていた。
時期が時期なので、水量が少ないのだろうか? マイナスイオンも少なめ。
轟音を響かせる雄大な滝を想像していたんだけどねーこれじゃ滝行難しいんじゃないかな。
滝の沢を渡るところ、登り口となる。
佐野山城まで0.5km・佐野薬師まで1km・竜王城まで3.1km。大手道は佐野薬師からなので、ここは裏口だよ。
なんやかんやで訪れる現代の文人も多いのか、きちんと整備されていた。とにかく綺麗。
急激に登ってきた。
まだまだ登っていくよ…。
どこまで登るのか先が見えない様子。
少し平坦になってきた。
城域にすでに入り込んでいたらしい。見上げれば郭らしき平場がいくつも重なっていた。
下にもある?
段郭を縫うように上に登っていくのかなー?
がっつり杉が植林されていて、いつまで経っても景色が変わらない!
通行止めの表示が…。「山の神」と「佐野城跡」には行けないとある。ピンクのテープに従って迂回路を行けば通行できるとのこと。正直、内容が頭に入ってこなかった。林道不動滝線まで戻っていくのがいいのか…?
しかし振り返ったすぐ後ろにこういう標識が↓
佐野山城跡の矢印が通行止めの先と全く違う方向を指している。通行止めの先を示しているのは「山の神祠」だけだったよ。この標識の方が古そう。
結局古い方の表示に従うことにした。一応道があるので。
そしてこの山道は「林道不動滝線」なんだろうか? 車で通った舗装路のことではないのかな? ピンクテープが導いている。
ピンクテープなくても行けそうなくらい道がしっかりしているよ。
この迂回路、途中で分岐点があった。こんなクソ山奥で迷子になるのはゴメンだったので、スマホのGPSを使っているものの。好奇心に負け城の中心部とは違う方向に進んでみた。
石碑があった。山の神様。昔から鎮座しているような佇まいだけど、先ほどの看板は二つとも山の神様の祠を別方向へ教えてくれた。ここにもあるって教えてよぅ。山の神様に道中の安全を祈願し、神様に祈りを捧げた。
また戻る。
大変親切な道で、びっくりするほどピンクテープがある。
踏み跡もしっかりしているのにご丁寧にピンクテープ(テープなくなっている箇所もあるが、棒で分かる)まで! なんという優しい世界。佐野山に対する愛情を感じるよ。
道はひたすら登っていく。急坂だった。
なんというか…道が整備されているわりには先が見えない。迂回路だからかな?
それでも怪しい場所に出た。
虎口というヤツか…?
また段郭みたいなのが増えてきた。迂回路から元の道にいつの間にか戻ったのだろうか。分岐点には気がつかなかったよ。
よく分からないけど、↑こんな感じの所が点在する。
何かの入り口的な。
お城の中枢部に入ってきた。地形が愈々人工的になる。
堀切だよ。
何度目かの堀切を過ぎると、唐突に看板が現れた。
「佐野城址入口 →」
佐野山城の本郭かしら? 階段がある。
あの説明板見ただけで分かる。本郭到着。
まずは本郭の周りを見回ってみた。
眼下の郭(多分1の丸と書かれた場所)。
本郭内の様子↓
2の丸かな?
佐野山城の説明板は以下の通り。
- 高雄山の東側、佐野山にある
- 南側の「不動滝の絶壁と佐野川」・東南の「ジリダレ沢」・「車橋の断崖」・「3つの川に挟っている」という自然の要害地
- 城の大手道(さっき通ってきた道)には大小10以上の段郭がある
- 頂上には平地が連なる(郭が3つある)、それぞれ堀切で仕切られている
- ここから剣の刀渡りの険(という名前の痩せた尾根か)を数町登った高地にも外廊の址がある
- 水は小谷沢から汲んでこれるし、搦手から「サルトヤの詰城」まで行け、麻績と通じている
- 築城年代は定かではない。応永7(1400)年の大塔合戦で村上氏が新城を築城した記録があるので、その新城がココじゃないかなと思っている
- 佐野山城主は具体的に分からないけど、とにかく桑原氏
- 佐野山城の外廊として大田原の古屋に「城山」という場所がある
- また信田口にも番所があった
- 小田原には「はざま(伏兵を潜ませた名残の地名)があった
- 天文22年の葛尾城陥落後は武田のものとなり、内田監物という人がいたらしい
- この先には桑原左近の館がある
凄くザックリした説明だった。
(千曲市桑原)大田原はここから更に登った山の中の集落で、旧桑原村の古地図があったので見たところ、「古屋」という地名があった。ここだろうか? 竜王城の近くだった。
旧桑原村は非常に広いものの中心部が深い山で分断されている。明治7年までは麓の治田神社を中心とした集落(桑原村)と、山の上の大田原集落(大田原村)が合併したため、異常に広くなってしまったらしい。大田原集落の隣(といっても山で隔てられている)には小田原集落(旧小田原村)がある。これら集落は古い街道筋に沿って点在しており、車社会に突入するまでは賑わっていたような地区っぽかった。この街道は信州新町に向かっており、千曲市側の終点は稲荷山のようだ。
信田口は長野市信更地区のどこかだと思う…。旧田野口村の地図には「城ノ入山」とか城っていう字がついた地名があり当然城もあり、和田山頂上にも1郭の古城跡が残っているとあったけど「信田口の番所」跡かは不明。
桑原将監の館とは古屋の館のことらしい。長野縣町村誌の扱い的には、治田神社>桑原氏城館(古谷の館や小坂城)>竜王城>佐野山城という感じで、佐野山城の重要度が低い。そして佐野山城は「城主も築城年代も不明」と書かれていた。
周りの様子も分かったので、ちょっと進んで「外廊」という場所に行こうと思う。
古家の館というのも気になるけど、この図が無茶苦茶なので目指さないです。ざっくりしすぎじゃないの? 大体、「一の丸」「本丸」「2の丸」とあるが、本丸=一の丸のはずだし、漢数字とアラビア数字が混在している。そして現在地はどこなのか…? 本丸にいるのかと思ってたけど、ひょっとしたら一の丸にいるのかも? 分からなくなってきた。
不安を感じさせる看板め。
少し進むと何かあった。図でいう「2の丸」って場所かな? それとも別の何かか?
ぴょっこりした小山があった。そして、堀切とかも。
結構深い感じよ?
ひょっとしてコッチが2の丸って場所だった? ってぐらいちゃんとした場所だよ。
さっきの場所を過ぎれば、よくある尾根が続いた。
やせちゃってる尾根である。景色もあまり良くない。「剣の刃渡り」という名前の場所。剣の刃渡りは痩せ尾根の別名だという。
ダラダラと続いて楽しくない。
やっと何か怪しい場所に辿り着きそう。
門みたいになってるし。
左側にはしっかりした踏み跡がある。そして右側にもうっすら道がある。
ここが分かれ道らしい。左へ行けば古谷沢という小さな川に出るはず(そこから先は分からないけど)。右が外廊となるが、まずは左に行ってみたいと思う。
木が倒れていて楽しそうだしな!
満足したので、分かれ道まで戻ります。
そして道を登ります。
平場があり、どうやらココが行き止まりのようだった。先は何もなく藪。引き返す。
あと段郭あった↑
そして、道だと思って上がってきたモノがこれだった。
溝ですよ。
明らかに人の手で掘られたもの。気がつかずにこれを登ってきていたらしい。
堀底状通路というものらしい。敵にここを歩かせて、左右の土塁から討ち取るってヤツかな? 凄く浅いんだけど、大丈夫かな。
外廊の一番の遺構は堀底状通路かもしれない。というぐらい、くっきり残っていた(登る時気がつかなかったのなんでなんだろう?)。
堀底状通路もなんとなく消えていった。だから分からなかったのかなー?
通路が消えていった代わりに。
土塁。
そして郭がいくつか見える。
土塁や郭もふわっと消えてしまった感じ。
そして、古谷沢からの道も見えてきた。合流点が近い。
最初に見たこの道↑も堀底状通路というヤツだったのね。
ぐんぐん下っていき、再び分岐点に。佐野山城の案内板にはなかったけど、なかなか面白かったよ。また佐野山城本体部分へ向かう。
痩せ尾根に戻ってきた。そういえば、「古家の館」ってどの辺だろう? こんな山の中に日常生活を送る館を建てるとは思えないので、もうちょっと佐野集落に近いところかなー?
人家があると思われる方角を見たが、当然家の影も見えないぞ。
ちなみに古家の館(古谷の館)とは
- 桑原氏の館
- 桑原左近将監は天文7(1538)年卒し、その後は不明
- 慶長年間に耕作地となり区域不明
と長野縣町村誌に書いてあった。具体的な場所としては「本村(桑原村)酉の方、十余町」。佐野山城も「本村酉の方十八町余り」とあったので、佐野山城の近くと言えば近くなのかも?
「佐野薬師から佐野山城大手道が伸びる」という話は聞いたことがあるので、多分佐野薬師の近くに古谷の館があったんだろうなと思ってはいる。
ただし、長野縣町村誌には一言も書いていなかった。佐野薬師も古谷の館も独立した項目で書かれているが、「近くにあった」とか関係性には触れておらず、古谷の館の鎮守として長徳4(998)年創建され、現在は桑原宿に遷座している天満宮について記載がない。佐野薬師堂と天満宮を管理していた長福寺は応永11(1404)年、佐野薬師堂に依りて創建→元禄(1691)年に現在天満宮がある場所に再興→佐野薬師堂に戻る。と書いてあった。現在長福寺は廃寺。長福寺の御本尊は地蔵菩薩で、今は長野市篠ノ井の長谷寺に遷られている。佐野薬師は仁平年間(1151~1153)創建と伝わる。
時系列的には、
という感じらしい。
佐野薬師(薬師池)の辺りはちょっと開けた場所(耕作地・耕作放棄地)がたくさんあるしな。お屋敷らしき跡地は分からないけど。佐野薬師の北側が竜王城、西側が佐野山城となる。
佐野山城中央部まで戻ってきた。
佐野山城の(多分)本郭横をそっと通り過ぎる。
あっという間に下ってきたよ。
そういえば、山の神祠(通行止め)への道は長野縣町村誌によれば、風光明媚な「車橋」という場所があるらしい。
図で見れば断崖絶壁をへつる道のように見える。とんでもなく危険箇所と思われるが、西行法師も通ったことがある古道というし、お城の大手道だったものでもある。
土木技術の問題かもしれないが、昔ってぶっ飛んだ道が多くないだろうか。黒部の日電歩道みたいなヤツがそこかしこにあるイメージだよ。
ざっくり測ったら、佐野山城から薬師池まで500~600mくらいかな? 距離は離れていなさそう。
滝の音が聞こえてきた。
不動滝に戻った。相変わらず人気が無い。
滝も堪能したので特に見ません。
なんの茸かな? って写真撮って検索してみたらエノキタケって出てきたんだけど…普段見かける白色や茶色のエノキにも見えないぞ。本当ですか? グーグル先生を初めて疑った。
砂防ダムを過ぎて、車道に出た。その時初めて自動車とすれ違った。数時間ぶりに人間見た。
★★★☆☆
危険な道も通ってみたかったとも思う
<佐野山城>
築城年 不明
築城主 不明