お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

鎌原観音堂

鎌原城の近くには鎌原観音堂があった。ここも旧鎌原村内であり、鎌原氏の開発した領地内。お城や観音堂があるぐらいだから、村の中心部だったのかもしれない。

この場所は「日本のポンペイ」として有名で、嬬恋村とイタリアのポンペイ市は友好都市協定を結んでいる(正式に結ばれたのは2022年とごく最近だが、準備を始めてから10年かかったという。まあ、ポンペイ市側はあまり旨味がないんじゃないかという気もした)。火山災害という共通点があるから。埋まった犠牲者は旧鎌原村・約480人、ポンペイ・約2000人と言われ、規模が全然違うけど。

(↑高校時代「どうしても本物を見たい」と思っていた絵の一部ですよ)

2万人くらい住んでいた古代都市と人口600人足らずの村じゃあねー。ポンペイの犠牲者が人口規模に比べて少なかったのは、ヴェスヴィオ火山の噴火から都市を壊したの火砕流の発生まで約12時間の猶予が有り、逃げられる人はさっさと逃げちゃったかららしい。

 

ずいぶん昔にどこかの博物館で、階段で見つかった折り重なった遺体のパネルを見たのよね。それがこの階段だった。

確か高齢の母と中年の娘じゃなかったかな?(調べたら女性二人で近親者だが、親子か姉妹か関係性は不明だそう)。おばあさんをおんぶして避難する途中で埋まってしまったという。その様子を見た人々はとんでもないトラウマを植え付けられてしまったのかもしれない。

現在は15段程度の階段だが本来はもっと長く(発掘調査の結果で50段あったことが判明)、天明3(1783)年の浅間山噴火で積もった土砂は約6.5mと分かったそうだ。発掘調査はまた再開しており、この日もどこかで調査していたはず。あわよくば、調査の様子を見たかったんだけど、どこでやっているか分からず…。

そう、この写真を見たのよ。
発掘調査は昭和54(1979)年度に文部省の補助金が下りて始まったそうだ。次年度も国や群馬県から補助金を受け発掘している。鎌原観音堂以外にも延命寺というお寺さんや家屋跡を発掘しており、山奥の村にしては非常に豊かな生活用品が出土している、と驚かれていた。寺からは唐津伊万里の絵皿だとか見つかり、民家からはガラスの鏡とかネコ(敷物)というものも出てきたらしい。猫柄の敷物なのか猫の毛皮を用いた敷物なのか…? どちらにしろ、庶民の生活が妙に豊かだったことが分かったという。江戸時代でも600人近く住んでいる村ってあんまりないんじゃないかと思うわ。

wikiによれば、自分の地元の善光寺町だと1780年に6500人、松代城下は1767年に2300人程度。

鎌原村は真田街道の宿場町でもあったそうだ。鎌原村近辺を走る五街道のひとつ・中山道だと1843年時点の人口が松井田宿1003人、坂本宿732人、軽井沢宿451人、沓掛宿507人とあり、鎌原村は五街道の宿場たちと遜色ない機能を有していたのかもしれない。

延命寺の石碑もあった。延命寺は鎌原観音堂から北へ200mほどの場所にあり、発掘調査でもやはり6m下の地中から発掘されている。この石碑は明治43(1910)年になって吾妻川の川原で見つかっている。元あった場所から20kmくらい離れた所だそうだ。延命寺は江戸の寛永寺の末寺だったので、鎌原村民は寛永寺に支援を求めた。元寛永寺の僧で当時は出身地の善光寺の住職をしていた等順という人物が中心となり炊き出しや復興のための資金集めをしたそうだ。

発掘の結果では、火砕流ではなく土石流(岩屑なだれ)で壊滅したことも分かった。

とにかくお詣りだ!

鎌原観音堂はそんなに広くない。

敷地内に100人近く逃げていたというが、ギリ100人収容できるかな? 程度の広さしかない。ここに逃げてきた村人や村外にたまたまいた人しか助からなかったそうで。その約100人が村人同士で新たに結婚したり養子に取ったりで、新しい家族を作って村の復興をしたそうだ。土砂に埋まった不毛の土地なんか捨てて新天地に行く、というのが災害にあった人達のほとんどらしくて、鎌原村の住民が同じ土地で暮らすことを選択すること自体珍しい事例という。

10年以上前の東日本大震災でも地震被害を見て地元に戻る若者が増えたとかいう話を聞いた気がするけど。それと似たような感覚なのかな。

いや、目の前で人間が二人飲み込まれていったらなあ…とここ捨てて移住しようとは考えにくくなってしまうかもしれない。東日本大震災でも、津波に飲まれる映像ずっと流れてたな。

2015年の国勢調査では鎌原地区の人口が2000人近くいるそうだ。

 

鎌原観音堂の周辺には慰霊碑や石仏がたくさん安置されていた。

慰霊碑も平成、昭和の元号が記されたものもあり、古いものだと三十三回忌の供養碑。

もう古いので、何が書いてあるのか読めなくなっているが。この大きな碑の全面に建立の経緯や亡くなった477名の戒名がびっしりと書かれているという。災害があったあとから現在まで供養を続けているということだねー。

本当は資料館も行きたかったんだけど、子供がごねる&社会見学の小学生団体?(我々は夏休み中だし、学校関係じゃない団体かな?)がいたため断念。子供が「おもちゃ王国にまた行きたい」とうるさいので、次回は必ず立ち寄りたいです!

 

復興前の鎌原村、岩屑なだれはこんな感じかな?

アスレチックやらされた。溶岩ゴロゴロの場所なので、ヘルメットとプロテクター必須。受付でしっかり注意事項を言い渡された。危険な場所なので、子供はものすごーく楽しかったようだ。

アスレチックフィールドの近くに祠があった。安全祈願のためかもしれないが、お客さんには目立たない、少し外れた場所にあった。遠くからお参りしたよ。

 

★★★★★

家の周りが突然巨大岩でゴロゴロし始めたら、多分もう生きていかないと思う

 

 

<鎌原観音堂

創建年 大同元(806)年?