聖武天皇が天平13(741)年、日本の各国に建てさせたお寺。僧寺と尼寺はセットで、それぞれ正式名称は「金光明四天王護国之寺」(僧寺)と「法華滅罪之寺」(尼寺)というそうな。当然、信濃国にも建てられていた。各国の国分僧寺のトップが奈良の大仏がある東大寺だって。尼寺は西大寺かと思ったら、法華寺というお寺さんだそうだ。
ちなみに、
- 法華寺=光明皇后(聖武天皇の皇后)の父・藤原不比等の邸宅を相続した光明皇后は皇后宮としていたが、天平17(745)年に光明皇后を開基とし寺を創建。名前が付いたのが2年後の天平19(747)年、伽藍が完成は延暦元(782)年頃までかかった
- 西大寺=孝謙上皇(聖武天皇と光明皇后の娘)が天平宝字8(764)年9月に発願。孝謙上皇は同年10月には重祚し称徳天皇となり、翌年の天平神護元(765)年、称徳天皇により創建
という関係みたい。この3つのお寺さんはとても関係が深いみたい。
天平6(734)年、畿内七道地震という大きな地震があった。マグニチュード7程度らしい。天平7(735)年~天平9(737)年の2年間にかけては、日本は天然痘の大流行により、総人口の25~35%の死者(100万人~150万人と言われている)を出したそう。天然痘で当時国のトップだった藤原4兄弟は全員死ぬ(神亀6(729)年に4兄弟に殺された長屋王の呪いでもあるらしい)。反乱もあったりした。
そんな感じで平和じゃなかったから、国分寺国分尼寺を建て大仏を建立することに決めたらしい。御仏の功徳だろうか、その後天然痘は撲滅されている(今ソレまいたらどうなるんだろうとか私性格悪いからソワソワしちゃう)。
- 南西向き、水害等が自然災害が少ない、寺の伽藍等建物が映える場所
- 街からは少し離れているが交通の便が良い場所で、条里制区画(1辺が1町(約109m)の正方形からなる、碁盤の目のような区画)の制約を受けられる場所
- 国府が近い(国府が国分寺・国分尼寺を管理する)
これを満たせる場所じゃないとダメみたい。奈良時代の日本の人口は推計500万人、現在の人口は約1億2600万人で人口密度が全然違う。土地探しは意外とすんなり進んだのかも?
昭和54(1979)年の航空写真もほぼ同じような姿で映っていた。「信濃国分寺」というお寺さんは現在も存在しており、長年「奈良時代に建てられた信濃国分寺も同位置」とされていた。
大正11(1992)年「仁王堂跡と呼ばれる場所が古代の信濃国分寺ではないか」という説が発表され、調査した後に信濃国分寺金堂跡として国史跡の指定を昭和5(1930)年に受けた。翌年の昭和6(1931)年には詳細な調査結果(金堂跡を確定、講堂跡・中門跡・塔跡×2の存在を示唆)をまとめた書物が刊行された。
信濃国分尼寺については当初、旧丸子町にあったとされていたが、昭和19(1944)年地元に残された古文書の調査により「国分寺の隣にあった」ということが分かったという。どちらかというと、戦時中に学術調査やっていたことに驚いたわ。
とにかく線路邪魔。せんとくんが物議を醸していた頃、平城京跡見に行ったことがあるが、宮城跡内部に線路が敷かれ電車走っていたよ。上記の「国分寺・国分尼寺の立地条件」に合うような災害リスクが少ない土地だから、電車走らせちゃうのかね。
信濃国分寺跡を横切る鉄道は明治21(1888)年に開業している。線路の下には国分寺の中門跡がある、と推定されている。
現行法の文化財保護法の前身にあたるものの一つに「史蹟名勝天然紀念物保存法」という、大正8(1919)年施行の法律があり。その法律の目的が「鉄道などの建設で土地開発が盛んになる→そのせいで史跡や名勝など主に土地に結びついた文化財の多くが破壊される→それら記念物の保存活動が起こったため」だった。この目的にガッツリ当てはまっている。昭和5(1930)年に大規模調査せずに指定したのはこれが理由じゃないだろうか。
昭和30年代半ばになると、この一帯に開発の波が来る。地元地権者が反対集会を開く中、国が絡んだ大規模な緊急発掘調査が戦後の昭和38(1963)年から昭和46(1971)年に行われた。この調査では大きな成果を得ることが出来、「とんでもないものが現れた」としてむしろ整備して保存しようと地元民の気分が変わっていったそうだ。国分寺跡の歴史公園としては全国初ということで前例がなく、文化庁の補助事業では範囲が広すぎてお金がかかりすぎ、建設省(当時)の都市公園事業として補助金貰って整備することになったようだが、目的は「史跡保存」。文化庁からも補助金をいただきましたよ。二つの省庁間の調整とか都市公園に必要な施設と文化庁の認定する史跡保存の基本設計との兼ね合いだとか、色々と決めていきましたよ。と上田市の報告書に書いてあった。
この大規模発掘調査では、国分寺・国分尼寺について少なくとも平安時代初期(9世紀)までの存続が確認されたらしい。
伝承では平将門の乱(935~940)のうち承平8(938)年に起こった平将門と平貞盛の合戦で燃えたというが、発掘調査結果とちょっと時期が合わないようだ。ちなみに、平将門と平貞盛は父方のいとこ同士。平貞盛の母方の叔父・源護と平将門(この二人は「娘さんを下さい」「嫌だ」で揉めたとか?)が抗争状態となり、双方の縁者の平国香(平貞盛の父)が巻き込まれて亡くなったという物凄く狭い世界の争いが千葉で起こり、それが大事になり国家に対する反乱になったみたい。途中から何故争っているのか本人達も分からなくなってそう。生きるって大変だと思った。
和平路線の平貞盛は国に調停をお願いしようと千葉から京に向かう途中、追ってきた将門と信濃国分寺付近で戦闘になったそうだ。で、信濃国分寺が燃えたという。
発掘調査では、国分寺が兵火で焼失した痕跡が見つからず、単に国の荒廃→寺の資金不足で衰退したのではないか、と推測されている。
国分寺のみ移転(再建?)されて、数百メートル別の場所に存在している。移転時期は分からないが、現国分寺にある一番古いモノが鎌倉時代末期の作と推測されるようで、鎌倉時代の半ばくらいには移転していたのだろうか。
場所は、僧寺と尼寺の間にある通り~尼寺の敷地内の庭辺りと思われる。あんまり良く分かっていないんだわ。
尼寺には敷地を区切る塀があり、その塀跡にはドウダンツツジを植えた。と説明板にはあった。上の写真でいうと左手にちょっと見えている低木である。スズランに似た感じの白い花をつけるみたい。よくある庭木だよ。
尼寺の塀が築地塀(土塀)だったのか板塀だったのか平成26年現在確認中です、とあった。また、僧寺は100間(約178m)四方・尼寺は80間(約150m)四方と推定されるが確認中です、だって。線路も国道も敷地内を横切っているからこれ以上調査しようがないのかも?
国分尼寺の庭跡。
↑ほとんどの建物跡が線路の向こう側。
↑区画されている尼房跡の一部。
尼寺へは地下通路が有る。建物配置見る限り、僧寺と変わらなさそう。
ここもドウダンツツジが植えられており、塀跡のようだ。この先は国分寺跡地みたい
敷地跡内部の様子↑
国分寺跡と国道18号の間には太めの欅など、それなりの樹齢の木があるんだけど。ここ史跡公園として整備される以前はなんだったんだろう。調べると、鉄道路線より南は桑園と畑、鉄道と国道の間は水田だったようだ。国道18号線、明治18(1885)年に国道5号線「東京より新潟港に達する路線」として存在しており、ひょっとしたら明治時代に植えられた欅かもね。北国街道はここよりもう少し川に近づいた場所(一部新幹線に潰されていたよ)にあった。
国分寺跡は復元された建物など一つもなく、広場だった。
石の列があったりして、礎石を示しているのかな? と思ったり。
あんまり関係ない?
講堂跡だって。お坊さん達が講義を受けたり集まる建物だそうだ。
こういうのは礎石っぽいなー。
塀すらどんなものだったのかハッキリしないようなので、建物の様式も分からないんだろうか。
どこの説明板にも↑こんな感じの図しかないんだけどー。
一番古い説明板と思われるものには、
- 昭和38(1963)年から46年にかけて8回発掘調査を行った
- 僧寺(金光明四天王護国之寺:こんこうみょうしてんのうごこくのてら)と尼寺(法華滅罪之寺:ほっけめつざいのてら)の全容が分かった
- 僧寺跡では、中門・金堂・講堂・回廊・塔・僧坊の遺構が明らかになった
- 南大門の位置が推定された
- 100間(約177m)四方の敷地に南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ
- 中門と講堂は回廊(複廊)で繋がる
- 金堂の東南に塔、東に僧坊
- このような伽藍配置を東大寺(国分寺)式と呼ぶ
- 金堂(現在でいう本堂)には釈迦牟尼仏が安置
- 塔には金光明最勝王経(法舎利)が祀られた
- 講堂は法を説き、経を講ずる場所
- 僧坊は宿舎(寮)
- 発掘で、古瓦・須恵器・土師器・硯・鉄釘が出土
- 八葉複弁蓮花文鐙瓦と均正唐草文宇瓦は東大寺や平城京跡で出土したものと同じ
- 「伊(=伊那?)」「更(=更科?)」など郡名を表したような文字瓦もあった
- 出土したものは「信濃国分寺資料館」に展示
- 遺構は埋め戻しによる基壇復元方式がとられている
- 建物跡の表面をソイルセメントで覆い、玉砂利などで区画した
- 塀跡はドウダンツツジを植え、視覚的に分かるようにしてある
とあった。
ここで出土したという「八葉複弁蓮花文鐙瓦」みたいなの、状態の良いもの(東大寺から出土と伝わる)が奈良国立博物館にあるようだ。こちらは「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」という名前で、名の通りの柄だった。鐙は馬に騎乗する際、脚をかけるアレ。
八葉の複弁の蓮花の文様が書かれた鐙(みたいな丸い)瓦、ということかなー?
「均正唐草文宇瓦」は扁平なUみたいな形で、均整の取れた唐草文(どろぼう柄と我が家では呼んでいるが、本来は子孫繁栄を願う縁起の良い柄)の軒(宇)瓦。軒瓦は唐草模様が多いらしい。
平城京式というと、上記二つの瓦のことをいうらしい。軒丸瓦と軒瓦(軒平瓦)はセット。京にある東大寺と同じようなお寺を各国に作ったということらしい。
ついにお寺の中心部まで来た。あれが金堂跡のようだ。
僧寺の本堂で、ここに仏を安置していたと思われる。今の信濃国分寺の御本尊は薬師如来という病気平癒に御利益がある仏だった。じゃあ、全国の国分寺も薬師如来なのかしらー? ざっくり探したところ、薬師如来が最多で、他に釈迦如来や聖観音、虚空蔵菩薩などだった。ものすごく死んでる天然痘対策として、御本尊は薬師如来になったのだろうか。ちなみに、東大寺の大仏は毘盧遮那仏という宇宙仏(仏の中の仏、ということらしい)だった。とにかく薬師如来さん、お釈迦様より偉い仏だって。
金堂は線路にぶった切られていた。悲しい。
史跡公園としては初期に整備された場所と思われるが、いま主流の方法(とにかく元の形に戻す、創建当時と全く同じ見た目・工法で建て直す)とはちょっと違うので(それでも当時は本気出したはず)やっぱり物足りない。復元建物なし、基壇がセメントで固められているし。
★★★★★
子供は非常に気に入ったようで、なんでだかずーっと走っていた。
<信濃国分寺跡>
創建年 天平13(741)年以降
信濃国の一番最初に置かれた国府は上田市内にあった、というのが定説で、その根拠はいくつかある。ひとつに「国分寺は国府の近くに置くこと」という決まりがあり、信濃国分寺が上田市内にあったこと。他には「信濃国総社(推定)がある」というのもあるが、具体的に国府が何処にあったのかは分かっていない。
1984年刊行の「創置の信濃国府跡 推定地確認調査概報 Ⅱ」という報告書を読んでみたが、調査結果は芳しくなかったようだ。
ちなみに、(上田の次に?)国府が置かれたと言われる松本市内でも発掘調査の第1次報告書が1983年に刊行されていた。松本の国府跡は発見されていないらしい。
上田も松本も、この後発掘した様子がなかった。
松本の国府発掘調査報告書では「(上田の)前期国府は約83年間、(松本の)後期国府は約546年」とあった。結構長い期間松本には国府があったのに。信濃国から一瞬(約10年)だけ独立した諏方国の国府も含めて、国府は発掘されていない。鎌倉初期から国衙(国府)は長野市の後町(善光寺の近く)に移ったが、それも発掘されていないようだわ(後町小学校跡地を掘っていたけど、国衙跡ではなかったようだ)。