村松殿屋敷跡がある村は、律令制東山道の駅が置かれていたほど、昔から栄えていたらしい。ちなみに、一番最初の東山道のルートは伊那から諏訪、佐久へ向かい、軽井沢を経て群馬県に入る道筋なため、この地域は通らない。
何で大幅なルート変更したんだろう。
今はただの公園になっている。
四阿がぽつんとあるだけだった。
近くには古そうな神社があった。
飯縄神社というらしい。登らなかった。
これ↓によれば、案外昔の駅は少ないらしい。支道(北陸道連絡路)と合わせても、信濃国内には14駅しかない。寂しい。
各駅間、それなりに離れている気がするけど…ちなみに、
浦野(青木村)→亘理(上田市)→清水(小諸市)→長倉(軽井沢町)
だそうだ。浦野~亘理はともかくも、他は離れてないー? 現代人なら絶対途中で生き倒れるわ。
「東山道」としてはこのルートを一番長く使っていたらしく、以前の佐久を経由するルートは検索しても情報があんまり出てこなかったよー。若干、中山道と似たような感じの道筋な気がするよ。国府を置いちゃった上田を経由したくて、変えちゃったのかな。
ここにあった案内板には
- 浦野駅(推定)
- 東山道研究の権威、故一志茂樹博士が当地を浦野駅があった場所と推定した
- 昭和50(1975)年の春と秋に緊急発掘調査を行った
- 縄文時代~鎌倉時代の土器や土師器・須恵器は出土したが、「浦野駅」と確認できる遺構・遺物は発見できず
- 国の幹線道路(七道)の区分は、大路・中路・小路の三種類で、それぞれ駅の規模(置く馬の頭数)も決められていた
- 大路=山陽道(太宰府へ向かう道だから)、馬30頭
- 中路=東海道・東山道、馬10頭
- 小路=北陸道・南海道・山陰道・西海道、馬5頭
- ただし、難所がある駅間については例外規定がある
- 例えば、錦織~浦野間は保福寺峠(1340m)があるので、二つの駅は馬15頭置かれた
つまり、東山道の中でも規模が大きい方の駅だったらしい。
現在の地名は「当郷」で、笹洞城・原畑城があった室賀地区の道標石柱にもその名前が出ていた程賑わってた場所だったらしい。
その賑わいの名残として、大宝寺という凄く古いお寺さんがあるそうだ。創建は大宝年間(701~704)で、藤原鎌足のお子さんの定恵という人が開基だとか。東山道の開通とほぼ同時じゃないのかな? この辺りは交通の要衝とはいえ、あまり戦乱の地にならなかったらしく、国宝の三重塔(1333年製)と国重文の仏像(平安時代中期の作らしい)、厨子が残っている。三重塔はわざわざ上方から職人を招いて作らせたもので、何の目的で高名な大工を呼びつけたのか謎とか書いてあった。ココにはお金持ちがいっぱいいたからじゃないの? と思いましたよ。
★☆☆☆☆
取り残された風がした
<浦野駅>
大宝年間(701~704)?