お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

長沼城

令和元(2019)年の台風19号災害で、長沼城跡の上に作られた堤防が決壊した。

その後、堤防整備事業の一環でココを発掘調査することになったらしい。何しろ堤防が決壊した理由が、長沼城の埋め立てた堀のせいという説があるぐらいだからな…。現在発掘中。

 

壊れた堤防も平成14年度~平成28年度の15年かけて「長沼地区桜づつみ整備事業」という名で幅を広くし強化されていた。住民が桜を植えたり草刈りをしたりと、総出で整備し大事にしてきた堤防のようだ。完成後数年しか経っていない。

 

 

 

元和元(1615)年に成立した長沼藩1万8千石がかつてココにあった。貞享5(1688)年に廃藩された、短命な藩だった。藩主は佐久間氏で、大阪の陣で戦功を挙げた佐久間勝之という人が藩祖である。それから数えて4代目、佐久間勝親は時の将軍・徳川綱吉の小姓に命じられたが、病と偽ってこれを拒否。すぐに仮病とバレたにも関わらず、また懲りずに仮病で休んだ。さすがに綱吉も怒って長沼藩を廃した。当時20歳の本人にサボり癖があったのか、綱吉のことがよほど嫌だったのか…どちらだろ?

 

長沼藩成立以前から、この場所にはお城があった。もちろん名前は長沼城で変わらず。ここを拠点にしていた島津氏長沼家が作った館みたいな素朴なお城だったらしい。信州島津氏(信州家)のうち島津初代忠久の三男・忠直の家系が長沼家と称していた。その島津長沼家が武田に攻められ逃げた後に武田軍が長沼城を接収した。武田信玄の北信濃攻略の拠点として度々大規模改修をされて、かなり立派なお城に変貌したらしい。

武田が滅んだあとに上杉がこの地を支配した。そのとき、上杉家の家臣やってた島津長沼家の当主・島津忠直(←この名前の人多すぎ)が長沼城に復帰した。だが上杉の国替えのときには長野に留まらず、ついていったようだ。

↓お城の全体像。

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立派な城下町ができたので、武田は北信濃における拠点を海津城から長沼城に移したほど。江戸時代に入ると長沼藩の藩庁・城下町として賑わったはず。そんな長沼城だが、今は畑が広がっている静かな場所。

 

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お城の北にあたる場所には現在「守田神社」がある。この神社は古く、延喜式内社という。創建年は分からない。社殿が新しいように感じるが、これは正保年間(1644~1647)に現在地に移転してきたからだという。元は100メートルほど離れた別の場所にあったが、洪水で流されたためという。

ここには、いかにも武田さんのお城っぽい、三日月堀があったらしいのだが。

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なんもないねえ。

ちなみに、守田神社から少し行ったところにお城の大手門があったようだが。

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↓大手門があったらしき場所から、侍屋敷方面。

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単なる住宅地ですなぁ。この反対側には大きな外堀や土塁があったそうだが。

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写真中央付近を横切るようにあったと思われる土塁、奥の突き当りまであった外堀。全く跡形なし。綺麗に平地にされてるー。

なんでここまでお城の気配が完全になくなっているのかというと、千曲川の氾濫で全部流されたからだという。自然の力って恐ろしいねえー。

 

千曲川の堤防道路から見た北三日月跡地、本丸方向。

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現在果樹園が広がっている。

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↑左側は千曲川

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ここを本丸方向へ歩く。

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この辺が本丸かなー? 

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現在、本丸は堤防道路の下にある。堤防道路自体は近年整備されたような印象を受けるものの、建設されるときに発掘調査したような形跡もない。果樹園と住宅地で調査できなくなっていたのかな。

 

東屋の近くにはお城の来歴を書いた案内板があった。これも新しい感じがする。

<長沼城の略歴>

・島津氏が鎌倉時代に作った館が元になっているというが、それは確定した話ではない

・しかし島津氏が長沼城を使っていたのは確かで、武田に追われ島津氏がいなくなった後の長沼城を武田氏が改造し続けた

・武田氏滅亡後、織田→上杉景勝→豊臣(直轄地)→松平忠輝→佐久間(長沼藩)と支配者が代わり元禄元(1988)年廃城

<長沼城の概要>

・廃城になる前(1680年頃)の古地図等を元に現地調査を行い、城の復元図を作った

・城域:南北約650m、東西約500m、面積約34ha

・北端は玅笑寺付近、南端は貞心寺、西端は県道368号線より130mほど西へ、東端は堤防より150m東へ

天守閣はない

・残された遺構は「天王宮の土丘」「北の三日月堀」「西の三日月堀」の一部

・大手門の門扉2枚は玅笑寺にある

 

「北の三日月堀」跡、さっき見たけど遺構あったのかしら? ちょっと窪地になっているから上から見たら三日月の形が浮き上がるとかかな?

「天王宮の土丘」というのは、これである↓

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堤防より低い位置。

本丸方面↓

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下りてみよう。

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春先なので花もなく、春っぽいものは土筆ぐらいだった。しかも、かなーり小さい奴。

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本丸跡に到着! なんもない!

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二の丸到着! なんもない!

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復元図では土塁・堀・馬出しへ続く橋?があったようだが、見事に平地に。

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この方角へ向かうと、遺構のひとつ「天王宮の土丘」があるらしい。

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↑これが本丸の土塁一部。こじんまりとした…。

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その手前には南三日月堀跡の標識。石碑があったけど、長沼城とあまり関係なさそうな内容のようだ。

 

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ここはほぼ唯一の遺構ということで、記念碑的なものがいくつも集まっている。

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読めません。

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上にのぼってみた。

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五輪塔?とか祠とか、洪水で流されたあとに残った物をここに全部集めてきた感がある。木は相当昔から根付いてそうだけど、これが土塁の跡だよって言われないと分からないかも。

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戻ります。

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何か看板が遠くに見えます。

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堀があったようだ。これもまた、完全消滅か。

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また歩いていくと。

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櫓跡に出くわす。もちろんこれも遺構なし。現在はビニールハウスに。

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跡形もなく消えた遺構を示す看板だけは、やたらある。

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この看板だけが頼り。ただ、大きなお城だったことは分かった。

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まだ他にも「馬出し」「西三日月堀」があるはず、この道をまっすぐ歩くとそれらの看板があるはず…だが、もういいか、という気分になっていた。多分看板しかないし。

 

 

★☆☆☆☆

何もなかった。川ってヤバイ。

 

<長沼城>

築城年 室町時代

築城主 島津氏

構造 平城