長沼城の近くに、佐久間氏が使っていた館があったらしい。長沼藩時代の館で、当時藩主の他に二つ分家があった。長沼知行所(5000石)の佐久間勝盛家、赤沼知行所(3000石)の佐久間勝興家。
長沼知行所の勝盛さんは初代藩主の佐久間勝之さんの嫡男・勝年さんの子。勝年さんはお父様より先、40歳という歳で亡くなったために、佐久間氏の家督は弟の勝友さんが継いだ。寛永12(1635)年に勝盛さんは勝友さんより5000石分知されて長沼知行所ができた。が、正保3(1646)年に23歳で若死にした勝盛さんの跡を継ぐ者がおらず1代限りで消滅した。
長沼知行所の跡地は貞心寺境内らしい、↑の長沼城の地図では「元因幡守屋敷」という注釈が付いていた。これは勝年さんの官位が「因幡守」だったせいじゃないかと思う。長沼知行所は勝年さんの屋敷跡に作られているそうだ。
赤沼知行所は勝友さんの二男にあたる勝興さんが、寛永19(1642)年に3代藩主・勝豊(勝興さんの兄)さんより3000石を分知されて成立した。跡地は「蓮生寺境内」らしいが、そもそも蓮生寺どこだよ。地図探しても見つからないんだけどー。
見つかったのが妙願寺というお寺さんだけ。
このお寺さんは、明徳2(1391)年茨城県で創建→永享2(1429)年長野市安茂里小市に移転→永禄9(1566)年長野市津野に移転→宝暦2(1752)年現在地に移る、という変遷をたどっているようだ。開基は林学(俗名:鹿野林平)といい、源義詮の家臣だとあった。源義詮=足利義詮だと。室町幕府2代目将軍様だ。茨城から長野に移った理由が知りたい…縁もゆかりもなさそうだけどー。
ちなみに赤沼知行所は圧政だったらしく、年貢の取り立てが厳しすぎると農民に訴えられてしまったらしい。「公儀奉行宛水内郡赤沼知行所惣百姓苛政非道につき百姓退転次第訴状」という寛文10(1670)年の文書が残されていた。訴えたくなるほど人が逃げちゃってたのか。
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赤沼知行所どこいっちゃったの? 何も見つからなかったからね…これも破却→洪水で流されたのかねー?
<長沼知行所>
築城年 寛永12(1635)年
築城主 佐久間勝盛
構造 平城
<赤沼知行所>
築城年 寛永19(1642)年
築城主 佐久間勝興
構造 平城