また平地にあるお城を探しに行った。名前は「平林城」。
このあたりから水路を探す。見つかった水路、それに沿って進む。
急に出てくる石碑。
この石碑によれば平林城は、東西約120m・南北約102mの規模だったとか。東には本丸、西に二の丸があり。その間には幅約36mの内堀、城の四方には幅約18mの外堀があった。この石碑は本丸の入り口だった部分に建てられているという。城主は原虎胤というらしい。武田さんの重臣で、永禄年間(1558~1570)の間居城としていた、とあった。
原さんは永禄4(1561)年に行われた割ヶ嶽城攻略戦で大怪我をして、これ以後隠居状態になってしまったようだ。猛将として鳴らしていたらしいのに、もったいない。原さんがこの時奪った割ヶ嶽城は上杉謙信さんのお城。当時上杉さんは北条氏康さんとの合戦中で小田原城を包囲していたため、割ヶ嶽城は手薄だった。武田さんは北条さんと同盟を結んでいたので、その支援のために割ヶ嶽城を奇襲しちゃったらしい。上杉さんがお留守の隙に武田さんは海津城作ったり、信濃攻略の下準備をしていた。
上杉さんももうちょいで北条さんを滅ぼせたのかもしれないが、関東では不作が続いて兵糧も足りなくなりつつあり、武田さんの動きも怪しいので引き上げざるを得なくなってしまったようだ。で、越後に帰った。
が、即信濃に出陣し、激戦で有名な第4次川中島合戦が起こった。原さんは結局参加してない。甲斐でお留守番。そして永禄7(1564)年に亡くなったらしい。割ヶ嶽城の攻略戦後から亡くなるまでずーっと甲斐で療養していたみたい。ということは、平林城にいた期間は2~3年くらいになるのかね。武田さんが滅亡した後は廃城となったらしい。
ちょうどここからは地滑りで有名な地附山が見え、そこには武田軍が作ったという伝説が残るお城・桝形城がある(桝形城という名称も誰かが便宜的につけた名前で、本名以下一切の経歴が謎のお城である)。平林城の築城と何か関係あったりしてー? 「出るぞ」でお馴染みの大峰城ももしかしたら見えるかも?
平林城は昭和初期まである程度の名残り、雰囲気が残っていたようだ。昭和18(1943)年と昭和44(1969)年と国鉄に買収されたために遺構は完全消滅。現在城域の半分以上がコレ↓になっている。
もちろん石碑の向こうへ出入りできない。仕方ないので、本丸から二の丸があった?という方向へ移動してみた。ちなみにJRの工場手前の建物は、モダンなお寺さん。正確には、納骨堂(墓所)らしい。ぱっと寺院には見えない。
↓このあたりが2の丸跡。
何もない。確認できず。工場だし、邪魔な土塁や堀はみんな均してしまったんだろう。強いて言えば、工場の敷地だけちょっと高くなってるのが名残なのか。
★☆☆☆☆
遺構なし。石碑だけが物語る。
<平林城>
築城年 不明
築城主 不明
構造 平城